第百一幕
前回のあらすじ
ようやく明らかになったあの方の正体
伊邪那岐が孫呉に宣戦布告してから一ヶ月が過ぎ、後に大陸で語り継がれることになる大戦『龍戦』が赤壁と呼ばれる地で開始されようとしていた。
同盟軍の本拠地。
宣戦布告された孫呉だったが自国の力だけでは麟と相対することは不可能と判断し、曹魏に同盟を君主である孫策本人が申し出たことにより、このことを曹操が承諾。本来であれば雌雄を決するはずの相手とありえないはずの同盟が成立していた。
「まさか、あなたと同盟を組むことになるなんてね。以前の私であれば夢であったとしても信じられないわ」
「それはお互い様よ。でも麟は、伊邪那岐は一国で対抗するには無謀すぎる相手。だから曹操、あなたも同盟を組むなんてことを承諾してくれたんでしょ?」
作戦を立案する部屋で互いに視線を交錯させる曹操と孫策の二人。互いを敵として認めているからこそ、相手の力をこれ以上ないぐらいに信頼している。そして、おそらく二人がこれから戦うであろう相手も二人の実力を把握しているに違いない。
「あいつの頭の中には最初からこういう絵図が描かれていたのかもしれない。私たち二人を同時に相手にする未来が」
「それは答えづらいわね。私から稟と風、あなたから周瑜と妹を奪って同時に二国を相手取る。あいつはバカじゃない。一国ずつ相手にするのと二国同時に相手にすることでどれほど自分がリスクを抱えるか。それを判断できない人間ではないわ」
悪を行い、その憎しみをすべて自分へと向けさせる隻竜王。その悪評は今では大陸中で知らないものはいないだろう。それでも、彼が行ってきたことには全て理由が存在していた。その理由はいつもことが終わってからでしか理解できない。だからこそ彼女たち二人は彼の真意を読めずにいる。暴挙とも呼べる行為に及んだ彼の狙いが。
「こちらは現状、今まで主軸であった軍師を三人も引き抜かれて数もおよそ互角。初撃でどれほど相手の勢いを削ることができるか。勝敗はそこにかかっているといっても過言ではないわ」
「わかってる。だからこそ、この地を決戦の舞台に選んだんだから」
長江での戦を経験しているのは大陸広しといえど孫呉の一国だけ。数多くの戦で領地を拡大してきた曹魏だけでなく、これから相手取る麟もこの場所での戦を経験してはいない。それに、相手の司令官である伊邪那岐は船に極端に弱い。そのことを知っているからこそ孫策はこの場所を決戦の地に選んだのである。
「でもあなたの話を信じるのであれば、どうして伊邪那岐はこの場所での決戦を承諾したのかしら? 自分が不利になることぐらいすぐに理解できそうなものだけれど」
「大方、強者としての絶対の自信があるんじゃないの? 憎らしいったらありゃしない」
「あいつは慢心するような人間じゃないわ。慢心するような相手であればどれだけこちらが楽か」
「それもわかってる。冥淋がいたらきっと今の私は怒られてると思うから。「敵に恐怖しない人間に戦で戦う資格はない」って、絶対に怒られてるとおもう」
この場にいない親友を思いながら孫策は口にする。親友である周瑜がどうして自分たちの国を離れ、今敵国にいるのか彼女は知らない。それでも彼女のことは一度たりとも疑ったことはない。自分が知らないだけで何度も周瑜は彼女を支えてくれていた。だからこそ今回のことも何かしら理由がきっとある。そう、彼女は信じていた。
「なにはともかく、明日の戦でこの大陸が変わることは確か。作戦も十分に練り上げたし、兵士たちの士気も私たちの予想以上に上がってくれてる。後は、結果を受け入れるか否かだけ。ふぅ、悪いけど明日に備えて先に休ませてもらうわ。曹操、あなたも早めに休んでおいてよね? 本番でダメでしたなんて目も当てられないから」
「ええ。私ももう少し兵の配置を確認したら休むことにするわ」
席を立って天幕を出ていこうとした孫策だったが、出口に手をかけてから何を思ったのかその足を止める。そして、振り返ることなく言葉を口にする。
「ねぇ曹操、私たちどうしてここまで食い違っちゃたんだろう? こんな風に手を取り合うことができるんだったら、もっと早く手を取り合うことができたかもしれないのに」
「私も其の問いに対する答えは出ていないままよ。でもこれだけは確実に言えるわ。過去は変えられないけど、未来は自分の意志で変えていける」
「そっか、そうよね」
そこで孫策は振り返って軽くウインクしてから、
「ねぇ曹操、この戦が終わって二人共生きてたら、一緒にお茶でもしない? 色々と話したいことがあるの」
「魅力的な提案ね。考えておくことにするわ」
「それじゃ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
孫策が天幕から出て行ったことを確認し、曹操は目頭を抑えて天を仰ぐ。迷ってはいけないし、躊躇ってもいけない。自分は王であり、相手もまた王。自分の行動一つ一つに国の未来がかかっている。それでも涙は瞳からこぼれ落ちて頬を伝う。明日が永遠に来なければいいとさえ願ってしまう。明日になれば自分は愛した男と殺し合いをしなければならない。無論、手加減をするつもりもないし、相手も全力で挑んでくることだろう。
これが本当に自分が望んだことなのか? もっと別の方法があったのではないか? 改めて自分の心に問いかけてみても答えは出ない。答えがでないまま彼女は戦いに身を投じるしかない。歯車がかみ合い動きを加速させていく中で、彼女は抗うことができずにその流れに流されるしかない。自分が正しいと思う答えを見つけ出せないまま。
「本当に孫策の言うとおり、どこで食い違ってしまったのかしらね」
知らず知らずのうちに手を伸ばしていたのは懐にいつも大事に持っている髪飾り。それを両手で抱きしめながら彼女は願い、王ではなく一人の少女として弱音を口にしてしまう。王は孤独でなければならない。王はいつだって振り返ってはならない。彼女は親からも師からもそう教わり、その教えを忠実に全うしてきた。それでも、重責を自分ひとりで背負うには重すぎる。何より、今の彼女は愛する男と自分の国を天秤にかけるという王として行ってはいけない心の判断をしている最中なのだから。
「教えてよ、伊邪那岐。あなたはどこに向かって歩いているの? その場所にはあなたが望む幸せがあるというの? 答えてよ、お願いだから」
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「此度の戦、俺の予想が正しければ総大将に曹操を置き、孫策と夏侯惇の二人が先陣を務めてこちら側を崩しに来ることだろう。故にこちら側は先陣に愛紗と火悲を置く。先ほど口にしたことを含めて布陣は以上だ」
一方で陣を敷終えた麟の面々も伊邪那岐の口から直接明日の戦での配置を伝えられていた。
「愛紗、お前が望んだ一番槍だ。激務であることは承知の上。それでもお前を俺はこの任に選んだ。理由を聞きたいか?」
「宴の褒美ではないのですか?」
「それもあるがそれだけではない。お前にならば任せられると判断したからだ。俺がどういう人間であるかお前も知っているはずだ。褒美の件があったとしても任せられぬと判断すれば先陣に配置などしない」
彼の言葉を受けてひときわ大きく関羽は頭を垂れる。他の候補者を退け、この決戦で一番槍という大任を請け負った責任は大きい。しかしそれは裏を返せば、彼女に対する彼の信頼が大きいとも言える。
「火悲、長らく待たせてしまったな。お前が望んだ決闘の舞台をようやく用意することができた」
「ありがたき幸せにございます」
「俺がお前に言える言葉は少ない。それでもお前に送ることができる言葉があるとするなら、勝て。孫堅に敗北した汚辱を引きずったままの華雄としてではなく、麟の旗を背負った武人華雄として」
「仰せのままに」
ようやく待ち望んでいた時を迎えることになった華雄は、この舞台をお膳立てしてくれた主に対して深々と頭を下げる。思い返せば懐かしくもあるが、彼に彼女がついてきたのはこの条件を満たすという約束があったから。だがそれももはや過去のこと。彼女は既に敗北を受け入れることによって強靭な精神を持った武人へと成長している。今回の戦に限らず、彼女は彼のためであればいかなる死地に飛び込んだとしても勝利して生還してくることだろう。主と交わし、破ることを己の生涯の恥と誓った彼女であれば。
「皆も心して聴け。明日の戦をこの大陸に流れる最後の流血とし、終わりなき闘争に終止符を打ち込む。その為に俺は命を賭ける。未来を生きる者たちのために礎となる覚悟を持って戦に望む」
言葉に乗ってその場にいた全員に伝わってきたものは彼の覚悟。息をすることさえ躊躇ってしまう程に全員が彼の言葉に耳を傾けている。
「加えて白状しておく。皆を動揺させまいと黙っていたことだが、黙したままではあまりに後味が悪すぎる。正直な話、俺の命は残り少ない。明日をも知れぬ我が身だ。この戦、勝利しても敗北しても俺の命は尽き果てることだろう」
耳に言葉が届かなければいいとどれほど願ったことだろう。自分たちを救い、導き、その背中が見守ることしかできなかった主の死期が迫っている事実。その証拠に先程とは打って変わって場を静寂が支配してしまっている。
「俺の生きた意味をお前たちに託す。平和を勝ち取った者の笑顔という最高の餞別を駄賃に俺を送り出してくれ。話は以上だ」
誰もが言葉を失っている中、彼は天幕を出ていく。全員が突然打ち明けられた事実を受け止められず躊躇っている状態、そんな中で一人の人物の声が全員の耳を打つ。
「お前達は死を選ぶ陛下をただ見送る。それで本当にいいのか?」
押し殺した怒りが今にも顔をのぞかせそうな布都の声。その声を受けて口々に皆が異を唱えていく。この場にいる全員は伊邪那岐の死を望んではいない。我儘と言われても、彼の望みであったとしてもそれを素直に受け取れるほど単純には出来ていない。
「俺は陛下に生きて欲しい。死んだ人間に言葉を投げかけても無意味だ。だから俺は、陛下に恨まれることになっても生きていて欲しい。俺と志を同じくするものはこの場に残ってくれ。それ以外のものは今すぐにこの場を立ち去れ。強要はしない、選択はお前たちの自由だ」
言葉を口にしたものの、天幕を去っていくものは誰一人としていない。それを見た彼は声を張り上げる。
「去る者がいないのであれば、このまま話を続けさせてもらう。いいか、機会は一度きり。真龍刀を陛下が発動させる瞬間、その瞬間だけは陛下は無防備となる。そこで陛下の意識を刈り取れば陛下の命にはまだ猶予がある。問題を先送りにしているだけでしかないが、俺たちに残された方法はそれだけ」
真龍刀を召喚する時、契約者は莫大な集中力を必要とする。それは伊邪那岐であったとしても例外ではない。召喚して命が削られるというのであれば召喚させなければいい。実に簡単な方法だが、この方法には最大の問題が残っている。俯瞰絵図を習得している彼には隙がほとんどないということ。策があったとしても実現できなければ何の意味も持たない。
「成功する見込みはかなり低い。だが、俺と同等もしくは俺以上にあいつを救いたいと願うのであれば、俺に力を貸してくれ」
普段の彼であれば決してすることのない土下座。何度も額を地面にこすりつけるように布都は深々と頭を下げ続ける。彼一人では親友を救えない。この事実を覆すためにも今は多くの力が必要。そのためであれば自分の矜持など安いもの。
「布都殿、頭を上げてください」
「碧殿」
「あなたにも見えるはずです。言葉にせずとも顔を見れば全員の答えがすぐにわかるほどに」
馬騰に促されて頭を上げた彼の視界に飛び込んできたのは、布都へと伸ばされた全員の手。それ即ち、彼と志を同じくしているこれ以上ない証拠。
「皆、理解しているわけではないと思います。ですが、直感で判断したのでしょう。自分たちの主は陛下、伊邪那岐様しか有り得ないと」
布都に対して伸ばされた手は、かつて伊邪那岐が手を差し伸べてきた回数。自分の力が小さいままだと自身の成長を認めていない伊邪那岐。後悔と自責という鎖によって過去の十字架に縛り付けられたままの彼を救おうと伸ばされた手はこんなにもある。こんなにも多くの人間が彼を愛し、彼を必要としている。立ち上がった布都は、いつの間にか瞳に浮かべていた涙を着物の袖で強引に拭って言葉を紡ぐ。この場にはいない、自分と決別することを選んだ親友の心に届くように。
「俺たちは明日の戦で勝利だけを得るのではない。平和だけを得るのではない。勝利して、あいつのいる世界で平和を勝ち取るのだ」
それぞれの決意を胸に決戦は開始される