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二、逃げる先には織田家当主の正体あり

 逃亡すること小一時間。

 未だに彼女は現状を知らない。5W1Hのうち、分かっていることは……一つもなかった。


 そう広くもない(はずだった)城内をこそこそと歩き回り、ようやくこの裏庭へと辿り着いたが、裏庭なだけあって特に何もない。期待していた裏口も、資材やらゴミやらの山もなし。ちなみにこの山はよじ登る為の足場として期待していた。

「やっぱり、あの木か……」

 裏庭を囲む木の塀がある。木塀には屋根の様なものが乗っており、蝶夏の背丈よりも高い。その手前に一本の木があった。幹の太さは充分だが、いかせん、枝振りが貧弱だ。

「いや、あれしかないしなあ」

 ぼやきながら蝶夏はその木に歩み寄り、背伸びをして枝を掴んだ。スニーカーの靴底をざらざらとした幹に押しつけると両腕に力を込めて体を持ち上げる。

 意外と上りやすい間隔で枝が生えていて、あっという間に蝶夏は目的の枝まで上りあがっていた。

「びば。高機能スニーカー! 高かっただけあるねっ」

 あとは、塀に届くあたりまで枝の先に進めればいい。にじりにじりと枝を進む。

 これ以上進むとやばそうかな、という辺りで蝶夏は止まった。

 さて、問題はここからだ。

 腕を組んで蝶夏は考える。

 いち、飛び移る。……失敗すると塀のこっちかあっちで、どかんと派手な音をたてる羽目になる。

 に、手が届くぎりぎりまで進んで、枝が折れる前に塀に掴まる。……いくら蝶夏が痩せ型とは言えさすがに枝が折れるだろう。

「うう~ん。逃げきるためには勢いをつけてあっち側にどかん、かな~」

 どちらを選んでもかなり危険な賭けに違いない。「逃亡か、死か」交通安全の標語みたいなことを考えていると足下から声が掛けられた。

「なにをしている」

 聞き覚えのある美声だ。思わず体が震えて枝の上で蝶夏はバランスを崩した。

「ひぇっ…………ぎゃあああああっ」

 最後の「あっ」の部分で何とか堪えた。

 両手両足を駆使して枝にしがみついたまま下を見下ろせば、すぐ脇に腕組みをした信長が立っていた。

 薄暗いあの部屋ではよく見えなかったが、細面な顔立ちは彫りが深く、現代ならハーフかクウォーターと呼ばれる程だ。長い黒髪は頭の高い位置で括られ、癖毛なのかあちらこちらに跳ねている。長い前髪の隙間から覗く黒瞳は意外と涼やかだ。だが、今は面白いものを見つけた子供のような好奇心が揺れていた。

「急に声かけないでよ! 危ないじゃない!」

 今にも飛び出しそうな程激しく脈打つ心臓と、荒れた呼吸を押さえながら蝶夏は眼下の男に叫んでいた。

 彼はしれっとした顔で「逃げるほうが悪い」とのたまう。

 さらに、反論しようと枝の上で伸び上がった蝶夏に構わず、塀のほうを指さす。

「この先は堀だ。城壁を越えたところでずぶぬれになるのがオチだ」

 目を剥く蝶夏に、にやりと人の悪そうな笑みを返す。

 その笑みに、反骨精神がむくむくと沸き上がってきた蝶夏は、叫んでいた。

「堀がなんだ! クロール25メートルは必修な女子高生なめるなよ!」

「ほう、泳げるか。ところでクロールなんとかってなんだ。あと、じょしこうせいとはなんだ」

「クロール25メートルは実は小学生のノルマだなあ。女子高生は、……改めて聞かれるとなあ。何て言えばいいんだろう。あ、高校に通う女の子!」

「こうこうとはなんだ」

「高校は、高等教育を教える学校」

「……学校」

「え~。学問を教えるところ……」

「ほう、女に学問を教えるところがあるのか。興味深いな」

「高校はお金と試験に受かる根性があれば誰でもいけるよ」

 顎に手をかけ考え込んだ男に半ば呆れて蝶夏は適当なことを言った。

 すっかり逃げるタイミングを逃していた。

 しばらく思案するように視線を落としていた男は、おもむろに蝶夏を仰ぎ見ていった。

「とりあえず、降りてこい」

 片手を蝶夏へと伸ばす。

 しかし彼女はそう言われて「はい」と素直に降りていくほど乙女でもなければ、先ほどの(ある意味)貴重な体験を忘れられるほどおめでたい性格もしていなかった。

 とりあえず、着物を着た長髪の男に盛大に舌を出して顔をしかめてやった。

「そう言われて誰が降りるかっ」

 そう言った瞬間、やたらと大きな声が裏庭に響きわたった。

「殿! 娘が見つかりましたか!」

 あまりの大声に身を竦ませた蝶夏は今度こそバランスを崩し、落ちた。

 叫ぶ間も無く、つるりと体が右に傾き「あ、落ちる」と思った瞬間、蝶夏の全身は浮遊感に包まれていた。地面に叩きつけられるのを想像して目を強く瞑る。

 どさり、と音がしてすぐに至近距離から声が聞こえた。

「見つかった上に捕まえられたな。でかしたぞ、新助」

 例の美声が、向こうにいる男を誉めたらしい。

 蝶夏が恐る恐る目を開けると、見覚えのある色の着物が見えた。顔を上げると綺麗に髭をそった形の良い顎が見えた。

 どうやら眼下にいた男に受け止められて、現状は乙女の憧れお姫様抱っこ中らしい。

「え。拙者の手柄ですか? お褒め頂き、有り難き幸せ!」

 先ほどの大声が嬉しそうに言った言葉に、状況を忘れて蝶夏は腹を立てた。

「ちょっと! 手柄って何よ! あたし、落ちて頭打って死ぬところだったんだからね。反省しろ反省!!」

 猛抗議を廊下にたたずむ髭面の男に向けると、返答は傍らの男から返ってきた。

「俺が受け止めたのだからいいだろう」

 まだ燃え盛っている怒りのままに蝶夏は自分を抱き上げている男を、ぎっと睨みつける。

「そう言うのは結果論っていうの! あんたがいなかったらあたしはこの地面でぐちゃぐちゃになってるところだったのは変わらないでしょ!」

「一理あるな」

 男が軽く頷くその背後では小さな騒ぎが起きていた。

 蝶夏を転落死させかけた髭面の大声で人が集まってきていたのだ。

 侍女とおぼしき二十歳前後の女性が廊下の端に一人と、その反対端に五、六人の少年たちがいた。

少年たちはいずれも同じ色の着物と袴を身につけている。彼らは那古野城に勤める小姓たちだ。

「あ、あの娘、お館様にあのような口を利いて……!」

「お手打ちだ、殺されるぞ」

「……………………」

 皆青褪めて、不安気に言葉を交わしている。

 信長はその中に蝶夏の見張りを命じた者がいることに目ざとく気がついた。

「方輔、お前は娘一人まともに見張れんのか?」

 声を掛けられ、びくりと肩を揺らしたのは少年たちの中でも一番大柄だった。しかしその顔は真っ白で、主の勘気に触れた事を察し、これから言い渡される処分に完全怯えていた。

 ぶるぶると震え、弁解さえ出来ない様子の彼を見て、蝶夏は思わず言っていた。

「ていうか、むしろここは上手く逃げたあたしを褒めるとこじゃない……?」

 小姓たちのいる廊下に向いていた信長の顔が蝶夏を見下ろす。

「お前は悉く俺の言うことに逆らうな」

 そう言うと、「くっ」と吐息をもらした。

「くっくっくっくっくっくっ……………」

 低い笑い声が裏庭に響く。

 小姓たちはあんぐりと口を開け、廊下を降りようとしていた髭男は以外とつぶらな目を大きく見開き、侍女らしき女性は口元を抑えて、それぞれ驚きの様相を隠そうともしていなかった。

 そこへ、また新しい人物が現れる。

「信長様! 政務が滞っておりますぞ。何を遊んでおいでかっ」

 背は低めだが体格のいい五十代後半か六十代といった男が廊下の角から現れ、既に居た女性を追い越して進んでくる。

五郎佐ごろうざか」

 舌打ちの後、信長が言う。

 蝶夏にしてみればそっちの名前はかなりどうでも良かった。

 聞き覚えのある名前に耳を疑い、そう叫んだ男の視線の先を追ってみる。自分を通り越していることは確かだ。

ならば自分を抱き上げているこの男の後ろかと体を伸ばして背後を見やる。……誰もいない。

「信長ぁ?」

 語尾を上げて呟くと、「なんだ」と頭の上から声がする。

 見上げれば、至近距離に端正な顔がある。

「誰が?」

 眉根を寄せて聞けば、「俺だ」と返事が返る。

織田おだ上総介かずさのすけ信長だ」

 ご丁寧にフルネームで自己紹介された。

「うそぉ」

 てんで気ままに動く蝶夏の口はそう呟いていた。

 むっと気分を害したように信長の眉根が寄る。

 自分の言ったことが疑われた、と彼が勘違いしたのに気付いた蝶夏はすぐに否定する。

「違う! あんたが言ったことを疑ったんじゃなくて、そうじゃなくて、あたしが混乱してるから思わず言っただけ! それだけ!」

 かなり大雑把な言い分けだったが、目の前の男はある程度納得したようだ。眉間の皺がすぐに消えた。

「うううううう。待ってよ。ちょっと待ってよ。あんたは織田信長? じゃあ、ここどこ?」

 信長と自分の足元を交互に指して聞く。

「知らなかったのか? 俺の居城である那古野城だ」

「な、名古屋? じゃあ、愛知県?!」

「愛知、県? いや、愛知郡だ。尾張国おわりのくに愛知郡那古野だ」

 愛知郡。郡がつくなんて聞いたこともない。まして、尾張? ……信長、尾張。

蝶夏はそこでようやく彼らの格好、この場所の様子に思いが至った。「まるで、○○時代村だよ……」某テーマパークの名称をぼそりと呟く。

「じゃあ、今って、何年?」

 気を取り直して再び聞けば、丁寧な答えが返る。

天文てんぶん二十一年だ。見れば分かるが季節は夏」

「て、天文?? 西暦何年?」

「西暦だと? なんだ、それもこよみか?」

「西暦なし!」

 蝶夏は頭を抱えた。

「あたしは、歴女じゃないってのに!」

 ようやく彼女は自分の現状をなんとなく把握した。

「ひより、ひよりがいれば良かったのに。むしろこんな目にあうのはひよりの方が相応しいのに。あいつなら一千万出したってこの状況を買い取ってくれるはずなのに……」

 思わず呪文のように、親友である小金井ひよりの名を出した。

 彼女は今話題の『歴女』というやつで、専門は戦国史だ。三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)のみならず、北は伊達政宗、南は島津義久までを愛してやまない少女だ。

これまで散々留まることを知らない彼女の歴女トークを聞いてきた(殆ど聞き流していたが)蝶夏としては、今すぐにでもこの立場を変わって欲しかった。

 信長はというと、腕の中の少女の嘆きを意味が分からないなりに黙って聞いていた。

 しかし僅かもしないうちに飽きたらしい。

「まあ、いい」

 そう言うと、ぐるんと、蝶夏の上半身を回した。彼女が目を瞬く間に、再び信長に担がれる格好が出来上がっていた。

 当人は蝶夏の重さなど感じないようにすたすたと裏庭を進む。廊下に上がったところで五郎佐に声を掛ける。

「これを置いたらすぐ戻る。向こうで待っていろ」

「………………………………………………わかり、申した」

 かなり長い溜息の後、五郎佐はそれだけ言って一礼の後にその場を立ち去った。

 その間にも蝶夏を抱えた男は廊下を進む。

 かと思えば、いきなりぴたりと足を止めた。

「そう言えば、名を聞いていなかったな」

 僅かに蝶夏の体を自分から離して、目を見ながら尋ねてきた。

 一度はへの字に唇を曲げた蝶夏だったが、聞いてきた当人は既に名を名乗っている。ここで名乗らないのは、橘家の家訓に反する。

「橘蝶夏。右近の橘、左近の桜の『橘』に、ひらひら飛んでる『蝶』と、春夏秋冬の『夏』、で、橘蝶夏!」

 高らかに名乗りあげると、目の前の男の眉が少しだけ動いた。

「家名が橘で、名が蝶夏か?」

「そう。どっちも気に入ってるんだから!」

「良い名だ」

 それだけ言うとまた蝶夏を抱え直して歩みを再開した。

「はっ待て待て待て」

 またしても状況に流されかけていた蝶夏は我に返った。男の肩に両手を突っ張り、もがく。

「どこ行くのっ」

「先ほどの部屋に戻す」

 その返答に蝶夏はその部屋で行われた行為を思い出した。

 羞恥と怒りで顔が真っ赤になっていくのが自分でも良くわかった。

「そ、そうだ、あんたさっき、あんな、あんなことしたんじゃない!」

 首を巡らせた信長が、にやりと笑う。

 怒りが増した蝶夏はぽかぽかと目の前の体を叩いた。

「この、変態っっっ! よくもあんなことして、そんな、しれっと、…………!!」

 顔を真っ赤にして叫ぶ蝶夏を見て何を想像したのか、小姓たちまで顔を赤く染める。なぜか新助と呼ばれた髭面は耳まで赤かった。

 その姿を見た蝶夏は咄嗟に思いついた。

「あんた、そこの、さっきあたしを殺しかけた髭!」

 身も蓋もない言い方をして新助を指差す。

「あんたはあたしに借りがあるはずよ! それをいますぐ返してよ。つまり、こいつめて!」

「は、はぁ?!」

 髭面と呼ばれたことと命じられた内容に戸惑って、新助は目を極限まで開いて両手をわたわたと動かす。

 信長はそんな彼に視線を送り、言う。

「ついてくるなよ、新助」

 そして新助の背後まで駆け寄ってきた女性にも言う。

「茅乃は、呼んだら来い」

 茅乃と呼ばれた女性は足を止め、軽く礼をした。

 用は済んだとばかりに信長は足を速める。

 蝶夏は役に立たない髭面に歯軋りしながらもまだ諦めていなかった。

「降ろせ! 離せ! お~ろ~せ~!!」

 足をバタつかせて叫ぶ。

 信長の腕が足を押さえつけようと太腿を掴む。

「ぎゃあっ。どこ触ってんの、変態!」

「触られるような格好をしているのだから仕方無いだろう」

「そもそも触るような状態にしたのはあんたじゃない! だから、降ろせー!」

 渾身の力で暴れるが、どうしてかあっさりと抑えられる。

 一人で大騒ぎする蝶夏の声に時折近くの部屋から人が顔を出すが、誰もが信長の姿を認めて「何も見なかった」と言わんばかりに引っ込んでしまう。

「か弱い乙女を助けようってやつは居ないのか、ここには!」

 蝶夏の切実な悲鳴は那古野城内において黙殺された。


 ついさっきも聞いた小気味のいい音をもう一度聞く段に来て、蝶夏は、最後のチャンスは信長が障子を閉めるために自分に背中を向ける瞬間しかないと思った。

 すると信長はそのまま障子を閉めた。蝶夏を降ろしたりはしない。

「え」

 予想外の展開に唖然となる蝶夏を抱いたまま奥まで進むと、壁を前に歩みを止めた。壁を背にさせて蝶夏を自分の前に立たせる。

 彼女が信長の顔に目をやった時にはその細い両手を自分の両手で壁に縫い付けていた。

「なななななななななななに、この姿勢!」

 動揺する少女に嬉しそうに言う。

「お前、あれだけ奪ったのに随分元気だな」

 奪われたのが何かを知っている蝶夏は目の前の男を睨み付ける。

「体力測定は年々下がる一方だけど、遊ぶことと逃げることに関しては女子高生の底力なめるなよ!」

 反論されたというのに信長はまだ笑っている。

「よくわからんが、普通の女よりは丈夫そうだな。ならば、夜まで眠っていろ」

「よ、夜っ?」

 上擦った声で問いかけるがもはや信長は返事をしなかった。

 蝶夏の首筋に顔を寄せる。いや、唇を開き、伸びた犬歯を彼女の首筋に突き立てた。

溢れる血潮を飲み下す。

 壁に押し付けられた蝶夏の腕から力が抜ける。

「へ、へんたいぃ……」

 力を振り絞って罵倒するが、そこから先を蝶夏は覚えていられなかった。

 失血による貧血を起こして、



 ブラックアウト。





 りりりりり、りりりり、と虫の音が蝶夏の耳に届いた。

 身じろぎをすると、ことん、と頭が落ちる。どうやら布団の上に寝かされていたようだ。

目を開くと、暗い室内にぼんやりとした明かりが伸びているのが見えた。

体をひねり身を起こすと、体に掛かっていた布地が落ちた。さらさらとした素材の、薄手の着物のようだった。上掛けが落ちたことで、自分の着ているものにも気がついた。白い、こちらも薄手の浴衣のようなものだ。袖は短く、肘が隠れるくらいの長さだ。全く自分で着た覚えは無い。

「起きたか」

 その声を聞くと、寒くもないのに肩が少し震えた。

 視線を上げると、蝶夏の足元の障子が開いていて、柱に寄りかかるようにして信長が座っていた。蝶夏と同じような袖の短い白い浴衣をまとい、左膝を立てた胡坐のような格好をしている。不思議と裾が乱れていない。右手には朱色の杯を持ち、右の膝の辺りに置いている。

しかしこの男、声を掛けておきながら、こちらを見てもいない。

むむ。と口を尖らせた蝶夏はさっと立ち上がり、男に文句を言おうとした。立ち上がった瞬間にくらりと視界が揺れる。ぺたんと布団の上にしゃがみ込んだ。

「血が足りていないのだ。無理に起きるな」

 ようやくこちらを向いて言う男に、蝶夏は恨みがましい視線を投げる。

「誰のせいよ。誰の」

 ふっと笑うと、「俺だな」自嘲気味にそう言う。

 その笑みをみて、蝶夏は彼がこれ以上あの行為を自分に強いることはないと確信した。少なくとも、今は。

 相変わらず、夏の虫がりんりんと鳴いている。

 体調の関係もあってどうも調子の出ない蝶夏は、気になっていたことを聞いてみることにした。

「ねえ、あれ、あの、血を飲むのって、…………体質?」

 蝶夏の方を向いたまま杯を口に運んでいた信長の動きが止まった。

 杯を元の位置に戻すと、彼女をまじまじと見つめてくる。

「体質か、だと?」

 怒りでは無く、戸惑いに近い感情で眉間に皺を作る信長に、蝶夏はこくんと頷いた。

 こちらに来る前、蝶夏の感覚では二日前の晩に、彼女はテレビで『世界の難病スペシャル』という番組を見ていた。そこには、生き物の血肉にあるビタミンを生のまま摂取しなくてはいけない病気というか、そういう体質の人がモザイクを掛けられて紹介されていたのだ。その番組の印象が強すぎて、信長もそういう体質なのかと聞いたのだ。病気と言わなかったのは彼女にしてみれば珍しく気を使った結果だ。

 真剣な顔でこちらを見つめる少女を眺めているうちに、信長の腹の中にはとてつもなく強烈な笑いがこみ上げてきていた。

「くっ、くくくく…………」

 こら堪えていられた時間は短く、すぐさま大口を開けて笑っていた。

「昼間といい、あんた笑い過ぎ!」

 何が男の笑いのツボを押したかは分からなくとも、自分の発言が原因であることは明白で、蝶夏は頬を赤くして苦情を言った。

 未だ腹を抱えながら信長が蝶夏を見て言う。

「お前、妖魔の類だとは思わんのか?」

 妖魔…………。

「そっちか!」

 別に蝶夏は、現実主義者で妖怪だの幽霊だのを一切信じない、という考え方の持ち主ではない。『リ○グ』も『バイ○○ザード』も観て、夜一人でトイレに行けなくなったりもした。だが今回は『世界難病スペシャル』が頭の大部分を占めていた為、全く思い至りもしなかった。

 信長を指差して、はっと気付いたように言う蝶夏を見て、彼は余計大きな笑い声を上げてしまった。さすがにバツの悪くなった蝶夏は彼を指していた指先を反対の手で隠して、彼の笑いが収まるのを居心地悪く待っていた。

「はぁ―――…………」

 額を片手で押さえるようにしながら長く吐息を押し出して、ようやく笑いは収まったらしい。

 その姿勢のままポツリと話し始めた。

「織田家の祖は、大陸からの渡来人だったらしい」

 蝶夏は首を傾げた。

「渡来人?」

「ああ。とは言っても朝鮮からではない。もっと大陸の西の方だ」

 古来より日本と朝鮮半島、その先の現在の中国との間では、物と人の行き来が盛んだった。聖徳太子の時代には遣唐使が向こうへ渡り、渤海という国からは複数回渤海使が日本に渡ってきている。平安時代に栄えた国風文化の根底には向こうからもたらもたらされた仏教や漢字がある。さらに室町時代には、国土を広げたげんという国との間にいくさも起こっている。

 元は、最終的に黒海まで国土を広げ、今のウクライナ辺りまで支配した。一国が支配できたとはいえ、飛行機や列車といった確実な移動手段が無い時代にそれだけの距離を越えて日本まで辿り着くにはどれほどの時間と労力が必要なことか……。

「容貌は大和人やまとびととは大分違ったらしい。黒髪黒目は同じでも、彫が深く、体格もかなり大柄だったらしいしな」

 なるほど信長にハーフやクウォーターと言った印象を抱いたのは間違いではなかったらしい。身長も160cmくらいの蝶夏よりも頭一つ大きく、髭面の新介よりも大きかった気がする。

「そして、織田家の人間にもその容貌が受け継がれている。彫が深かったり、夜目が効いたり、八重歯が以上に長かったり、な」

「うん? ……ちょっと。夜目が効いたり、八重歯が長いとか、何? どゆこと?」

「先程言っただろう。妖魔だとは思わなかったのか、と」

「うん」

 蝶夏が首肯すれば、信長も頷いてみせる。相変わらず顔の上半分は左手で覆ったままだ。

「言葉通りだ。その渡来人の祖は妖魔だったらしい。そして俺はその特徴の殆どを受け継いだ、先祖帰りだ」

 そう言って顔を覆っていた手をとれば、黒い両眼の虹彩の部分が淡く金色に光っていた。

「ここ数十年はいなかったと親父が言っていた。曾々ひいひいじじいがそうだったとかなんとか、な」

 蝶夏は魅入られたようにその瞳を見つめていた。そうして、思いついた単語を口にする。

「ヴァンパイア……」

「ばん……?」

 聞き返す信長に、「吸血鬼」と言い直す。

「血を吸う鬼って書くの。よく物語に出てくる魔物だよ。女の子に大人気なの」

「魔物なのに人気があるのか?」

「うん。なんか、ロマンがあるとかなんとか」

 ロマンの意味など分からなかっただろうに、何も聞かずに信長は光を放つ瞳を細めた。

「お前の国は、こことは随分と価値観が違うようだな」

「そうかもね。でも、きっと、根っこのとこにあるのは変わらないと思うよ。おんなじ人間だしね」

 自分に言い聞かせるように、蝶夏は言っていた。

 信長はそんな彼女を静かな表情で眺めていたが、おもむろに立ちあがった。左手には脇に置いてあった刀が鞘ごと掴まれている。

「もういい時間だ。寝るぞ」

「はあ。お休み~」

 しかし、彼は杯を戻した盆を足で廊下に押し出すと、障子を閉めて、ひらひらと手を振る蝶夏の方へ歩いてくる。

 障子越しに月明かりがぼんやりとしたシルエットを作る。

 空いている右手でぞんざいに手を振って、「寄れ」と蝶夏に場所を空けるように言ってくる。

「ここで寝るの!?」

 仰天する蝶夏に全く平静そのものの声が返る。

「当たり前だろう」

「なんで? ……そうだ! 正室さんとか側室さんとかいるでしょ! そっち行け!」

 薄暗いのに何故か信長が不愉快そうに眉を上げたのがわかった。

「側室は城に住まわせてはおらん。正室もここにはいない」

「えっ、だって、のう……そう、濃姫のうひめって正室いたでしょ?!」

「濃……? ああ、美濃みのの出身だからか。お前は事情に通じているのかいないのかわからん奴だな」

 だってかなり有名な史実ですー。と蝶夏は心の中で呟く。

「あの胡蝶だか帰蝶だかいうまむしの娘なら、随分前に国に帰ったぞ」

「はあっ?」

 そんなの知らない。

「うつけの妻は嫌だとさ。蝮の怒りを買ったようで、今は別宅に幽閉中だそうだ」

「ゆ、幽閉……。奥さんでしょ? ほっといていいの?」

「あんな女はいらん。親父に押しつけられただけだ。俺の傍らに立つ価値もない」

「サイテー……」

「だったらお前は自分の夫が衣装や食い物にしか興味のない利益性の低い男でもいいのか?」

「あ。それならいらない」

 蝶夏の即答に面白そうに笑う。

「そういうことだ。寝るぞ」

「いやいやいや。自分の部屋行けよ!」

「ここが俺の部屋だ」

 つまり蝶夏のほうが彼の部屋を占領していたということだ。

「じゃあ、あたし別の部屋用意してもらう!」 

「ほう。こんな時間にか? 皆いい迷惑だろうな」

「ぐぬう……」

 意地の悪い言い方だが、確かな正論に唸り声が漏れる。

 それを実に楽しげに見ながら、信長は布団を挟んで蝶夏のヘたり込んでいるのとは反対側、部屋の奥側に膝を着いた。

 揺れない足下に思い出す。こいつはさっき酒を呑んでいたと。

「お酒! さっき呑んでたでしょ! 酒臭い人と一緒に寝る気はないよ」

「酒を呑んでいなければいいのか?」

 今さっき自分が言った言葉はそういう意味だったなと気づく。

「あ、えと、それは~」

「ならば問題無い」

 ばさりと蝶夏に上掛けを被せると、ごろりと布団に横になる。

「大有り!」

 頭を覆った布地をかきわけながら言うと、欠伸混じりの声が言う。

「あれは酒ではない」

「お酒じゃないの? 何?」

「水だ」

「……みずぅっ!?」

 お酒を入れるためのとっくりから朱色の杯に注いでいた、あれが、水?

「俺は酒は呑まん」

「へえ。呑めないんだ」

 意外な言葉に蝶夏は感心したような声を上げた。

 戦国武将は皆大酒呑みだと(酷い偏見だが)思っていた。

 だが、半眼の信長は否定する。

「呑めないのではなく、呑まないのだ」

「何が違うのさ……」

「もう寝ろ」

 返事をするのが面倒だったのか、眠かったのか、彼は蝶夏の上半身を覆う布を引いて器用に彼女を布団の上に転がした。

 二人の間には腕一本分くらいの隙間がある。思ったより大きな敷布だった。

 その距離に安心すると、眠気が蝶夏を襲ってきた。この時間まで眠っていたのは単純に失血による昏倒であって、休息ではなかったらしい。

 ころりと寝返りを打って信長に背中を向ける。

 薄れていく意識の中で、そう言えば彼に上掛けが無いのではないかと思った。自分がくるまっているものを返そうと、再び寝返りを打ったところですとんと眠りに落ちた。





 信長は、上掛けに覆われて、ふてくされたように障子の方を向いた少女の背中を見つめていた。呼吸の様子から彼女が今すぐにでも夢の中へ行ってしまうだろうと予想がつく。

 ところが彼女は再びこちらを向いた。正確に言うと、寝返りを打つ途中でぱたりと動きを止めた。上半身は天井の方を向き、下半身はまだ障子側を向いて腰をひねった状態だ。何故か左手が上掛けの端を掴んでこちらに向けられている。

 蝶夏が気付いた通り、彼は何も掛けずに敷布の上に転がっていた。

「なんだ、俺に掛けようとしたのか……?」

 問いかけるが、瞼を閉じた少女は当然答えない。静かな寝息が聞こえるばかりだ。

 信長は身を起こすと蝶夏の膝下に腕を入れて体勢を整えてやった。体を伸ばして眠れるようになった蝶夏はふぅ、と満足げな吐息を漏らした。

 その横に再び転がった信長は肘をついて、起きている時よりあどけなさの目立つ少女の寝顔を眺めた。そうしながら、蝶夏を昏倒させて茅乃に世話を任せた後のことを思い返していた。

 


 執務室に戻ると、五郎佐が正面に座って待っていた。人払いをしたのか、他に人はいない。

 彼は姓名を平手ひらて正秀まさひでといい、信長の父・織田おだ信秀のぶひでの家臣であった。信秀の嫡男である信長の傳役もりやくとして幼い頃から共にある存在だ。

 初めて会った時、彼は五郎佐衛門ごろうざえもんを名乗っており、当時の信長は彼を『五郎佐』と呼ぶことにした。だから彼は今も信長にとって『五郎佐』なのだ。

 彼の特徴はと言えば、顔の渋さと性格の堅物さが著しく比例した人物であるということが第一にあげられる。今もその顔は渋い。

 そして、信長が腰を落ち着かせるや話し掛けてきた。

「信長様。あのような下女げじょをお側に置かれる気ですか」

 書類に伸ばそうとした手を止めて信長は中年の傳役を見やる。びんに目立ってきた白いものが目に付く。

「口も悪い、態度も悪い。あれは御当主に対する態度がどうとかいう問題ではありませんぞ。一体どこで拾われたのですか」

「あれは、最初から俺の腕の中に居たようなものだぞ」

 蝶夏に初めて会ったときのことを思い出して信長は喉を鳴らして笑う。

 僅かに目を見張った五郎佐は複雑そうな顔をする。

「随分と、楽しそうですな」

 言われた当人はきょとんと目を瞬いた後、自分の頬をさらりと撫でる。

「そんなに楽しそうか?」

「ええ。『うつけ』と呼ばれていた頃に戻ってしまったようですよ」

 前織田家当主であり父親である織田信秀が死に、まだ十八歳だった信長が織田家当主の座を継いで一年。気を張りつめ通しだったとは言え、楽しそうにすることさえ無かったのかと思い返す。そして、「うつけに戻ったようだ」と言った瞬間の五郎佐の苦々しげな様子に苦笑が零れる。

「あの娘、蝶夏については今しばらく手元に置くぞ。……あれは、俺が欲しかったものを持っているかもしれんからな」

 その言葉に五郎佐が首を傾げる。

 外に用事を思い出した信長はその旨を五郎佐に告げて立ち上がった。

 傳役は先ほどの発言に特に疑問を差し挟まなかった。

 部屋を出る際、信長は問うた。

「うつけに戻ることは、そんなに悪いことか?」

 五郎佐は、答えなかった。


 五郎佐が答えなかった理由など信長には嫌と言うほど分かっていた。

 彼は、『織田上総介信長』とは、今の織田家当主然とした自分が相応しいと考えているのだ。『尾張の大うつけ』と呼ばれた、あのカブキ者などではないと。

「蝶夏、お前はどう思う?」

 眠る少女に話し掛けて、自分の言葉に自分で笑った。

「この俺が、他者に意見を求めるか……」









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