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十一、海は青いなお風呂は憎いな

「あはは~。ぐったりした蝶夏殿ってのも初めて見たなあ」

「人の不幸を笑うものでは無いと思う、勝三郎」

 楽しそうに言う勝三郎を内蔵助くらのすけたしなめる。

「え~。不幸っていうか、一応幸運なんじゃない? 熱田大神様に会えるなんて、滅多にないよ~」

「本人が不服そうなのだから、不幸じゃないか?」

 眉根を寄せて内蔵助が問う。

「傍から見れば幸運なんだから、僕としてはそれでいい!」

 勝三郎はまだ笑っている。

 内蔵助は肩を竦めた。それから主を見れば、腕を組んで先を歩くばかりだ。

 内心、「面倒な事になりそうだ」と渋面を作っている事は誰も気付いてはいなかった。


 まさしく半刻程で戻ってきた信長たち三人と蝶夏、方輔は帰途についた。

 考え事をしていた蝶夏は全く気付いていなかったが、実はその進路は那古野城と反対の方向だった。

 やがて特徴的な香りが蝶夏の鼻をついた。

「なに? 潮の香り?」

 気付いた彼女が顔を上げれば、少し先の方に砂浜と青い海が広がっていた。

「……海だ」

 砂浜に入る大分手前で信長は茜丸の足を止めさせた。

「少し休憩を取る」

 その言葉に蝶夏は彼を見上げた。

「じゃあ、海行ってきてもいい?」

「ああ、構わん」

 瞳を輝かせて言う蝶夏に、信長は短く答えた。

 許可を貰った蝶夏はひょい、と手綱を握る信長の腕を持ち上げた。その下を潜り抜けるようにして茜丸から下りた。もうこの高さにも慣れてしまったから、安いものだ。

 軽やかに地面に着地して小走りで海辺へと向かう。

 毎年、親友のひよりと海に行っていたが、今年はまだ行っていなかった。ひよりの歴女検定やイベント(何のかは知らない)の予定が立て込んで時間が取れなかったのだ。

 海の家もビーチパラソルも何も無い、冬の海の様に殺風景な癖に空気は夏なのだ。まるでプライベートビーチだと蝶夏は興奮していた。

「蝶夏さま」

 馬を下りて少女を追おうとする方輔を、信長が軽く手を上げて止めた。

 茜丸の手綱を勝三郎に渡して、ゆっくりと蝶夏の後を追って行った。

 その間に蝶夏は被衣を丸めて流木の上に置いた。履いていた草履を片方ずつひょいひょいと脱いで、その傍らに置いた。

 日差しで焼けた砂が少し熱い。

 さらさらと滑る砂の上を再び小走りに進んで、打ち寄せる波に足先をつけた。少しひんやりとして気持ちがいい。

 着物の裾を片手で持ち上げて、歩を進めた。足の甲くらいまで海水につかる。火照った足を冷やすように、ぱしゃぱしゃと水を揺らした。

 白い足首に跳ねた水滴が掛かって、汗のようにくるぶしまで流れていった。

「機嫌は直ったか?」

 すぐ後ろに追いついて来ていた信長が、波打ち際で腕を組んで言った。

 きょとん、として蝶夏が振り向けば、にやりと笑っている。

「……海に来たのはあたしのご機嫌取りだとでも言うの?」

 首を傾げて聞けば、なんと、「そうだ」と答える。

 思わず蝶夏は噴き出していた。

「似合わない!」

「では、熱田大神に何を言われた」

 唐突な話の転換に蝶夏はぴたりと笑うのを止めた。

 視線が足元に落ちる。

 戯れるように足先で海水を跳ね上げる。

「うん。……元いたところに、帰る方法は知らないって。そういうこと出来る神様の知り合いもいないって」

「……帰りたいのか?」

 穏やかな口調で聞かれたから、蝶夏も素直に答えを返した。

「当たり前だよ。帰りたいよ」

 二人の視線が絡む。だが、二人ともしばらく口を開かなかった。

 ただ、波の音が耳に届く。

 そのうち蝶夏は首を振った。

「だからっていつまでも凹んでてもしょうがないしね! だから、これからも、あたしがやることは変わんない。勉強して、仕事貰って、帰る方法を探すの」

 腰に手を当てて宣言してやった。

「まだそんなことを言っていたのか」 

「んん?」

 蝶夏の宣言に呟いた信長の台詞は蝶夏には聞き取れなかった。

「なに? なに言ったの?」

 彼に歩み寄って尋ねる。

 ところが、引き潮に足を取られて蝶夏は体勢を崩した。

「あっ」

「…………っ」

 呻き声を漏らさなかったのは、流石と言うべきだろうか。

「ご、ごめん! 今のはあたしが悪かった!! 入った? 鳩尾みぞおち入ったよね?」

 信長の胸にダイブした蝶夏の頭が見事に彼の鳩尾を捉えたのだ。

「お、お前はっ」

 怒っているのと苦しんでいるのの中間くらいの心持ちで信長は言った。

「ごめんってば!」

 慌てた蝶夏が鳩尾を擦ってやろうと手を伸ばすと、信長は怪訝そうな顔で海を見た。

「?」

 長い左手が蝶夏の肩を掴んで引き寄せる。

 だが間に合わなかった。

 ばしゃんっ

 派手な音を立てて大きな波が二人に襲い掛かった。

 引き寄せられたままの体勢で、蝶夏は瞬いた。潮の香りをさせた水が顔の横を流れてくる。

 振り仰げば、頭から海水を被った信長が渋い顔をしていた。

 長い髪が水を吸って顔に張り付いている。

「ふっ…………」

 自分も殆ど同じ姿なんだろうと思った瞬間、蝶夏は可笑しくて可笑しくて仕方なくなった。

「ひっどい顔!」

 笑いながら、信長の顔を手を伸ばす。

 目元に垂れてきた海水に、片目を瞑った彼の前髪を顔の脇に流してやる。

「あ~あ~。もう、着物も凄い水吸ってる!」

 背後から海水に襲われた蝶夏はともかく、正面から襲われた信長は酷かった。

 蝶夏は自分の右袖をぎゅっと絞った。だばだばと海水が流れ落ちていく。ある程度絞ってから右手で持ち直して、信長を見上げた。

 彼は蝶夏が避けてやったのでは足りなかったのか、不快そうに髪を掻きあげ、沖の方を睨んでいた。

「んっ」

 蝶夏が、声を掛けると、見下ろしてきた。

 袖を持った右手を伸ばすが、身長差のせいで顔まで届かない。

「ちょっとかがんでよ。届かない」

 そういえば、素直に屈んできた。

 絞った袖で顔を拭いてやると、驚いた顔をした。

「なんで驚くのよ」

「……いや。そう来るとは思わなかった」

「じゃあ、なによ。殴ればよかったの?」

「何か違う」

 不毛な会話しているうちに、唐突に襲ってきたあの波が気に掛かった。

「さっきの何? また来る?」

 後ろを振り向きながら聞けば、信長は「どうだろうな」という。

 その返答の曖昧さをいぶかしみながら蝶夏は海に目を凝らす。どう見ても凪いだ海だ。あんな高波など起こりそうも無い。

「あれが見えるか?」

 信長が指差した先には黒い塊が動いていた。

「……鯨?」

「違う。海神わだつみだ」

「わだつみ?」

「海の神と書いて『わだつみ』と読む」

「神様?」

「まあな。あれは子どもだ。沖の方に親がいる」

 流石にそんな遠くまでは蝶夏には見えなかった。

「はあ。で、あの海神(子)があたしたちに海水をかけたの? なんで? あの子に恨まれるようなことしたの、信長」

「少なくとも海神の恨みを買った覚えは無いな」

 じゃあ、他ならあるんかい。蝶夏は内心で突っ込んだ。

「あれは遊びたがっているんだ」

「遊ぶ?」

「海神の子は人懐っこいそうだ。誰かの受け売りだがな」

「ほ~。あの子って噛む? 人とか食べる?」

「人の血肉なんぞあれらにはけがれだ」

「ふうん。じゃあいっか」

 ざばざばと海水の中を蝶夏は進んだ。

 もうここまで濡れれば海に入ってもあまり変わらないだろう。

「おい」

 信長は蝶夏に声を掛けたが、大体彼女が何をしようとしているのか分かっていた。

「遊んでくるー」

 膝の辺りまで水に浸かれば、あちらから近づいてきた。

 黒い艶光りした身体は流線型を描き、まさしく鯨のようなフォルムだ。ひれは身体の側面に二対と腹の辺りに一対ある。六対の鰭と大きな尾びれの先はいずれも薄く、羽衣のように揺らいでいた。

「さっき、水かけてきたのは君? 急にやっちゃ駄目でしょ」

 円らな、鯨より大きめの蒼い瞳がこちらを見上げてくる。

 尻尾を振って「遊んで遊んで」という小型犬と同じ輝きだ。

「うっ。可愛い……」

 子どもと小動物に弱い蝶夏のポイントをばっちりついていた。

「うううう。遊んで欲しい時は、いきなり水かけないところから覚えてよね。そしたら遊んであげるから」

 蝶夏の台詞の前半を聞いていたのか怪しいが、遊んでくれると言うことは分かったのだろう。蝶夏の足の周りをくるくると泳ぎ始めた。

 しょうがないな、と蝶夏は苦笑した。

「いいんですか~、遊ばせといて」

「海に引きずり込んだりはしないだろう。流石に」

 勝三郎の差し出した布でがしがしと頭を拭きながら、信長は蝶夏を見ていた。

 方輔も波打ち際で「あんなに濡れて……」と心配そうにしている。

 内蔵助だけは波が絶対来ない安全圏に立ったままだった。

「あ」

 浪打際の三人より高い位置にいた彼は、海神(子)が蝶夏の背後から彼女の裾を引っ張ったのが見えて、声を上げた。

 ばしゃんっ、と派手な飛沫しぶきを上げて蝶夏がひっくり返ったのはその直ぐ後のことだった。


「酷い目にあった!」

 濡れネズミと化した蝶夏が海から上がってきたのは、しばらく経ってのことだった。

 方輔の手から被衣を奪い取った信長は、それで蝶夏を頭から包んだ。

「のわっ?」

 奇妙な悲鳴を上げる蝶夏を抱え上げると、勝三郎に顔を向けた。

「この辺りで一番近いのは五郎佐の分家だったな」

「はい〜。そうですね」

「お前先に行って風呂を借りるよう言ってこい。このまま帰ると茅乃がうるさいだろう」

 その一言に勝三郎は僅かに顔色を青くした。

「あ、姉上に殺され……、いえいえっ。すぐ行ってきます!」

 彼は素早く踵を返して立ち去った。

 信長もさっさと茜丸に乗ると、彼を走らせた。蝶夏が信長に声を掛けあぐねている間に、茜丸はその歩みを止めてしまう。

 信長は再び蝶夏を抱き上げて、家人の挨拶に頷きながら家にあがり、廊下を進む。

 被衣かずきのせいで周囲のよく見えない蝶夏は状況が全くわからなかった。

「こちらが湯殿でございます」

 年配の女性の声がして、どうやら蝶夏と信長はその部屋に入ったらしい。

 床に下ろされたかと思うと、被衣が取り払われる。

 乱れた髪に手を伸ばしながら、蝶夏は目の前の男を見上げた。

 びっしょりと濡れそぼった姿の蝶夏を見下ろして、信長は聞いて来た。

「一人で風呂に入れるな? それとも誰かつけるか?」

「へっ。……いいいいいい! 大丈夫、入れる!」

 那古野城でも初めの頃は茅乃が一緒に入っていたが、やはり銭湯や温泉でも無いのに誰かと入るのは居心地が悪かった蝶夏は、全力で首を振った。

「では、入っていろ」

 蝶夏の背後の引き戸を指差した信長は、廊下へと出て行った。

 ひとつ、息を吐いて、蝶夏は信長に示された引き戸を開く。

 急いで用意してくれたのか、まだ十分ではないが、蒸気が部屋の中に籠っている。いつも入っている湯殿程ではないが、中々広かった。

「む〜。知らない人の家で入るのは、びみょ〜。でもなあ……」

 そう言って我が身を見下ろせば、まだ海水がぽたぽたと落ちてくる程ずぶ濡れだった。

「よし。入ろ」

 びたびたとくっついてくる着物に苦労しつつもなんとかして脱いだ。いつも風呂に入る時の様に下着の着物一枚になる。

 脱いだ物をどうするかでしばし悩むが、ここまで濡れていれば、どうしようと迷惑を掛ける事に変わりはないだろう。傍にあった籠に軽く畳んで詰め込んだ。

 引き戸を開いて中に入る。ひたひたと足音を立てながら進み、桶を掴んで湯船の横で膝をついた。

 お風呂に入る前にこの塩水をどうにかしなくてはいけない。そう思って蝶夏は頭から湯を何度も被った。

 息を止めてやっていたがそのうち息継ぎが必要になって、ぷはっと口を開ける。すると、顔の横を流れてきたお湯が口に入ってしまった。

「しょっぱ、……くない」

 あらかた海水が流れたのか、握って鼻に近づけた髪の束からも磯臭さはしないようだ。

 もう湯船に入ってもいいだろうと蝶夏は立ち上がった。

 しかし、ふと、今着ている薄物にも海水が染み付いていないか気になった。

「う〜ん。やっぱりこれ脱がないと洗った気がしないよなー……」

 眉間に深く皺が寄る。

 思い立ったが吉日! とばかりに蝶夏は脱いでしまう事に決めた。

 右見て、左見て。誰もいないいない。

 左の腹の上にある結び目、そこから足れる細い腰紐の端を掴んで引っ張った。湿っているせいで思う様にほどけない。

 うんうん言いながら、くいっともう一度引っ張ると、意外な程あっさりと腰紐はほどけた。

「やった!」

 蝶夏が小さく歓声を上げた瞬間、がらりと引き戸が開いた。

 ぴたり、と動きを止めた蝶夏の手の中から腰紐が逃れて、べちゃりっと音を立てて床に落ちた。

 ぎしぎし言いそうな動きで蝶夏が振り向けば、薄物一枚の信長が立っていた。

「△××○×□!!!?」

 言葉にならない叫び声を蝶夏が上げると、信長は素早く間合いを詰めて来た。

 すかさず蝶夏の口を塞ぐと、囁いた。

「ここは那古野城ではない。あまり騒ぐな」

 ふがふが言いながら抗議する蝶夏を見下ろして、「静かに話せよ」と念を押す。

 蝶夏がこくこくと頷いて、ようやく彼女を解放してくれた。

「誰が騒がすようなことしてんのよ! っていうか、なんで入ってくんの」

 言われた通り、比較的小さめの声で蝶夏は彼を責め立てる。

 しかしそこは信長。なんら悪びれた様子も見せず返答する。

「共に入れば時間の短縮になる。護衛の数も少ないのだ、早いに越した事は無い」

「う〜。わかるけど、一緒にはいるって、どうよ、どうなのよ!」

 睨みつける蝶夏にも彼は何処吹く風だ。

「ところでお前、一体何をしようとしていたんだ?」

 腰紐を落とした状態を指してそう言った。

 その言葉にはっと自分の状態を思い出した蝶夏は慌てて襟元を掴んで腰紐を拾った。

「あ、あたしのとこではお風呂は裸で入るもんなのっ。それに海水が気持ち悪かったんだもん。誰か入ってくるなんて思わなかったし!」

「ほう。……じゃあ、脱ぐか?」

 面白がっている声が上から振ってくる。

 かっとして立ち上がった蝶夏は噛み付いた。

「誰があんたの前で脱ぐか!!」

 そう言って、手にした紐を腰に回す。幸い濡れた袷はそう簡単にははだけなかった。

 厳重に、厳重にしばってやる!と思うが、緊張や焦りで、上手く結べない。

 段々目尻に涙まで浮かんで来た。

「何をやっているんだ」

 呆れ声と共に伸びて来た手があっさりと結び直してしまった。

「もう、体は流したのか?」

 そう聞いてくるから、蝶夏は唇をへの字に曲げながらも頷いた。

「だったら湯につかっていろ。冷えるぞ」

 信長はそれだけ言って、彼女を湯船の方へと押し出した。

 濡れた着物が少し冷たくなって来たのは事実だったので、蝶夏は素直に湯船に入った。

 二人が入るにも少し大きめのその湯船の端っこで蝶夏は縁にかじりつく様にして浸かっていた。

 視界の端では、先ほどの蝶夏のように信長が頭から湯を被っていた。薄い布地が肌に張り付いて、彼の立派な体躯が透けて見える。

 細身の癖にしっかりと筋肉のついた背中に、蝶夏はつい見入っていた。プールで見た同級生の背中などとは比べ物にならない程立派なものだ。

 それだけじゃない。髪をよけた襟足だとか、腕を上げる時に躍動する筋肉だとかに、やたら色気があるのだ。

 それに気づいた蝶夏は、頬を赤らめて顔を俯けてしまった。

 あああああああたしは、腐女子じゃないぃぃぃぃぃ!

 内心でそう叫んでいると、蝶夏の浸かっている湯がざばりと揺らいだ。

 振り向くと、信長が両腕を広げて、悠々と座っていた。

 だが、蝶夏の顔を見て、片眉を上げる。

「顔が赤いぞ。のぼせたか?」

 ぶんぶんと蝶夏は無言で首を振った。まさか当人に見蕩れてましたなんて言える訳も無い。

「もう上がる!」

「そうしろ。ただし、うろつかないでそこで待っていろよ」

「うん」

 頷いて立ち上がろうとするが、信長の視線がまだこちらにあることに気づく。

「あ、あ、あ、あっち向けぇっ!」

 出口と反対方向を指さして、蝶夏は悲鳴のように叫んだ。

 彼の視線が外れたのを確認して、そそくさと湯殿を後にした。


 一体全体、なんだって信長と一緒に入浴するはめになったのか。

 海で遊ぼうなんて思った自分が悪いのか、蝶夏に海水をぶっかけて遊んで来た海神の子どもが悪いのか……。

 つらつらと考えながら、下着まではあっさりと着替え終わった。

 用意されていた萌葱色の着物を手に取って、蝶夏は固まった。

 着方がよくわからない。

 さすがに下着を人に着つけてもらうのはどうかと思い、こっちに来て早々に茅乃に教えてもらったから、そこまでは着れる。

 しかしその先は、と言うと、いつも茅乃が楽しそうに着つけてくれたのだ。何でも季節や天候で色々と色の組み合わせや模様の組み合わせがあると言う事で、あれを合わせて、これを合わせて、いややはりさっきの色にして、と着付けていくものだから、蝶夏は覚えきれなかった。

 とりあえず、色とか模様とかは考えなくていい。なぜならここにある物を着ればいいだけだからだ。

 問題はその着方。

 まず、羽織る。袖を通して腰元で合わせる。そこにすかさず腰紐を、結わえられない……。紐が腰に回る前に、はらり、と合わせた襟がはだけるのだ。

「ううううううう……」

 無理矢理結んでみるが、どうにも裾は歪むし、襟は整わない。

 もういいっ、と帯を手に取るが、はっと気づく。細帯の結び方が分からない。

 完全にお手上げだった。

 そこに、湯殿から信長が現れた。

 何気なくそちらに顔を向けた蝶夏は、一瞬の間も置かずに顔をもとに戻した。

 濡れた白い着物は、着ていないのとあまり変わらないと言いたくなる程透けるのだ。幸い蝶夏は素早い行動のおかげで、胸元くらいまでしか見ないで済んだ。

 あれ、ちょっと待てよ。と考える。

 信長がそうなら、自分もそうだったのか、と。

 自然と、ぶるぶる肩が震えてくる。

 羞恥心で顔に血が集まってくる。

 見られた。見られた? ……絶対見られた!

 呆然とする蝶夏の背後から声が掛かる。

「まだ着替えていないのか?」

「ひい〜〜〜っ」

 思わず蝶夏は過剰反応してしまった。

「なんだ、その声は」

 それから蝶夏の着方を見て、鼻で笑った。

「下手くそ」

「うるさいなっ。着方がわかんないんだからしょうがないでしょ!」

 信長は何か意外な事を聞いた、という顔をした。

「茅乃は一体何をしている……」

 乳兄弟への疑問を呈すも、軽く嘆息してから、蝶夏の体をくるりと回して自分に背中を向けさせた。

 彼女の脇の下から腕を伸ばして、すいすいと着物を整えていく。

 細帯を器用に結び終わると、蝶夏を再び反転させた。

「うん。これでいい」

「……あのさ、なんで着せられるの?」

 前にも被衣を綺麗に整えられたことを思い出して、蝶夏は聞いてみた。

「ああ。着た事があるからだ」

 にやりと、楽しそうに笑って答える。

「着た事あるって、……女物の着物を!?」

 目を見開く蝶夏の何が楽しかったのか、信長は更に笑みを深めながら言う。

「まあ、お遊びの一環だ。若気の至り、か?流石にもう似合わんだろうな」

 絶対に今でも似合うに決まっている。蝶夏は確信していた。


 那古野城への帰路、蝶夏はむっつり黙り込んでいた。

 そして、帰ってくるや、出迎えに来た茅乃を見つけて駆け寄った。

 戸惑いながら、「あら、蝶夏様、お召し物が……」そう言った茅乃に、着物の着方をきっちり教えてほしいと頼み込んだ。素早く、迅速に、付け入られる隙の無い程完璧に着られる様になりたいと。

 茅乃はにっこり微笑んで、「まあ。丁度良いです。明日からは私の授業で、その時にお教えしようと思っていたところです」と言ってくれた。

 しかしその背後で、勝三郎と内蔵助が青い顔をしていたことに蝶夏が気づく事は無かった。









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