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六、いくさばに残るおもい

 再び四頭の馬は北西へと進む。

 段々と雰囲気が荒んだものになっていくのに、蝶夏は気付いた。田畑に荒地が目立ち、明らかに人が住むことができないと判るほど崩れた家も目立ちだす。

 道の脇に立っていた小さな神社も酷いものだ。朱色など欠片しか残らない鳥居の奥には吹けば飛びそうな社がある。

 蝶夏は久々に『三匹の子ぶた』の物語を思い出した。藁の家ならいざ知らず、木の家が息で吹き飛ぶかよ、と嘲笑ったことを反省した。飛ぶ。あれなら確実に吹き飛ぶ。そう思わせるほど酷いのだ。

「ここ、何? 何でこんなに……」

 戸惑って信長を見上げれば、苛立ちを含んだ顔が正面を見据えていた。

「この辺りは既に尾張守護・斯波しば家の土地だ。だが、斯波家はもはや権力を持たない。守護代の清洲きよす織田家も同様だ」

 吐き捨てるように言う。

「清洲、織田家?」

「清洲城を本拠地としていた織田家の本流に近い家だな。本家は岩倉織田家だ。だが、そこにももはや力はない」

「織田さん、多すぎ」

「百年も経てば本家から分家から枝分かれが進むものだ」

「ふうん。じゃあ、今ここの実権を握っているのって誰?」

 一瞬蝶夏を見下ろすが、すぐに正面へと視線を戻す。

又代まただい坂井さかい大膳だいぜん

 名目上、尾張国の頂点に立つのが守護・斯波しば義統よしむねで、その下に続くのが守護代・織田彦五郎。その下に又代(小守護代)の坂井大膳となるのが本来の有り様だ。しかし坂井は今や守護も守護代もしのぐ権力を有していた。

「見ろ」

 信長が茜丸の足を止めて、その道の先を指差した。

 蝶夏は、振り向いて目に飛び込んできた光景に言葉を失った。


 そこは一面、黒焦げの焼け野原だった。

 拓けた土地に、建物の柱だったのか、時折黒い棒がもつれるようにして突き出ている。

 何か、吐き気をもよおすような臭いも漂ってくる。

「なに、この、臭い……」

 袖で口元を覆いながら蝶夏が呟けば、信長の平坦な声が答えを寄越す。

「この暑さだ。全て焼き払うように命じた」

「焼く?」

「腐るだろう」

 腐るようなものが何なのかわからない蝶夏は、すぐ傍の男の顔を見上げた。

「ここ、一体どこなの?」

 見下ろしてきた信長の顔は、無表情といっても良かった。だが、その瞳には種類の判然としない強い力がある。

萱津かやつだ。先だって、ここで清洲の軍勢と戦った」

 茅乃が言っていた『いくさ』のことだ。蝶夏はすぐに気付いた。

 驚きよりも納得といった様子の蝶夏に、信長は呟く。

「知っていたか」

「茅乃に聞いた。それで、城の人の気が立ってるんじゃないかって、信長が……」

 心配してるらしい、とは本人の前では言い難い。

「俺が?」

 ぶぶぶぶんと蝶夏は首を振る。

「なんでもない」

 器用に片眉だけ寄せて、信長は不審を表すが何も言わなかった。

 ひらりと茜丸から降りると、蝶夏に手を伸ばす。

 どうして問答無用で降ろさないのかと疑問を抱きながらも蝶夏は下馬することにした。しかし、首を捻る。

「ねえ、手を繋いでもしょうがないよね?この場合」

 繋いだところで降ろせないだろう。

「肩に手をつけ」

 信長はそう言って蝶夏の中途半端に上げられた手を自分の肩へと導く。

 彼女の両手が肩に乗ったところで、信長は細い腰を掴んで自分の方へと引き寄せる。そのまま地面に降ろされれば、先ほどよりずっと安定した姿勢で降りられた。

 蝶夏の視線は自然と戦のあったという場所に流れる。

 あの異臭はまさか、人が燃えた臭いなのだろうか。

「人が、死んだの?」

「戦だ。当たり前に死ぬ」

 怖いもの見たさなのか、蝶夏の足がさくり、と草を踏む。

 さくりさくりと生の草の感触が、ある時、ざり、と音を変えた。

 蝶夏の歩みが止まる。足元で砕けた灰が風に吹かれて舞い上がる。黒く、ひらひらと風に散る。

「勝ったの? 負けたの?」

「勝った」

 信長の答えは簡潔だ。

「じゃあ、信長は、何に怒ってるの?」

 横に並んで同じ景色を見ている男に、蝶夏は尋ねた。

「俺は怒っているように見えるか?」

 聞いてるのはあたしなんだけどなあ、と思いつつも信長の問いに答えた。

「怒ってるし、苛立ってるし、あと……」

 もう一つの感情が上手く言葉にならない。

 考えている間に、遠く離れたところから泣き叫ぶ声が聞こえた。見れば、女が一人、地に伏して肩を震わせている。縁者の遺品が見つかったのだろう。傍らには鋤のような道具を地面に突き刺して俯く小さな影がある。

 やがて、その影は顔を上げて母親らしき女の体を支えながらその場を立ち去った。

「いくさは、ああいう人をたくさん作るんだよね……」

 胸の奥にくすぶる感情があった。

「話では、知ってたんだけどなぁ」

 信長は黙っている。

「なんていうんだっけ、こうゆうの。こう、胸の奥がもやもやする感じ」

 自分の胸元を握りしめながら蝶夏は独白する。

 ああ、そうだ。

「悔しい……かな」

 疑問を含めて口にするが、口から飛び出せば、そういう名前の感情だったと納得できた。

「そうだよ! 悔しい、だ。そうそう! だって、いくさなんてなければあの人たちあんな目に合わなかったんだもん。でも、起こっちゃったものはどうしようもなくって、でもどうしようも出来無い事が、悔しい……んだ」

 すっきりした、と蝶夏は胸を掴んでいた手を離した。

 すると、伸びてきた両腕が蝶夏の顔の脇に垂れる被衣かずきを持ち上げた。自然、蝶夏の首が上を向く。

 被衣に顔の両側を隠された蝶夏と、屈み込んできた信長の顔に濃い影が出来る。

「お前は、どうしてそうなんだろうな」

 そう言いながら、信長は端正な顔を近づけてくる。

 間近に迫るその顔を瞬きもせずに眺めていた蝶夏は、気付いた。彼の黒い瞳に金色の輝きが混じっていくことに。

 夜じゃなくても光るんだ……。

 ずれたところで感心する蝶夏はどんどん距離が詰められていくというのに、どこかぼんやりとした心地だった。

 それは、直前に見た信長の顔が柔らかい笑みを作っていたからかもしれない。

 被衣の両端が信長の顔を受け入れようとした時、蝶夏を見つめ、蝶夏に見つめられている彼の瞳が、すいっと横に流れた。

 身を起こし、振り向きながら舌打ちをする信長の様子に首を傾げながら、蝶夏もそちらを見る。


 少し離れた位置で何事か話していたはずが、急に密着し始めた二人を見ながら勝三郎は間の抜けた声を発する。

「ほーすけ君は蝶夏殿の傍にいなくていいのかい?」

 傍らの方輔が眉間に皺を寄せて口を開く。視線は定まらず、落ち着かせる場所を求めて彷徨さまよっていた。

「あの雰囲気の間に割り込め、と仰るのですか、池田様」

「いや~。真の護衛はそうするべきじゃないのかな~と思って」

 恐らく三人の供の中でその役目を果たせそうなただ一人である長秀は、事後処理の為にもう少し先に置いてある兵の詰め所へと足を運んだ後だった。

よってこの場には、目の前の光景を楽しそうに見ている青年と、目を逸らしたいような逸らしたくないようなと葛藤する少年の二人が残されていた。

「しっかしまあ。見られてるっていうのに気にしない人だよね~、うちのご主人様って。こっちの声も多分全部聞こえてるのに、動揺一つしてないし」

「えっ。こんなに離れているのに聞こえているのですか?」

 驚く方輔にのほほんと勝三郎は答える。

「うん。そう。地獄耳ってやつ? 聞こうとしなきゃそんなに聞こえないみたいだけどね。いや~人間離れしてるよね。君も見習った方がいいよ、小姓君」

「……人間離れしているあたりですか?」

「君、意外と面白い子だったんだね。残念ながら、あの平常心のほうだよ、見習ってほしいのは」

「は、はあ」

「目の前であれ、やってても表情一つ変えない。長秀殿を見習ってれば出来るんじゃない?」

 あれ、のところで距離が近づいていく二人を指す。

 ところが、信長が身を起こした。

「あ~らら? 何かあったかな?」

 主はこちらの方を向いているが、視線は通り過ぎている。

 勝三郎と方輔も振り向いてそちらを見れば、騎影きえいが三つ見えた。


 

 急に身を離したかと思えば、向こうを向いてしまった信長につられて蝶夏もそちらを見る。

 大分離れた位置に勝三郎と方輔の背中があって、ここで初めて蝶夏は長秀がいないことに気がついた。

 二人の奥に動くものが見える。

 馬が三頭だ。近づいてくるが、うち二頭は勝三郎らの辺りで歩みを止めた。

 残る一頭は信長の少し手前で止まった。乗っていた人間が地に降り立つ。

「兄上! お久しぶりです」

 蝶夏と同じくらいの年の少年は快活に言った。

信行のぶゆきか。ここで何をしている」

 素っ気なく信長が問いかけるが、聞かれた当人は気にした様子も無くにこりと笑った。

 爽やか100%か……。

 蝶夏はそう思った。

「はい。柴田が兄上の戦った後を見ておくのも勉強になると言うので。私も見てみたかったですし」

「そうか」

「兄上は視察ですか」

「そんなところだ」

「では、お会いできてよかった」

 どこまでも素っ気ない信長に、少年はますます笑みを深める。

 天然度も100%か……。

 さらに蝶夏は彼に対しての評価を立てていった。

 そこで彼が蝶夏に気付く。興味深そうにこちらを眺めるその顔立ちは柔らかな美しさがある。

「おや。兄上、こちらは?」

「あたしも聞きたい。兄上って、信長の弟?」

 同じ端正な顔立ちでも、種類の全く違う美貌を持った二人を見比べながら蝶夏が聞けば、信行は目を大きく見開いた。信長は絶対にしないだろう表情だ。

「兄上を呼び捨てにする女人がいるなんてっ」

 素早く蝶夏との距離を詰めると彼女の両手を握り込んだ。

「やあ。初めまして。私は織田信行。信長兄上の直ぐ下の弟になります」

 ぎゅっと手を握る力を強めると、こくこくと一人頷き出す。

「大抵の女性は兄上の前にいると萎縮いしゅくしてしまうんですよ。乳母と茅乃以外で兄上と堂々渡り合っている人は初めてです。感動だ。感動だなあ」

 蝶夏は意味が分からず彼を見ていたが、同じようなことを延々と話すのを聞くうちに、段々どうでもよくなってきた。

 信長に視線を移して聞く。

「なにこれ」

 信行を顎だけで指し示す。

「弟だ」

 しばし間を置いて言い直す。

「頭のおかしい方の弟だ」

「兄上酷いです!」

 蝶夏が顎で彼を指した時は反応しなかった癖に、信長の暴言には反応する。

 ……変人だ。

「そういえば、直ぐ下の弟って、一つ違いって事?」

「いや。俺には兄弟がこれを除いても後十人いるからな。俺が二男じなんでこいつが三男だというだけだ。……年は二歳違いだったか?」

「はい。今年で十七になりました」

「十二人兄弟?! 多っ。あれっ。じゃあ、行君ゆきくん、同い年じゃん」

「同い年?」

「行君?」

 兄弟で反応するところが違った。

 先じて信長が質問を続けた。

「お前、十六じゃなかったのか?」

「うん? あたし、信長に年言ったっけ?……ああ、茅乃に聞いたのか」

 茅乃から信長へ、蝶夏の情報がだだ漏れであることは明白だ。

「確かにあたし、十六だよ。でも、こっちじゃ生まれた年から一歳って数えるんでしょ? かぞどしって言ったっけ? 昨日茅乃に教えてもらったの」

「お前のところではちがうのか」

「そ。あたしのとこでは、生まれた年はゼロ歳って数えるから、その数え方で行けば、行君は十六歳で、あたしと同い年になるの」

「つまり。数え年ならお前は十な……」

 蝶夏の年齢を言おうとした信長の口を、信行の手を素早く振り払った蝶夏の手が塞ぐ。

「だめっあたしはまだ十六歳がいいの!」

 一掴みで口を覆う両手を取り去った信長が言う。

「たかだか一年分だろう」

「花の十六歳は一年しかないの! それをちょっと違う年の数え方するからって一歳年とるなんて、絶対いや。女子高生の十六歳の貴重さをなめるなよ!」

「意味がわからんぞ」

「わかんなくていいの! 納得しとけばいいの!」

 二人のそんな馬鹿馬鹿しいやりとりを信行は目を丸くして眺めていた。言葉もない。そんな感じだ。

「いいから、私は十六。行君も私の中では十六。これでいいでしょ!」

 そう言った蝶夏の台詞でようやく我に返る。

「あ、あの。その、行君と言うのは……」

「ん?ああ。だって、信長と信行でしょ? なんか紛らわしいなって思って。行君にしとけば間違わないかなって。……ダメだった? いやなら他の考えるけど」

「お前、ふつうに名を呼ぶという選択肢はないのか」

「ない。だって織田一族って『信』だらけでしょ。お父さんが『信秀』だっけ?それなら絶対そうでしょ」

 蝶夏は自分の名前の由来のこともあってそう言った。

「親って自分の名前を子供の名前に使いたいもんだもんね」

「た、確かに、十二人中八人は『信』がつきますね」

「ほらっほらっ。だから区別つける為に呼び易いあだ名があったほうがいくない?」

 絶対覚えられないし、間違える自信があった。

「う~ん。一理ありますね」

 信行は腕を組んで考え出した。

「……お前は一体何をしに来たんだ。これと遊ぶためにここにいるのか?」

 その言葉に、「これってなんだ」と抗議する蝶夏とは違い、信行はさっと姿勢を正した。

「兄上に教えを請いに参っております! 戦場を見られるだけでも十分ですが、兄上がいらっしゃるというこの偶然を是非ともわが身のかてとしとうございます!」

 そう言うや、矢継ぎ早に信長に質問を投げかける。今回の戦術から使用した武具について、果ては兵糧等々の細かなことにまで及んでいた。

 信長と信行が話し始めれば、内容のわからない蝶夏は手持ち無沙汰になる。辺りを見て回ろうと二人から離れた。

「蝶夏、あまり離れるなよ」

 信長からの注意が飛ぶ。

「はいは~い」

 子どもじゃないんだから、と内心ぶすくれながらも彼に了解を示す為、手を振る。

 その様を見た信長はすぐに弟との会話に戻った。

 踏めばぐしゃりと崩れる足下に注意を払いながら蝶夏は進む。この辺りの片づけはあらかたが済んでいるのか、これと言って何もない。

 風が吹けば時折例の異臭がする。

 蝶夏は焼け野原を見ながら考えた。

 今、ここで本当にいくさが起こっていたら、戦い方なんか知らないあたしは、ひとたまりも無いんだろうな。……ううん。いくさなんかなくたって、あたしは着る物も、食べる物も、寝る場所も無かったんだ。こう考えるのはかーなり癪に障るんだけどね!!

 もちろん茅乃や方輔に、では無い。どうもあの男は、信長は蝶夏を素直にさせない。全ては彼の言動と行動によるものだから、ある意味自業自得なのだが、ともすると狙ってやっている節さえある。

「質悪すぎっ」

 一人呟いて蝶夏は顔をしかめた。

 振り返り、彼の様子を伺おうとした瞬間、とてつもない頭痛が蝶夏を襲った。眩暈めまいが後から付いてきて、立ってなどいられなかった。



 蝶夏の様子が変わったことに真っ先に気付いたのは信長だった。

 驚いたのは信行だ。

「蝶夏」

 そう言って、少女の方に歩きだした兄が既に抜刀ばっとうしているのだ。

 頭を押さえてしゃがみ込んだ蝶夏の脇で足を止めると、信長は手に持った刀を振り上げた。

「兄上!? 一体何をっ」

 彼は兄が蝶夏を斬るのだと思った。背後の家臣たちも何事かと駆けてくる。

 しかし信長の振るった刃は蝶夏の上方を撫でた。

 もし彼女の前に男が立っていたとしたら、丁度その肩口を袈裟けさけに斬るようにしたのだ。

 蝶夏には傷一つ、ついていなかった。

「ぎゃああああああああああああああ」

 信長が斬り付けた、誰もいないはずの空間から悲鳴が響きわたった。

 そして、唐突に男の姿が浮かび上がる。

 四十がらみの男の、向こう側を透かす半透明な姿はこの世の物とは言い難い。

 だが、その場に居合わせた男たちはこの男に見覚えがあった。

「坂井大膳か」

 信長が口にしたその名は、先だっての戦で清洲の兵を率いていた男のものだ。今現在、尾張国の実権を握っている又代である。

 斬り付けられたその身は血こそ出ないものの、ダメージはあったようで、坂井は肩の辺りを押さえて苦悶の表情を浮かべている。

「おのれ、おのれ、織田の小倅がぁ!」

 怒りを湛えたその表情は凄まじく、叫び声を上げる度に周囲の空気が波打つようだった。

 信長の背後までやって来ていた信行も蝶夏と同様に頭痛や眩暈といった症状を感じ、「うっ」と呻いて地に膝をつく。

 離れた位置に居た勝三郎らも近づくほどに同じ苦痛が強まるのを感じていた。

 その中で、平然としているのが信長ただ一人だ。

 それがまた坂井の癇に障る。

「何故この儂がお前のような者に負けねばならんのだ。有り得ぬ、有り得ぬぞ!この尾張の真の支配者は儂だ。坂井大膳だ!!」

「そんな恨み事を言いにわざわざ体を抜け出てきたか」

「あ、兄上、その坂井殿は生霊ですか……」

 不快な症状をこらえて信行が問えば、坂井が答えた。

「そうだ。儂はこの男への恨みと憎しみのあまりにこの様な事になったのだ。お前がさっさと儂に従えば良かったのだ! お前はあの忌々しい信秀と同じだ! どうせ父親同様に清洲を支配して尾張の実権を握ろうというのだろう」

「……っさい」

「今川に通じた山口を討ちおって、武を見せ付けたつもりか! この国を治めるに相応しいのは我が坂井家の他にあるまい。その当主たる儂が、お前など今度こそ討ち果たし、尾張に覇を唱えるのだ!!」

 そう言って笑う坂井の顔は醜悪であった。

 蝶夏は我慢の限界だった。坂井がわめく度に頭痛が強まるし、眩暈が波のように襲い来る。

 足元の石を掴み取ると、力を振り絞って立ち上がった。

 引っくり返ってしまいそうな程体調は最悪だったが、怒りが勝っている。足に力を込めて地を踏みしめた。

「うるさいって言ってるでしょう!」

 叫び、坂井に向かって拳大の石を投げつけた。

 透けた体を石は通り抜けてしまうが、驚いた男は哄笑をやめ、目を見開いた。

「人が頭痛と眩暈と吐き気で苦しんでるってのに、その目の前でぎゃあぎゃあ騒いでんじゃないわよ! 迷惑! 大体、原因はあんたじゃないの? この公害男!」

 怒りに任せて被っていた被衣かずきを頭からむしり取る。

 最後は推測の域を出ない内容では有ったが、蝶夏には確信があった。

「そもそも、生霊? になってまでやりたいことってこれ? こうやって恨み言いたかったっていうの? ……ちっちゃい男ねぇ」

 蝶夏の瞳には軽蔑の色が満ちていた。

「なんだと、この小娘がっ。儂は坂井大膳だぞ! この尾張の支配者の名を知らぬとは言わせぬぞ!」

「名前ぐらい知ってるわよ。さっき信長から聞いたもん」

「名前ぐらい、だと……?」

 坂井の頬が引きつる。

「でも、だからどうしたっていうのよ。あんたが坂井さん家の誰それでもあたしには関係ないし? 迷惑かけられる理由にはなんないし。恨みがあるんだったら直接信長にやんなさいよ。こいつ、何にもダメージ受けてないじゃない。このヘボ!」

「か、格式ある坂井家をなんだと思っているのだ、貴様」

「だから、名前しか知らないって言ってるでしょ。ただ単に『坂井』って名乗ってる家だってだけじゃない。あんたがその家に生まれたのなんか唯の偶然よ。あたしがあたしの両親の間に偶然生まれたようにね。それなのに、これまで御先祖様が築き上げたその格式とやらの上で胡坐かいてるだけのあんたが偉そうにするってどうなの? 恥ずかしくないの?」

「…………っっ小娘!」

「はいはい。小娘でもね、知ってる事はあるのよ。折角だから教えてあげる」

 そこで蝶夏はにやっと笑った。

「人間ってね、本当の事言われると怒るのよ。だから、あたしが言ってる一から十までの事全部に怒ってるあんたは、その一から十まで全部が真実だって公表しているようなものね。あ~恥ずかしい」

 怒りに震える男が血走った目で蝶夏を睨み付ける。しかし、蝶夏は恐れてなどいなかった。

 背後の信行を含む複数の視線は呆気に取られたものだったが、傍らからの視線は明らかに面白がっている。それで少し気持ちが軽くなる。

「それに、さっきからあんたは尾張の支配がどうとか言ってるけどね、ここを見なさいよ。あんたが本当にきちんと国を治めてたんなら、ここはこんなことにならなかったし、女の人も子どもも泣かずに済んだのよ? わかってるの?」

「なんだと?」

 少し表情を改めた蝶夏に、坂井も怪訝な表情を浮かべた。

「あんたがしっかりしていれば、ここでいくさなんか、する必要なかったんじゃないのって言ってるのよ」

 蝶夏の台詞に、今度は坂井がその顔に嘲笑を乗せる。

「何を言うかと思えば、不穏の芽は早いうちに摘まねばなるまい」

 不穏の芽とは、信長のことであろう。彼の父親である信秀は、その武力と財力によって守護代の地位を得ていた。同時期からその権力を高めようと画策していた坂井家にとっては最も邪魔な存在であった。信秀が死に、まだ若い信長が当主の座に着いた今こそがこの家を権力の中枢から遠ざける絶好の機会と坂井大膳は考えていた。

 細かな内部事情など知らない蝶夏は、先程味わった行き場の無い感情をそのままぶつけた。

「もう一つ教えてあげる。あたしにとって良い国っていうのは、豊かで平和な国よ。ここには、そんなのないじゃない」

「お前は清洲城を知らんのだな。この辺りでは最も規模が大きく、立派な城だぞ」

 来る途中で見た民衆の暮らしを思い出す蝶夏とは対照的に、己の住まう城について誇らしげに坂井は言う。

 蝶夏は唇を噛んだ。

「城一個豪華だからって何だって言うの? あんた、自分が、誰が作ったものを食べて、誰が作った物を着て、誰が作った家に住んでるのか、考えたことある? その人たちの暮らしについて、考えたことある?」

「民は儂に奉仕する為に居る。そんな瑣末さまつな事に構ってなどいられるか」

 坂井の話の通じなさに、蝶夏は一瞬言葉を失った。

 けれど、少し合点がいった。

「だからあんたは勝てないのよ。そんな根性の人間が何度立ち向かってこようと、信長に勝てるわけなんかない!」

「ならばその男ならこの地を治めるに相応しいとお前は言うのか!?」

 唾を撒き散らして叫ぶ坂井に、蝶夏は「汚なっ」と、一歩下がる。実際に飛んできた訳ではないが、気分的にそんな感じだった。

 だが怯んだのは一瞬だ。すぐに顔を上げて答えを返す。

「相応しいとかなんとか、知る訳ないでしょ! 一昨日おととい会ったばっかよ!」

「ん、なっ?!」

 肯定の返事をするとばかり思っていたのは、坂井だけでは無く蝶夏の背後の人間たちもそうだったようで。驚きの声は複数だった。

「ではなぜ、織田の肩を持つ!!」

「重いから持てないわよ! あんな大男!」

「?????」

 蝶夏の勘違いをした返答に坂井が疑問符にまみれた顔をする。

「でもねえ、あの子たちは笑ってたのよ!」

 ここに来る途中に出会った村の子どもたちの顔が蝶夏の頭を過ぎる。

 笑い声を上げて、村中を駆け回っていた。兄弟喧嘩をしたりしていた。妖怪の子孫だって混じって遊んでいた。

 自分たちの領主が戦をしていることなんて、知らないのかもしれない。だが、親はその戦に対する不安を子どもたちに見せてはいないのだ。だからこそ、あの子達は屈託無く笑っていられるのだろう。

 逆に、信長の領地を抜ければ、疲れ果てた人の顔が目立った。子どもの姿は余り無く、まれに見かけても、騎馬している人間と見るや走って逃げてしまった。

「子どもを真っ当に育てられないようなところに未来なんか無いわよ! 子どもと、畑と、建物とか、そういうの見ればすぐにわかるじゃない。どっちがマシなことやってるかなんて。あんたみたいな馬鹿のところで働いている人たちに心の底から同情するわ!」

「小娘がぁ!」

 驚嘆と湧き上がる怒りに顔を朱に染めた坂井が蝶夏に迫る。だが、その首を信長の刃がいだ。

「ぎゃっ」

 短い悲鳴を残して坂井の姿が掻き消える。

 刃の風圧で蝶夏の髪が乱された。

「わ、わわっ」

 慌てて髪を押さえようと右手を添えるが、足元がふらついた。

 蝶夏よりも長い腕が蝶夏の背中に回り、支えられる。

「お前、生霊相手によくやるな」

「誰が相手だろうとあたしは言いたいことを我慢するなんてイ・ヤ!」

 するりと信長の腕から逃れる。

 先程まで凄まじい痛みを放っていた頭はすっかり元の通りだ。組んだ腕をぐっと天に突き出して、蝶夏は体を伸ばした。

「あー。すっきりした! やっぱりあたしの舌鋒ぜっぽう鈍ってたんだ。あのぐらいかまさないと調子出ないんだなあ……」

 くるりと振り向けば、信長を除く周囲の男共は何とも言えない顔でこちらを見ている。

 なによ、何か文句ある? 

 むっとした蝶夏は腰に手を当てて、彼らを睨みつけてやる。

「なんて言うか、貴女は規格外ですね」

 信行が戸惑いがちに言った。

 蝶夏は首を傾げた。

「規格の中にいるって楽しい? あたしはそんなのお断り」

「ははあ。さすが、兄上が傍に置かれるだけありますね」

「やらんぞ」

 真顔で信長が言えば、信行は苦笑を返す。

「兄上のものとわかりきっているのに手を出すほど、私は愚かではありませんよ」

 蝶夏は憤慨した。

「誰がものだ、誰が!!」

 しかしこの兄弟、蝶夏の訴えに耳を貸さない。

「それにしても、また坂井殿が生霊で現れたら面倒ですね那古野城内が混乱しかねないでしょう」

 弟の方が思案げに言う。

 無視されて怒り心頭の蝶夏もその言葉に反応を返した。

「来ないよ。あいつは、信長のところに直接来たりはしないと思うよ。一人では、ね」

「どういうことです?」

 蝶夏の台詞に信行が疑問を差し挟む。信長は傍観だ。

「だってあいつ、信長のこと本当は怖いんだもん」

 あっさりと蝶夏は答えた。

「だから、叩き潰したい。でも、自分でやっても勝てないってわかってるから、他の手段を使ってるんでしょ。多分」

 実は、似たような例が蝶夏の直ぐ傍であった。

 バスケ部のキャプテンと副キャプテンだ。

 キャプテンは、自分よりも実力も人望も上の副キャプテンをねたんでいた。いつかキャプテンの座を奪われるのではないかと怯えてもいた。

 そうして、キャプテンとその取り巻きによるイジメが始まった。もちろん教師に気づかせるような真似などしない。

 蝶夏がそれを知ることになったのは只の偶然だ。掃除の時間もとうに終わったころにゴミ捨て場に行って、イジメの現場にたまたま遭遇したのだ。

 彼女の姿を見ると、キャプテン側は無言で立ち去った。

 制服が乱れたまま座り込んでいた副キャプテンはゆっくりと立ち上がり、蝶夏に背を向けた。特に言葉はない。

 でも、蝶夏は一言だけ彼に声を掛けた。

「ねえ、これだけされててどうするかはあんたの勝手だけど、もう少し立場をはっきりさせてあげたら? これじゃあ、イジメてる方も辛いんじゃない?」

 副キャプテンのイジメへの反応は、顔をうつむけてただ黙って仕打ちに耐えるというものだった。抗うでも、逃げるでもないのだ。これは、キャプテン側にしてみれば無視されている、相手にされていないととれるだろう。

 蝶夏の言葉に、副キャプテンは、はっと表情を変えた。

 しばらく彼女を見ていたが、やはり何も言わず立ち去った。

 蝶夏はゴミを捨てるとき、ちょっと荒れた。

 教室に戻ると、ひよりに「すっごい変な顔!」と言われて笑われるくらいだった。

 その後、副キャプテンは転校という手段を取った。

 ひよりの大笑いと台詞を思い出して、蝶夏は少し顔をさすった。

 信長の大きな手がその上から蝶夏の手を押さえる。

「再び仕掛けて来る事は無いと思うか?」

「まさかっ」

 そんな訳はないと、蝶夏は笑い出しながら否定する。

 信長と例の副キャプテンは大違いだ。向かってくる敵は叩き潰す、くらいこの男は言いそうだ。そして、それに相対している男も生霊になって現れるくらいだ。そうそう諦めないだろう。

「方法なんか知ったこっちゃないけど、あんだけ執念深そうなんだから、色々やってくるんじゃない?」

「だろうな」

 薄く笑いながら信長は蝶夏を見下ろして言った。

 そうして手を離す。よくわからない行動に首を傾げながら、蝶夏も手を下ろした。

 それを穏やかに眺めていた信行は、少し屈んで蝶夏の投げ捨てた被衣を拾う。軽く叩いて埃を払うと蝶夏に差し出した。

「蝶夏殿。近いうちに那古野城に伺うつもりです。その時にまたお話できると嬉しいです」

 礼を言って被衣を受け取った蝶夏は、曖昧に頷きながらも信行に告げた。

「う~ん。出来れば『殿』も『様』もつけないで欲しいなあ。あ、あと、敬語禁止!」

「ですが……」

「折角同い年なんだし、ね」

 信行の視線が蝶夏の傍らに立つ信長に移る。無言の会話があった後、弟の方だけが口を開いた。

「わかった。そうするよ」

 そう言って爽やかに笑った。

 今度は信長に向き直り、丁寧に一礼した。

「では、兄上。今日はこの辺で失礼させて頂きます。じっくりお話を伺いたいので、一両日中には先触れの文を送らせて頂きます」

 先触れの文とは、訪問先にあらかじめ訪問の日時を知らせておく手紙である。これを一日、二日以内に出すと言っているのだ。

「好きにしろ」

 やはり素っ気無く信長は言った。

 再び一礼すると、信行は二人の供と立ち去った。

 その背中を眺めていた蝶夏は、顎に手を当てて言った。

「見事にブラコンだね」

「なんだそれは」

 尋ねてくる信長を見上げて、蝶夏は言い方を考えた。

「お兄ちゃん、大好きってこと」

 兄の眉間に深い皺が寄った。

 ざくざくと音を立てながら、勝三郎が方輔を連れて近づいてきた。

「信行様のあれは凄いよ~。あんたは犬ですか? ってたまに聞きたくなっちゃうんだよね、僕なんかは」

 へらへらと笑って言う。決して主君の弟にしていい態度では無い。

 そんな男にとがめる様な視線を送っていた方輔は、蝶夏に向き合うと、心配そうに声を掛けてきた。

「蝶夏様、お加減は如何ですか?」

「ん? だいじょぶ、だいじょぶ。あの半透明の消えたらすっかり良くなっちゃった」

「それは良かったです」

 その時、長秀が戻ってきた。

 下馬した彼はすぐに信長の元に寄り、膝を付く。

「詰め所の方は、恙無つつがなくご指示通りに事を運んでおりました」

「そうか。ご苦労だった」

 信長の労いに、長秀は一礼した後立ち上がる。

 しかし、脇の方でにやにやと笑っている勝三郎に気付き、怪訝な顔をした。

「なんだ?」

「いや~、すっごい惜しかったなあ、と思って」

「……何かあったのか」

 長秀がさっと表情を改める。けれど、勝三郎の方は相変わらず緊張感の無い笑みを浮かべていた。

「蝶夏殿がねえ……」

 その瞬間、長秀が蝶夏の方を見た。「何かしでかしたのか」と言う咎めるような雰囲気があった。

 被衣を被り直していた蝶夏はその影でむっ、と唇を尖らせた。

「素晴らしい啖呵たんかを切ったんだよ。生霊の坂井大膳相手にね。それを見逃しちゃって、もったいないなあって思って」

 多分、勝三郎は褒めている。

「生霊の坂井大膳だと?」

 確認するように、長秀が信長を見る。信長は、彼に頷いて見せた。

「この娘が、祓ったのですか?」

「いや。こいつは言いたい事を言っただけだ。俺が奴の首をねた」

「……そうでしたか。さんじるのが遅れ、申し訳ありませぬ」

 神妙な顔で謝罪する長秀にも、信長は頷くだけだ。

 そこで蝶夏は疑問を抱いた。

「そうだ。ねえ。あたしが投げた石はあいつに当たんなかったのに、なんで信長の刀はあいつのHPを下げ、とと、攻撃が効いてたの?」

 聞かれた方は、自分の腰の刀に手を当てて答えた。

「これは、破魔はまの力を持っているからだ」

「破魔?」

「魔を破る。つまり、人ならぬ者にも影響を及ぼすことが出来る刀だということだ」

「ふうん。……あ、あのさ……」

 言いよどむ蝶夏に信長が首を傾げる。

「あの人、死んじゃってたりしない、よね?」

 肉体では無いからか、信長に斬られても坂井大膳が傷ついたという意識は薄かった。しかし今更ながら蝶夏は気になっていた。

「霊魂を斬っただけだからな。肉体との繋がりを斬っていれば死ぬだろうが、そこまではこの刀では出来ん。但し、しばらく寝込むぐらいの影響はあるだろうな」

「そ、そっか」

 蝶夏は少し安堵していた。

俯いてほっと息をついた彼女は、自分を見つめる信長の瞳が一瞬冷たい光を宿したことに気付きはしなかった。

「では、そろそろ戻りましょうか」

 長秀の言葉に、蝶夏から視線を外した信長は同意した。


 そう遠くは無い道のりを、四頭の馬は軽い駆け足で進む。

 蝶夏は再び信長の前に横座りで収まっていた。

 行きよりはまあ、大分この姿勢に慣れてはいた。しかしただ黙って座っているのも、どうにも居心地が悪い。

 彼女は、戦場見学からこっち、考えていたことを信長に打ち明けることにした。幸い、そんなに揺れないから舌を噛む危険も少ないだろう。

 手綱を握る信長を見上げ、口を開いた。

「ねえ」

「なんだ」

 返答は早かった。一瞬こちらをちらりと見るが、視線はすぐに前方へと戻る。

 さすがの蝶夏もこれに文句をつけようとは思わない。脇見運転をされては、たまった物ではない。

「考えてみたんだけどね」

「何を」

「今後のことよ!」

 何とも訝しげな声で返事が返る。

「……今後?」

「そう。あたしだっていつまでもただ飯食らいでいるつもりないもん。家に帰る方法が判るまでは、何とか稼いで生きてかなくっちゃ」

 しばしの沈黙の後、信長は急に重く感じ始めた口を動かした。蝶夏のポジティブさが少し忌々《いまいま》しい。

「ここで一人で生きていくことはお前には出来んと思い知らせるつもりで、俺はお前を連れて来たが、まだ良くわかっていないようだな」

「ああ、それね。あたしだってそのくらい思ったよ」

 軽い返事に思わず舌打ちしそうになって、信長はこらえた。

「だから、不本意だけど、信長のところでお世話にはなるつもり。と、言う訳で、仕事ちょーだい」

「……何だと?」

 蝶夏は真摯な瞳で信長を見上げた。顎くらいしか見えないが、彼の眉間に深い皺が寄っているのは明白だ。

「家事は大体できるから、洗濯係でも掃除係でもいいよ。あっでも、台所はダメ!」

「何かあるのか?」

「あたしの作ったものはみんな、……下剤になるらしいから」

「………………」

 信長は沈黙した。

「おんなじ材料を使って、同じ料理を作っても、何故かあたしのだけおかしいのよ。原因は不明。ついでに言うと、全く作為なし!」

「……お前、『甘露かんろ』を知っているか?」

 突然、信長は話の流れにそぐわない質問して来た。

 蝶夏は瞬いた後、首を振る。

「ううん。もしかして、甘露煮のこと?魚とか、金柑とかの」

「違う。知らんならいい」

 そのまま黙ってしまう。

「で、仕事、くれるの?くれないの?」

「やらんと言われたらどうする気だ」

「そうだなあ。家訓に反しちゃうから、何とかしないといけないんだけど……」

「どんな家訓だ」

 今度は呆れた声が出る。

「『働かざる者食うべからず』よ。まあ、た、……」

 そこで、姓を名乗るなと言われたことを思い出す。『壁に耳あり障子に目あり』だ(今は屋外だが)。誰が聞いているかわからない、と蝶夏は信長の方に身を寄せた。上半身を伸ばして彼の耳元に囁く。と言っても届かないから顎の辺りからになったが。

「これは、橘家の家訓というよりお母さんの座右の銘なんだけどね」

「変わった母親だな」

 信長の口元が自然と満足気に歪む。

「失礼な! お母さんは倹約家で、現実家なだけだよ!」

 体を元の位置に戻して抗議する蝶夏を見下ろすと、信長は結論を下した。

「取り合えずお前はこちらの文字の読み書きを習得しろ。仕事をするにしてもそれが出来なくては話にならん」

 義務教育など無いこの時代。那古野城で働く下女の殆どは読み書きなど出来ないだろう。しかしそれを知らない蝶夏はあっさり信長に丸め込まれてしまった。

「そっか。そうだよね。じゃあ、働くのはそれからにする。働いてない間の食事代なんかは利子をつけないでおいてくれると嬉しいんだけど……」

 ちょっと虫が良すぎるかと思いながらも蝶夏は頼んでみた。

「わかったわかった」

 そう言って、信長は手綱から離した手を軽く振った。

 蝶夏は「良かった~」と安堵したが、その仕草が、長秀に幼名を呼ばないで欲しいと頼まれた時と同じ対応だと言うことには思い至らなかった。詰まるところ、この時の信長は、全く蝶夏の言葉を受け入れていなかった、と言うことだ。

 夕刻、那古野城に帰り着くと、茅乃が笑顔で出迎えてくれた。

 長秀と勝三郎とはそこで別れた。

 相変わらずのにこにこ顔で「まったね~」と手を振る勝三郎と、慇懃無礼に目礼してきた長秀の態度の違いは実に面白かった。

 こちらにしてみれば遅めの夕食をとり終わった頃、日はすっかり落ちていた。

 寝支度が整い、信長のまだ訪れない部屋で蝶夏は今夜も机に向かっていた。

 彼女はすっかり油断していた。二晩を共に過ごして何も無かったのだから、今夜も何も起こらないだろうと、心の何処かで思っていたのかもしれない。

 なんにしろ、すっかり忘れていたのだ。今朝、信長が言った台詞を。


 ……彼女が彼に、『借り』があるということを。









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