後編
「アズルトが帰還しました」
城で報告を受けた王は、急ぎ広間へ出向き、ひざまずいて待っていたアズルトをねぎらった。
「よくぞ戻った。で、あの魔女はいかがした」
「ここに首を持ち帰りました。この女で間違いないか、お確かめください」
アズルトは、持参していた皮袋――魔女の元へ行く時には犬の死体を入れていた大きな袋――を足元へ置くと、袋の口紐を弛めて、持ち帰った首を取り出し、大理石の床の上に置いた。
「ああっ!」
王も、その周りにいた人々も、同時に大声を上げた。
袋から出された首。金色の髪の半分ほどが血糊で汚れている。瞳は閉じられているが、苦しげに開いた唇からは、うめき声が聞こえてきそうだった。
「アズルト!?」
周囲にいた兵からも、悲鳴に近い声があがった。
床に置かれたのは、どう見てもアズルトの首だが、それを取り出したのはアズルト本人。彼の首はきちんと付いているのに、そこに全く同じ顔の生首がある。
「これはどういうことだ」
王が叫んだとたん、首を取りだした方のアズルトは、大声で笑うと、赤い服を着た少女の姿に変わった。兵たちが剣を抜く。
「魔女だ。捕まえろ!」
「待て」
王は、少女に襲いかかろうとした兵たちを止めた。
「そなたがベラーザ……か? アズルトを殺したのか」
少女は冷たい視線を王に向けた。
「王よ。おまえは最低な男。こんな若い男を一人でよこして、このわたしを狙わせるとは、わたしも軽く見られたものだ。この男はおまえの為にわたしを殺そうとしたから、わたしは仕方なく彼を殺した。皆、よく聞くがいい。このわたし、ベラーザは普通の人間よりもずっと長く生きているが、誰の迷惑にもなっておらず、追われる理由などない。全部この王が仕組んだのだ。兵たちを殺して森に首を並べたのもこの王だ」
その場にいる人々がざわめく。ベラーザはさらに続けた。
「王は、どうしてもわたしを殺したいらしい。王は気狂いだ」
王が「なんだと」と言うのと同時に、広間に閃光が走った。人々は光に目がくらみ、両眼を隠した。
しばらくして、目が慣れた人々が、恐る恐る見ると、ベラーザの姿は消え、彼女がいた場所には、犬の死体が残っていた。
「皆の者、落ちつけ。魔女のまやかしだ。犬の死体を片付けて――」
王は、途中で言葉を止めた。広間にいる人々も、凍りついたように、その場に立ちすくむ。
床に置かれていたアズルトの首が、音もなく這うようにじわじわと、王に向かって前進していた。
人々が悲鳴をあげることすらできず、息を止めてアズルトの首に注目する中、ベラーザの声がどこかから響いた。
『アズルトよ、無理な命令を出して、おまえを死に追いやった王に復讐するがいい』
その声に応えるように、アズルトの首は、ふわりと飛び上がると、王の顔の正面へ行き、あと数歩で鼻先が当たるほど王に近づき、浮いたまま動きを止めた。
「それ以上余に近寄るな!」
王が震えながらジリジリと下がると、首は、糸で引かれるように同じだけ前へ進む。恐ろしさのあまり誰も動こうとしない。
王は、真っ青になり、頬をひきつらせながらも剣を抜いた。
「去れ、化け物め!」
そう言ったとたん、アズルトの閉じていた目が、いきなり、カッ、と開いた。
王と首の距離は、さらに詰まる。
「ひっ……あ、あっちへ行け」
アズルトの血濡れた唇から、乾いた声がもれた。
「卑怯者」
「な、な、なにを言うか。余は卑怯者呼ばわりされるようなことは何もしておらぬ。近寄るな、と行っておるのがわからぬか」
王はまた数歩下がったが、血まみれの首は、どこまでも迫ってくる。
「このっ」
王は剣を振ってアズルトの首をどけようと――
あっ、と思った人々が、声をあげる暇もなく、広間には王の悲鳴が響き渡った。
「ぐあぁぁ!」
剣を持った王の手首に、アズルトの首が噛みついている。
「放せっ!」
王は剣を落とすと、生首を振り払おうと手を左右に振り回した。
「陛下!」
勇気を出した兵がアズルトの右目に剣を刺し、王の手から首を放すことに成功した。首はにぶい音を立てて床に転がり、壁際で止まった。
「は、早く、その首をどこかへ持って行け!」
王が噛まれた手首を押えながら退室しようと、歩きかけた時。
「ウ……ウウ……」
低いうなり声が呼びとめるように吐き出された。
「なっ」
首がすごい速さで王をめがけて飛ぶ。捕まえる間もなく、王の顔の正面に浮かび行く手を遮った。
つぶされた右目からドロリとした粘膜混じりの血が垂れ、それに加え、転がされたことで、頬と顎にすり傷ができている。
王は息を飲み、早く広間から出ようと足を速めたが、首に回りこまれてしまった。
「ア、アズルト、御苦労であった。余はしつこくされることは嫌いである。付いてくるな」
王はそう言いながら、全力でアズルトの頬を殴りつけた。再び首が転がり、大理石の床に、血の跡をつけた。
しかし、首は、またしても浮かび上がり、新たな擦り傷を作りながらも、何事もなかったかのように、王の前に戻ってきた。
王がひきつった顔で後ずさると、首は、勝ち誇った笑い声を立てた。
「陛下は卑怯者。自分の物にならなかったベラーザに復讐する為、数々の嫌がらせをして、彼女の命まで奪おうとするとは」
「何を申すか。そのような事実は一切なく、余はベラーザに会ったこともない。皆の者、魔女の術に惑わされてはならぬ。この首を捕まえよ。はやく――」
最後まで言い終わらないうちに、王の口から、ゴボッ、と血があふれた。
キャー、と侍女たちの悲鳴が上がる。
アズルトの首は、今度は王の喉に噛みついていた。
首は、王の喉笛を食いちぎると、いったん離れ、口に残った王の組織を吐き出すと、仰向けに倒れた王の首に再び喰らいついた。食いちぎられた王の喉から、ヒュー、ヒューと風の音が聞こえる。
「アズルト様、もうおやめくださいませ!」
侍女の泣き声に近い叫びにより、あまりのことになかなか動けなかった人々は、正気に返ったように、それぞれ動き出した。
「やめろ、アズルト!」
「陛下を放せ!」
アズルトを知っている兵たちが、口ぐちに叫ぶ。
「アズルト、自分がやっていることがわからないのか。おまえはこんな姿になっても魔女に支配されている。目を覚ませ」
アズルトは、誰の言葉も耳に入って来ない様子で、王の首に噛みついたまま、王の体をゆっくりと持ち上げ、広間の中央天井付近まで上昇し、王の身体を左右に乱暴に振った。広間は三階部分まで吹き抜けとなっており、アズルトが浮かんでいる場所は、誰の手も届かない。王の血が、ボトボトと音を立てて大理石の床に落ちてくる。白い床に赤い血の点がどんどん増え、広間は生臭い血の香りで満ちていく。
アズルトを射落とそうと、弓を構えた者もいたが、王に当たりそうで手出しができず、王がおもちゃのような扱いをされているさまを、なすすべもなく見上げていた。
そのうちに、アズルトはあきたのか、急に王を放り投げ、王の体は、鈍い音と共に、大理石の床にたたきつけられた。
「すぐにお手当だ!」
人々が王に駆け寄る。王を放り出したアズルトは、なおも天井付近を浮遊し、うろたえる人々を嘲笑した。
「思い知ったか。戦うことしか考えぬ愚かな人間たちよ。よく憶えておけ。魔女を虐待するものは皆、こういう最期を迎えるのだ。森はもともと我ら一族のもの。勝手に森の木を切ったり、焼き払ったりすることは許さぬ。人間は二度と我らの森に入るな」
「あれはアズルトではない。魔女だ、魔女の声だ、弓で射ろ!」
浮遊するアズルトの首めがけて、次々と矢が放たれた。
◇
ベラーザは、森の中の家の地下室にいた。
「アズルト、よくやった。この森を壊そうとしていた悪い王は死んだ。おまえの働きはすばらしかったぞ」
ベラーザは、目の前にある石の台座に横たわるアズルトの身体を撫でた。台座の横には、彼が身に着けていた衣服と、隠し持っていた武器が並べられている。
「そもそも、人間たちが敵対意識を持って攻撃してくるからいけないのだ」
ベラーザは、銀の髪をかきあげると、小声で笑った。
「人間という生き物は単純だな。王はわたしに会ったこともないのだし、討伐兵たちの首をはねたのもこのわたしなのに、おまえがしゃべったことを皆、信じかけていたじゃないか」
目の前のアズルトの身体は、首がなく、ピクリとも動いていない。それでもベラーザは死体相手に話し続ける。
「わたしは、襲ってくる誰かの首をはねることも、それを並べることも本当はしたくない。この森で静かに暮らすことを望んでいるだけなのに」
ベラーザは、アズルトの心臓のある辺りに、人差し指を軽く突き立てた。
「おまえを使って、こんな方法で王を殺すとは、わたしは卑怯か、アズルト? わたしはおまえに嘘を言わせた。これ以上、人間の常識を押しつけられることはがまんならない」
魔女は特別な能力を持っている、生活習慣が違う、というだけで、仲間は皆、人間に捕まって焼き殺されてしまった。
「アズルト、恐ろしいのは人間の方だ」
何も身につけていないアズルトの身体に、ベラーザの右手がズブズブと食い込み、手首まで身体に入った。
「おまえはなかなかいい男だから、ここで生かしてやってもよいが……どうする? おまえ次第だ。わたしはおまえのことがとても気に入ったぞ」
ベラーザは左手もアズルトの体の中にうずめて、目を閉じた。
内臓を指に絡めていると、アズルトが体験したこれまでのすべての出来事が、指先から流れ込んでくる。
「こうしていると、おまえのことは何でもわかる。おまえの母親はとうに死んでいたのだろう? あんな王の為に命をかけ、犬の死体まで運んで必死で演技をしたか。それでもおまえは、わたしの作り話を真剣に受け止めて、わたしを殺すことをためらったな。おまえの心は穢れておらず美しい」
ベラーザは、しばらくの間、アズルトの身体をこねまわして楽しんでいたが、やがて、地下室から出ると家の入口を開け放った。
明るい日射しが戸口から入り込む。
「今日は最高のお天気」
アズルトの血で汚れた両手を、青空に向かって広げた。
吹き抜けた強い風。木々が葉を鳴らし、驚いた鳥が数羽飛び立った。
森の上を丸い物体が飛んでくる。
「戻ってきてくれたのか」
ベラーザは、太い枝の上で両手を広げ、飛んで戻ってきた、アズルトの首を抱き止めた。
「酷い事をされたものだ。人間はだから怖い」
アズルトの頬と後頭部には矢が刺さり、右目はつぶされていた。
「ここに戻ったということは、おまえは眠るよりも、ここでわたしと暮らすことを望んだということ。これからは、おまえはすべてを忘れ、わたしの夫となり、ここで暮らせばいい。それも悪くないだろう、アズルト? わたしはひとりきりではさみしい」
閉じていたアズルトの目がゆっくりと開き、乾いた血がこびりついた唇が、言葉を吐き出す。
「ベラーザ、共に……」
「今、身体と繋いで、顔をきれいにしてやる」
ふいに、森がざわめいた。
「っ!」
抱かれていたアズルトの首は、ベラーザの手を離れ――
「アズ……ルト!」
いきなりアズルトの首に喰らいつかれ、仰向けに倒されたベラーザは、自分の首にかじりついたアズルトの髪をつかみ、首を引き離した。
「このわたしを殺すか」
ベラーザの手に吊り下げられたアズルトの首。残された片目からは涙があふれていた。
「ベラーザ、共に死のう。あなたの願いどおり、自分が忠誠を誓っていた王を惨殺した。あなたは俺に嘘を言わせた。王を襲うことは、半分は自分の意志ではないことはわかっていたんだ。あなたが俺を操っていたんだろう? そんなことを命令する魔女は、生きていてはいけない。あなたの言い分もわかる気がするし、あなたを殺したくない。けど、これは許されることじゃない。一緒に逝くしかない」
ベラーザは、噛まれた自分の首すじを押さえ、ふぅ、と大きく息を吐いた。
「……それが……おまえの考えた結論か。だが、おまえはやさしすぎる。こんなかすり傷ではわたしを殺すことなどできぬぞ」
ざわざわと森の木が揺れた。
◇
「気分はどうだ、アズルト?」
アズルトが目を覚ますと、首に大きなスカーフを巻いた女が顔を覗き込んでいた。
「俺は……」
「怪我をして何日も眠っていたのだ。わたしはベラーザ。おまえは私の夫、アズルトだ。今日はいい天気だから、少し散歩しよう」
ベラーザは、まだ足元がふらついているアズルトを地下から外へ連れ出した。
「あ……まぶしい」
片目だけになったアズルトは、何度も瞬きした。
「森の中を通ってくる風は、とても気持ちいいだろう?」
ベラーザは、この上もなくやさしい笑顔をアズルトに向ける。
「ここは私たちだけの森だ。他には誰もいない。誰もここへは来られない」
さわやかな森の風が、二人の間を吹き抜けて行った。
了