八、期限付きの課題図書と癒しの効果
翌朝、蝶夏が目覚めると信長は既に隣にはいなかった。
とりあえず、挨拶をする相手が居なければ蝶夏のあの変な挨拶は発動しない。ぱたん、と再び横になり、覚醒を待つだけだ。
「蝶夏様?」
茅乃の呼び声で飛び起きる。
「ふわっ。朝だ……」
障子を開けて茅乃に向き合う。
「おはよう。茅乃」
「はい。お早うございます。よく眠れましたか?」
「え~と」
昨晩のことを蝶夏は思い出した。羞恥心と怒りがにわかに胸に沸く。
両手で顔を覆ってうなだれる。多分、赤いから。
「ううう。多分、よく眠れたと思う、よ」
唐突に様子の変わった蝶夏を見て、茅乃は「あら」と思った。何かがあったことは明白だ。今日の(茅乃の)機嫌は上登りしていく。
「それはようございました。ささ、お召し替えに向かいましょう」
真っ先に顔を洗いたがる蝶夏を引きずって茅乃は着替えを優先させた。
「今日は茜色のお着物にしてみました!」
そう言った茅乃が広げたのは暗めの色調の赤い小袖だ。緑の茎が下から伸び上がり、黄色い小さな花を咲かせる大胆な模様だ。
「茜ってこういう色なんだ」
「ええ。蝶夏様が昨日お会いした茜丸の名もここから来ております」
「目の、色?」
「あら、ご覧になりました? 光の加減でそう見えるようなので、信長様が名付けられた時は誰もが首を傾げたものでした」
どうやら茜丸の名付け親は信長らしい。
着せる方は元々慣れていたが、着せられる方も大分慣れてきて、話をしながらも着替えは進んでいった。
身支度が完了した蝶夏は食事に向かう。
部屋の前では既に方輔が座っていた。蝶夏に気付くと、居住まいを正して挨拶する。
「お早うございます。蝶夏様」
「お早う、方輔」
蝶夏が手を伸ばす前に彼は障子を開けてくれた。
中には膳が一つ置かれているだけで、信長の気配は無い。
「信長様は既に食事を済まされ、仕事に向かわれましたよ」
部屋の中を見回している蝶夏に茅乃が説明をくれる。
「あたし、寝坊した?」
時計が無いため、時間の感覚が薄いなあと思いながら尋ねると、茅乃は首を振った。
「いいえ。信長様が無理に起こすなと仰られたのです。それに、元々信長様は朝がお早い方です。茜丸の世話も基本的にご自分でされておりますし」
別に蝶夏だって彼が怠惰だとは思っていなかったが、それでも足りないくらいに信長は勤勉らしい。
蝶夏が食事を半ばまで平らげると、廊下をどたどたと歩く足音が聞こえた。
方輔が外から障子を開け、足音の主である信長はさっさと部屋に足を踏み入れた。
座る蝶夏の目前にくると、どさどさと彼女の脇に書物を積んだ。
箸を持ったままあんぐり彼を見上げる蝶夏を見下ろして言う。
「とりあえず三日以内にこれを全て読め」
理不尽な要求が、否、命令が下された。
蝶夏はぼんやりと箸を置き、一番上の一冊を手に取る。表紙にはこう書かれていた。
『論語』。
「わあー。漢文だー」
抑揚の無い声で呟く。
ぱらぱらと捲った中身は見事に漢字だらけだ。みみずののたくった様な御伽草子のかな文字よりはまだ判別がつきそうな文字がある。
しかし、けして薄くは無い。さらに下にはまだまだある。
「三日なんて無理!」
こちらを見下ろす信長を振り仰いで叫ぶ。
「っていうか、むしろ、一年かけても微妙!」
言い切る蝶夏に信長は片眉を上げる。
膝をついて耳元に顔を寄せると、囁いた。
「それでもいいぞ。一日伸びる毎に俺の楽しみが増えるだけだ」
ひやりと冷たい指先が蝶夏の耳朶に触れる。
体を走る震えにびくりと体を揺らした蝶夏は、横目で信長を見る。
彼の瞳には僅かに金の輝きが揺れ、その目と仕草で求めるものがはっきりわかってしまう。
耳朶に触れていた指先がそこを離れ、首筋へと下る。
「それとも、こちらの方が罰則に相応しいか?」
傷跡一つない、出会った日の昼と夜に牙を穿った辺りを擦る。
内心、ひぃーっと叫びながら、蝶夏は待った。反撃の機会を。
手の中で冊子が歪む。
くつくつと笑いながら信長は身を離す。
「言っておくが、冗談で済まさんぞ」
「ええいっ、せめて三日で一冊にしてよ!」
譲歩を求めて、信長に『論語』を突きつける。
冊子を持つ手が握られ、顔の前から退けられる。
「それは譲りすぎだな。五冊だ」
負けじと蝶夏も言う。
「……ん~。二冊!」
「四冊だ」
「わかった、三冊!」
「いいだろう」
やったあ。勝った。
諸手を上げて喜ぼうとした蝶夏は我に返った。
「………………あれ?」
取り敢えず、手の中の内容を覗き見る。
「………………」
直ぐ下の『平家物語』を手にとってこちらも中を捲る。
「あれー?」
にやりと、信長の唇の端が上がる。
「自分で言い出したことだ。きっちりやってもらおうか」
ぶるぶると両手を震わせた蝶夏は、おもわず手に持った二冊をぼとりぼとりと床に落としていた。
「は、は、………………」
ハメられた――――――――――!!
蝶夏の後悔がたっぷり詰まった叫び声が響いた。
廊下でそれを聞いていた方輔は青い空を振り仰ぐ。
「今日も、いい天気だ……」
さて、ハメられた蝶夏は障子を開け放った部屋で机に向かっていた。
一度足を痺れさせてからはちまちまと体勢を変えて、再度そうなる事を防いでいた。
「…………アノヤロウコノヤロウバカヤロウ」
先生役を務める方輔は、蝶夏の呟きにふと手を止めた。
朝から始めて、既に一辰刻(二時間程)が過ぎている。
良く頑張っている方だと方輔は思う。囲碁を教えている時もそうだったが、この少女は興味の有る事に関する集中力は強い。だから、この『論語』の内容には興味があるのだろう。ただ、勉強嫌いが板に付いてしまっているのだ。
だが、気になる事がある。時折、対象が信長と思われる恨み節が口から漏れるのだ。自覚があるのか無いのかわからない。
「ううう。もう駄目! 煮詰まった!」
そう言って蝶夏は机に突っ伏した。
「蝶夏様、休憩しましょう」
方輔が提案すると、むくりと起き上がる。
「はい。先生!」
蝶夏は右手をすっくと伸ばして彼に向き合う。
勉強を教えてくれるのだから、彼は蝶夏の先生である。最初は断られていたが、勉強中だけはと無理矢理押し切ってそう呼んでいる。
そして、要望を伝える。
「心を癒されに行きたい! です」
「はあ? 心を癒されに、ですか? どちらへ?」
方輔は戸惑いながら尋ねる。
場所までは深く考えていなかった蝶夏は拳を唇に当てて考えた。
心の癒しといえば、子どもか小動物だよねぇ。
「ねえ、方輔。信長って子どもいないの? 子ども!」
「は、……はあ!?」
方輔にしてみればかなり唐突な蝶夏の質問に、彼は目を見開いて驚いた。
だが、直ぐに落ち着いて答える。
「え、ええ。まだ信長様にお子はいらっしゃいませんが……。それが、何か?」
「う~ん。癒しアイテム候補が一個消えちゃったなあ。あ、家臣さんの子どもとかは? いない?」
「いえ。出仕し始めるのは十歳前後からですので、小姓の中にはそのぐらいの者もおりますが、家臣の子どもを城で養育することはしておりません」
「託児所無しか。子どもは却下ね」
出来れば六歳以下がいい蝶夏は、心の中で『子ども』の欄に×印をつける。
「じゃあ、動物は? いる?」
この質問には肯定の頷きが返る。
「はい。鶏を飼っています。それから、そうですね。後は昨日、蝶夏様も行かれた厩ですね」
蝶夏はぴんと来た。
そのまま、勢いを付けて立ち上がる。
「茜丸だ! 茜丸に会いに行こう!」
腰を浮かせた方輔の前に再び座り、正座をする。
「厩なら行ってもいいかな? 駄目?」
「あまり出歩かせるなとは言われておりますが……。わかりました。茅乃殿が戻られたら私が伺って参ります」
「え。めんどくさくない?」
「いいえ、それがお役目なれば」
柔らかく微笑んで、方輔は首を緩く振った。
「そう? じゃあ、お願いしようかな。ありがと、方輔」
蝶夏もその笑顔に笑い返した。
いつも他の人間(主に茅乃)に笑い掛けているのは脇で見ていたが、方輔が少女の笑顔を目前で見たのはこれが初めての事だった。
なんと健やかに笑う方だろうか。
そう思った。
用事を済ませた茅乃が蝶夏の元に戻ってきたのは、更に一刻(三十分程)が過ぎた頃だった。
勉強を休憩して、蝶夏と方輔は詰め碁をしていたが、茅乃が戻るや中断した。
茅乃に経緯を説明して、方輔は部屋を出て行く。
「蝶夏様、茜丸にお会いしたいのですか?」
「うん。だって、癒されたいんだもん! もう漢字ばっかり見ていると目が疲れちゃうし」
そう言って蝶夏は自分の眉間を揉んだ。
その様子に柔らかく目を細めた茅乃は、机に積まれた冊子の一冊を手に取る。
「それにしても、まあ。見事にご自身の蹟のものばかりお持ちになったのですね」
茅乃の言葉に蝶夏は首を捻った。
「自身のて?」
「ええ。こちらの書物は皆、信長様が写されたものですよ」
「写すって、まさか全部書き写したってこと?!」
驚いた蝶夏は、碁盤に向かい合っていた体を茅乃の方に向けて身を乗り出した。
茅乃は動じず頷く。
「ええ。そうですよ。これらは全て書き写したものですよ」
「手で?!」
「…………手以外でどうやって写すと言うのでしょう?」
苦笑しながら茅乃は言う。
「あう」
その通りだ。この時代の日本に印刷技術など無いだろう。
蝶夏は一冊手に取って、頁を捲る。
蝶夏の毛虫が千切れたような(墨を含みすぎて滲んだ為)文字とは大違いだ。
なんだあいつ。完璧人間か?
面白くない気持ちが一杯で、蝶夏は心の中で呟いた。
「茜丸に会いたいだと?」
領地の村々から上がってきた報告書を片手に方輔の話を聞いていた信長は、怪訝そうに呟いた。
隣で机に向かっていた勝三郎も首を傾げる。
「あれ? 蝶夏殿と茜丸って仲悪くなかった? 昨日の帰りなんてぜーんぜん喋ってなかったのに~」
そう。茜丸の蝶夏を軽んじる態度は一日中続き、帰路などは完璧に無視状態だった。那古野城で信長に下ろされた時、蝶夏は真っ先に茜丸にお礼を言ったが、「は? 礼なんて当然だろ?」的な見下した視線に蝶夏は地団駄を踏んだものだった。
「あの状況を味わっておいて、な~んでまた会いたいとか思うんだろ?」
「それが、城に子どもが居ないとなると、癒されるには動物でなくてはいけないと仰られ……」
まさか蝶夏に問われた事を赤裸々に話す訳にもいかず、方輔は適度に誤魔化した。
「ほう?」
しかし、信長は器用に片目を細めて方輔を眺める。
特段悪い事をした訳ではなくとも、この見透かすような瞳は心臓に負担が掛かる。
方輔は背中にじわりと汗が滲むのを感じた。
「まあ、いいだろう」
信長の視線が外れ、肩の力が僅かに抜けた。
「好きにさせろ。但し城外には出すな」
「はっ」
一礼をして部屋から去って行く方輔の背中から、手元の書類に関心を戻した信長に、幼馴染が声を掛ける。
「ほーすけ君は随分忠実に蝶夏殿に仕えてるんですね~」
「あれは小姓の中でも出来の良い方だぞ」
時折手元の帳面に何事か書きつけながら、信長は答える。
「へ~え。そんな優秀な子を蝶夏殿につけちゃうなんて、我が主は一体何を考えてるんです?」
完全に仕事の手を止めて、勝三郎は問う。
常にふざけた様子を崩さないこの男が、珍しく真剣に聞いてきた。
口調はいつも通りだが、その瞳には答えを促す強い意志がある。
乳兄弟の何時に無い様に、信長も手を止めて顔を上げる。
しばし、時を置いて、にやりと笑う。
「いずれわかる」
「また~それ~」
気が抜けたように勝三郎は机に突っ伏した。
真面目に聞いても、答えたくないかその時期では無いと判断した事には梃子でも答えない。それが信長のある種厄介な面であった。
くつくつと笑いながら、彼は言い足す。
「だが、結局どうなるかを決めるのは蝶夏と、そして俺だ」
顔だけ上げて主を見上げた勝三郎は、夏の空を射抜くように見つめるその瞳に期待めいたものを見た。
夜半、蝶夏は寝室で唸っていた。
茅乃が灯した明かりの下で、また小卓に向かっているのだ。
しかし今日は日記を書いている訳ではない。というか、そんな余裕は無い。
「し、しこうにいっていわく、……おんな?」
文章中にある『女』の文字に首を傾げる。
いや、違う読み方だったはずだと傍らの帳面を捲る。二、三頁の辺りで目的の文字が見つかった。
「あ、『なんじ』か。でも、『なんじ』ってさんずいいらないのかな?」
呟きながらも、先に進もうとするが、いい加減目が疲れてきた。
「やっぱり暗いなあ~。って言うか、これじゃあ全然進まない!」
机の端に額をつけて頭を抱えた。
「いや、思ったより進んでいるな」
背中から声が聞こえて蝶夏は飛び上がった。
振り向けば案の定、信長がいる。
「毎回毎回、なんでそういう登場のしかたすんのよ! 心臓が喉の奥から『コンニチワ』って言って出てきたらどうすんの!? ああ、夜だから『コンバンワ』だ!」
喚く蝶夏に信長は端的に答える。
「慣れろ」
そう言って、彼女の脇から腕を伸ばした。その手は、先ほど蝶夏が捲っていた帳面を手に取る。
ぱらぱらと流し読み、蝶夏に尋ねてくる。
「なんだこれは」
蝶夏は僅かに胸を張って答えた。
「作りかけの読み仮名表よ!」
「読み仮名?」
「あたしの知らない読み方が結構あるんだもん。だから読めない文字は片端から書いていってるの」
「ほう。便利は便利だろうが……。効率が悪いな」
蝶夏も薄々思っていたことをあっさりと信長は言い切った。
「ううう。あたしもちょっと思ってたんだよね。だって全然先に進めないもん。」
う~ん、時間が足りない~。
そう思って再び頭を抱えた蝶夏に、声が掛かる。
「読んでやろうか?」
「え?」
顔を上げると、見上げる位置にある端正な顔がこちらを見下ろしている。少し、唇の端が上がっているだろうか。
「ええ?」
何を言い出すんだ、と蝶夏が警戒して少し身を引くと、察した信長が口を開く。
「今回は、貸しに数えないでやるぞ」
「………………どういう、風の吹き回し?」
未だ警戒を解かずに蝶夏は聞く。
帳面を机に戻した信長は、少し斜め上を見上げる。返答を考えているらしい。
「そうだな……。余りにもこちらに余裕が有り過ぎるから、といった所か」
どういう意味かわからず、蝶夏は首を傾げる。
「三日で三冊だろう。だが、一日目の今日は『論語』が終わってもいない。これを余裕と言わずして何を余裕と言う?」
「つまりあたしが思いっっきり不利って言いたいのね!」
「そうだ」
「はい、はい、はい。あたしは今のところ思いっきり不利ですよ! だから、使えるものは信長でも使うわよ!」
開き直った蝶夏は『論語』の冊子を信長に押し付けて、自分は上掛けを掴んで布団に横になる。
「……なんのつもりだ。寝るのか?」
「睡眠学習!」
「なんだって?」
冊子を手にしたままこちらに歩み寄る信長を見上げて、蝶夏は言う。
「寝入る時から寝ている間に、聞いたことを記憶する学習方法よ。あたしは寝る。信長はその間それを読む。完璧!」
蝶夏のすぐ横に、呆れ顔の信長が胡坐をかく。
「あ、そうだ」
がばりと蝶夏は起き上がる。
傍らの信長に視線を合わせる。
「こんな暗いのに読める? 目、悪くしないの?」
「夜目が効くと前に言っただろう。だから読む分には問題無い。視力のことなら、……そう言えば、下がったことが無いな」
「なに、その便利体質!」
ずるいずるいと言いながら、蝶夏は再び横になった。
ちらりと信長に視線を送れば、小さく嘆息して冊子を開いた。
よし寝るぞ、と蝶夏も瞳を閉じる。
「子、子貢に謂って曰く、『女と回とは孰れか愈れる』。対えて曰く、『賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以って十を知る。賜や一を聞いて以って二を知る』。子曰く、『如かず。吾、女に如かざるを与さん』」
蝶夏の耳に届く響きは、川の流れの様に涼やかで滞ることが無い。意味は相変わらず全くわからないが、頭に、というよりも体全体に染み入るような感覚がした。
翌日から二日というもの、蝶夏は信長に会うことがなかった。
朝起きれば既に仕事に出、夜は蝶夏が眠ってから戻って来ているようだ。というのも、蝶夏が小卓に置きっぱなしにしている書物に触れた痕跡があるからだ。
「まさか、本当に睡眠学習に協力してくれてるの?」
午前中の勉強を切り上げて厩に向かう途中で、蝶夏は頭を悩ませていた。
「何か仰いましたか?」
背後を歩く方輔がその独り言に反応を返す。
「ううん。ただの独り言」
少し振り返り、何でもないと首を振った。
また前を向いて歩き出す。
実は今日が『三日で三冊』の期限日なので、蝶夏は焦っていた。
ゆっくり歩いていると、頭は勝手に余計なことを考える。
こちらに来て一日目と三日目の夜を思い出して蝶夏の頬は微妙に赤く染まる。被衣を深く被り直す。
だだだだめだ。こんなこと考えてるとまた何にも手が着かなくなるぅぅぅ。
蝶夏は頭をぶんぶんと激しく振って、足を早めた。
無心。無心で歩くのよ、蝶夏!
今日で三度目の蝶夏の不審行動に、方輔も黙って従う。
信長にハメられて三日の期限を決めていた時に同席していた彼も、薄々蝶夏の不審行動の原因は感じていた。
転ばれないといいが……。
慣れてきてはいるが、草履を履いて歩く蝶夏の足下は時々怪しい。だから、方輔は進行方向に躓くようなものは無いか注意しながら彼女の後ろを小走りに行く。
と、蝶夏の足が止まった。
方輔も足を止める。
彼女はその場で近くにある高井楼を仰ぎ見る。
ひらりと片腕を上げて、上にいる二人の見張り番に手を振る。
「お疲れさま~」
それを見て、二人は会釈を返す。
再び歩きだした蝶夏は腕を組む。
「う~ん。反応がイマイチだ」
不満げな蝶夏に、方輔は昨日からの疑問をぶつけてみた。
「一体何をなさっているのですか?」
「ん? 挨拶」
端的に答える蝶夏に、方輔は少し肩を落とす。
「いえ、それはわかります。何故、見張り番にまで声を掛けるのかと思ったのです」
「それはね~。根回しよ!」
立ち止まり、振り向いた蝶夏は、目前に立つ少年に人差し指を立てて力説した。
「あたし、あの井楼に登ってみたいの。でも、あの人たちはお仕事をしている訳だから、邪魔しちゃ駄目だと思うのよ! だから、邪魔にならないように、親しくなっておいて、お邪魔しようと思ってるの。……あれ、結局邪魔はするのかぁ」
どうしよう、根本の計画に穴があった。と蝶夏は立てたままだった人差し指で額を突いた。
「そのようなことなさらずとも、信長様に頼んでみられてはいかがですか?」
方輔の言葉に蝶夏は顔を顰める。
「だって、それじゃあ、借り作っちゃうじゃない? あたし、これ以上作りたくないし」
「借りだなどと……」
「言う。絶対言う。そんで、また…………」
結局、想像の行き着く先は先程と同じで、蝶夏の頬が熱くなる。
「も、もう、この話はいいよ! 早く厩行って、早く戻って勉強しなきゃ!」
「は、はい」
被衣を捲きつけるようにして顔を隠した蝶夏は、止めた足をせかせか動かして歩き出した。方輔も素直に従う。
大して時間も掛からずに厩につき、蝶夏は入り口を通り抜ける。
真っ直ぐに茜丸の居る小部屋に向かう。
「茜丸! 来たよ~」
覗きこむと、もぬけの殻だった。
「あれ?」
「いらっしゃいませんか?」
後ろから方輔も覗き込む。
「やあ、お嬢ちゃん。今日も来たのかい?」
二人の背後から人が近寄って来て、そう言った。
厩の管理を任されている六介という小男だ。皺だらけの顔のこの男は、五十代程で、馬の扱いに掛けては随一の腕を持っているらい。気難しく、信長以外に手も触れさせない茜丸が、唯一この六介にだけは世話を許すと言う。
「あ。おはよう。茜丸どうしたの?」
蝶夏が聞けば、六介は「おや知らんのかい」と意外そうな顔をした。
「今日は朝から信長様と出掛けとるぞ?」
「へえ。今日出掛けてるんだ。方輔知ってた?」
首を傾げて傍らの少年に聞けば、彼は首を振った。
「いいえ。恐らく急に決まったのでしょうね。他の小姓たちも何も言っていなかったので」
「おお。そうじゃ、そうじゃ。ばたばたとしとったしなぁ」
「ってことは、信長が帰ってくるまで茜丸いないのか……」
蝶夏はがっくりと肩を落とす。これで午前中の癒しタイムは無くなってしまった。
「昼には戻るといっとったから、午後に来た時にはおると思うぞ」
励ますように六介が教えてくれる。
蝶夏は昨日、茜丸に会いに午前と午後に厩を訪れていた。もちろん今日もそのつもりだ。
「じゃあ、午後にまた出直してくるね!」
嬉しげに笑って蝶夏は踵を返す。
隣の小部屋に居た葦毛の馬が顔を出しているものだから、その鼻面を少し撫でてやった。
午後になって、再び蝶夏は方輔と共に厩へと向かった。
近づいていくと、何か騒がしい。厩番の男達が数人、馬場(乗馬などの訓練場)に出ている。鋭い嘶きと、蹄が地面叩く音が響く。
六介の背中を見つけた蝶夏が近づくと、彼は傍の若者に指示を飛ばしていた。
「すぐに信長様をお呼びしろ、あれはもう信長様で無いと収まらないぞ!」
指示を受けた若者が馬場を避けながら走り去った。
「何? あれ、茜丸?」
蝶夏が尋ねると、六介は弾かれた様に振り向いた。
その奥では茜丸と思しき巨躯が前足を振り上げては地面に叩きつけている。土ぼこりが立って視界が悪いが、もう一頭馬がいるようだ。
「お嬢ちゃん。悪いが下がっていてくれないか? 茜丸の気が立って酷いんじゃ」
蝶夏は目を凝らす。
茜丸の蹄が、もう一頭の馬の脇腹を擦るのが見えた。やられた葦毛の馬は傷つけられた痛みに膝を折り、悲しげに嘶く。
「なにあれ、一方的じゃない」
「並みの馬じゃ茜丸の力にはかなわんよ」
「あの子が悪い事したっての?」
「いやいや。戻ってきた茜丸を厩に戻したら、急に不機嫌になってなあ。儂の手を振り解いて、あやつを追い掛け回したんじゃよ」
「………………」
蝶夏はそれを聞いて腹の中がムカムカした。
「それって、つまり弱い者イジメじゃないの」
低く言えば、六介が肯定した。
「ははあ。確かにそうなるの」
「……蝶夏様?」
方輔が問い掛けた時には蝶夏はもう動き出していた。
一方、六介の使いを名乗る若者に呼び出された信長は、直ぐに馬場に向かっていた。
厩に茜丸を戻して間もなかった為、僅かな時間で戻れた。
そこで、少女が土埃の舞う馬場の柵に手を乗せている姿が見えた。
「あれぇ。蝶夏殿、何して……」
信長の背後でその存在に気付いた勝三郎が声を漏らすと、少女は腰よりは低い高さの柵をひらりと乗り越えた。勢いで飛ばされた被衣がゆっくりと地に落ちる。
その背後で方輔が何事か叫んでいる。少女を止めようとしている事は確かだ。
柵を乗り越えて馬場に降り立った蝶夏は、深く息を吸った。
そうして、怒鳴る。
「いい加減にしなさい、茜丸!!」
再び足を振り上げようとしていた茜丸は赤い瞳を蝶夏に向ける。膝をついて項垂れていた葦毛の馬も大声に驚いて彼女を見ていた。
「弱い者イジメなんて、恥ずかしい真似してんじゃないわよ!」
苛立たしさと、少しの失望を込めて蝶夏は茜丸を叱り飛ばす。
「ほらっ」
手を伸ばせば、茜丸はこちらをじっと見つめてくる。
かちりとぶつかった赤い瞳は、不満と苛立ちのような色を浮かべている。
その意味のわからない蝶夏は視線を逸らさずに、僅かに首を傾げる。
ゆっくりと茜丸は歩を進め、やがて蝶夏の目前までやってきて、彼女の伸ばした手の平に鼻先を擦りつけた。
その瞳は、常に蝶夏に向けられている。
「どうしたって言うのよ。あんた、こんな事しない子でしょ?」
昨日の午後に彼の元を訪れた時、厩の馬達は皆馬場に出されて運動をしていた。
他の馬達が群れている中、茜丸は一頭、黙々と運動していた。
その躍動する身体が綺麗だと思ったから、「あんた、凄く綺麗なんだね」と、珍しく自分から近寄ってきた茜丸にそう言った。すると彼はなんと、蝶夏の胸の辺りに顔を押し付けて甘えて見せたのだ。
その場にいた者達は大層驚いていたが、蝶夏としてはお土産に持っていった蜜柑の効果だと思っていたりする……。
件の蜜柑を茜丸に食べさせていると、他の馬も寄ってきた。茜丸はその時、物凄く迷惑そうな顔をしていたが、決して追い払ったりはしなかった。まあ、蜜柑は食べきってしまったけれど。
むやみやたらに乱暴に振舞う訳では無いと知った為に、蝶夏は今の茜丸の行動が解せなかった。
「茜丸?」
擦り付けられた鼻先から、鼻筋を撫で上げると、昨日の様に胸元に顔を押し付けてくる。
両手で抱えるようにして顔を撫でていると、ぐいぐいと押された。
蝶夏はよろけて数歩後ろに下がった。
すると、とん、と背中が何かに当たった。
驚いた蝶夏が首を逸らして見上げると、頭上に太陽の光を背負った信長がいた。
彼は、茜丸の顔に添えられていた蝶夏の左腕を掴むと、吊り上げるようにして、力任せに蝶夏を自分に向き合わせた。
「…………ぃった」
その腕の強さに蝶夏は小さい悲鳴を漏らして、再び彼を見上げた。
「この阿呆がっ」
怒声が馬場に響いた。
茜丸が数歩後退して踏鞴を踏む。
蝶夏は、ぽかんと口を開けた。
「気を荒立てた馬を相手にして何を考えている! 茜丸の一踏みでお前など死に至ってもおかしくないのだぞ!!」
蝶夏は大きく見開いた瞳で、信長を見つめて、それから傍らの馬を見上げた。
……あの身体が圧し掛かってきたら、あたし、ぺっちゃんこだ。
言われて初めてそんな危険性に気付いた。
信長に視線を戻せば、その両眼は未だ怒りに燃えている。
「わ…………」
蝶夏の呟きに、彼は目を眇める。
「……悪かったわよ」
ぽつりと、蝶夏の口から謝罪の言葉が零れ落ちていた。
今度は信長の方が目を見開いた。
その仕草が極端に「予想外だ」と言っているものだから、蝶夏は唇を尖らせる。
「あたしだって、反省ぐらいするわよ。い、今頃怖いことをしたんだって、思いはじめてるわよ!」
バツが悪くて、蝶夏は俯く。
握っている細い腕が、小刻みに震えている事に信長は気付いた。
嘆息を一つついて、持ち上げていた腕を握ったまま下ろす。
「それで、お前は何故そんなに機嫌が悪かったんだ」
茜丸に向き合えば、まだ不満そうにしているのがわかった。
「それについては儂から説明させて頂いても宜しいですかな?」
唐突に掛けられた声に、蝶夏はびくりと身体を揺らした。
蝶夏が来た方角から六介が近づいてきていた。
信長が先を促すように顎を持ち上げる。
「お嬢さん、今日の午前中に厩で葦毛の馬に触ったろう?」
「え。あたし? ……多分、触ったかな。茜丸の隣にいた子だったと思うけど」
「それがあそこでひっくり返っている馬でしてね」
そう言って六介は馬場の端を指差す。
先程まで茜丸に散々な目に合わされていた馬が地面に打ち伏せていた。
「ありゃあ、信長様の怒気に当てられて気を失っとるわ」
「ええ? そんな、まさか」
「いやいや、馬は繊細だからの。ましてあやつは茜丸に肝を潰されかけ取ったしの」
蝶夏は元凶と言える一人と一頭を代わる代わる眺めた。
「で、結局、なんでそれで茜丸が不機嫌になるの?」
話の流れが読めた信長は口を噤むが、さっぱりわからない蝶夏は六介に先を聞く。
六介は一瞬くしゃっと顔の皺を深めたが、すぐに元に戻した。
「お嬢ちゃんは、なんて言うか、鈍いのう」
「むう。失礼な」
「……事実だろう」
ぼそりと信長が呟くが、どうやら二人の耳には届かなかったらしい。茜丸だけが、「同意」と視線を送ってきた。
「まあ、なんというかの。茜丸はお嬢ちゃんが他の馬に触ったから、嫉妬したんだと思うぞ」
「しっ、と……」
予想外の話に蝶夏は乾いた笑いを漏らした。
「あははー。まさか」
ねえ。と茜丸を見る。
当の茜丸がどこか諦めたような目で蝶夏を見ていることに、彼女自身は気付いていない。
「いや、あの、お嬢ちゃん?」
「……う~ん」
なおも言い募ろうとする六介に蝶夏は渋い顔をする。
「だって、嫉妬とか、あたしにする意味わかんないし。わかんないものは、とりあえず置いとくわ!」
ばっさりと悩みを切り捨てた蝶夏は胸を張った。
「うん。微妙に男前だね」
六介は感心したように言う。
「無駄に、の間違いだ」
信長のぼやきを完全に無視して蝶夏は茜丸に向き合った。
「いーい、茜丸。あんたはあの子に悪い事したんだから、ちゃんと謝んないと駄目よ!」
「茜丸は言ってしまえばここの馬達の頭領だよ。そんな事せんでも許されるぞ」
六介の言葉に蝶夏はきっぱりと首を振った。
「駄目よ。相手がどんな立場で、自分がどんな立場でも、悪い事をしたら謝罪するのよ。それも出来ないような奴が頭張っちゃ駄目!」
それから、眉尻を下げて、茜丸の顎を支えるように両手を添える。その瞳を覗き込んで、聞く。口元には自然と笑みが浮かんでいた。
「一緒にいってあげようか?」
蝶夏の手を振り払わないくらいの小さな動きで、茜丸は蝶夏の言葉に「否」を示した。
「いい子。また蜜柑持ってきてあげるね」
昔飼っていた犬にそうしたように、額と額を合わせようと顔を寄せると、ぐいっと襟首が掴まれた。
「……なに?」
蝶夏の襟首を掴める人間はこの場では、たった一人だ。
和んでいたところを邪魔された蝶夏は剣呑な表情でその『たった一人』に振り向いた。
「………………」
ところが、彼は蝶夏と同じくらい剣呑な表情を浮かべている。
内心で「えー、意味わかんない」と疑問符を浮かべた蝶夏がそれを表に出すより早く信長は彼女の身体を反転させた。
くるりと馬場の柵に向かい合わされたかと思うと、蝶夏の身体は持ち上げられて柵の向こう側にいた。
「お前は、もう行け」
振り向いて抗議しようとした蝶夏の耳元で囁く。
「期限は今日までだろう。それとも、諦めるのか?」
ぞわっと蝶夏の二の腕に寒気が走った。
今度こそ振り返って口を開いた。
「諦める訳ないでしょ! これからさっさと帰って勉強の続きよ!」
そう言う蝶夏に、顎をしゃくって「行け」と無言で言う信長に、彼女は思い切り舌を出す。
「じゃあ、行くね! 茜丸、六介おじさん」
乱暴に一人と一頭にだけ挨拶をして、蝶夏は馬場に背を向けて駆け出した。
展開に置いていかれていた方輔が、信長に一礼した後、被衣を抱えて彼女の後を追いかけた。
去っていく背中を呆然と見ていた六介は、ちらりと主を仰ぎ見る。
まだ少し不機嫌が残っている信長は、その視線に気付きながらも無視をする。
その怒りを図りかねた茜丸が鼻先をさ迷わせているものだから、驚かせない程度のちからで、ぐいと引き寄せた。
「それで、謝罪はするのか?」
主の問いに茜丸は不承不承の態で頷いてみせる。
それに低く笑いながら、もう一つ、台詞を口に乗せてみた。
「あれが、気に入ったか」
問い、というよりは確認に近かっただろう。
茜丸は彼の二の腕に鼻先を擦り付けただけだった。