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七、借りを返す、いや、返させられる

「よし、っと」

 日記を書き上げた蝶夏は筆を置いた。

 ふうふうと紙面に息を吹きかけ、乾いていることを確認してから冊子を閉じた。

 そのまま上掛けを持って、敷布の上、定位置と化してきた廊下側の端に座る。

「……待つか、待たないか」

 信長のことをだ。

「待ってあげる理由が無いか」

 蝶夏はあっさり思い切った。この判断は後から思うとあまりよくなかった。なぜなら、横になって直ぐに、冷えた手に上掛けの上から肩を掴まれたからだ。

「部屋の主を差し置いて寝るとはいい度胸だな」

 がばりと、蝶夏は飛び起きた。

「い、今、気配無かった、気配!」

 蝶夏は敷布の上で肩膝をついた信長を指差して叫んだ。

 誰も居ない部屋で横たわった次の瞬間に現れたのだ。

「ワープ!? 出来るの?」

 瞬間移動だ、と蝶夏は思った。

「阿呆。気配を消して動いただけだ」

 きっぱり否定された。

「ま、魔法使えるのかと思った……」

「そんなもの使えるか」

 あわやファンタジーな展開かと思っていた蝶夏は胸を撫で下ろすが、信長は呆れ顔だ。しかも、二重の意味で呆れていた。

「お前、やけにあっさりとこの部屋に入ったと思えば……。今朝、俺が言ったことを忘れているな?」

 今朝。

 美味しいお麩の味噌汁は覚えているが、他に何かあったろうか。

 考え込む蝶夏に信長はヒントをくれる。

 蝶夏の目元を人差し指でとんとんと叩く。

 蝶夏、これは貸しだ。

 信長の声が蘇る。

 ちゃんと返して貰うぞ。とも。

「………………」

 思い出した蝶夏は身の危険を感じた。やばい、まずい、と顔に思い切り出ていた。

 さっと後ずさろうとするが、もはや遅かった。目元を叩いていた指が蝶夏の首の後ろに回る。反対の腕が蝶夏の腰を掬い上げ、引き寄せる。

 信長の顔が目前に迫ったかと思えば、蝶夏は胡坐をかいた信長の膝の上に座って、抱え込まれていた。

「う、ええええええええええ???」

 蝶夏は混乱して奇声を上げた。

そんな少女の様子を喉の奥で笑いながら、信長は眺めている。

「安心しろ。今回は気絶するほど奪ったりはしない」

 全然安心できない。

「あんたへの、その辺の信用は皆無! かーいーむー!!」

 自由になる両手で彼の肩と胸を押し返す。

 しかし、首に回された腕のせいで距離は全く縮まらない。

 むしろ引き寄せられている。

「なにせ、危険人物第一号だしな?」

 からかう様な声が首筋を撫ぜる。

 びくりと体を震わせた蝶夏の耳朶に熱いものが這う。

「ひぅっ……?!」

 ひんやりとした手が首筋にあるせいで、しっとりと湿った感触のその熱はやけに熱く感じる。

 次の瞬間、硬いものが突き刺さるのを感じた。

「…………いっつぅ」

 思わず目を閉じた蝶夏の耳に、吐息と静かな水音が響く。

 信長の牙が蝶夏の耳朶を穿ち、血を啜っているのだ。

 首筋と違って、耳の血管から大量の出血が起こることはあまり無い。だからなのか、信長の舌は執拗に蝶夏の耳をう。自分がつけた傷跡を探る様に熱い舌がうごめく。

「ん、…………んんっ」

 蝶夏の頬はすっかり上気し、体の芯には寒気にも似た震えが走っていた。

 再びびりっとした痛みが耳に走った時、蝶夏は思わず足を上げていた。

 足の行く先は丁度信長の脇腹だ。

 しかし蝶夏の腰を支えていた腕があっさりと軌道を逸らしてしまう。寝巻きの裾が肌蹴はだけ蝶夏の太腿が半ばまでさらされる。冷たい指先が素肌に触れた。

「うぎゃっ、やだ、触んないでよ!」

 散々ミニスカートで晒しているはずなのに、着物の裾が肌蹴た時とは羞恥心が段違いだった。

 なんで、こんなに恥ずかしいのよっ。

 蝶夏は内心で叫んだ。

 ようやく蝶夏の耳元から顔を離した信長は機嫌良さそうに笑っている。

「お前は足癖が悪い。抱き上げた時もそうしていたな」

「わ、悪い?!」

 未だ動揺しながら蝶夏が悲鳴のように問えば、信長は表情を改めて言う。

「あまり他の男に足を晒すな…………」

 しげしげと蝶夏の足を眺めながら、何となく中途半端に台詞を止めた。

 耳まで赤くした蝶夏が「見るなっ」と言いながら裾を戻そうと奮闘していると、信長はしみじみと呟いた。

「お前、胸の方は良く育っているのに、色気が足りんな」

「なっ……!? なん!!!?!」

 何で知っている、と混乱のあまり聞けない蝶夏に信長はしれっと答える。

「あれだけ何度もかかえていて、気付かない方が妙だろう」

「気付いても言わないもんでしょ!」

 怒りを露わにする蝶夏に信長は意外そうに言う。

「何だ、気にしていたのか。色気が無い方か? 胸の方か?」

「この、馬鹿っ!」

 着痩せするタイプの為、蝶夏は胸のサイズを指摘されたことは無いが、実はDカップだ。女の魅力は胸と足(ヒップは除外)だと思いたい蝶夏としては、密かに自慢のサイズだった。

 それなのに、自慢の胸とセットで色気が無いことを指摘されたのだ。その衝撃たるや、かなり大きかった。

 涙目になりながら信長への攻撃手段を求めた。

「何も泣くことは無いだろう」

 胼胝たこが出来ているのか、細い癖にごつごつした指が再び蝶夏の目尻に添えられる。

 夜目の効く信長の目には蝶夏の赤く染まった頬も目尻に浮かぶ涙も全て見えていた。

「うるさいっ。乙女心は繊細なの!」

 彼への攻撃を諦めた蝶夏はぺちりと信長の手を払いのけた。

「だいたい、こんな目立つところに傷つけるなんて!ピアスホールでも開ける気なの?!」

 そう言って自分の耳に触れて、ぴたりと動きを止めた。

「あ、あれ? あれ?」

 何度も触れて確かめるがすべらかな肌の感触しかない。確かに信長の牙が突き刺さったはずの場所に傷跡が無いのだ。

「か、鏡……」

「この部屋には無いぞ」

 辺りを見回す蝶夏に信長が言う。

 そして、傍らに置いてあった愛刀を手に取ると、すらりと半身程抜き放った。もちろん蝶夏を抱いたままだ。

「わっ。急に武器とか出さないでよ。びっくりするなあ」

 刃を前にしても緊張感の沸かない蝶夏に「映るぞ」と刀身を示す。

 なにせ薄暗い為、蝶夏は顔を鈍く光る刃によく近づけた。

「あっほんとだ。映る」

 顔を横向けて耳を映す。やはり傷跡は無さそうだ。

 自分に背中を向けて刀身に見入っている蝶夏に信長は愉快そうに言う。

「俺が舐めたからだ。どうも傷の回復を促進したり腫れを引かせたりするように出来ているらしい。便利なものだ」

「へえ……。犯罪の隠蔽にぴったりだね。サイテー」

 蝶夏の目に軽蔑の色が浮かぶ。うっすらと刀身に浮かぶ男の姿を睨みつける。

 しかし信長は特に何も言わない。

 少しくらい反論してくると思った蝶夏は、ふと自分の言葉を反芻した。

 犯罪隠蔽……。

「あっ」

 ようやく思い至って自分の首筋に手をやった。ぺたぺたと上から下まで撫でてみるが、傷跡の感触など無かった。

「本当に今思い出したのか……。鈍いな」

「ぬ、ぐぅ……」

 言い返す言葉も無くうなだれる蝶夏に信長は追い打ちを掛ける。

「いや、鈍いんじゃなくて鳥頭なのか」

 確かに蝶夏は大抵の遺恨は次の日まで残さない。

 大らかとか心が広いとか言い様は色々あるが、要するに忘れっぽくて怒りが長続きしないのだ。

 これを称して、親友のひよりは「鳥頭」と呼んでいた。

 それをここでも言われるとは……。

 蝶夏はかなり凹んだ。

「ううぅぅ」

 呻きながら涙の滲んだ瞳を手の甲で擦った。

 あ。あんまり擦ると腫れちゃうな、とそう思った時、今朝全く瞼が腫れていなかったことを思い出した。

 ま、さ、か。

「な、ななな舐めたのぉっ? まぶた!!」

 刀を鞘に納めていた信長が目を細める。

「それも今頃気づくか」

 蝶夏はもはやその台詞に構ってなどいられなかった。

「ひえええええええ」

 寝間着の袖で目の周りを擦っていた。

 それを見た信長のこめかみにひきつる。

「親切でやってやったのに、いい態度だな」

「貸しだの借りだの言ってたやつがどの口で親切語るのよ!」

 激高する蝶夏をなだめるように信長はそのからだに腕を回す。

「あまり俺を怒らせるなよ」

 低く言い放つその声と、体に回った腕は、蝶夏にとって嫌がらせ以外の何者でもない。

「こんの、馬鹿!」

 放せー、放せーと蝶夏はじたばた暴れるが、大した効果は無い。

 肘で信長の肩の辺りを押しながら身を放そうともがく。

「大体、さっきので借り、返したでしょー! もう、寝る!」

「それもそうだな」

 そう言うや、彼はあっさり蝶夏を解放した。

 その場で横になり、目を閉じてしまった。

「…………」

 何とも変わり身の早いことだ。蝶夏はあんぐり口を開けてしばらく固まっていた。

「……寝よぅ」

 力無く言って、飛ばされていた上掛けを引き寄せる。

 しかし、敷布の脇に置かれたもう一枚の上掛けを見つけて思い切り顔をしかめた。

 世話になってるから、世話になってるから、と心の中で唱えながら広げた上掛けを信長に掛けてささっと距離をとる。反応が無いことを確かめて自分も横になった。

 

 信長に投げるように上掛けを掛けてきた後、蝶夏は某アニメキャラ顔負けの早さで眠りに落ちた。今日は一日出ずっぱりだった疲れが出たのだろう。

 沈黙していた信長は蝶夏の寝息を聞くや、ぱちりと瞳を開いた。金色の輝きが闇ににじむ。

 身を起こして、自分にかけられた上掛けを手に取る。

 それから背中を向けて眠る蝶夏に視線を移して困った様に笑う。

「どうしたらそんなに無防備でいられる?」

 蝶夏への問いが、ぽつりとこぼれた。



 すっかり夜も更けると、城内に残っている者は格段に減る。 

 信長の供を勤めていたため、一日分の仕事が貯まっていた長秀は、残ってそれを片づけていた。

「なーがひでどの」

 同じく供をしていた勝三郎が銚子ちょうしと杯を持って近づいてきた。

「勤務中だぞ」

 眉間に皺を刻んで言えば、「勤務時間は終了ですよ~」とふざけた返事が返ってきた。

「まあ、一献」

 笑みを崩さない男は、無理矢理押しつけてきた杯に酒を注ぐ。

 と、周囲にいた者たちが呼んでもいないのに寄ってきた。

「お。酒か? 酒だな?」

「オレにもくれ~」

 皆城に勤める武士たちだ。

「最初は長秀殿ですよ~」

 そう言って勝三郎がいさめる。

 自分が飲まねば他に回らない、と生真面目に考えた長秀は一息にぐいと杯を空けた。

 床に音を立てて杯を置けば、瞬く間に十数人の男たちの奪い合いになった。

 勝った男は勝三郎に酒を注がせている。彼の上役だったようだ。

「ところで、今日、お前等信長様のお供をしてきたんだろう?」

 敗者の一人が身を乗り出して尋ねてきた。

「はいはい。そうですよ~」

 信長にも乳兄弟という気安さからか割と不遜な態度を通す勝三郎も、これだけ同僚が集えば少しばかり態度を改める。

「で、どうだった?!」

「どう、とは?」

「萱津の件でしたら後ほど報告書をまとめて……」

 軽く聞き返す勝三郎と堅苦しく話し出す長秀に、他の男達が焦れる。

「違う違う! 信長様のお気に入りだよ!」

「見たんだろう? 会ったんだろう?」

「どんなむすめだ?」

 好奇心の固まりの様だ。

「姿は、今朝見たぞ」

 隅の方に座っていた男が言えば、皆そちらを振り向く。

被衣かずきを羽織っていて顔は見えなんだがな」

 その一言に、期待外れと顔に描いた者達が再び勝三郎と長秀に迫る。

「それで?」

「はあ。顔ですか? 顔は~可愛い方だとは思いますけどね~」

「………………」

 そういった浮ついた話が苦手な長秀は黙り込む。

「背は、割と大きい方ですねえ」

「信長様の肩くらいだったか?」

 先ほど蝶夏を見かけた、と言った男が口を挟む。

「そうですね。でも、な~んか、幼い感じですね。十六とか言ってたのになぁ」

「それに、口の利き方や態度がなってはいませんね」

 黙っていた長秀も口を出してきた。渋面の額に右手を添える。

「あはは。あれ、面白かったね」

「面白がっている場合か。信長様が許しておいでだったから黙っていたが、斬り殺されても文句は言えぬぞ、あれでは」

「そんなに酷いのか?」

「だが、茅乃殿が可愛がられていると聞いたが?」

「ああ。姉上ですね~。凄い可愛がってますよ。そのうち、目に入れても痛くないとか言い出しそうなくらいですよ」

「茅乃殿も礼儀作法には厳しいのでは無かったか?」

「姉上はですね、多分長期計画を立てていますね」

「長期計画?」

 場に居る男どもが悉く首を傾げる。

「今は許すけれど、徐々に厳しくしていくつもりですよ。姉上は、信長様の乳母だった母から薫陶くんとうを受けてますからね~」

「「「「「………………ああ」」」」」

 納得したような溜息が複数人の口から漏れた。

 信長に仕えるようになってまだ二年程の長秀には、その意味がわからなかった。内心首を傾げるが、表にはおくびも出さない。

「あ。でも、胆力はかなりのものですよ」

「胆力?」

「ええ。長秀殿が詰め所に行っている間に坂井大膳の生き霊がでたんですよ」

 なんとも明るく勝三郎は言ってのける。

 しかし周囲も深刻には捉えない。

「余程、萱津かやつで負けたのが悔しかったのか……」

「かなり執念深い男と聞き及んでおります」

 長秀と同時期に勤め始めた男が呟く。

「いやいや。その坂井がですね、もう、しゅを振りまいて凄かったんですよ。頭は痛いわ、目眩はするわ、吐き気もね~」

 呪とは、妖魔や物の怪、怨霊などが生者に対して放つ悪影響を総じて言う。蝶夏が感じた不快な症状もこれのためだった。

「信長様には効かなんだろう?」

 苦笑を滲ませて年輩の男が言う。

「ああ。もう。まーったく。可哀想になっちゃいますよね~」

 誰が、とは言わないが。

 右手を振りながら言う勝三郎に皆が笑いを漏らす。

 誰も主の危機など感じていなかった。これも信用がある、と言うのだろうか……。

「坂井の一番近くに居たのが蝶夏殿なんですがね、あの娘、なんと立ち上がって怒鳴りつけたんですよ」

「誰を?」

「坂井大膳に決まってるじゃないですか~」

「呪をかけられて、それをやったのか?」

 現場を見ていない長秀は、少し意外な心地で尋ねていた。

「そうですよ。いやあ。本当にあれは見物だったなあ。何せ、昔、信長様が言ってた様な事言うんだもんな~。もしかしたら、あの二人、考え方とか、ものの見方とかが似ているのかもしれませんね」

 にこりと笑う主の乳兄弟を皆が見たが、その真意はまったくわからなかった。

 長秀は彼の瞳を見つめるが、その底は知れない。やはり胡散臭うさんくさい男だと、一筋縄ではいかない者だと、心に刻んだ。









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