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三、最初の朝とは騒動の幕開けと読む

 話し声が聞こえた。

「――、起きたら、………―――」

 視界が白く、夜ではないことははっきりしている。

 蝶夏が目を開くと、廊下の手前に男が立っている。誰かと話しているようだ。

「む、ぅ……」

 どこかで見覚えのある跳ねた髪だとぼんやり思うが、如何せん、頭の中に真っ白い靄が揺らめいている。もそもそと起き上がり正座する。

 蝶夏のうなり声が聞こえたのだろう、立っている男、信長が振り向いた。

「起きたか」

「…………………………」

 沈黙する蝶夏を怪訝そうに眺めた後、近寄って来て顔を覗き込む。

「どうした。寝ぼけているのか?」

 ことん、と少女の頭が横に傾く。

「……おはよぉございます」

 妙なイントネーションで朝の挨拶をすると、なんとそのまま土下座した。土下座というより、上半身を折り曲げて、床にぴったりと額が着く。両手はどこということもなく投げ出されている。

「…………………………」

「…………………………」

 目の前でその奇妙な行動を見た信長と、彼と話していた為に廊下でそれを見る羽目になった茅乃は沈黙した。

 その間に、蝶夏の脳に血が巡りだした。

「うううううう。今日は腰が変」

 何故か折り曲げられている自分の体に疑問を抱きながら体を起こすと、意外な至近距離に信長がいる。

「えっうわっ、何?!」

 目の前の男は軽く首をひねる。

「覚えていないのか?」

 これまでの人生で何度も似たようなことを聞かれている蝶夏は、すぐに自分の奇行がここでも現れたことを知った。

「えと。何したの? あたし」

 ちらりと、信長の視線が茅乃に向く。そこで初めて廊下にいる彼女に蝶夏は気付いた。茅乃は、さっとあらぬ方向を向いた。

 不安に思い、信長を見つめていると、「普通の挨拶をした」と言う。

「ふ、普通のって……、どのくらい普通の?」

「敬語を使った普通の挨拶だ。なぜ朝の挨拶には敬語を使う?」

 今度は蝶夏が目を逸らす。

「知らない。寝ぼけてるんだもん。記憶無いし」

 ほう、だか、ふうん、だかわからない返事が返ってきた。

 居た堪れない。

 そうするうちに信長が立ち上がる。

「朝飯にするぞ。茅乃が着替えを用意している。付いて行け」

 廊下を顎で指された蝶夏は立ち上がる。

 今度はちゃんとこちらを向いている茅乃はにっこりと蝶夏に微笑んだ。蝶夏よりも背が低く、少し丸めのその顔は可愛い系、小動物系に属するが、静かな佇まいが大人の女雰囲気を醸し出している。

「よろしくおねがいします」

 ぺこりと頭を下げると背後で障子が力任せに閉められた。

「まあ。信長様ったら」

 口元に手を添えて茅乃が目を開く。それからふふっと笑う。

「拗ねてしまって」

「あれ、拗ねてんの?」

 指さして聞く蝶夏に「ええ」と茅乃が頷く。

「まあ、拗ねてしまったものは仕方ありません。放っておきましょう」

 割とドライに大人の女は割り切った。

 そして、蝶夏に向き合うと軽く頭を下げる。

「このようなところでご挨拶して申し訳ありません。私は信長様の乳兄弟で茅乃ちのと申します。これより蝶夏様の身の回りのお世話をさせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します」

 蝶夏にしてみれば、教科書のお手本か? と思うほど丁寧な挨拶をされる。

「あ。こちらこそよろしくおねがいします。あ。名前は呼び捨てで全然いいよ、……ですよ」

 なれない敬語に突っかかりながら蝶夏は言う。

 様付けが違和感一杯で断りを入れるが、茅乃はやんわりと首を振る。

「いけません。私は信長様より蝶夏様のお世話を仰せつかっております。お仕えする方を呼び捨てるなどとんでもありません」

「でも、そんな風に呼ばれるの慣れてないし……」

「是非とも慣れてください。さあ、お着替えしましょう」

 蝶夏の腕を取り、数室離れた部屋へとつれていった。


 蝶夏が茅乃に着せられたのは華やかな大柄の花を描いた着物だった。

 茅乃もそうやって着ているのだが、蝶夏の知っている着物の着方とは少し違う。腰のあたりをベルトほどの細い帯で締めるのだ。

 親戚の結婚式で振り袖を着たときは苦しくて苦しくて窒息死するかと思ったが、この着方は其れほど苦しくない。問題があるとすれば、帯の上でたるみを作るために少し太って見えることか……。

 着物を着せてくれている間、茅乃は何度となく溜息をついた。

 曰く、「お腰がとても細うございますね」だ。

 動き回る茅乃の腰をちらちら見ていた蝶夏は予想をつけた。茅乃の腰はどうやら胸の下辺りから腰までほぼストレートラインを描いている。

 食生活と生活習慣の違いの賜物だ。

 それにしても、茅乃のこの腰に関する溜息がどうも良い意味のものに聞こえない。この謎についてはもう少し先の夜に信長から明かされることになるとは当然今の蝶夏も茅乃も考えてはいなかった。



 着替えを終え、再び蝶夏の手を取った茅乃に連れられて別の部屋へ向かうと、やはり着替えを終えた信長が胡座をかいて座っていた。着ているのは小袖こそではかまを履いた簡素な衣装だ。

 彼の前に一つと、その奥にも高足の膳が用意されている。上に乗った皿や椀からはほこほこと湯気が出ている。

 蝶夏を見上げた信長は軽く眉をあげ、「座れ」と自分の正面を示す。

 柔らかな食事の香りに惹かれるように蝶夏は示された席に着いた。口に滲む唾液をごくりと飲み込む。はっきりと空腹を意識した。

打掛うちかけはどうした」

 食事に目が釘付けの蝶夏を置いて、信長は茅乃に声を掛ける。米櫃こめびつを開けて茶碗を手に取っていた彼女は顔を上げて微笑む。

「どうも所作に慣れていらっしゃらないようなので、食事の後に着て頂こうと思っております」

「ならいい」

 軽く頷いて話を終わらせる。

 それからじっと黙っている蝶夏の方を向く。

「どうした。やたらに大人しいな」

 家訓を守り、思い出した途端襲ってきた強烈な空腹を必死で我慢していたのだ。正座した膝の上に拳を作って置いてある腕が小刻みに震える。

「……………たのよ」

 小さな声が漏れる。

「なんだと?」

 聞き取れなかった信長が聞いてくる。


 ぐううううぅぅぅぅぅ


 部屋に響いた音に被さるように蝶夏は叫んだ。

「お腹が空いたって言ってるのよ!!」

 赤くなった頬で、低い視点から信長を睨み付けると、信長は仰け反って笑いだした。

 腹を抱えながら手の甲をこちらに見せてひらひらと振る。

「いいぞ、食べろ」

 それを聞いて、蝶夏の目が輝く。

「ほんと? 食べていいのね?」

「構わん」

 蝶夏が箸を取ると、先に信長の膳に茶碗を置いていた茅乃が、今度は蝶夏の膳に茶碗を乗せてくれる。茶碗には所々茶色い粒の混じったご飯が装われている。昨今の健康ブームで蝶夏も知っている玄米の混じったご飯だ。少し香ばしく、食欲をそそる香りがする。

「いただきます!」

 手を合わせて、まず汁物の入った椀を手にとる。まだ熱い中身は、味噌汁だ。半透明の薄切りの具はよくわからない。椀を傾けてすすると、少し薄めの味の汁が喉を流れていく。胃に入る温かな感覚がする。空きっ腹に沁みていく。具は、冬瓜に似た食感だ。

「んんんんんん…………………、おいし」

 思わず身震いをしていた。

 その時、蝶夏は幸せそうに微笑んでいた。

 それを見て茅乃は柔らかく微笑した。

 信長は、初めて見た少女の笑顔に目を細めた。

「わわ。これ、茄子? 茄子?」

 小鉢には煮びたしのような物が盛られている。口に入れると、ほろりと崩れる身は確かに茄子だ。

 隣の皿には白い魚の焼き物がある。淡白な味の身に塩が振ってあって、脂との相性がよかった。

 次、次、と平らげていく蝶夏の膳に腕が伸びてくる。

「好むのならやろう」

 茄子の入った小鉢が乗せられる。

 礼を言おうと信長を見上げると、彼は何杯目かしれない玄米ご飯を茅乃についで貰っているところだ。なぜか蝶夏は気付いた。

「むむ。これ、嫌いでしょ」

 真っ直ぐ見つめてやると、相手も視線を逸らさない。

「やる」

「だーめー! 嫌いなものは克服する為にもちゃんと食べるもんでしょ!」

 そう言って、小鉢を信長の膳に戻す。

「それに、出されたものは全部食べるのが基本よ」

 箸で指すと(行儀悪い)、信長はちっと舌打ちした後、きちんと手にとって食べ始めた。

 おや、意外と素直。

 驚いて目を見開いている蝶夏と、憮然とした顔で茄子を食べる信長とを見比べながら茅乃は笑いを堪えていた。


 薄味メインだが、中々美味しい食事を満喫すると、蝶夏はもう一つの欲求を思い出した。

 茶を啜る信長を尻目に茅乃の耳に顔を近づけると、囁いた。

「あの、おトイレって……どこかな?」

 茅乃はきょとんとした顔で首を傾げる。

 あ。わかんないんだ。

 顔を顰めた蝶夏は、考えた。『トイレ』以外に言い様があっただろうか。

「…………………あ。お便所?」

 思いついたままに口にすれば、茅乃は少しびっくりした顔をする。それから、「後不浄ですね」と言い直してくれる。

 そんな言い方もした気がする、と思った蝶夏はこくこくと首を縦に振る。

「こちらへ」

 茅乃が促すままについて行く。

 視界の端で、信長がまた笑っていた。


 蝶夏が茅乃と立ち去って少ししてから、信長は呼びつけていた者を部屋に通した。

 昨日、蝶夏の見張りを命じられていた方輔ほうすけという小姓だ。

 彼は、一夜明けた後の城主からの呼び出しにすっかり身を小さくしていた。

 ぬかづく少年は十三歳ほどだったかと信長は思い起こす。蝶夏の年は知らないが、まあそのくらいだろう、とも考える。

「お前にはこれより別の仕事をしてもらう」

もはや小姓を解任かと肩を大きく震わせる方輔に構わず、信長は続ける。

「あれの、蝶夏のおりだ」

 驚いて顔を上げた方輔は主の顔を見て我に返り、再び床に着くほど頭を下げる。

「ふん。思ったことを言えばいいだろう」

 あまり聞かない信長のぞんざいな物言いに疑問を抱きつつも、言われた通りに思いを口にする。しない方が恐ろしいと言うのもあった。

「恐れながら、昨日失敗をした私に、何故その様なお役目を下さるのでしょうか」

 蝶夏の立場が分からない方輔としては、精一杯考えた台詞だった。一緒に食事をとった事から、決して下に置くような扱いを考えている訳ではないようだが、二人の雰囲気はどう考えても男女のそれではない。側室にするならばそれなりの敬意を払う必要があるが、それも信長本人が公言している訳ではないから所詮は邪推じゃすいたぐいになってしまう。

 少し曖昧な方輔の言い方を混ぜっ返すように信長は言った。

「失敗を挽回するには、『その様なお役目』こそが相応しかろう」

 口元にはにやりとした笑いが浮かんでいた。

 その時、微かに悲鳴が聞こえた。

 信長は即座に立ち上がると廊下に出て行く。左手には傍らから離す事のない刀が握られている。

 慌てて方輔が腰を上げた時には既にどかどかと乱暴な足音が廊下に響いていた。



 声の元へと迷い無く進む信長の背中を方輔は必死で追った。足が長い為なのか走っている訳でもないのに中々追いつけない。

 女性のわめき声が聞こえる。

 聞き覚えがあるな、と方輔が思っていると、突然目の前の背中が歩みを止めた。

方輔はぶつかる前に何とか立ち止まるが、広い背中は何故か脇にどける。

 と、何かを振りかぶった姿勢の蝶夏が視線の先に居た。袖を揺らして投げられたものが真っ直ぐ方輔の顔に直撃した。

「うぐ」

 痛くはない。軽いもののようだ。

 ぽろりと顔から落ちていくものを見れば、便所に常備してある紙の束だ。ばらばらと足元に広がっている。回りを見渡せば同じような紙の束が二箇所ほどに広がっている。

 明らかに紙束の発射地点とわかる位置に蝶夏が仁王立ちしている。

 彼女が立っているのは、廊下を降りた先にある厠の前だ。少し離れたところでは茅乃が困惑した顔で「ちょ、蝶夏様」と呼び掛けている。

 蝶夏の顔は、赤い。肩で息をして、興奮しているのが良く分かった。そして、茅乃の事は全く認識していない。

「この変態!」

 聞き覚えのある罵りがその口から発せられる。

 昨日、彼女が信長に叫んでいた台詞せりふだ。

 しかし今日はその対象が違った。蝶夏と方輔を直線距離で結んだ真ん中の辺りに老人がしゃがみこんでいた。

 どうやら、彼に向かって投げられた紙の束がしゃがんで避けた老人と横にずれて避けた信長を通り過ぎて方輔に当たったらしい。

「乙女がトイレに入っているところとお風呂入っているところと着替えしているところを覗くなんて最低の最低なんだからね! 変態どころかど変態なんだから!」

 少し裾の乱れた着物のまま地団駄を踏む。

「あいつは、あたしにとって危険人物第一号だけど……」

 そう言って信長を指差す。その場に居た全員(茅乃と方輔と老人)が信長を見上げる。

「あんたは危険人物第二号認定よ!」

 今度は老人を指差す。そうして全員(茅乃と方輔と信長)が老人を見る。

 白髪と白い髭で目と鼻以外が覆われた老人は、長い袖で持ち上げた杖を左右に振った後、「儂か?」と自分を指す。

 蝶夏は「そうよ!」と肯定した後、老人を指差したまま深呼吸をする。

「いーい?! おじいちゃんだから、この辺で止めとくけど、今度やったら承知しないんだからね!」

 老人は蝶夏の言葉に目をぱちくりと瞬いた。意外と円らな瞳だ。

「ほうほう。なんとも、……良い響きじゃのう。『おじいちゃん』」

 今度は目を細めてうっとりとした声を出す。

 蝶夏はそれを気持ち悪いものを見たと言いたげな目で見る。

 しばしそうしていた老人はにこにこと笑いながら蝶夏に向けて言う。

「よかろ。よかろ。儂はそなたが気に入った。気にいったぞ。名を教えると良いぞ」

 茅乃がぎょっとした顔をする。段々と老人の正体が掴めて来た方輔も驚いた。

 しかし、蝶夏はというと、「何言ってんのこの爺」と声に出さずに口だけで呟いた。それから、ぐいと、顔を上げる。

「人に名前を聞くときは自分から名乗るものでしょ! 信長だってそうしたわよ」

 引き合いに出された信長は老人の視線を受けて、ひょいと肩を竦める。

「ほう。ほう。吉法師がそうしたのか。ほう。ほう」

 目がしょぼついた時の様に瞬きを繰り返す。

「よかろ。よかろ。わが名は『千那木せんなぎ』じゃ」

 老人がそう名乗った瞬間、蝶夏の額の辺りで熱い風が吹いた。彼女の前髪を揺らして、渦を巻く様にすると消えた。

 違和感に額を擦ると、老人が微笑みながら蝶夏を見ている。まさしく、溺愛する孫を見る祖父の視線だ。

 妙な現象に戸惑いながらも、家訓に忠実に蝶夏は名乗った。

「あたしは、蝶夏よ。橘蝶夏」

「蝶夏。いと可愛き名じゃのう」

 うむうむと千那木と名乗った老人は頷く。それから楽しそうに蝶夏に言う。

「暇な時や困った時は儂の名を呼びなされ。疾く疾く来てやろう」

 疾く疾くな。そう言って、千那木の姿が掻き消えた。

「あれ?」

 目前の人物が消失し、蝶夏は首を捻る。

 老人の居た辺りで手を振る。すかすかと空を切る手応えに周囲を見渡すが、やはり誰もいない。

「蝶夏、様? あの、つまり、どういうことでしょうか?」

 きょろきょろとする蝶夏に、同じくらい困惑している茅乃が声を掛ける。

「トイレをあのおじいちゃんに覗かれたの! 用足して、振り向いたら居たの! でも、消えちゃった。なんでえ? イリュージョン?マジック?」

 興奮した先の混乱に、蝶夏のまなじりには涙がちらりと滲んでいる。

「そ、そうだ。あれって、あれって、どっからどこまで見られちゃったんだろう?!」

 しがみつかれた茅乃は、「そんな。仮にも神様ですものたぶん、そんなには見てないと思いますよ」と宥めにかかる。


 その騒動の脇で、信長は、左手の刀に右手を添えていた。ある一点を見据えて言う。

「一度死ぬか……?」

 そう呟いたのをうっかり聞いてしまった方輔はその場に居たことを思い切り後悔していた。信長が見つめる辺りの空気が激しく揺らいだのも、気のせいではないだろう。



 どうにか平静を取り戻した蝶夏は、食事を取った部屋に戻った。膳は既に片付けられている。

 茅乃が淹れてくれたお茶を一口啜り、同じ様にしている信長に聞いた。

「あれは、誰? 吉法師きちほうしって信長のことだよね。知り合い?」

「知り合いと言うか、この城に住まう神だな」

「……かみ?」

 信長の言った『かみ』と蝶夏の言った『かみ』ではイントネーションが違った。

「便所神だ」

「さっき、あたしが投げたやつ?」

 蝶夏の勘違いは長くは続かない。

「いや、神仏のほうだ。便所の守り神だな」

 かわやを守護する神といった方が聞こえが良いだろう。この神は女神であったり男神であったりと諸説あるが、あの千那木は土地神に近いだろうと信長は言う。

「俺が物心ついた頃にはこの城にもう居た。恐らくそれ以前から居たのだろう。怒らせなければ気の良い方だ」

 怒っている姿がさっぱり想像できないが、そうか、神様だから七福神みたいな姿だったのか。妙なところで蝶夏は納得した。

「はあ。かみさま。初めて見たよ。っていうか、初めて会った話した」

「初めて、ねえ。それにしては随分なやり方で名を貰ったな」

 くっくっく、と信長が笑う。

 よく笑う奴、と蝶夏は苦々しく思う。

「名を貰うって?」

「神に名を名乗らせるとは、本来支配権、使役権を得る為にする行為だ」

「つまり、あたしは、あのおじいちゃんを支配できるってこと?」

「お前の場合は少し違うだろうな。その後で自分も名乗ったろう。本来は必要な手順を踏んで己の名を『与える』ものだ。その手順を飛ばして名乗ったお前の場合は、恐らく対等な関係になるだろうな」

「いいじゃん。それが普通でしょ」

 そう言った蝶夏を、その場にいた三人は三様の反応で見つめた。

「お前は、それでいいのだな」

 確認するように信長は言う。

 首を傾げつつも蝶夏はこくこくと頷いた。

「お前は、優越に浸ろうとは思わんのか」

 口元を緩めながら信長は茶を啜る。

「何よ。そのくらいあるわよ。多分、あんたを出し抜けたときとかにね」

「ほう」

 茶碗を置いた信長の笑みが少し変わる。

 蝶夏は嫌な空気にひくっと頬が引きつった。

「俺を出し抜くと?」

 一跨ひとまたぎで蝶夏の目の前に来ると、彼女のあごを指でつまみあげた。

 切れ長の瞳が蝶夏を射抜く。

「それもいいだろう。だが、今日は止めろ」

「な、なんでよ」

 手の中の茶碗から少し飛び出た茶が手の甲にかかる。

「俺は今日忙しい。お前の相手をしている暇が無いくらいにはな」

 口を開く蝶夏を制する様に信長は先を続ける。

「世話は茅乃に任せている。何かあればそちらに言え。それから、こいつをお前の小姓として置く」

 そう言って蝶夏の顎から手を放すと、廊下側に座らせていた方輔を示す。

 先ほどから見た顔だと思っていた蝶夏は気付いた。

「あ。昨日の……」

 名前は、そうだ、「……方輔ほうすけだっけ」聞いてみれば、床に拳を着けて一礼する。

長尾ながお方輔と申します。本日より蝶夏様に誠心誠意仕えさせて頂きます」

 返事をする前に頭を下げられて、一瞬問いかけが無視されたのかと蝶夏は思ったが、信長が何も言わないところを見るとそういう作法のようだ。所謂土下座などドラマでしか見たことのないから変な気分だ。

 名乗られたのだから名乗り返そうと思うが、既に向こうは自分を知っている。どうしたものと悩んでいると目の前の男が少し声を低くして言った。

「再び逃げれば、目付けを兼ねているこやつの立場はまずい事になろうな」

 蝶夏は目を剥く。

「なに、それ。脅し!?」

「そう聞こえるならそう取れば良い」

「そんな事、しなくたっていいでしょ!? あたしは、家に帰るだけよ!」

「どこに帰る」

「どこって…………」

 冷静な問いに、どこと答えたものかと蝶夏は言いよどむ。

 間隙を突くように鋭い信長の言葉が続く。

「どこに、というより、どうやって、だな」

 それはまるで、「どうやって時を越える気だ?」と聞いているような、確信を持った言葉だった。

 驚きに声を出せないでいる蝶夏の頬をさらりと撫ぜると、信長は立ち上がった。

我に返った蝶夏は聞いていた。

「ど、どこ行くの?」

「仕事だ」

 信長の返事は簡潔だった。

 何故か焦りを感じた蝶夏は立ち上がる。

「あ、あたしは…………」

 言葉が続かない。

 すると、方輔の開けた障子の横を抜けようとしていた信長は振り返って呼んだ。


「蝶夏」


 大分慣れてきたと言うのに、その声は話している時の数倍艶やかだった。

 ぞくり、と蝶夏の背中が震える。

「いいな。大人しくしていろよ」

 へたり込みそうな足を叱咤して、蝶夏は負け惜しみのように言う。

「今日、一日だけだからねっ」

「上等だ」

 艶治えんやな笑みを残して信長は廊下の先に消えた。


 くたりと、蝶夏はくずおれる。

 それから、手の平でべしべしと畳を叩きだす。

「くーやーしーいー! 何あれ、何あれ! 反則でしょ。あの色気は反則だあ!!」

 突っ伏して悔しがる蝶夏に方輔は同情した。信長の放ったものの威力は凄まじかった。ターゲットが完全に蝶夏だった為、方輔は当てられる程度で済んだが、自分に直接向けられた場合(その可能性は無きに等しいと考えたい)、蝶夏の様に立っていられる自信は無かった。一体、何だあれは。

 蝶夏の背後で直撃を食らったはずの茅乃は素知らぬ顔で考えていた。蝶夏に対する信長の態度についてだ。彼女が関わると彼は本当に良く反応を返す。主に、良く笑う。そして、あまり使うことを好まない先祖返りと言われる力を良く使う。今回は強烈な色気がそれに当たるだろう。

 それを持って彼女はこう判断した。「これは本気だ」と。

 力強く頷くと、いざ、蝶夏の世話をせんと立ち上がる。

 ちなみに、彼女は幼い時から信長の乳母であった母について彼の世話をしてきた。その為か、今蝶夏を困らせている信長の色気に屈することは滅多にない。免疫がついている状態だ。四六時中一緒に遊んでいた弟の勝三郎などは全く意識したことが無いという次第だ。

「蝶夏様、元気をお出しになって。打掛を用意しております。そちらをお召しになってください」

 茅乃の優しい物言いに蝶夏は顔を上げる。

「打掛? でも、もう着物着てるけど……」

「それは略装に当たります。打掛を羽織はおって頂くのが正式な御衣装となります」

「でも、あたしこれで十分だよ? これ以上着たら動きにくいし、暑そう……」

「腰に巻くのでそんなに暑くは感じません。それに、とても美しい意匠のものを用意させて頂きました。是非ご覧になってください」

 美しい着物…………。蝶夏だって女の子だ。綺麗なものは大好きだし、見ているだけで無く、触れるのはとても嬉しい。まして着る事が出来るなんて!

 で、連れて行かれたのは朝着替えた部屋だった。何も言わずについてきた方輔は部屋の前の廊下に座り込み、茅乃は障子を閉めてしまった。

 衣文えもん掛けに掛かっているのは、鮮やかな朱色の地の着物に鮮やかな刺繍が施された一品だ。流れる川の両岸に百合が咲き乱れ、白い首の長い鳥が優雅に佇んでいる。成人式などに着る振袖のように金糸銀糸がこれでもかと使われている訳ではない。むしろかなり控えめだ。なのに、色のコントラストの関係なのか、それは華やかに仕上がっている。

 思わず蝶夏は息を呑んだ。

「すごく、綺麗」

 茅乃が嬉しそうにはしゃいだ声を上げる。

「喜んで頂けて嬉しいです。ささ。早速羽織ってみてください」

 着物を衣文掛けから外すと、佇む蝶夏の背後に回り、着易いように広げてくれる。

 蝶夏が袖を通すと肩のラインを整えてくれる。

「よくお似合いです」

 手の平を合わせて口元に置き、茅乃は微笑む。

「でも、暑い…………」

 やはりそこは夏のこと。既に蝶夏の首にはじわりと汗が出てきていた。

「では、お袖を抜いて、腰に回しましょう」

 すいすいと蝶夏の袖から打掛を抜くと、くるりと腰を覆うようにして細帯でまとめてしまった。

「ああ。これなら暑くない、かも」

 と、蝶夏はその場で一回転しようと足を踏み出す。

 突っかかる。足元が重い。

「動きにくいよ」

 茅乃に訴えると、困った顔をする。

「そんなに、大股で動き回らないほうがよろしいかと思います。こう、静かに動かれれば大丈夫ですよ」

 楚々とした仕草で茅乃が畳の上を滑るように歩く。お手本は素晴らしい。が、蝶夏は三秒であきらめた。

「無理。苛々しちゃう!」

 しばし悩んだ後、茅乃は妥協案を持ち出した。

「わかりました。本日はお召しにならなくて結構です。この後のことは信長様と話し合ってください」

 その方が蝶夏を丸め込める確率は高い。

「ですが、信長様は恐らく着られるようにおっしゃると思います」

 もちろん釘を刺すのも忘れない。

「ぐぅっ」

 蝶夏の口から呻き声が飛び出した。



 その日は、蝶夏にとって、とてもゆっくりと時間の流れる日だった。

 茅乃は暇を明かす蝶夏に紐で閉じた本を持ってきてくれた。御伽草子おとぎぞうしという婦女子向けで読み易い物語と言われて、わくわくしながら開くと、……読めなかった。

 くねくねと波打つような字がひたすら続いている。挿絵は無しだ。

「えっと。何語? ハングル?」

 ハングルがなんだったかも思い出せなかったが、とりあえず聞いてみた。

 茅乃は大変申し訳なさそうな表情を浮かべて「かな文字です」と言った。

 ひらがな、らしい。

 ひらがなも読めない、と落ち込む蝶夏に茅乃はもう一冊差し出した。

 中を開くとまっさらだ。何も書いていない。

「文字の練習に日記を書かれたりしてはいかがでしょうか? お手本は後ほどお持ちします。私や方輔殿が教えても良いのでしたら、そう致しますよ」

 蝶夏には是非も無い。

「今すぐとっても教えて欲しい!」

 考える前にすぐ行動派の少女には、一室に閉じこもる生活はあまりにも暇過ぎた……。



 茅乃に教えてもらった文字の練習をしている内に、気付けば昼も過ぎていた。

 こうなると昼食の時間が気になってくる。

 しかし、茅乃に聞くのも催促しているようで言い難い。とりあえず、危険人物一号を引き合いに出してみる。

「茅乃、信長は昼に戻ってきたりしないの?」

 蝶夏が書く文字を時折覗き込みながら、茅乃は着物の裾を降ろしていた。茅乃よりも上背のある蝶夏には少し短いらしい。羽織ってみたが、何が悪いのか蝶夏には良く分からなかった。

「ええ。たぶん、夕食にも戻られないと思いますよ」

 本当に忙しいらしい。

「昼食も夕食も仕事場で食べるの?」

 その言葉に茅乃は瞬く。

「まあ。蝶夏様のお国では昼食もとられるのですか?」

 聞けば、食事は朝夕の二回らしい。「すぐに用意させます」という茅乃を「いいいいいい! いらないよ! 申し訳ないもん!」と蝶夏は必死で止めた。本気で満漢全席でも用意しそうな剣幕だったからだ。

 そうして空腹の昼が過ぎていく。

 すぐ傍に座っている茅乃に腹の虫が鳴く声が聞こえなくて本当に、本当に良かった。


 午後は茅乃に用事があるそうで、先生は方輔にバトンタッチされた。

 しかし方輔は傍らに置いてあった玩具の山を指した。

「あちらはいかがです?」

 茅乃は一体蝶夏が何歳だと思っているのか、カルタだの双六っぽいものだのを積んで行ったのだ。

 蝶夏が子ども扱いかと少しむくれている間に、方輔は玩具の山を崩して、一番下にあった木の台を引っ張り出していた。上に蓋付きの木のボウルのようなものを二つ乗せている。

「あ。碁盤!」

 大分前に流行った漫画の影響で蝶夏もこれは知っていた。

「やったことがおありですか?」

 方輔が台を準備しながら聞く。

「うん。PCゲームで少しね」

「びいしぃ?」

「ああ。気にしないで。こっちの話」

 ふるふる首を振りながら誤魔化す蝶夏をひと時眺めた方輔は、すぐに視線を戻した。

「では、やり方はおわかりですか?」

「う~ん。あんまり自信ないなあ」

「では、最初は詰め碁を少しずつ進めて行きましょうか」

 そう言うと、黒い石と白い石を碁盤の隅に並べ始める。

 出来上がったのは、黒の石で白の石を囲むような状況だ。

「要するに、囲碁は自分の陣地を作っていく模擬戦です。この、白の陣地を黒に奪われないように固めていくことになります」

 そう言って白の石を置く。次に黒い石をそれを抑えるような位置に置く。

「もちろん敵はそうはさせまいと追いすがるし、繋がりを分断しようと攻めてきます」

「それも防がなきゃいけない訳だ」

「その通りです」

 白の石が乗せられる。黒い石は置き場がない。

「これで、白の陣地の完成です。これ以上黒は攻め手が無い」

 蝶夏はすっかり感心して腕組みをした。

「そっか。でも、守り過ぎちゃったら自分の陣地が狭くって困っちゃうんだ」

 うわー。難しい。

「そうです。最小の最高の手で己の陣地を守り、広げなくてはいけません」

 その後いくつか方輔は詰め碁を並べてくれた。

 十数手も見たところで、方輔が出したものを蝶夏が説くようになった。

 茅乃が持ってきた本の中には囲碁の本も混ざっていて、これは説明書きこそ読めないが、碁盤の目と碁石の配置がイラストで載っている。蝶夏は時間を忘れてのめり込んでいた。









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