第百二幕
前回のあらすじ
気づいていない確かな絆
決戦の地である赤壁。そこで王たる三人の人物は船上で視線を交錯させていた。
「こんな形であなたと雌雄を決する形になるなんて、夢にも思っていなかったわ」
「予期していなかろうが、これは紛れもない現実だ」
「ええ。逃れようのない現実」
言葉を交わすものの、曹操と伊邪那岐の両者の間には決して飛び越えられないほどに深い溝が存在している。これは二度と触れるつもりはないと言う彼の意思表示でもある。
「冥淋や蓮華は無事なんでしょうね?」
「他人の心配をするよりもまず自分の心配をするべきだ。この地にいる時点で俺もお前も、いつ命を落としたとしてもおかしくはないのだから」
「あなたに勝って、絶対に二人を取り戻すわ」
片方の瞳には揺るがぬ覚悟、もう片方の瞳には譲れぬ決意が宿り、それぞれがすべてを飲み込む渦を体現した瞳とぶつかり合う。
「もはや言葉は意味を成さないみたいね。後はどちらが勝利を得るかだけ」
曹操の言葉に首を縦に振った二人。そして三人同時に踵を返し、
「誇り高き曹魏の兵よ。この地での勝利を持って我らは大陸の覇者となる。愛するものを守るため、望みを叶えるため。私はあなたたちの戦う理由を否定しない。その志がある限り、私たちは同じ道を歩いていけると信じて疑っていないから」
曹操の言葉を受けて曹魏の兵士たちはそれぞれ自分の胸に手を当て、彼らの主の言葉に耳を傾ける。
「磨き上げた武は今日この日のため、研鑽してきた智謀は今日この日のため。曹魏の旗を背負い、必ず勝利を掴み取ることを今ここで誓いなさい」
右手で自分の獲物を高々と掲げて曹操は部下たちを鼓舞する。それに負けじと、
「勇敢なる孫呉の将兵よ。我と共に歩む者たちよ、今こそ力を解き放つとき、勝利を得るとき。敵は麟の大軍勢を率いし悪漢隻竜王」
剣を抜き放ち言葉を口にする孫策。彼女が口にした言葉は鞘から抜き放たれた刃と同じで殺意と敵意を収めるということを知らない。
「隻竜王は非道にも我が友と妹を奪い、その場で孫呉を侮辱して宣戦布告していった。この振る舞いを私は許せない。貴公らは許せるか? 許せるわけがあるまい。この戦、我らが誇りを貫くためにも必ず勝利するぞっ」
天に切っ先を向けて突き上げられた剣。それに呼応するように兵士たちも次々と獲物を抜き放ち、怒号とともに天へと突き上げる。
二人の王がそれぞれの部下たちを鼓舞し終えた後、伊邪那岐は残った左目で自分の部下たちとそれに付き従う兵士たちを一望して言葉を紡ぐ。
「こういった場所でどういった言葉を口にすればいいか、俺には未だに見当がつかない。死ぬなと口にするべきか、勝利しろと口にするべきか。言うべき言葉はいくつもあるというのに」
彼の独白を聞いて兵士たちは押し黙る。いつも彼は先陣を切って戦ってきた。その彼が初めて自分たちと共に刃を掲げてくれる。言葉には出さずとも兵士たちは栄誉と興奮で今すぐ駆け出していきたい気持ちを抑えるのに必死な状況。
「皆の者、よく聞いてくれ。俺たちは今日この日のために生きてきたのではない。この日を乗り越えた先を生きるためにこの大陸で生を受けたのだ。戦で傷つくためでも勝利するためでもなく、愛するものと生きる未来のために」
彼は濃口を切って刀を右手で抜き放って高々と掲げる。この場にいる全員にこの言葉が届くようにと願って。
「相手どるは曹魏に孫呉、いずれ劣らぬ強国。どれほど苛烈な戦になるか、俺にも想像がつかない。だがあえて俺はここで口にしよう。今を生きる者たちよ、守るために刃を取った者たちよ、お前たちこそが真の英傑だ。俺の命はお前たちにくれてやる。だから、未来を生きるお前たちの力を俺に貸してくれ。今日を大陸で流れる最後の流血とするために」
湧き上がる歓声は津波になって押し寄せてくる。
「「「開戦だっ」」」
◆◆◆◆◆◆◆◆
ぶつかり合う互いの意思を示すように剣戟の音が周囲に鳴り響く。そんな中、先鋒を任された華雄は補佐をするべく配置された相棒の張遼と共に目的の甲板へと降り立つ。
突きつけられる視線は刃の如き冷たさであるにもかかわらず、その肉体からは惜しげもなく闘志を迸らせている孫策。視線が交錯したのは一瞬だけ。それだけの短い時間だけで両者は理解する。今、目を合わせた相手が自分の命を奪うために現れた死神であることを。
「へぇ、この大事な決戦で私の相手にあんたを選ぶなんて、伊邪那岐の観察眼は相当なものみたいね。こちら側の主戦力に捨石をぶつけてくるなんて考えもしなかったわ」
「なんやて? もういっぺん言ってみぃ」
「霞」
自分の戦友を侮辱され、まんまと孫策の思惑通りに挑発に乗ってしまう張遼。だが、そんな彼女を諌めたのは侮辱された本人である華雄。
「孫策、私も貴公に言っておかなければならないことがある。私は既に敗北を受け入れ、自身の未熟さを許容している」
「えっ?」
華雄の言葉は孫策の予想していたものとは違い斜め上から降ってくる。武人であれば辛酸を舐めさせられた相手の血族に対して必要以上に肩に力が入ってしまうもの。汚名を返上するためにも決して負けるわけにはいかないはず。それなのに、目の前の華雄は孫策の母に敗北したことを受け入れたと口にしたのだから、孫策が間の抜けた声を出してしまってもおかしくはない。
「理解できていないようだな。ならば言葉を変えよう。私の望みは既に貴公に勝つことではない。そんなものは、もはや通過点でしかない」
華雄自身、正直に自分の心の内を打ち明けただけなのだが、それは失策。火に油を注ぎ込むように孫策の怒りは爆発的に加速して巨大化していく。発せられる殺意と敵意は風となって二人へと叩きつけられる。その風は烈風と表現できるほどに強烈なものにも関わらず、二人は表情を変えもしない。
「私の望みを口にする前に一つだけ、貴公に聞いておきたいことがある」
「なによっ」
「貴公は、自分の獲物を重いと思ったことがあるか、否か?」
「その問いかけに何の意味があるかわかんないけど、重いなんて思ってたら使えないわよ」
「やはりか」
この問いかけは過去華雄が伊邪那岐にされたもの。そして華雄は過去に孫策と同じ言葉を返し、彼にその間違いを正された。だからこそ彼女は微笑を浮かべ、孫策へと自分の闘志を解放してぶつける。いうなればそれは凪の状態。先程は一方的に吹きつけられていた風が同等の威力を持つ風をぶつけられて無風となった状態。
「陛下が私の思い違いを正してくれたように、貴公の思い違いもここで正しておく。己の獲物の重みを感じなくなった瞬間、武人は武人として死ぬ」
「どういうことよ、それ?」
「「獲物の重みは意志の、命の重み。命を刈り取る物であるからこそ、刈り取ったものの意志と命を引き継いでいく。だから武人の獲物はすべからく重い。その重みを感じなくなった時、武人はただの悪鬼と成り果てる」陛下のお言葉だ。私の獲物は重い。貴様の獲物よりもずっと。だが、陛下の獲物はもっと重い。陛下の獲物には命を刈り取った者たちだけでなく、今を生きる者たちの意思すらも宿っているのだから」
「随分と雄弁に語ってくれるじゃない」
苛立ち混じりに孫策は剣を抜き放って華雄へと先端を向ける。王である伊邪那岐に馬鹿にされて怒りを感じるというのに、その部下に挑発されて受け流せるほど彼女は人間ができていない。
「私の望みは、陛下とともに刃を握ること。私は過去を受け入れて今を進み、明日に手を伸ばす」
「火悲、好きにやりぃ。露払いはうちが済ましたる」
獲物を構え、背中を合わせる張遼と華雄。敵地に突出して過ぎているというのに二人に死の恐怖はない。敵に周囲を囲まれていることに恐怖など既に感じない。彼女たちはそんな瑣末なことよりももっと大きな恐怖と戦っている最中なのだから。
「火悲の邪魔はさせへんよ。うちらは、最上の上がりを目指しとる最中やからな。うちは隻竜王伊邪那岐陛下より『神速』の号を頂きし将、張遼。敗北をその身に刻み込みたいやつからかかってきぃやぁっ」
雄叫びにも似た名乗りを上げる張遼。その姿は諜報という機動力を活かした部隊に配属され、実力を隠し続けていた彼女が自分の心の奥底に封じ込めていた本能。構えから伝わってくるのは野獣の殺気。長い間、伊邪那岐という檻に自分を預け続けていた彼女は彼のために己の刃を曝け出す。
そして、その殺気に当てられて二人の武人も動き出す。
「孫呉の王、孫策。押して参る」
「隻竜王伊邪那岐陛下より『瀑布』の号を頂きし将、華雄。押し通らせていただく」
◆◆◆◆◆◆◆◆
「はぁぁぁぁぁっ」
裂帛の気合とともに振り抜かれた蛇矛が大勢の兵士たちをなぎ倒していく。その歩みを止めようと刃を振るい続ける兵士たちだったが相手が悪い。歩みは燕のごとく早くそして低く足元を、攻撃は猛禽のごとく苛烈に。舞台は燕人張飛の独壇場。
「鈴々、前へ出すぎだぞっ」
「愛紗が遅すぎるのだ。きっと運動不足で太ったのだ」
「なんだとっ」
ここが戦場だということも忘れて張飛の頬を力任せに引っ張る関羽。だが、緊張感を解いていなかった二人は迫り来る一撃を察知してその場から飛び退く。
「会いたかったぞ、関羽」
「夏侯惇」
一撃で自軍の船の甲板を打ち砕き、ほぼ大破状態にした夏侯惇。彼女は傾いた帆に片足かけ、背中に愛用の大剣を担いで関羽に対して人差し指を向ける。
「貴様とは是が非でも優劣をつけたかった。華琳様の采配に感謝せねば」
「春蘭様やりすぎっ」
遅れて追いついてきた許チョが愛用の鉄球を引きずりながら彼女の横に姿を現す。息を乱してはいないが、目の前で起きた光景にさすがの許チョといえど何かを感じたらしく一歩下がり気味。
「季衣」
「鈴々」
互いに真名を呼ばれただけで込められていた思いを理解した許チョと張飛は二人より少し離れて獲物を互いに向け合う。
「相手がたとえ兄ちゃんだって、負けるわけにはいかないんだから。ましてやこんなちびっこ相手、絶対勝ぁっつ」
「お前の方が鈴々よりも背もおっぱいもちびっこなのだっ」
どちらも子供が口にするような悪態をついて獲物をぶつけ合う。そんな二人を視界に収めながら魏武の大剣と麟の武神は向かい合う。
「夏侯惇、死合う前に一つだけ聞いておきたいことがある」
「なんだ?」
「曹操は、いや、曹魏の人間は陛下の傷だらけの体を見て、どうして背中にだけ傷がないのか? その理由を知っているか?」
「そんなものは知らんっ」
「だろうな」
あらかじめ予想して回答を受けて関羽は自分の髪紐を解く。
伊邪那岐の背中に傷がないのには理由がある。彼は逃げない。殿を努めようとも、絶体絶命の窮地に陥ったとしても。その理由を彼女が聞いたとき、つまらなそうに彼はこう口にした。
「逃げることは簡単だ。だが、俺が逃げれば敵は俺の守りたいものに対して刃を向けてくる。だから俺は逃げないのではなく、その場から敵を逃がさない。恐怖がないわけではない。だがそんなもの、自分の守りたいものが失われる恐怖と比べれば捨て置いてもいいぐらいに小さいものだ」
背中に傷がないのは彼が大切なものを守りきったことの証。自分の力で背中にいる者たちを勇気づける誇り高きもの。
その背中を追い続けることしかできなかった彼女はこの場所で覚悟を決める。彼が戦いに望む際、常に持っていく覚悟を。
「陛下の背中に傷がないのは、陛下が逃げなかった証。そしてそれは、私たちのもとへと帰ってきた証でもある」
かつて彼女は劉備たちを逃がすために自分を交渉材料としたことがある。それは彼女が慕う主がとる行動と似ているが決定的に違うことが一つ。彼はいつだって自分たちのもとへと傷だらけの体で戻ってくるのだ。恐怖も傷も全て自分で飲み込んで。
「夏侯惇、貴様は一騎打ちを望むと口にしたがそれは無理な相談だ」
「なんだとっ? 貴様っ、それでも武人かっ」
「貴様に曹操が期待を寄せているのと同じように、私も陛下からの信頼を得てこの場に立っている。私たちは決して一人で戦ってはいない」
言葉は決意となり、関羽は懐から小さな包を取り出して封を解く。中身は質素な髪飾り。それで髪を留め、関羽は両手で自身の獲物を握り力の限りに吠える。
「我が名は関羽。隻竜王伊邪那岐陛下の将にして、陛下より『武神』の号を授けられし者。この身体は民の盾なれど、陛下の意志とともに戦う刃なり。かかってこい、夏侯惇。陛下とともにあることを誓った時から我が身に敗北の二文字はあらず。貴様に、曹操共々敗北を刻み込んでくれる」
「戯言をっ。よく聞け、関羽。我が名は夏侯惇、魏の王たる華琳様の意思を示す大剣。華琳様の宿願を果たすためにも、貴様を討つ者だっ」
火蓋は切られて拡大していく