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九、敗北感のち緊張感のち……

 その夜、蝶夏は敗北感に打ちひしがれていた。

「お、終わんなかった……」

 小卓の上に広げた冊子を見やる目は少し恨めしげだ。完璧に逆恨みだが。

「どどどどどうしよう……。まずいよね、かなりまずいよね」

 蝶夏はそわそわと立ち膝したり正座したりを繰り返す。

 正直に言えば、今すぐ逃げたかった。しかし、売り言葉に買い言葉だったとは言え、『三日で三冊』は蝶夏自身が切り出した期限だ。言ったことには責任を持たなくてはいけない。彼女はずるがしこくは生きられない性格だった。

 最後の足掻き、と『論語』の後半頁をめくる。これでも大分善戦したのだと方輔は褒めてくれた。

 文字を目で追うが、全く別のことがどんどん頭の中を占領していって、蝶夏は頭を抱える。

 すると、廊下の奥から足音が聞こえてきた。

 昼間の荒々しい足音ではなかったが、こちらに向かってくる足音の主などただ一人だ。

 気配を断って近づいてくるあれも相当心臓に悪いが、今日のような場合は、徐々に近づく足音の方が心臓への負担が大きかった。

 蝶夏の胸の中で心臓が暴れ回る。せり上がってくる緊張感に思わず胸を押さえていた。

 すたすたと歩く静かな足音に、時折裾をさばく衣擦れの音が混じる。

 障子にぼんやりとした影が浮かび、その影はそこで止まった。

「っ…………」

 蝶夏は息を呑んで、身を縮こまらせた。

「………………」

 待つ。

「………………………………」

 しばし、待つ。

「………………………………………………」

 障子に映る影はそれから幾ら待っても動かない。

 緊張し過ぎて、蝶夏の胸元を握った手が震え出した。

 ぷつん、と緊張の糸が切れる音を聞いた気がした。

 蝶夏は立ち上がり、障子を両手で左右に押し開いた。

「嫌がらせか! ハラスメントか!! 緊張し過ぎで心臓止まりそうになったじゃない!」

 すぱんっと小気味のいい音が蝶夏の叫び声に続いた。

 強張った顔で蝶夏が廊下にいる人物を見上げれば、信長は腕を組んで空を見上げていた。

 くるりと振り向いた顔は、少しきょとんとしていた。

「なんだ。何を怒っている」

「っおう……」

 自分自身何が言いたかったのかよくわからない声が蝶夏の口から漏れた。

「………………」

 信長は特に口を開かない。

「……そら、見てたの?」

 仕方なく、蝶夏は聞いた。

 最初の勢いなどしぼんでしまっていた。

 彼女の問いに、信長は再び空に視線を移す。

「ああ。いい月だ」

 彼の横に進んで、蝶夏も空を見上げた。

「……ぅわ、あ」

 圧倒されるような星々の瞬きが夜空を彩っていた。

 それぞれの星が、今にも降り落ちてきそうな程の輝きを放つ。蝶夏は初めて星の光に様々な色があることを知った。濃く、薄く、黄色や赤や、青と言ってもいい色まであった。

 そして、周囲の星を静かに脇に寄せるようにして一際輝くのが少し不完全な形の月だ。淡い金と銀を混ぜたような色が地の上さえも照らしている。

 廊下から伸ばした蝶夏の手の平の上で月の灯りが揺れる。

 ほうっ、と蝶夏の口から吐息が漏れた。

「綺麗…………」

 目を細めてひっそりと微笑む少女の傍らで、信長は口元を緩めた。

 しかし、先程の蝶夏の叫びが彼の頭を過ぎった。

「そう言えば、『嫌がらせ』とは何のことだ」

 上り調子だった気分に水を指されて蝶夏はむっと唇を尖らせる。

「なんで、ここでそれ聞くかなぁ」

「お前が言ってきたんだろうが。……ああ、期限の事か」

 やたら察しのいい信長は直ぐに蝶夏の懸案事項に思い至った。

「ぬ、ぬう」

 身構える蝶夏に彼はあっさり言った。

「あれは冗談だぞ」

「やっぱりそう来たか!」

 てっきり罰則を言い渡されたものと思った蝶夏は、死刑宣告でもされたような心持ちで頭を抱えた。

 少し時間を置いて、ようやく信長の言った意味を飲み込むと、目を見開いて口を開けた。

「はあ……ぁ?」

「そもそも三日で『論語』一冊読めるとも思ってはいなかった。だが、冗談で期限を三日にしたらお前が喰い付いてきたからな、乗ってやったまでだ」

「つまり、最初の『三日以内に全部読め』、は冗談」

「そうだ」

「それを本気にしたあたしが面白かったから、からかった結果、『三日で三冊』の条件をあたしは自分で出しちゃった」

「そうなるな」

「つまり、この三日間はあたしの一人相撲だったと」

「はっ。いい例えだな」

 信長は面白そうに笑う。

 その顔を見て、蝶夏の頬は引きつった。

「あ、あたしのあの努力はなんだったのよ! そして、さっきまでのあの、緊張感は?!」

 両手を広げて、興奮していることを示す蝶夏を室内に押し込め、信長は障子を閉める。

 ノーストレス社会! と言いながらこめかみを押さえる蝶夏に聞く。

「それで、どこまで進められたんだ」

 項垂れていた蝶夏は、胡坐あぐらをかいて冊子を広げる信長に「その、栞挟んであるところまで」と指差す。

「結構進んだな」

 ぱらぱらと捲りながら感心したように言う。

 その正面にすとん、と蝶夏は腰を下ろした。

「方輔も、そう言って褒めてくれたよ」

「あれはいい教師か?」

「うん。丁寧に教えてくれるし。気晴らしにも付き合ってくれるしね」

「そうか」

 穏やかに話す信長に、蝶夏は結構勇気を出して聞いてみた。

「ね、あの期限が冗談だったら、罰則みたいなものも無い、よね?」

「まあ、そうだな……」

 そこまで言って、彼は顔を上げた。

 蝶夏の情けなくも眉尻の落ちた顔を見て、苦笑する。

「そんなに嫌だったか?」

「誰が好き好んで貧血になりたがるってのよ」

「まあ、そうか」

「そうよ」

 沈黙が二人の間に落ちる。

「………………」

 用が無いようならそろそろ寝たいなあと、蝶夏は上掛けに視線を走らせた。今日は死刑宣告ならぬ、罰則の言い渡しを待つ為に普段より遅くまで起きていた。

 我ながらなんて自虐的な事やっていたんだと嘆息する。

 その嘆息に反応したのか何なのか、信長が口を開いた。

「蝶夏、お前生娘(きむすめ)だな」

「は? 木結び? 何結ぶの?」

「違う。処女かと聞いている」

「…………………………………………はあっ?!」

 これまでに無く、蝶夏の瞳は大きく見開かれていた。

「なんんななななななになに、嫁入り前の乙女に聞くな! そんな事!」

「嫁入り後ならいいのか」

「嫁入り前も後も無いわよ! 聞くな! そんな事!!」

「まあ、その反応だけで十分だな」

 蝶夏の真っ赤に染まった顔を眺めて信長は言った。

「あああああああああああああああああああ」

 恥ずかし過ぎて、蝶夏はそのまま床に突っ伏す。

「なんて事聞くのよう~。どうせあたしは彼氏いない歴十六年よう~」

「カレシ?」

「んーと、恋人、かな」

「お前恋人もいないのか」

「悪い!?」

 床に両手をついて身体を伸び上がらせると、信長との距離が少し縮まった。

 激昂した蝶夏はそれに気付かず、彼を睨み付ける。

「悪くはない」

 肩膝を立てた信長は、口元に手をやっていて、蝶夏からはその表情ははっきりしない。

「でも、いいの! 今恋人募集中だもん。そのうちできるはず! ……多分、できる、と思いたい」

 尻すぼみに消えていく蝶夏の台詞を聞きながら、少し愉快に思えていた気分が冷えていった信長は、目をすがめて言った。

「罰則を決めたぞ」

 その声は冷たかった。

 言葉の意味を捉えるより先に蝶夏はその声の冷ややかさに身体を揺らした。

 ひやりとした感触が蝶夏のおとがいを捕らえる。

 薄暗い部屋なのに、蝶夏の顔に影が落ちた。

 影の正体を掴もうと顔を動かそうとした蝶夏の動きを、顎を掴んだものが押さえ込む。

 彼女の唇に柔らかいものが触れた。

 それは、強張りを見せた蝶夏の唇をなぞるように掠めていく。

 僅かにそれが離れた時、蝶夏は熱を持った吐息を感じた。

 影が蝶夏の顔から離れていく。

 頤を掴んだ指が、頬を撫ぜて離れていく。

 近すぎてわからなかった顔がはっきり見えてきた頃、蝶夏の右手が彼女の意思より早く空を切った。

 ぱしんっ

 部屋に乾いた音が響く。

 蝶夏は、目を瞬いた。

「なんで、なんでけないの?」

 信長の頬を打った右の手の平がじんじんと熱を持ち始めた。

 叩かれた姿勢のまましばらく動きを止めていた信長が、左の唇の端を指で拭いながら答えた。

「綺麗に入ったな」

「そんなこと聞いてない! 叩かれるのなんか、わかってたはずでしょ? なんで素直に叩かれんのよ。不気味!」

「言うに事欠いて『不気味』とはなんだ」

 信長の赤い舌が唇の端をちろりと舐める。切れていた傷はあっさりとふさがるだろう。

「だって、…………不気味なもんは不気味なのよ」

 蝶夏は視線を揺らして下を向くが、すぐにきっと信長を睨んだ。

「なんでこんな事すんの? 罰則にしては酷過ぎ! あたしファーストキスだったんだから!!」

 ファーストキスの意味が分からない信長は無言で首を傾げる。

 蝶夏はその疑問に答える。

「初めてのち、じゃない、キスよ!」

 うっかりアニメソングの題名を口にするところだった。

「キスとはなんだ」

「あ、あれよ、口がどっかにさわることよ! それで、ファーストキスだと大抵口と口よ。ってなんであたしはこんな事説明してんのよ!!」

「ああ。口付けとか接吻せっぷんのことか」

「おあああああああ。なんかその言い方、余計に恥ずかしい~」

 蝶夏はもはや耳まで真っ赤だった。顔中が熱くてたまらない。

 両の手の平で交互に顔を仰ぎながら、何とか信長と向かい合う。

「だからっ、なんでっ、こんな事したのよ!」

「中々いい響きだな」

「なにがっ?!」

 まるで蝶夏の質問とは違うことを口にする信長に、彼女はキレ気味だ。

「キスだ。口付けより余程いい」

「あああああんたの好みなんか聞いてないわよぉ!」

 話は信長に操作されてどんどん本筋からずれていく。

 もちろん蝶夏は気付かない。

 おもむろに信長は蝶夏の髪を一筋掬い、唇を寄せる。

「これも、キスで合っているか?」

 にやり、と上目遣いで蝶夏に笑みを見せた。

 ぱくぱくと蝶夏の口は上下すれど、言葉が出ない。数日振りの凄まじい色気が放たれていた。

 その姿勢は暫く続いたが、やがて、信長の肩が揺れ始めた。

「くっくっくっ………………」

 堪えきれなくなった笑いに、彼は瞳を伏せて口元を押さえた。

 またしてもからかわれたと知った蝶夏は、上掛けを掴んで、塊のまま目の前で笑う男にぶつけてやった。

「こんの、大馬鹿!!」

 もう片方の上掛けを掴んで敷布の定位置で蝶夏は亀になって不貞腐ふてくされた。

 ぶつけられた上掛けを腕一本で払い除けた信長の大笑いが、夜の寝室に、短くはない時間響いていた。









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