第百五幕
前回のあらすじ
敵の本陣に姿を見せた主人公
「生きている間、この世界では決して結ばれることはないからあの世で添い遂げよう。随分と魅力的な提案をしてくれるわね。それが本当の意味であなたの口から聞けたのであれば、私はどれほど幸せだったかしら」
「あの世でも添い遂げることは不可能だと俺は思うが?」
「それは何故かしら?」
「仮にあの世があったとしても俺とお前では行き先がおそらく違う。お前は天国へと行くだろうが、俺が行くべき場所は地獄。お互いに顔を合わせることなどまずない」
伊邪那岐の言葉を受けたはずなのに曹操はいつもと変わらない様子で彼に対して言葉を返す。彼女自身が一番理解しているのだ。どれほどお互いを必要だと口にしても、愛し合っていたとしても隣に立つことができない現実を。
「私が地獄へと落ちればいいだけのことよ」
「華琳様っ」
「薄々だけど気づいてはいたのよ。王としての存在が本当に民にとって必要なのか否か。王という存在は確かに大きなものではあるけれど、絶対と呼べるほどのものではない。仮初の平和を作ることはできてもそれは一時だけのこと。治めるべき王がいなくなればまた血が流れる。あなたが言いたいことはそういうことでしょう?」
荀彧の言葉を気にもとめず、曹操は言葉を吐露する。王という存在が争いを生む原因になってしまうのであればそれを排除する。それがたとえ自分の命を差し出す行為だとしても。彼女の目の前の人物はそう口にしている。
「そして、あなたは既に自分の大切なものを全て捨て去ってこの場に来ている。自分の命さえも」
「気づいていたか」
「気づくわよ、それぐらい」
「どういうことですか、華琳様?」
彼女の言っている言葉が理解できずに荀彧は疑問の声を上げる。それに応えるように彼女は彼の左脇腹を指差す。
「血の臭いがするでしょ?」
「確かにしますが、ここは戦場です。血の臭いがしたとしても何ら不思議は」
そこまで口にして荀彧も気づく。確かにこの場所は戦場に位置しているが兵士たちは全員無傷。この船に怪我人は誰ひとりとしていないはず。そう考えれば臭いの発生源がどこにあるのか、彼女が結論に至るまでそれほど長い時間は必要ない。
「バレてしまっていては隠す意味はないな」
「嘘でしょっ」
伊邪那岐が着物をはだけさせると荀彧は大きく声を上げ、曹操はそこから視線を逸らす。曹操が指摘したとおり彼の腹部には包帯が巻かれ、左脇腹からは出血が治まっていないのか赤黒い染みが顔を覗かせている。
「遮断を使うにも、覚悟を決めるのにも必要だったからな」
伊邪那岐は極度に船に弱い。その彼が顔色一つ変えずに戦場に現れている時点で曹操は違和感を覚えていた。それを証明したのが彼の左脇腹の傷。
遮断は痛覚を遮断するための技術ではなく、感覚を封印するための技術。使用するためには極限まで自分を追い込む必要がある。彼が自分から口にした通り、遮断を使うための代償という意味合いだけでなく覚悟を決めるため、自分の命で責任を取るためにも腹を切ったのである。
「本当の意味であなたは王になってしまったのね。やせ我慢が得意といっても限界があるはずなのに。あなたはその限界さえもまだ先があると突き詰めてしまう。本当に、どうしようもないぐらいに、あなたは」
言葉を代弁するかのように曹操の瞳からは涙が零れてくる。どうして自分は彼の隣にいることができなかったのか。どうして世界は彼に対して優しくなかったのか。どうして誰もが彼の悲鳴に気づいてあげなかったのか。心からこみ上げてくるのは全て後悔ばかり。自分では変えられない理不尽なものに対する怒りと嘆きだけ。
「王がおいそれと涙を見せるなよ。味方の士気に多大な影響を及ぼすぞ?」
「敵であるあなたがこちら側の心配をするなんてね。でもね、こういう時は慰める言葉のひとつぐらい男としては口にするべきだと思うわ」
「そんな言葉、口にした覚えがないから思いつかん」
「でしょうね。そんなあなただからこそ、私は一緒にいたいと願ったのだから」
これが最期の言葉。口に出さずとも理解した二人は、この場所に来てからすぐに投げ捨てられた刀を互いに引き抜いて相手の心臓へと切っ先を軽く当てる。
「いけません、華琳様っ」
「桂花、あなたの磨いた知識。後世のために是非とも役立ててね。私はきっと、あなたのことを草葉の陰から見守っているから」
王として生きることを捨て、一人の女として生きることを決めてしまった曹操に荀彧の言葉は届かない。だが、いざ刀を伊邪那岐へと突き立てようとすれば彼女の手は震えてしまい刀をその手から滑り落としてしまう。命を失うことは怖い。命を奪うことも怖い。王として生き、個人となった彼女の肩に今まで感じたことのない重圧が圧し掛かってくる。自分の手で愛する男の命を奪う。頭では納得していても心が必死に抵抗をし続けている。
それが見て取れた伊邪那岐は彼女の手ごと刀を握り、自分の心臓へと突き立てようとする。しかし、次の瞬間には彼は刀を手放し本陣を飛び出して空を忌々しげに睨みつけていた。
「どうかしたの、伊邪那岐?」
「まさかとは思うが、この時を狙って姿を現したというのか。華琳、死すべき時は今ではなくなってしまった。急ぎ孫策と碧に伝令を送って兵士たちを陸地へと避難させろ」
ただならぬ様子の伊邪那岐。今までを振り返ってみても曹操の記憶に彼がここまで動揺したことは一度たりともない。
本来であればこの場にいないはずの人物。それでも彼が見間違えるはずなどない。赤黒い血液を塗りこんだように黒の中に赤が混じった髪、紅玉石のように光り輝く瞳。全身にまとっているのは鬼気としてしか他者に受け入れられることのない狂気。どういう呪法を用いているのかは定かではないが、その人物はひと振りの長刀を愛おしそうに抱きしめながら空中に立っている。
「貴様がどうしてこの場所にいる? 答えろ、御雷」
「おやおや、久しぶりに顔を合わせたというのに相変わらず無粋な奴じゃな。そこはまず、相手の体調を気遣うか近況を聞く言葉を口にするべきじゃろうて」
「戯言を。俺と貴様がのんきに語り合う間柄だとでも思っているのかっ」
怒気も顕に言葉を吐き出す彼を見て御雷はとても楽しげに笑みを浮かべるが、それは見たものの神経を逆なでする醜悪極まりないもの。
「くくっ、昔は能面のような顔をしてばかりいたというのに随分といい顔をするようになったのう。これも一重に妾の教育のおかげかのう?」
「その教育とやらを施したが故に、かつて里にいた者たちの半数以上が帰らぬものとなったことを忘れたか」
「力なきものは死ぬ宿命を覆せぬ。妾はきっちりとお主に教えたはずじゃ。鬼にあっては鬼を斬れ。仏にあっては仏を斬れ。己の刃のみを信じ、己の力で全てを勝ち取れと」
ゆっくりと鞘をずらしながら長刀を引き抜く御雷。かつての師である彼女と自分とでは埋めようのない力の差が存在していることを彼は重々承知している。真龍刀を使えば活路を見いだせるかもしれないが、それでは彼が考えた策が台無しとなってしまう。目の前の敵を斬ることを優先するべきか、この大陸の平和を望むべきか。過去に曹操に問いかけた内容を今彼は自分自身に問いかける。
「迷っておるな、お主。一瞬でも迷えば自分の目的を叶える確率が極端に低下すると教えたはずなのじゃが、忘れたか?」
「黙れっ」
「図星を突かれて怒鳴り散らすとはまだまだ青いのう。冷徹さが売りのお主はどこへ去ってしまったのやら」
挑発してくる御雷の言葉に彼の心は徐々に引きずられていく。元より冷静でいられるはずがないのだ。目の前にいるのは彼の妻が死ぬことになった現況を作り上げた人物。憎悪の闇に身を沈めたとしても誰が彼を責められることだろう。
「まぁ、すぐに妾に斬りかかってこなかったことだけは褒めてやろう。最低限の冷静さは保てているようだからのう」
「それ以上、言葉を口にするな」
「ふむ。では、言葉ではなく刃で語ることにしようかのう。お主の望み通り」
言葉とともに姿を消失させる御雷。その速度を視認することなど不可能。残像を見ることはできたとしても。
御雷の所有する真龍刀、銘は武尊御雷。
雷の神の名を冠したこの真龍刀は所有者の肉体を光の速度で動けるほどに強化し、光の持つ特性を付加させる。全真龍刀中最速にして最高の攻撃力を兼ね備えているが故に、始祖以外が使えなかった伊邪那岐伊佐那海を差し置いて最強の真龍刀と呼ばれている代物である。
「こんな趣向はどうかのう?」
振り返った彼の視界に飛び込んできたのは御雷の真龍刀によって腹部を貫かれている曹操の姿。一瞬で表情を歪めた彼を見て興が乗ったのか、御雷は堰を切ったような笑い声を上げながら曹操から真龍刀を引き抜く。
「華琳っ」
歩法を用いてすぐさま倒れそうな彼女の体を抱きしめる伊邪那岐。口から血を吐き出しながら彼に抱きかかえられている状況で、曹操は彼の頬に向かって右手を伸ばしてくる。
「油断、したわ。こんな、ことに、なるなんて、ね」
「黙っていろ。今すぐに傷を治す」
懐から小刀を取り出し、すぐさま左手首を切り裂いた彼は彼女の腹部へと左手首を押し付ける。
「あなたは、どうして、そんな悲しそうな、顔をしているの?」
「こんなのは、こんな終わり方を俺は望んでいない」
「お互いに命を捨てようとしていたのに?」
「それでもだっ」
曹操の腹部の傷を龍血によって癒した彼は、彼女を壁際まで運んでから踵を返す。自分の闇を、太陽である彼女から隠すように。
「いやはや、実に良いものを見せてもらったのう。鈿女の時は間に合わなかったというのに。じゃからいったじゃろう? 力なきものは奪われ死ぬしかないと」
「いい加減、口を閉じろ。貴様の口から吐き出されるものは、耳障りを超えて不愉快以外の何物でもない」
発せられた声は静謐そのもの。だが、その声に込められているものが理解できた御雷は先ほどよりも笑みを濃くする。奈落へと引きずり込む悪魔のように。
「吠えるのであれば、それ相応の力を示してもらわぬとのう。弱い犬ほどよく吠えるとは言われたくないじゃろう?」
「見たいというのであればすぐにでも見せてやる」
「ほう、それは楽しみじゃのう」
彼の言葉に呼応するように晴天だった空が曇天へと変わり、曇天から雷雲へと変化して落雷と豪雨を一瞬で呼び寄せる。風向きが読みづらいだけで穏やかだった風は颶風に、水面は激しく音を立てて船へとぶつかり、先ほどまでの気候が一変した。
「お前だけは、お前だけはいくら俺でも受け入れない」
「心地よい殺気じゃのう。よかろう、久方ぶりにどれほどお主の技量が上達したかを妾自ら確かめてしんぜよう」
彼へ降り注ぐ雷。白光が世界を焼き尽くした後、その場所には髑髏の仮面を左半面につけた黒衣の死神が姿を現している。右手に握る刀は薄氷のように薄い刀身に彼の心情を代弁するかのように雷を帯電させている状態。そして、彼は極めつけと言わんばかりに自分の左手の親指を心臓めがけてねじ込む。
鬼神狂化。
血液を体内に送り出す心臓に氣を外的に送り込むことによって一時的に身体能力を飛躍的に上昇させる技術にして禁じ手。送り込む氣の量が少なければただ傷を負うだけで、逆に多すぎれば心臓が不可に耐え切れない。精密な技量と命を削ってでも相手を殺したいと願う執念がなければ使うことができない技術。
「ほぉう、文献でしか見たことのない。妾ですら使えぬ禁じ手をモノにしておったとは。これはいよいよ楽しくなってきよったのう」
「先程口にしたはずだ。貴様はもう、口を開くな」
憎悪以外の感情をすべて消し去ってしまえばこのような声を発することができるのだろう。真龍刀を呼び出しただけでなく、彼が放つ膨大にして濃密な殺気に当てられた屈強な兵士たちが次々と意識をその場で手放していく。
「さぁ、お主の真龍刀を妾に突き立ててみよ、伊邪那岐」
「御雷、貴様は輪廻転生の輪から外れて消滅ろ」
お互いに示し合わせたかのように一歩を踏み出し、世界から姿を消す。だが、それこそが過去に彼が予言されていた己の大きすぎる復讐心に敗北した瞬間だった。
抑えられなかった殺意