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四、こころが零れ落ちる夜

 まだ日も高い頃、夕食が用意された。

 蝶夏の感覚と日の傾き具合から言ってまだ三時くらいだ。

 夕食は玄米ご飯に汁物と煮魚に野菜のお浸しがついてきた。これまた薄味で食材の風味豊かな食事だった。

 のんびりと時間を掛けて食べ終わると、「落ち着きましたらお風呂に入られませんか?」と茅乃が言う。昨日はいっていないことに気づいた蝶夏は一も二もなくその提案に飛びついた。

 茅乃に付き添われて湯殿に行くと、裾と袖を捲り上げた格好の女性たちが数人いた。風呂の準備をしていてくれたらしい。

 茅乃と蝶夏に気付いた彼女たちは端に寄り平伏へいふくする。

「さあ、蝶夏様、お風呂ですよ」

 にこにこと笑う茅乃に蝶夏は聞いた。

「ねえ、あの人たちって、お風呂の準備してくれたんだよね?」

「ええ。風呂番の者たちです。何かありましたか?」

「え。ううん。お礼いっとこうと思って」

 そう言って蝶夏は彼女たちの前に膝をついた。

「準備してくれてありがと。えーと、使わせてもらう、います」

 丁寧に言っておこうと思うが、やっぱり敬語の語尾でつっかかった。がっくりだ。

 それに対する風呂番の女たちの反応は驚きの一言に尽きた。目がしこたま大きくなって、固まってしまったのだ。

 うおう。あたし、なんか、まずった!?

 焦る蝶夏に、茅乃は「お礼は済みましたね。さっ、参りましょう」とてきぱき対処する。


 お風呂は、気持ちよかったんだか何なんだか……。

 同じ女性とは言え茅乃に素っ裸をみられるのはずかしー。なんて蝶夏が思っていたら、脱がされたのは白い襦袢という下着までだった。なんと着衣のまま入るというのだ。

「濡れるじゃん」

 蝶夏の高速突っ込みに茅乃は動じもせず「まあまあ、こう言うものです」の一点張りで入浴が済まされた。

 あれ、段々茅乃の説明が省かれていくぞ? 適当に済まされていくぞ?

 蝶夏は首を捻るが、そこは熟練侍女の茅乃に軍配が上がり、気付けば濡れ髪の蝶夏が脱衣所に座っていた。

 あれー……?

 座らされた蝶夏の後ろで、茅乃はとんとんと叩くように髪を乾かしていく。

「蝶夏様の御髪はとても艶やかでお綺麗ですね。波打つ様子が可愛らしい」

 二ヶ月に一回は美容室に行ってトリートメントしてるもんっ

 蝶夏は心の中で腰に手を当ててふんぞり返る。

 もうちょっとしたらバイトも始めて、そしたらヘッドスパだって出来るようになるかもしれない……。

 そこまで考えて、蝶夏は続きを考えるのを止めた。

 止めないと……。

 ぶんぶんと首を振って、内にこもり始めた思考を分散させる。

「まあ。どうしました。痛かったですか」

 茅乃が驚いて声をあげる。

 我に返った蝶夏は、振り返って謝った。

「あ。ご、ごめん。ちょっと、えと、おでこにかかった髪が痒くって」

 つたない嘘で誤魔化す。

「あら。今避けて差し上げますから、じっとしてください」

 茅乃の暖かくてふっくらした指が蝶夏の額を優しく撫でて、髪を払い除けてくれた。



 随分ゆっくり風呂場にいたようで、外はすっかり夕暮れの空だ。木と白壁で出来た建物の合間を赤い輝きが抜けている。反対の空からは鈍色にびいろの闇が追いかけてくるようだった。


 湯冷めしてはいけないと茅乃に寝巻きの上から一枚小袖を着せられた蝶夏が連れて行かれたのは、今朝目覚めたのと同じ部屋だった。

 要するに、信長の部屋だ。

「しかも、また布団一枚だし……」

 蝶夏は頭を抱えた。

 その脇でちゃくちゃくと寝支度を整えていく茅乃に蝶夏は訴えた。

「ねえ。お願いだから別の部屋用意して! あんな危険人物とじゃ安眠できないよ!」

 それを聞いた茅乃は作業を中断。

 頬に手を添えて暫し考え込んでいたが、やがて小さく息を吐き出すと、蝶夏に座るように促した。自身はその前に正座する。

「蝶夏様。これは恐らく信長様なりの気遣いなのです」

「キヅカイ……」

 思わぬ言葉を聞いた蝶夏は思わず片言になる。

 そっと頷くと、茅乃は続ける。

「昨年、信長様のお父上、信秀様が亡くなられ、信長様は弾正忠だんじょうのじょう織田家の家督かとくを継がれました。けれど、若輩である信長様を侮られる方は多く……。四月に一度戦がございました。つい先日も、清洲城、この那古野城より西に離れたところにあります。その清洲の城から兵が出て、戦になりました。皆、戦続きで気が立っているのです」

「いくさ……」

 蝶夏の様子を見るように、茅乃は一度言葉を止める。

 聞き慣れない言葉に戸惑いを感じるが、争い事があれば人の気が立つ、というのは何となくわかった蝶夏は、頷いて見せた。

「もちろん、信長様に従う者たちが蝶夏様に危害を加えるようなことはありません。ですが、皆が皆事情に通じている訳ではありませんし。万が一の事があっては大変です。信長様はそれを警戒なさっていると、私は思います」

「うーんと、つまり、…………信長の傍が一番安全、ってことぉ?」

 嫌そうに、というより不可解が過ぎて、蝶夏は口をへの字に曲げる。危険人物一号の傍が一番安全とは、全く分からない理屈だ。

 微笑んだ茅乃は首肯する。

「その通りです。それに、同室で休まれているとなれば、信長様のお手がついたと思われます。それは尚のこと宜しいでしょう」

「お手がつく…………??」

 明らかに意味のわかっていない蝶夏に、茅乃はご機嫌な笑みを深める。

 蝶夏は考えた。

 考えて、わかったのは、茅乃が嘘をつきっこないってことだ。

 この一日で蝶夏はすっかり茅乃が好きになっていた。ほんわか癒し系なのに、実はドライでクールなところがある。しかも、なんとも言えず大人の女だ。そんなところがとても好ましかった。姉がいるならこういう人がいい。

「…………………………わかった。ここで、寝る」

 かなりの葛藤の後、蝶夏はそう答えた。

 茅乃は、おっとりと微笑んだ。

 そうして立ち上がり部屋を出て行こうとする。

「あっ待って」

 その背中に蝶夏は声を掛ける。

「どうかなさいましたか?」

「上に掛けるものをもう一つ持ってきて欲しいの。あいつ、多分何も掛けないで寝てるから」

「すぐにお持ちします」

 


 上掛けを持って来てくれた後、茅乃は「おやすみなさいませ」と去っていった。

 一人になった蝶夏は日記を書こうと思い、部屋の端にある小さな机に向かう。

 今日、茅乃にもらったノートっぽいものを広げる。ごわごわとした紙の感触はなんとも新鮮だ。

 やはり茅乃が用意してくれた明かりは炎独特の揺らいだ輝きを放っている。

 その下でしばらく筆と格闘していた蝶夏は、そのうちに投げ出した。もちろんこの筆は信長の自室にあるのだから、彼のだろう。構うものか。

 ごろん、と畳に仰向けに転がる。

 逆様の屏風が目に入る。真っ白い地に薄墨うすずみで山水画が描かれている。太い筆で豪快に。

 ああ、お父さんが見たら喜びそうだな、と蝶夏は思った。

 蝶夏の父は高校の美術教師をやっている。熊のように顔中に髭を生やしていて、蝶夏は絶対に生徒からは「熊」と呼ばれているに違いないと常日頃考えていた。

 本人は陶芸を趣味としていて、時折個展も開いている。いつもは人の窯を借りて作品を焼いていたが、最近最新式の電気窯を買った。蝶夏は一緒に茶碗を焼く約束をしていた。

 母親は、しっかり者のキャリアウーマンだ。蝶夏の学費ローンを組んだのも、父の電気窯資金を貯金していたのも母だ。風来坊気質の父の手綱をしっかり握っている。厳しいことも言うが、真っ直ぐで誠意のある人だ。


 二人を思い出して、胸にぽっかりと穴が空いたような心地だった。

 いや、既に空いていた穴を夜の闇が暴き出したのだ。


 ぽろりと、蝶夏の目の端から暖かいものが零れ落ちた。

 驚いて彼女は飛び起きる。

 でも、涙は止まらない。頬を伝い、顎から畳に落ちて小さな染みを作る。

 手の甲で頬を拭う。次から次と流れ落ちるものの歯止めにもなりはしない。

 だめだ。ここじゃだめだ。ここで泣いちゃ、だめだ。

 膝立ちになってすぐ傍の障子に手を掛ける。

 しかしここで茅乃の言葉がよみがえる。

 手が止まった。

 小刻みに震えが走る。

 ここにいればいずれ信長が戻ってくる。そうすれば泣き顔を見られてしまう。そんなのは真っ平だ。だが、この部屋から出て行くのは無謀だと、もう、思ってしまっている。

 二つ並んで置かれている上掛けの一枚を広げて、それを被って布団の上にうつ伏せた。耳を塞いで、必死で涙を止めようと力を込める。

 喉の奥に詰まった嗚咽が、熱く、余計に零れ落ちる涙の量を増やしていた。

 その時、背中に大きな手が置かれた。

 ひんやりとした感触に蝶夏はびくりと全身を揺らした。

「どうした」

 信長の声がする。

 口を開けば、ダムの決壊のようになってしまいそうで、蝶夏は黙したまま首を振った。上掛けの端から黒髪が飛び散るように覗いた。

 聞いても無駄だと察した信長は蝶夏の肩を無理矢理引っ張りあげた。

 上掛けが捲れ、乱れた髪の隙間から涙に濡れた黒い大きな瞳が信長を見た。

 見られたっ。

 そう知った蝶夏は、平手を信長の眼前に突きつける。

「見るなっ」

 上擦った声で叫ぶ。

 突きつけられた手を信長が掴んで降ろす。

 再び蝶夏の顔が露わになる。

 咄嗟にもう片方の腕で顔を隠して、漏れたのは懇願こんがんの言葉だった。

「見ないでよ、……おねがいだから」

 搾り出すように、言った。

 ぐいっと蝶夏の体が引かれた。

 長い腕が体に回り、すっぽりと包まれた。蝶夏の頬に当たっているのは信長の胸だ。

「これで、俺には見えない」

 ぽん、と手のひらが蝶夏の背を叩く。

 まるで、押し込めているものを出せと言うように。

「…………たぃ」

 先ほどよりもずっと大粒の涙が瞳から零れた。

「帰りたいよぉ」

 ぽん、とまた背中を叩かれる。

「おとう、さん。おかあさん…………」

 口にしてしまえば、思いが溢れるばかりだ。

「会いたい、会いたいよ!」

 

 あああああああああああん、あああああああああああん………………


 蝶夏は声をあげて、泣いた。幼い時にそうしていたように。

 両手でぎゅっと目の前の冷えた体にしがみついて、声が枯れるほど泣いた。



 信長の腕の中では、泣き疲れた蝶夏が微睡まどろんでいた。時折鼻をすすっている。だが、体に回された腕以外はすっかり力が抜け、そう長くは持たずに眠りに落ちるだろう。

「眠るか?」

 そう問えば、緩慢かんまんな動作で首を縦に振る。

 それなのに、しがみつく腕は離れない。

「寝ないのか?」

 髪を撫でながら聞けば、信長の胸に顔を埋めたまま、蝶夏は言った。

「…………ひんやり」

 確かに信長の体温は低く、夏だろうが冬だろうが人よりも冷たい体をしている。今は蝶夏の熱が移って常より上がっているとは言え、それでも低い体温だ。泣いて腫れ始めた蝶夏の顔には気持ちが良いのだった。

 更に彼女はすす、と右に顔をずらして涼を求めた。

「おい」

 さすがに信長も眉を潜めるが、ことん、と少女の重みが増したのに気付いた。

「……寝たか」

 無理に引き剥がすのも気が引けて、蝶夏を抱えたまま横になる。

 しかし蝶夏の腕が体の下にきてしまうのに気付いた。

 小さく息を吐くと、右肘を立てて頭を支えた。体が浮いた僅かな隙間に蝶夏の腕がある為、潰さなくて済む。

「むぅぅ」

 姿勢を変えたからか、蝶夏がうっすらと瞼を開く。

「寝ていろ」

 声に反応したのか、首を反らして信長を見上げた蝶夏は微笑んだ。

「ありがと」

 舌足らずな口調で言うと、ぽとりと頭が布団の上に落ちた。

 彼女の瞼は既に腫れ始め、ぼってりとしている。

「これは、酷く腫れるな」

 そこで、信長はにやりと笑う。

「蝶夏、これは貸しだぞ」

 そう言うと、彼女の眦に唇を寄せた。









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