第百幕
前回のあらすじ
親友二人との決別を選んだ主人公
伊邪那岐が布都や馬騰の前で目にも耳にも聞こえぬ叫び声を上げているのとほぼ同時刻、窓どころか入口がどこにも見当たらない建物の中で一人の人物が湯のみを傾けていた。
「まったく、どうしてあそこまでやせ我慢をする人間に育ってしまったのか。自分を押し殺して得られる答えにどれほどの価値があるか、知らないはずはないんだけれど」
「どうして、どうして? そんなことばかりに気を向けて本題が失敗したら目も当てられないわよ」
「君か。そうは言うけどね、ここまで自己犠牲の塊のように成長されてしまうと実の姉としてはかなり複雑な気分なんだよ? もっとも、このことに関していうのであれば彼に限ったことではないけどね」
「それって、私も含まれてたりするわけ?」
「当たり前じゃないか。自分の命を犠牲にして彼を解放するための道筋を残したんだ。これを自己犠牲と言わずになんて言えばいい?」
「愛する男のためなら自分の命なんて惜しくない。恋に焦がれた人間、特に乙女は得てしてそういうものよ」
「僕には理解できないけど、君が口にするのであればそうなんだろうね」
突如として現れた人物に文句を口にすることもなく席を勧めた犬遠理は、彼女の前に湯気の立ち上る湯のみを置いて上げる。
色素を拒絶したような純白の髪に藍色の瞳。纏っているものは犬遠理と同じく着物だというのにどこかその存在感は希薄で、この場所に彼女が存在していることに世界が疑問を抱いているかのように思える。
「このような場所に妾を呼び出すとは、いよいよ手詰まりといった感じなのかのぅ」
そんな場所にまたひとり女性が現れる。赤黒い血液を塗りこんだように黒の中に赤が混じった髪、紅玉石のように光り輝く瞳。だが、この女性の外見を表現するのであれば美ではなく刃。
「犬遠理、あんたこの人まで巻き込んだわけ?」
「しょうがないだろ? あいつがいつまで経っても僕らの計画通りに動いてくれないんだから。むしろ、計画を立てた君にこそ責任があると思うよ?」
「さっすが私の男。ひねくれ具合がハンパじゃないわ」
「決して褒めてるわけじゃないよ。まぁ、馬鹿にしているわけでもないけど」
計画通りにことを運ぶことができたのであれば、この部屋には誰ひとりとして足を踏み入れることはなかっただろう。それでもここにこの三人が集ったということは事態がかなり切迫したことを意味している。
「妾のかけた呪法はあとどれぐらい持ちそうなのじゃ?」
「どれぐらいですかねぇ。正直、僕としてもここまでこの計画が難航するとは思っていませんでしたから。ただ正確に一つだけ言えることは、伊邪那岐が死を決意しているということだけですかね」
「いよいよ持って佳境もいいところじゃな。だからこそ、妾が立つ舞台にふさわしいと言えるかもしれん」
「あんた、失敗したらどうなるかわかってんでしょうね?」
「失敗? 誰に対してものを申しておるのじゃお主は。里長である妾がしくじるようなことはない。お主のようにな」
「なんですってっ」
「はいはい。二人共落ち着いて。ここには争うために来てもらったわけじゃないんだから」
手を叩いて二人を宥める犬遠理だったが、当の本人たちは瞳を合わせることもなく顔を背け続けている。
「里長、いやここはあえて御雷と呼ばせてもらおう。あなたを呼んだ理由はほかでもない。それとも、確認のためにもう一度口にしたほうがいいかい?」
「結構じゃ。妾とてあやつとの邂逅を深く望んでおるからな。だがまぁ、妾の顔を見てもあやつが真龍刀を呼び出さなかった場合。不測の事態に関してはどうするつもりなのじゃ?」
「それはないわよ。あいつはあんたのことを私の仇だと思い込んでるから。もっとも、私のことなんて忘れて楽しくやってたら保証はできないけど。そこントコロはどうなの?」
「問題ないよ。今でも伊邪那岐は君のことを忘れていない。むしろ、過去よりも君に対する思いは強くなっていると僕は確信している。鈿女、どうやって僕の弟をあそこまで盲目的にできたのか? 今度教えてもらってもいいかな?」
「全部が終わってからでよければ好きなだけ教えてあげるわよ」
この場に集った三人、その誰もが彼との邂逅を望んでいた。
一人目は言わずとしれた犬遠理。彼の姉であるという事実を打ち明け、今回の計画の要である真龍刀の発動を伊邪那岐に示唆した人物。
二人目は彼に自分のことを仇だと思い込ませた御雷。今代の剣の一族をまとめあげている里長であり、実質的に彼の師匠とも言える人物。そして、彼に偏執的な愛情を注いている人物でもある。
最後の三人目は、彼の目の前で息絶えたはずの最愛の妻である鈿女。その姿は生前とかなり変わっているものの、こうして生きている。
「まぁ、いがみあうなとは言わないけどさ。せめて不干渉を貫くぐらいの努力はして欲しいかな」
「妾の愛弟子を骨抜きにした醜女が視界に対するだけで不快だというのに。だがまぁ、お主の顔を立てるというのであれば致し方ないことか」
「年甲斐もなく発情した年増と同じ空気を吸うのだけでも苦痛だけど。ここは大人しくあんたの顔を立ててあげるわ」
「なんじゃとっ」
「なんですってっ」
お互い犬遠理に対して一歩引いた状態で言葉を口にしたが、相手の口にした言葉が心の導火線に火をつけたらしく勢いよく殺意混じりの視線をぶつけ合う。
「醜女ですって? あんた他人の外見にケチつける前に鏡で自分の顔でも見てみたらどうよ。そこにはキッチリカッチリとあんたが口にする醜女が映ってるはずだから」
「年増じゃとっ? これだから乳臭い小娘は。女の肌触りが一番良いのが三十路一歩手前だということを知らんように見える。まぁ、お主程度では触れてもらえることすらないじゃろうが」
「上等じゃない。ここであんたの厚化粧を陳腐な矜持とともに引き剥がしてあげるわっ」
「口は達者になったようじゃな、小娘。ならば妾は今度こそその魂を冥府へと送り届けてくれよう」
「二人共、落ち着いて話し合ってくれないかな? でないと、さすがの僕も自分を抑える自信がないから」
水滴を背筋に落とすような犬遠理の声を聞き、流石に自分たちが冷静でないと判断した二人は一度深呼吸をして心を落ち着かせる。
「現状から話しおくよ。今の伊邪那岐はかなり危うい状態だ。元々の肉体に封じられていた魂を抑えられなくなってきている。これは、真龍刀を二回ほど使用したことが主な原因。そのことは理解できているよね?」
彼女の言葉に二人は同時に首を縦に振る。どういった思惑があってそうなったかはこの場にいる三人とも知らないが、伊邪那岐の契約している真龍刀は力を発動させる度に契約者の魂をその体に移す。彼が使用した回数は二回。あと一度発動させれば彼の魂は完全に肉体から引き剥がされることになる。
「理解できてるみたいだから話を進めるよ。要石を通じて得た情報で、あいつは近々大きな戦を起こす。それに乗じて」
「妾があやつと対峙すればよいのじゃな?」
「そのとおり。そこで伊邪那岐が真龍刀を使ってくれれば、あいつの魂は完全にあの仮初の肉体から引き剥がせる。それができなければこの計画は失敗。僕たちはあいつのいない状態であの方と対面するっていう最悪の結果を招くハメになる」
「でもそれって、里長が伊邪那岐に勝つことが前提でしょ? 勝てるの?」
「お主、妾を馬鹿にしておるのか?」
「馬鹿にしてるわけじゃないわよ。ただ」
「伊邪那岐伊佐那海に御雷が対抗馬としてあっているかどうかという話だね?」
彼女の言葉に鈿女は首を縦に振る。伊邪那岐伊佐那海は彼女たちが所持している全ての真龍刀の雛形にして最強の真龍刀。いくら里で最強と歌われた里長であったとしても真龍刀を発動させた伊邪那岐に勝てる保証はない。
「そのことなら大丈夫だよ。御雷の実力と真龍刀があれば、今の伊邪那岐じゃまず勝てない。普段通りの実力を発揮できたとしても、“本当の肉体”と“本来の真龍刀”を持っていないあいつじゃどう足掻いたとしても無理」
「それはそれでかなりムカつくわね」
「私情を挟むでないわ、小娘」
再びにらみ合う二人だったが、今度は彼女も止めようとはしない。
「あの方に勝つためにはどうしてもあいつの力が必要だからね。それに、あいつには幸せになってもらわないと。自分の命を捨てて大陸中の人間を救おうって尊い考えを持つ人間が犬死なんて結果は、僕は大嫌いだ」
「妾はあやつのためであれば力なんぞいくらでも貸してやる。苦痛を苦痛と認めず、悲嘆を悲嘆として受け入れずに歯を食いしばるあやつの表情にはかなりそそられるからのぉ」
「惚れた男の幸せを願うのは女なら当然。それが幸せをつかむための物語だって言うなら、最っ高の形で締めくくりたいに決まってるじゃない」
「だよね」
そこで微笑し、犬遠理は二人から視線をはがして言葉を吐露する。
「あの方、“第六天魔“の描いた計画。父上母上が練り上げた計画。その全てが伊邪那岐を、僕の弟を利用してのもの。そんなもの認められるわけがないよ。ほかの誰かなら別だけど、最愛の人間を利用なんてされてたまるものか」
その言葉を受け、初めて三人の視線が重なる。
「「「さぁ、大団円と洒落込むことにしましょうか」」」
それぞれの願いを抱えて舞台は最後の幕を開ける。
一週間ほど時間を開けまして
次回の更新から最終章に突入します