五、初めての外出は癖者と共に
翌朝、蝶夏の頭はやはり靄がかっていた。
「む、ぐ……」
頭を押しつけている物体に沿って顔を上げると、端正な顔が見える。
超至近距離に疑問を持つことなく、とりあえず人と認識できるものに蝶夏はにっこり微笑んだ。
「おはよぉうございます」
「またそこだけ敬語か」
肘をついた姿勢の信長が呆れ声を出せば、蝶夏は「ぐう」と言ってまたしがみついてきた。どう見ても二度寝をする気だ。
「起きろ。朝飯を食いそびれるぞ」
自由な左腕で彼女を揺さぶる。
「はっ」
揺さぶられて額を信長の胸筋にぶつけていた蝶夏がようやく覚醒した。
まず、自分が何かにしがみついているのに気付く。
「だ、抱き枕……」
そう思いたかった。
だが、この枕は返事をした。
「誰が枕だ」
もう三日目だと言うのにちっとも聞き慣れない美声が頭の上から聞こえる。
そろそろと腕を離し、後ろにずり下がる。
肘を突いた男の顔が見えたところで蝶夏は叫んだ。
「ぎゃあ! なんでいるの~!」
素早く後ずさり距離を稼ぐ。
頭を抱えてうずくまる蝶夏に、体を起こした信長が問う。
「抱きついていたのは誰だ?」
「ううううう。どう考えてもあたし、と言うしかないぃぃぃ」
布団に頭を擦りつけて「夢にしたい。夢だと思いたい。夢になれ~!」と呪文のように唱える蝶夏の前に信長が膝を着いた。
「蝶夏」
呼ばれて、彼女は顔を上げる。
男性にしてみれば細く長い指が蝶夏の目尻を撫でる。
思わず目を閉じたその瞼も辿っていく。
「大丈夫そうだな」
そう言って指を離すと、立ち上がり障子を開ける。
何が大丈夫そう、なんだ。と疑問符を浮かべた蝶夏は彼がそうしたように自分の瞼に触れてみる。信長の手が冷えていた為か、触れた瞼も指よりひんやりとしている。
あれ?
蝶夏が疑問解消の糸口を見つけたところで、廊下から声がかかった。
「蝶夏様」
茅乃が立っていた。
「あ。おはよう、茅乃」
挨拶をすれば、ほっと安堵したような顔をして挨拶を返してきた。
昨日の朝同様、茅乃が着替えさせてくれるという。
部屋を出ようとしたところで、信長が言った。
「今日は出かける」
「またあたしを放置?」
昨日言ってたことと違う! と抗議しようとした蝶夏を制して信長が続ける。
「おまえも行くんだ」
わーい、と両手を上げると、彼は黒く笑った。
「蝶夏、これは貸しだ」
そう言って、自分の目元を指さす。
「ちゃんと返してもらうぞ」
色気も出していないのに、蝶夏の背筋に寒気が走った。
着替えに使っている部屋に入るや、蝶夏は鏡台に向かった。立てかけてある鏡を手に取ると、覗き込む。
「……やっぱり腫れてない!」
あれだけ泣いたと言うのに、常と変わらないどころか引き締まってさえ見える目元に驚愕して声を上げると、茅乃が心配そうに聞いてきた。
「どうかなさいましたか?」
まさか昨晩ホームシックで大泣きしたとは言えず、蝶夏は言い訳を考えた。
「え~と、昨日、部屋で転んで、え~と、顔を打ったような打ってないような」
「まあ。では、腫れてはいなかったという事ですね?」
茅乃の問いに蝶夏はこくこく頷いた。
それを確認すると、「それはようございました」と言って、彼女は蝶夏の衣装を整え始めた。
茅乃が心配して額を見にくるだろうと予想していた蝶夏は、彼女の淡白な反応に拍子抜けした。
蝶夏は知らない事だが、信長の寝室の傍には常に宿直番と呼ばれる夜のボディーガードが控えている。
昨晩、当番の者から伝えられて、信長は部屋に入る前から少女の異変を知っていた。
その報告と言うのが、実は蝶夏が筆に悪戦苦闘していた時間の話で、報告も「奇妙なうめき声がする」というものだったことは、また別の話だ。
宿直番の報告を共に聞いていた茅乃も寝室の傍までは来ていた。だから、蝶夏の泣きじゃくる様を漏れ聞いていたのだ。
だが、朝会ってみれば、どうしてかとても元気そうだった。茅乃はそれに安堵した。
事情を知っているからこそ、彼女は瞼の腫れについてずれた言い訳をする蝶夏に深く突っ込むまいとしたのだった。
その日、蝶夏が着せられたのは昨日よりも地味な小袖だった。薄青の地に小花が散った夏らしい装いだ。
部屋を移動すると、今日も先にきていた信長が座っている。
茅乃が何も言わずにご飯を盛る。
「あのさ。……今日ってどこ行くの?」
今朝突きつけられた「借り」について尋ねるのは、墓穴を掘りかねないと判断した蝶夏は、別の事を聞いた。
顔を上げた信長は片方の眉を僅かにあげた。
……答えない。
「無視かっ」
「黙秘する」
きいっと喚いて腕をばたつかせる蝶夏に、茅乃が茶碗を渡して黙らせる。
茅乃は蝶夏をあしらう為のスキルが着実に上がっていた。
食事が終わりお茶を楽しんでいる間に茅乃がもう一枚着物を持ってきた。被衣と言って、外出時には必ず女性が被るものらしい。
「うえ。そんなの被ったら暑いよ。動きにくいよ」
顔をしかめる蝶夏に茅乃が言う。
「ですが蝶夏様、今日は日差しも強うございます。日除けにもなりますよ」
「うう。でもなあ……」
確かにまだまだ夏の日差しは強い。日焼け止めも塗っていない蝶夏としてはUV対策が気になるところだ。
しかし何しろ、今日も暑いのだ。どう考えてもメッシュ素材などではない被衣の下でどれだけ汗をかくだろうか。考えただけで恐ろしかった。これで蝶夏がフルメイクだったら某恐怖映画のモンスターより恐ろしい生物になるだろう。
まごつく蝶夏の横で信長が「貸せ」と言って茅乃の腕から被衣を奪い取った。
問答無用で蝶夏に被せて整えていく。
妙に手際が良い。
……女たらしスキル?
心の中で蝶夏が呟くと、聞こえた訳でもあるまいに、信長の視線がこちらに向く。
出来上がった蝶夏を、一歩下がって確認した信長は小さく頷く。
「これでいい」
「ありがとー」
実に気のない様子で蝶夏は礼を言った。
その顔を覗き込むと、信長は蝶夏の手首を握った。
「蝶夏、お前はもう橘姓を名乗るな」
意味がわからず首を傾げる蝶夏に、彼は続ける。
「姓は家を示す。橘の家と縁続きかと詮索されるのは面倒だ。姓を名乗らなくとも特に気にする者はいない。問われたら名だけ名乗れ」
「えーと、つまり、知らない橘さんに間違われない為?」
「少し違う。お前が俺の傍に居る事で、お前を利用しようとする者共が出てくるだろう。そいつらは姓が同じというだけでお前を自身の娘に仕立て上げかねん。利益を貪りたい輩は己が欲望の為になんだってするだろう」
聞いているうちに蝶夏の視線が白けたものに変わっていく。
「……なんか、信長のせいっぽく聞こえるの、気のせい?」
くっと喉に掛かるような笑い声を信長が立てる。
「お前の観点は実に愉快だ」
「あたしは、全然愉快じゃない!」
膨らんだ蝶夏の頬をさらりと撫ぜると、信長は踵を返した。
「あまり喚いていると日が暮れる。行くぞ」
手首を掴まれたままの蝶夏は引き摺られるようにして歩き出す。
その背後に茅乃と方輔が続いた。
どかどかと廊下を歩く信長の後ろで蝶夏は二人に聞く。
「二人も一緒に行くの?」
茅乃がにこやかに答える。
「私はご一緒致しません。ですが、方輔殿は参られますよ」
「はい。御供仕ります」
「わわ。宜しくね~」
何て言っているうちに信長が草履を履いていた。
一段高いところでその様を見ていた蝶夏は、目を瞬いた。
地味派手だ。
信長の、標準より大きいだろうその素足に履いたのは、黒地に金糸で細かな模様の刺繍を入れた鼻緒の草履だったのだ。
「蝶夏様はこちらをお履きください」
そう言って茅乃が差し出したのは紫と白の市松模様をした太めの鼻緒の草履だった。
足を差し入れるとすんなり収まった。誰かが既に使っていたものなのか、鼻緒が柔らかい。
「まあ。ちょうどよさそうですね」
茅乃が足元に屈み込んで具合を確かめながら言った。
「私の使っているものなのですが、小さくなくて良かったです」
茅乃は蝶夏より小柄だ。その彼女の草履がぴったりと言うことは……。
「お前、足が小さいな」
ぐさっと来た。身長の割りに足が小さい。数多くある蝶夏のコンプレックスのうちの一つだ。
160cmの身長に22cmの靴を買う悲哀を知らない男を睨み付ける。何が悲しいって、まず、バランスが悪い。こけやすい。更に、違うサイズなのに同じ靴を買うとなんと同じ値段なのだ。不経済だ。
しかし、この程度で拗ねていては茅乃のような大人の女への道は遠ざかるばかりだ。そう思った蝶夏は、つんっと顔を背けて信長の台詞を無視した。
傍からみると、拗ねてぷいっと横を向いたようにしか見えないとも知らずに。
未だに信長に手を引かれながら蝶夏は那古野城内を進んでいた。平屋の建物が並ぶ中、区画を分ける様に木の柵が設けられている。足元はアスファルトなどではなく、固められた土だ。下草や木も生えているが、きちんと整備され、荒れた印象はどこにも無い。
でもなあ……、と蝶夏は思う。城、と言われて思い描く石垣も白塀も無いのだ。彼女の知る名古屋城や姫路城の象徴とも言える天守閣なんて欠片も見当たらない。
「まるで、……吉野ヶ里遺跡?」
佐賀県にあるその遺跡には再建された物見櫓がある。この那古野城にも、少し向こうの方に似たような高い建物があるが。だが、規模から言えば、むしろ吉野ヶ里遺跡の方が立派そうに見えた。
戦国大名、戦国武将といった大まかな括りでしか『織田信長』という存在を蝶夏は知らない。親友である小金井ひよりならいざ知らず、尾張を手中に収める前の彼の現状等彼女には知る由も無い。
それにしても、と頭が切り替わる。
会う人物会う人物が大股に進む信長に頭を下げる。
一昨日、蝶夏を抱えた信長が歩いている時は、「何も見なかった」という顔でそそくさと姿を消したのとは対照的だ。
同時に、好奇の視線が蝶夏に寄越される。
幸い、彼女への視線は信長に着せられた被衣によって遮られていた。
それでも感じる視線に居心地の悪さを覚えながら行くと、信長は他より大きめの建物に入っていった。
鼻につく臭いが僅かに漂う。だが、不快に思う間も無く、風に流れてしまった。
蝶夏は歩みを緩めた信長の脇から中を伺う。
嘶く声がする。
「わあ! うま、がもがいぐ~」
上げた歓声は後半を大きな手に塞がれた。
「騒ぐな。馬が驚くだろう」
蝶夏の口を塞いだ張本人が言う。
「蝶夏様、馬は繊細な生き物です。大声を上げると興奮してしまいますよ」
茅乃が親切に口を添える。
口元を覆う冷たい手を外しながら、蝶夏は反省した。そういった話をどこかで聞いたことがあったからだ。従兄弟の豆知識かもしれない。
「あっ、そうだったかも。ごめんー」
近くに居た馬が苛立った様に蹄で地面を引っかいている。
そっちにも向けて蝶夏は「ごめんねー」と謝罪した。
「茜丸を出せ」
建物の奥から顔を出した小柄な男に信長は命じた。
「準備は終わっております。すぐに」
そう言って一頭ごとに柵で区切られている部屋の一つに入っていった。
出てきた彼が連れているのは一際大きな黒馬だった。既に鞍が乗せられ、鐙と手綱が付けられている。
「でっ…………………」
でかい、と叫ぼうとした蝶夏は自分で自分の口を塞いだ。先ほど注意されたばかりだ。またしても隣の馬は蹄を地面に打ちつけている。
しかし黒馬の方は動じもせず、自ら主の元へ歩いてきた。小男の先導などてんで無視だ。
信長の近くで止まると、鼻面を彼の腕に擦り付け始めた。視線は蝶夏を向き、まるで「こいつ誰?」と信長に聞いているようだ。
鼻を擦り付けられていた腕で茜丸の顔を蝶夏の方に向けると、信長は言った。
「蝶夏、茜丸だ」
大きく円らな瞳が蝶夏を覗き込む。
「えと。あたしは蝶夏。宜しくね、茜丸」
友好的に行こうと蝶夏は鼻先を撫でる為に手を差し出した。その手に茜丸は顎を乗せた。
「…………………。挑戦的だね、茜丸」
むかついた蝶夏は声を低める。
やるのか、この野郎。的な気分になった蝶夏に、黒馬は「はっ」と言わんばかりに顎を上方に振り上げる。明らかに蝶夏を見下している。
その時、光の加減なのか、一瞬茜丸の瞳が赤味がかって見えた。蝶夏は目を瞬く。
「茜丸、その辺にしておけ。今日は蝶夏を乗せるのだからな」
その言葉に茜丸は明らかに不満そうな顔をした。蝶夏もした。
こいつに? このでっかいのに?
そんな心の声が聞こえたように信長は笑う。
「一人で乗れるなら一頭ぐらい貸してやるが、お前、馬など操れんだろう」
全くその通りな蝶夏としては頬を膨らませるくらいしかすることが無い。
乗馬クラブに顔を出すくらいはしておけばよかったか……。
茜丸の手綱を引いた信長と蝶夏は馬房の外に出た。茅乃と、やはり小男から馬を渡された方輔も出てくる。
すると前方に男が二人いた。年は信長と同年代で、格好も彼と似たり寄ったりな小袖に袴だ。腰には大刀と小刀を履いている。その背後には馬が二頭いた。
信長が近づけば、背の高い方の男が丁寧に礼をする。
「おはようございます、信長様」
鷹揚に頷く信長に、もう一人が軽く礼をする。
「おはようございます。ところでそちらが?」
と、蝶夏に視線を送る。
「ああ。お前ら、名乗れ」
なんとも大雑把に命じる。それから蝶夏の手首を開放すると、その手で彼女の背中を押して前に出す。
聞いてきた方の男が目の前だ。
彼は蝶夏と同じくらいの身長で、顔立ちは丸っこく、誰かを彷彿とさせる。
「やあ、始めまして。わたしは池田勝三郎恒興。信長様の乳兄弟だよ」
にこにこと笑いながら言う。
「あれ、乳兄弟って……」
「うんうん。君のお世話をしている茅乃は僕の姉だね」
いきなり一人称が「わたし」から「僕」に変わる。
「戻っていますよ、勝三郎」
蝶夏の背後に立っていた茅乃が前に進む。
指摘を受けた弟は「やっちまった」という顔をして肩を竦めた。どうやら「僕」を使うほうが地らしい。
「茅乃の弟さん?」
「ええ、そうですよ。まったくどうしようもなく不肖の弟ですが、どうぞ宜しくお願い致します」
地味に辛らつな事を言いながら茅乃は和やかに笑う。「勝三郎がそんな言い方ないじゃないか」と唇を尖らせた。どうにも子どもっぽい仕草の抜けない男だ。
すると今度はその脇に居た男が背筋を伸ばして言った。
「私は丹羽長秀と申す」
堅苦しい物言いにぴったりの角ばった顔立ちだ。背は信長より僅かに低いが、蝶夏から見れば長身に違いない。
「万千代だ」
信長が言い添えると、長秀は顔を顰める。少し機械じみた動きだ。
「信長様、幼名で呼ぶのはおやめください」
「わかったわかった」
あからさまにその言葉を気にも留めていない信長は手のひらを振る。
それを見て、長秀はそっと溜息をつく。
その様をまじまじ見ていた蝶夏は、可哀想にと同情の視線を送った。彼も信長に振り回されているかと思うと、ロボットっぽい顔にもわずかばかりの親近感が沸くというものだ。
そうしていると、信長が蝶夏を見ていることに気付く。
何かと思って首を傾げると、二人の方に顎を向けた。その仕草で、自分にも名乗れと言っていることに気付いた蝶夏は二人に向き直った。
「た、…………」
橘、と言いそうになったところで隣からひんやりとした空気を感じる。
あわわっと一度口を閉じて言い直す。
「蝶夏、です。よろしく」
首だけで礼をする。
対する二人の態度はこうだ。
勝三郎は「はいよろしくね」とにこりと笑う。
長秀は片眉をぴくりとさせて苛立ちを示す。
どうやら外出のお供はこの二人に方輔を加えた三人らしい。
「そろそろ行くぞ」
そう信長が言うと、皆馬に跨った。
さてどうしたものかと信長を見上げると、彼もこちらを向いた。
「蝶夏、馬の腹は蹴るなよ」
そう言うや蝶夏の腰を掴み上げ、あっという間に馬上に横乗りさせた。声をあげる間ない。
彼はその後ろに鮮やかに跨ると、先頭を進み出した。
茅乃が背後で「お気をつけて」と言っているのが聞こえて、蝶夏は手綱を握る信長の脇から顔を出して、彼女に手を振った。
四頭の馬は、大きな門を抜けると城を囲む堀に架けられた橋を渡り、城下を進んだ。
周囲には平屋の建物がまばらに並んでいる。あれは誰の家かと蝶夏が聞けば、信長は自分の家臣の家だと答えた。勝三郎や長秀もそこから毎日登城しているそうだ。
簡素な家が並ぶ中で、やはり堀を巡らせ木の塀で囲われた那古野城は特別なことが窺えた。
信長が馬首を向けた先は北西。大分高くなってきた太陽の光を背中に浴びて歩む。集落を抜けると、固められている地面から徐々に短い下草の生えた荒れた道になっていく。
急ぐ用向きではないようで、その速度はゆっくりとしたものだ。同じ方向に行く者を追い抜いたり、向こうから来る者が脇に避けて頭を下げていたりした。どうやら皆信長の顔を知っているらしい。
徐々に武士らしい格好のものが減り、荷物を背負った商人や荷車を引く農民が目立ち始めても、彼らの反応はあまり変わらなかった。
茜丸はぽくぽくと小さな揺れを作りながら進む。それがまた蝶夏に居心地の悪さを与えた。
なぜなら、鞍の上は狭いのだ。多分一人で使う物では無いのだろうが、それにしても狭い。頑張って前方に寄って隙間を作ろうとするが、それも馬上の揺れですぐに縮まってしまう。それでも蝶夏は往生際悪く時折足掻いた。
じりじりと前方に進むと、ずるずると信長の方へと摺り落ちる。じりじり、ずるずる、じりじり、ずるずる、これを繰り返していると呆れた声が頭上から降ってきた。
「先ほどから何をやっている」
「だって、狭いんだもん」
「馬上でじたばたするなど、阿呆か、お前は」
当然の言い分に蝶夏は黙して唇を尖らせた。
「あまり動くと茜丸の気を損ねるぞ。これは、俺以外にはただの暴れ馬だ」
ぎょっとして茜丸の鼻先を見ると、こちらを振り向いた。馬の目が言う。「蹴ったら落とすぞ」と。
まさか信長と乗っている時に落とされることはあるまいが、身の危険を感じた。
小さく吐息をついて蝶夏は身動きを止めた。
「馬に負けた……」
悔しげなその言葉に信長の肩が小さく震えた。
次第に周囲に田畑が増えてきた。畦道が縦横に伸びている。青々とした草が茂っているところもあれば、乾いてひび割れた土地もある。休耕地という言葉を知らない蝶夏にしてみればサボりかと思ってしまう有様だ。
大きな木が枝を伸ばす、少し開けた場所に出ると、信長は茜丸の手綱を引いた。従順な黒馬は抗う事無く足を止める。
「少し休憩をとる」
そう言って彼はさっさと地面に降り立った。蝶夏の腰を掴むや彼女のこともあっさり馬から降ろしてしまった。
他の三人も下馬して近づいてくる。
方輔が腰に下げていた竹筒を蝶夏に差し出した。
「蝶夏様。水はいかがですか? 喉が渇かれたでしょう」
日差しは信長の大きな背中と被衣が防いでいてくれた為、そんなに渇きは感じていなかったが、折角の方輔の気遣いだ。
「じゃあ、いただきまーす」
素直に受け取って手の中の竹筒を見下ろす。小さな穴が開いている側を口に運び傾けると生温い水が流れ込んできた。
二口、三口飲んで、方輔に返す。
「ありがと」
受け取った方輔は竹筒の口に細い栓をして、再び腰に下げ直した。
振り返れば信長は大木の下に座り込んでいる。勝三郎はその傍らに胡坐をかき、長秀はじっと佇んでいた。
やっぱり和製ロボットか……。
と、蝶夏がくだらないことを考えていると、遠くから歓声が聞こえた。
そちらに目を向ければ、蝶夏を庇う様な位置に方輔が居た。既に歓声の方に目を向けている。
「村の子どもらです」
方輔が言う通り、十数人の子どもたち笑いながら駆けて行くところだった。
一際小さい子どもが置いていかれて集団に向かって何事か叫んでいる。
追いすがって走り始めて、派手に転んだ。
蝶夏は咄嗟にそちらに足を向けた。
「蝶夏さま?」
方輔が怪訝そうな声をあげて付いて来る。
「おやおや~。手を差し伸べてあげるのかな?」
転んだ子どもの方に歩いていく蝶夏を離れて見ていた勝三郎が面白がって言う。
「あの子は、優しい子ですか?」
主である信長に聞けば、長秀が「下らない」と言うように顔を顰める。相当蝶夏のことが気に食わない様子だ。
聞かれた主の方は、立てた片膝に肘を置き、その手の甲に顎を乗せた姿勢で気の無い風に答えた。
「さあな」
「ほーんと、信長様の興味の持ち方って掴めませんね。困った困った」
全く困って見えない癖に勝三郎はそう言った。
さて。子どもに近づいていった蝶夏は、転んだ体勢のままで顔を歪めるその子の目の前に立った。
ああ、今にも泣く。
そう、方輔が思った時、高らかな音が周囲に響いた。
ぱぁん……
ぎょっとして彼が音の方に目を向けると、蝶夏が両手を合わせていた。手を打ち鳴らしたのだ。
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている子どもに、腰に手を当てて言う。
「はい、立つ!」
思わず、と言ったように子どもは立ち上がった。
代わりに蝶夏がしゃがみ込んで、どうやら男の子らしいその子の顔を覗き込む。
「よし。痛いところは?」
聞くと、子どもは涙の浮かびかけた瞳を瞬いて、それから首を振った。
「いたいとこ、ないよ」
確かに、あちこちに土ぼこりは付いているが怪我らしいものは見当たらない。
蝶夏は彼の服の汚れをほろってやる。紅葉のような手の平や短い着物の裾から覗く膝小僧を見た。
「うん。怪我は無いね。よく泣かなかったね」
そう言って、頭を撫でてやると、子どもは少し誇らしげに笑った。
「えへへ。ぼく、ゆうた。おねえちゃんはだあれ?」
「おお。ちゃんと先に名乗るなんて、偉い子だ~」
更に撫でて続けると、さも嬉しそうに笑い声を上げる。
「あたしは、蝶夏だよ」
「蝶夏様……」
諌める様な口調で方輔が口を挟むが無視だ。
「ちょうか、おねえちゃん?」
「そう。ひらひら空を飛ぶ蝶々に、はるなつあきふゆの夏で、蝶夏」
「ぼく、ちょうちょう好き!」
「奇遇だね、あたしも大好き」
蝶夏が笑うと、ゆうたは満面の笑みを返してきた。
笑い合う二人を見て、「意外な展開~」と勝三郎が小さく拍手していた。
「まさか、まさか。泣かせないとはね~」
彼は、恐らく長秀も、蝶夏は泣き喚く子どもを介抱する為に近づいたのだと思っていた。ところが、泣きだす前に事を納めてしまったのだ。むしろ一瞬叱り飛ばしさえした。
勝三郎の瞳には好奇心が浮かび、長秀の瞳にも僅かながらその色が見えた。
信長はほんの少し唇の端を上げていた。
「ゆうた!」
そこに先ほどゆうたを置いて走り去った子どもの集団が戻ってきた。先頭に居る十歳ほどの少年が子どもの名前を呼ぶ。
「あ。にい」
ゆうたが蝶夏の傍らで彼を呼んだ。
「にい、って……」
「兄、でしょうね」
舌足らずな言葉を繰り返した蝶夏に方輔が注釈を入れてくれる。
子どもたちがあっという間に蝶夏たちの前に集まった。
「お前、なにやってんだよ!」
ゆうたの兄だと言う少年が、弟を怒鳴りつける。怯えたゆうたは蝶夏の背に隠れてしまった。
だから代わりに蝶夏が答える。
「転んじゃったのよ。あんたたちを追っかけてる途中で。でも泣かなかったもんね?」
背後の子どもに笑いかければ、ほっとしたように笑い返してくる。
「うん。ぼく泣かなかったよ」
「お前が?」
兄に疑われて、ゆうたは可愛らしく唇を尖らせる。
「泣かなかったもん!!」
ちょびっと前に出て言い返す。
「いっつも泣いてばっかりのお前が?」
更に疑って掛かる少年に蝶夏は待ったをかける。切りが無さそうだったからだ。
「はいはい。その辺にしといて。で、君はこんな小さい弟をほっといて、どこ行ってたの?」
その言葉に、少年が「うっ」と詰まる。背後の同年代らしき子らも気まずそうに視線を泳がせる。
言いたそうな、言い難そうな顔をしているから、蝶夏は「ん?」と首を傾げて、先を促した。
「こいつ、一番小さいくせにいっつも付いてくるから、置いていったんだよ!」
やけくそのように少年が叫ぶ。
周囲も同意を示して頷いたり声をあげたりした。
「でも、ちゃんと迎えにきたんでしょ?」
この少年が、蝶夏と一緒にいるゆうたを見てあげた声には明らかに心配する様子が見えていた。邪険にするが、やはり弟なのだ。守ろうと言う意思がある。だから蝶夏は彼の頭にも手を伸ばす。
「お兄ちゃんだもんね。偉いぞ!」
子ども扱いにむすっとした顔をしながらも、少年は蝶夏の手を払ったりはしなかった。
逆に、ぶっきらぼうに聞いてくる。
「あんた、誰?」
「お前っ」
咎めようとする方輔に「ほーすけ」と名前を呼んで黙らせる。
緊張しかけた空気を壊したのはゆうただった。
「にい、なまえ聞くときは、先に自分のなまえゆうんだよ」
先ほど蝶夏に褒められたのが余程嬉しかったらしく、ちょっと偉そうに言ってくる。
弟の常と違う様子に怪訝そうにした少年だったが、まあいいかと意識を切り替えたらしい。
「おれは、しょうた。親父はそこの村で年寄をやってる。弟が世話になったみたいだから、一応、礼を言っとく」
年寄とは、村の中でも指導者的な地位を占める存在だ。その子どもだからなのか、しょうたは一端の口を利いてきた。
しかし、その後に後ろの子どもたちが続いたものだから、あまり締まらなかったのが残念だ。
「おれ、からや!」
「おれはとうき」
「ぼ、ぼくはアオイオリ」
「かほは、かほっていうの」
等等、蝶夏に詰め寄るように口々に言ってくる。
皆が一頻り自己紹介を終えたところで蝶夏は自分も名乗った。
「蝶夏っていうの。よろしくね」
「ちょうちょうさんなんだよ!」
ゆうたがそう言って、蝶夏に「ねっ」と言って小首を傾げる。蝶夏もそれに微笑みながら返してやる。
「ふうん。で、蝶夏ねえは、信長様の知り合いなの?」
しょうたが、少し離れた大木の下に腰掛ける信長を見ながら聞いてくる。
他の子どもたちが信長の名前を聞いてざわつき出す。
「えっ信長さま?」
「どこ? どこ? いるの?」
「あそこの桜の木の下に座ってる」
視線だけを向けてしょうたは、信長の位置を他の子らに教える。
皆の視線がそちらに向く。蝶夏も振り向いてみたが、信長の顔までは判別できない。木の下にいる三人の男の区別も怪しいくらいだ。
茜丸がいるからわかったのかな?
一際大きい黒馬を眺めて、蝶夏はそう思った。
「で? 知り合い?」
しょうたが再び聞いてくる。
少年の方を向いて蝶夏は首を傾げる。
「う~ん。やっぱりそうなるのかな?」
はっきりしない答えを返す蝶夏に、しょうたは更に次の質問をぶつける。
「じゃあ、側室になるの?」
「えぇ?」
蝶夏は大きく瞬いた。
「だから、蝶夏ねえは、信長様の側室になるのかって聞いてんの」
しばし、その質問を頭の中で反芻して、蝶夏は止めていた息と共に返答した。
「まさかっ!」
なぜそういう発想になるのか。
「だって、信長様って二年くらい前までは普通にここいらをうろついてたけど、女連れてきたのは初めてだし」
「信長が女の人連れてたら、その人たちみんな側室になっちゃうわけ? そんな馬鹿な!」
この村の領主でもある信長を呼び捨てにした蝶夏の台詞に他の子どもたちは再びざわつく。
蝶夏は構わず立ち上がる。
別にしょうたを威圧しようとか、そういう意図は無かった。ただ、言うべきことを言うべきだと思ったのだ。
腰に両手を当てて、腰を屈めてしょうたに顰めた顔を近づける。
「いーい!? あたしは一夫一妻制推奨派なの!」
「いっぷいっさいせい?」
「一人の夫に、一人の奥さん!」
「あ~、うちのおっとうとおっかあのことだ」
嬉しげに言うゆうたの頭をさらりと撫でて「そうだね」と頷く。
「つまり、正室と側室のいる信長様は嫌いってこと?」
あっさりストレートに聞いてくるしょうたに方輔がぎょっとした顔をする。
蝶夏は今度は胸を張って答えた。
「嫌いかどうかはまだわかんないけど、正室だの側室だの、女の人に優劣つけるような男はいや!」
その時、背後から声がした。
「蝶夏」
全身に震えが走るほど艶めいた声だ。こんな声を持つ男はたった一人しか知らない。
何よ、と蝶夏が振り返る前に甲高いが小さい悲鳴が聞こえた。
わっ、と子どもらが走って逃げていった。
しょうたはそれを見ていたが、つられて走り出した弟を追いかけて行ってしまった。
呆気にとられて蝶夏はしばらく固まっていたが、そのうちに腹筋が震えてきた。
「ふっ……………」
「なんだ」
信長の問い掛けに我慢が出来なくなった。
「あははははははははははははははは!」
本当は彼を指差して思い切り笑いたかったが、それはさすがにまずいと思い、背中を向けたまましゃがみ込んでお腹を抱えた。
「こ、子どもに好かれるタイプじゃ絶っ対ないと思ってたけど、けど、まさか、あんな、……く、クモの子を散らすように逃げるなんて!!」
笑い過ぎて横隔膜が痙攣を起こしかけている。結構痛い。
「ちょ、蝶夏様、そろそろ収められたほうが……」
方輔の諌める声も、今や蝶夏の笑いを増幅させる効果しかない。
それでも笑いを堪えようと努力する蝶夏の上に濃い影が落ちる。
「いい加減にしないと、ここで奪うぞ」
耳元でひんやりとした声が囁く。
もちろんこの男が奪うものなんて分かりきっている。
ぴたっと笑いが止んだ。
そろそろと振り向くと、既に信長は元の姿勢に戻って蝶夏を見下ろしている。
「蝶夏様、大丈夫ですか?」
方輔が心配そうに聞いてくる。
立ち上がり、お腹を擦りながら蝶夏は答える。
「うん。大丈夫。なんか、一気に血の気が引いたせいで、収まっちゃった」
横目で信長を睨み付けながら言うが、当の本人は涼しい顔だ。
「それで、子ども。何の用だ」
蝶夏の背後に視線を送りながら信長が唐突に言うものだから、方輔と蝶夏は驚いて振り返った。
先ほどの集団の中に居たのだろう、見覚えのある子どもが道の真ん中、蝶夏のすぐ脇に立っていた。しょうたよりは年少だろうその少年は、ぱさぱさと跳ねる髪が少し緑がかっていた。
「あれ、君、さっきの」
蝶夏が声を掛けると、少年はこくっと首を縦に振る。
「うん。ぼく、アオイオリっていうんだ」
手を蝶夏に伸ばす。
握手かなと不思議に思いながらも蝶夏はその手を取った。しっとり、というよりもじっとりと水を含んだような感触に驚くが、手は離さなかった。
そして、彼の指が少し変わっているのに気付いた。
「あのね、ぼく、向こうの『みまち池』の水神様のところにいるんだ」
「水神様?」
「うん、そう。でね、水神様がお姉ちゃんのこと心配しているの。だから、ぼくにお使いをたのんだの」
「おつかい?」
「そう。もしも、お姉ちゃんが困ったら、いつでも『みまち池』においでって」
「……えと、水神様がどうしてあたしを心配してくれるの?」
全く話が見えず、蝶夏が聞くと、あおいおりは少し声を潜めて言った。
「あのね、信長様は、血の臭いがするからって。お姉ちゃんが巻き込まれたら可哀想だからって言ってたよ」
「貴様っ」
主への侮辱に、方輔が腰のものに手を伸ばす。
アオイオリの方を向いていて、その様子が見えない蝶夏はしみじみと言った。
「まあ、そうだろうね」
二日前の晩にあれだけ蝶夏の血を啜っていれば臭いもするだろうと。
方輔が蝶夏の返答に固まってしまう。
「えっ、いいの?お姉ちゃん、それでいいの?」
事情を知らなければ驚くのも無理は無いだろう、と蝶夏は微妙に勘違いしたまま答える。
「いいか悪いか聞かれると、かなり悪い、かな」
うんうんと首を振る蝶夏に、「くっ……」と今度は信長が笑いを零した。
それを見て瞬いたアオイオリは、ふっと空を見上げると、しばし身動きをしなかった。
蝶夏が声を掛けようと思った瞬間、「はい」と頷いてから、こちらを見た。
「あのね、とりあえず、大丈夫そうだからって。水神様が帰って来いって」
蝶夏の手を離してアオイオリは踵を返した。
ひらひらと手を振りながら走り去ってしまった。
「……あの子」
先ほどまで握り合っていた手を眺めながら蝶夏が呟くと、信長が答えた。
「カワワラベ、だな」
「カワワラベ?」
問い掛ける蝶夏の手を信長は掴んだ。アオイオリと繋いでいたほうの手だ。
「こっちでは『河原小僧』、他の地域では『河童』とか言ったか。そういう妖怪の血を引く者共の総称だ」
「河童……。あっ、だからあの子、指の間に水掻きがあったのか!」
蝶夏があの子の手を握って気付いたのはそれだった。
「でも、水神様のところにいるって、村でもあるのかな?」
「それは無い。あの土地は手狭だ。恐らくあの子どもは両親を失って水神に保護された類だろう。水の眷属同士ならよくあることだ」
「ふうん。優しいんだ。あたしのことまで気にしてくれるなんて」
「同族意識が強いだけだ。それに、お前のことはわかりやすい」
「なに?」
「あの水神は俺のことが嫌いなだけだ」
「つまり、あたしのことはおまけっていうか、当て馬? 神様なのに、対抗意識、みたいな感じ?」
「そうだな。大体、お前が水神の元に言ったところでどうしようもないだろうにな」
何を考えているのやら、そう言いながら信長は勝三郎らを残してきた大木の方へと戻り始める。
「どうしようもないって?」
先を歩く背中を小走りで追いながら蝶夏が聞くと、彼は首だけで振り向いて笑う。
「お前、水の中で息ができるか?」
「出来るわけないじゃん!」
実はまだ握られていた腕をぶんぶん振って否定する。
引き剥がす意図では無く、ただ興奮するに任せて振られている腕をそのままに、信長は「だろうな」と言ってまた笑った。
「ねーえねえ」
「何用だ」
一見すると仲良く手を繋いでいるようにも見える二人(実際は一方的に捕まれているだけだが)を遠目に眺めながら勝三郎が長秀に声を掛ける。
「あの子、まだ警戒する必要あると思う?」
顔中でにこやかに笑いながら問う足下の男に視線を移した長秀は一瞬困ったような顔をした。しかし、すぐにいつもの四角い顔に戻った。
「用心に越したことはない」
「まあ、そうなんだけどね」
同意を示して勝三郎は立ち上がる。
少し意外そうに長秀は彼を見た。てっきり反論でもしてくると思ったのだ。
「いやあ。貴重だね」
「何がだ」
「長秀殿にそん顔させるなんて。蝶夏殿は大物になっちゃうかもね~」
眉間の皺を深くして、長秀は溜息をついた。
……やはりこのお調子者は役に立たない。