十二、苦手なものに勝るは好きなもの
スパルタ教育という言葉をご存知だろうか。
この言葉の語源は、古代ギリシャの都市国家スパルタまで遡る。
スパルタとは軍国主義を貫く国である。男児は七歳にして親元を離れて共同生活を行い、やがて厳しい訓練と教育を経て一人前の兵士と認められる。
そのあまりの厳しさから、極めて厳格な教育のことをスパルタ教育と言う様になった。
蝶夏は今、その言葉を身を以て体験していた。
「まあ。蝶夏様、そうではありませんわ」
その一言で、段々と丸まっていっていた蝶夏の背中にぴしりと力が入る。最早条件反射だ。
半日程のスパルタ教育で、楚々とした風情の茅乃の声は猛獣使いの鞭の如く、蝶夏に躾を施していた。パブロフの犬の原理だ。
「裾を捌く時はこのように少し持ち上げて、優雅になさって下さい。ささ、このように」
打ち掛けの端を少し持ち上げて滑る様に進む茅乃の姿は、本人の言うようにとても優雅で美しい。
そしてそれを蝶夏にも実践するように笑顔で促す。
ぎこちない動きで彼女がそれを真似れば、首を僅かに傾けてじっと見つめてくる。
……ううう。見られてる、見られてる〜!
試験中に試験官に答案を覗き込まれた気分だった。それも、明らかに間違った回答を書いている真っ最中に。
冷や汗が背中を滑る。
ぽんっ、と柔らかな音がするからそちらを見れば、茅乃は両手を合わせて微笑んでいた。
「休憩にしましょう」
「やーばい。やばいよー。茅乃怒ってるよー」
蝶夏は茜丸に会う為に厩への道をへろへろと進んでいた。
高井楼の見張り番に挨拶するのも忘れる程、彼女は疲労困憊していた。
下を素通りしていく少女の姿に、見張り番たちは「おっ」と驚いた顔をしたのを方輔は見た。
それに軽く頷いてみせ、方輔は蝶夏の後を追う。
へろり、へろりと酔っぱらいの様な不安定な足取りで蝶夏は前に進む。
ところが、彼女はふと、ある小屋の前で足を止めた。
それは物置にしている小さな小屋で、引き戸が開いたままになっている。誰かが物の出し入れでもしているのだろう。中から話し声が聞こえていた。
興味を抱いた蝶夏は歩み寄って、小屋の中を覗き込む。
予想通り、男が三人程、作業をしながら話し込んでいた。その内容が彼女の耳をぐっと引きつけた。
「だから、やっぱり御館様が一番通われているのは、原田家の直子様のところだろう?」
たすき掛けをして大きな箱を棚から下ろしている男がそう言えば、しゃがみ込んで書物の内容を確かめている男が反論する。
「いやいや、半年程前からは、あ〜、……駄目だ、名前出てこない。そっちに通う回数が多く無いか?」
「……そうかもな」
しゃがみ込んだ男から数冊の書物を受け取った男が同意を示した。
その書物を持ったまま、彼は振り向いて、蝶夏と方輔の存在に気がついた。目が極限まで開かれる。
同僚の様子に気付きもせず、たすき掛けの男は笑いながら口を開いた。
「ああ。でも、今一番寵愛を受けてるのは……」
「それ、信長の側室さんたちの話?」
我慢出来なくなった蝶夏は、彼の台詞が終わる前に口を挟んでしまった。
「はっ?!」
入り口に背を向けていた二人はこちらを振り向いて、口をぽかんと開けて固まった。
「蝶夏様。このような所にいらしては……」
たしなめようとする方輔を無視して蝶夏は拳をぎゅっと握って、身を乗り出していた。
「是非、もっと聞かせてちょうだい!」
こんなにも目を輝かせた蝶夏を、方輔は初めて見た。男どもが怯む程彼女の瞳は期待に満ち満ちている。
「ゴシップね、ゴシップ! 最高の娯楽が目の前に!」
実は蝶夏はゴシップネタが大好きだ。
某女優や某タレント、某ミュージシャンが誰それと付き合ってるだの、不謹慎だとは思うが、誰それと不倫しているだの。ワイドショーに齧りついて見る程、好きだ。
流石に週刊誌を愛読してはいないが、テレビで満たされない好奇心をそれで満たす事もたまにある。
だから、信長の側室ネタは誰かに聞きたいとずっと思っていた。
側室だ、側室。
蝶夏のいた時代では有り得ない話だ。
なんと公然と妻が複数いるのだ。
そこに一体どんな愛憎劇があるか、想像するだけで胸がときめく。
勿論以前公言した通り、蝶夏は一夫一妻制主義者だ。
でも、ゴシップネタはゴシップネタ。自分に関わりが無いのだから楽しんだって罰は当たらないだろうと、彼女は楽観視していた。どっかの石油王に奥さん大勢いるのね〜、くらい、自分には無関係な事だと考えている。
当然身近にいる茅乃に聞こうと思った事もある。
しかし蝶夏が「ねね、信長の側室さんって……」と口を開くと、茅乃はにっこり微笑んだ。その笑顔に、蝶夏は何らかの危機感を抱いた。これ以上続けるとどんな展開になるのか、全く読めない。読めないけれど、まずい事になることだけは蝶夏のシックスセンス(第六感)が告げた。
何人いるの?って聞こうと思っただけなのに……。
彼女はその時、茅乃に聞く事をきっぱりと諦めた。
そんな事だから、これ幸いと彼らに聞く事にしたのだ。
興味関心赴くままに尋ねれば、現在信長の側室は二人だという。しかも、二人とも寡婦、つまり夫を亡くした未亡人だというのだ。
「えっ、じゃあ、みんな信長とは再婚なの?」
小屋の中はまずい、と方輔が言うから、たすき掛けの男が外に置いてくれた箱に腰掛けて蝶夏は聞いた。
「ええ。そうですよ」
「そして、みんな姉さん女房、と。ほほう、ほほう」
年上好きね〜。
彼女はにまにま笑いを堪えながら頷く。
聞かれた方も意外とノリノリで、蝶夏の質問にすんなり答えてくれていた。
ついでとばかりに、ずっと不思議だった思っていた件も聞く事にした。
「そういえば、那古野城で側室さんに会った事無いけど。ここに住んでないの?」
大奥みたいなところでもあるのかと思っていたが、城内をうろついてもそんな場所は無さそうだった。
方輔を除く男三人が顔を見合わせて、一番背の低い男が蝶夏の問いに答えた。
「ご側室方はご実家にお暮らしですよ。信長様がそちらに通われています」
「へええ。一緒に暮らすんじゃないんだ」
そういえば信長もいないって言ってた気がするなあ、と蝶夏は瞳を瞬いた。
「じゃあ、ほら、あれ。ご寵愛を取り合って的な事、無いの? 無いの?」
期待をするのは「この女狐!」とか、「信長様のご寵愛は私のものよ!」的な感じだ。
しかし誰もが変な事を聞いた、と言う顔をする。
「は……? あ〜、いえ、聞いた事が無いですね」
がっくりと肩を落とした後、蝶夏は唇を尖らせる。
「なーんだ。どろどろの愛憎劇っぽいの、近くで見れると思ったのになー」
ちえっ、と思わず舌打ちが零れた。
「えーと……」
書物を持ったまま立っていた男が、頭を掻いた。それから「ええ〜?」という疑問たっぷりの顔をしている同僚たちに視線を送る。
視線を受けた二人は無言で首を振る。
三人の心には一様に「むしろ、貴方、渦中の人ですよね?」という思いがあった。
しかしそれを完全に傍観者の姿勢でいる蝶夏に言ってしまうのは何だか不味い気がして、誰も突っ込む事は出来なかった……。
「はあ〜。楽しかった!」
「……それは、良かったです」
本心とは裏腹な言葉が方輔の口から出て来た。
この一件が主に知られた場合、一体あの三人と自分はどうなるのだろうか……。
ついつい、そう考えてしまう。
側室に関してはいずれ知れることだから、どこでどう蝶夏が耳にしようと信長は大して気にしないだろう。しかし、問題は彼女が側室の存在をどうとも思っていない事だった。
むしろ面白がっているし。
「茜丸に会いに行く時間が無くなっちゃったけど、まあ、明日行けばいいかな」
お気楽に話す蝶夏の背後で、方輔の肩は更に落ちていった。
多分、そっちの方もかなり問題になってくるだろう。蝶夏の事だから、素直に茜丸に「他に面白い話を聞いちゃって、来れなかったの。ごめんね〜」とか言いそうだ。
ああ、明日が怖い……。
気持ちが落ち込んで行く方輔の前で、蝶夏は蝶夏で、部屋に戻った後の事を考えていた。
そう言えば。完全に忘れてたけど、この後って茅乃の授業の続きだよね。
……物凄く帰りたくなくなった。
一体どうすれば、あの地獄の特訓を回避出来るのだろうか?
そう考えて、考えて…………。
「あっ!」
蝶夏は閃いた。
大体彼女が閃く事にロクな事は無いのだが、それでも蝶夏には名案に思えたのだ。
その結果。
「……蝶夏様! 素晴らしいですわ!」
茅乃の口からそんな台詞を引き出す事に成功したのだ。
蝶夏が何をしたか?
彼女はこう考えたのだ。
『お姫様ぶりっ子すりゃいいじゃん!』とね。
つまり、素の蝶夏で『楚々とした』や『優美な』仕草をやると、照れや恥ずかしさが先に立って、どうしても動きに硬さが出てしまう。
だったら、別人になれば良いのだ。
要するに、そういう演技をする事にした。
部屋に戻った蝶夏はこう呟いて、ガッツポーズを決めた。
「演劇部、在籍六ヶ月をなめるなよ!」
中学の時、助っ人として『わがままなシンデレラ』という劇に姉役として出演した事があったのだ。
そんな彼女の愛読書には、女優が主役の某演劇漫画があったりする。