婚約破棄された侯爵令嬢は、暇つぶしに身体を鍛えることにしました。
※中世ヨーロッパ風ですが、服飾・食文化・制度等はかなりゆるふわなご都合設定です。細かい時代考証についてはご容赦ください。
「カーテローゼ・フォン・ヴァルデック侯爵令嬢。私は今日をもって、君との婚約を破棄する」
王立学院の卒業祝賀会。無数の蝋燭を灯したシャンデリアが大広間を煌びやかに照らす中、侯爵令息ユリウス・フォン・レーヴェンハルトは、よく通る声でそう宣言した。その隣には、淡い桃色の髪をした子爵令嬢フィオナが寄り添っている。
なるほど。婚約破棄。
カーテローゼは手にしていた果実水のグラスを静かにテーブルへ置いた。驚かなかったわけではないが、ここで騒いだところで何かが解決するとも思えないので、とりあえず理由くらいは確認しておくことにする。
「理由を伺っても?」
「君は、私を愛していない」
それは少々予想外だった。
カーテローゼはこれまでの自分の言動をざっと思い返してみたものの、婚約者として必要な付き合いはきちんとしてきたつもりだ。ユリウスがそこまで断定するに至った理由には心当たりがなく、素直に聞き返した。
「愛していない、というのは、どのあたりでそう判断なさいました?」
「そういうところだ!」
ユリウスは声を荒らげた。
「何でも理屈で考える! 私が騎士団に入りたいと言えば領地は誰が継ぐのか、新しい事業を始めたいと言えば採算はどうなのか、旅行に行きたいと言えば日程はどうするのか! カリンは私の夢を応援したことが一度でもあるか!」
カーテローゼは今度こそ真面目に振り返ってみた。
ユリウスは十五歳のとき、騎士団に入って辺境へ赴き、武勲を立てたいと言ったので、侯爵家の嫡男が何年も領地を離れるつもりなら、まず父親である侯爵と後継について話し合うべきだと助言した。十六歳のときには、南方から珍しい鳥を輸入し、繁殖・販売する事業を始めたいと言った。そこで調べてみると、その鳥の生育に欠かせない飼料の費用だけで、その鳥一羽の販売価格を上回ることがわかったので、その旨を伝えた。そして十七歳では、友人六人と三か月の大陸旅行へ行きたいと言い出した。卒業試験の二週間前だったので、せめて試験が終わってからにしてはどうかと勧めた。
確かに、応援した覚えはない。
「ありませんね」
「ほら!」
「そのまま実行できそうなものがありませんでしたので」
「カーテローゼ様」
隣に立っていたフィオナが、悲しげに胸元へ手を当てる。
「夢を持つことは、とても大切だと思います。ユリウス様はいつも、もっと広い世界を見たいとおっしゃっています。それを毎回否定するのは……少し、かわいそうです」
「わたくしも、夢を持つこと自体を否定しているわけではありません」
「では!」
「実現する方法を考えています。騎士団へ入るなら侯爵家の後継問題を整理する必要がありますし、鳥を飼うなら飼育場所と餌が必要です。長期間の旅行をするなら日程を空ける必要があります。夢というものは、その辺りを考えなくても実現するのでしょうか」
フィオナが黙り、周囲も妙に静かになった。どうやら今は、そういう話をする場ではなかったらしい。
「……もういい!」
顔を赤くしたユリウスが叫ぶ。
「私はフィオナと生きる。彼女は私を信じてくれる!」
「承知しました。では、父に報告の上、正式な婚約解消の手続きを進めます」
「……それだけか?」
今度はユリウスが困惑する番だった。
「ほかに何か?」
「いや……」
婚約を破棄すると言い出した本人が、なぜそんな顔をするのだろう。泣いて縋られるとでも思っていたのかもしれないが、本人がやめたいと言っているものを無理に続ける理由など、カーテローゼには思いつかなかった。
「これまでありがとうございました」
カーテシーをして大広間を後にし、迎えの馬車へ乗り込んだところで、ようやく明日以降のことを考えた。
婚約者教育はなくなる。レーヴェンハルト侯爵家の晩餐会へ出向く必要もなく、週に二度届くユリウスの相談の手紙にも返事を書かなくてよい。彼の母親から送られてくる『将来の侯爵夫人として』という課題も、もう自分には関係がない。
窓の向こうには、夜の王都がゆっくりと流れている。
「……暇になるわね」
婚約を破棄された夜に抱いた最初の感想がそれだったことを、カーテローゼは後になっても誰にも話さなかった。
* * *
両家の話し合いは多少揉めたものの、当事者であるユリウスの意思が固く、カーテローゼにも婚約解消に反対する理由がなかったため、話は思いのほか早くまとまった。
そしてカーテローゼは、本当に暇になった。
いつも通り七時に起きて朝食を済ませたが、八時になっても出かける予定はなく、九時になっても侯爵夫人教育の教師を迎える必要はない。十時を過ぎても返事を書くべき手紙はなく、十一時になる頃には、自室のソファに腰掛けたまま完全にすることを失っていた。
「……暇ね」
「お嬢様。普通の十八歳のご令嬢には、暇な時間があるものなのですよ」
侍女のヒルデに言われ、カーテローゼは驚いた。
「そうなの?」
「はい」
「何をするの?」
「刺繍や読書、お茶、ご友人との外出などでしょうか」
刺繍は嫌いではないが二時間も続けたいとは思わない。本も読むが、一日中読んでいたいわけでもない。お茶なら先ほど飲んだばかりで、十分もあれば終わってしまった。
「ほかには?」
「……散歩など?」
そこでカーテローゼは、昼食を済ませてから本当に散歩へ出ることにした。
もちろん侯爵令嬢が一人で王都を歩き回るわけにはいかないので、ヒルデと護衛の騎士も一緒である。普段なら馬車で通り過ぎる王都の大通りを自分の足で歩いてみると、街は思っていた以上に忙しく、人足が荷車を引き、商人が店先に品物を並べ、下働きらしい子供たちが大きな籠を抱えてせわしなく行き交っていた。
特に行き先を決めていたわけではない。目についた店を覗いたり、見慣れない菓子を買ってみたりしながら歩くうちに、いつしか華やかな商店が並ぶ一角を抜け、職人の工房や庶民向けの店が増える界隈まで来ていた。
「お嬢様、そろそろお戻りになりますか?」
ヒルデに声をかけられ、カーテローゼも頷きかけた。そのとき、通りの少し先に見慣れない看板があることに気づいた。
『アルバート体術鍛錬所』
剣でも盾でも、騎士団の紋章でもない。看板に大きく描かれているのは、人間の腕だった。しかも、立派な力こぶ付きである。
「……何でしょう、あれは」
ヒルデが怪訝そうな顔をする。
カーテローゼにもわからない。わからないので、少しだけ近づいて入口から中を覗いてみた。
広い室内には、鉄の棒や石と鉄で作られた重り、縄、木製の台など、用途のわからない道具が所狭しと並んでいる。その間では何人もの男女が、さらに意味のわからない動きを繰り返していた。重そうなものを何度も持ち上げる者がいれば、その場でひたすらしゃがんでは立つ者もいる。床に寝転び、上体を何度も起こしている者までいた。
騎士団の訓練所を見たことはあるが、剣も槍も持たずにこれだけ懸命に身体を動かしている光景は初めてだった。
「お嬢さん、見学かい?」
不意に横から声をかけられた。
振り向くと、三十代半ばほどの大柄な女性が立っている。袖を肘までまくった簡素なシャツに、ゆったりとしたズボンという飾り気のない姿だった。腰は幅広い帯で留められており、太い腕と丸みのある肩に対して、胴回りはきゅっと引き締まって見える。何より、背筋を伸ばして立つ姿が妙に美しかった。
「こちらは、何をするところなのでしょう?」
「見ての通り、身体を鍛えるところさ。騎士じゃなくても、商人でも職人でも、女でも男でも構わない。自分の身体を丈夫にしたい人間が来る」
「なぜ、身体を鍛えるのですか?」
女性は一瞬きょとんとしたあと、愉快そうに笑った。
「なぜって、身体は一生使うだろう?」
言われてみれば、その通りだった。
あまりに単純な答えだったので、かえって反論のしようがない。カーテローゼがもう一度室内を眺めていると、女性は「興味があるならやってみるかい」と気軽に言った。
カーテローゼは自分の服を見下ろした。
本日の外出着は、街を歩くことを考えて普段よりシンプルなものを選んではいるものの、当然ながら足首まで届くスカートである。この格好で先ほどの人々と同じようにしゃがめと言われても、裾を踏む未来しか見えない。
女性も同じところを見て、鼻で笑った。
「今日は無理だね。その格好じゃ、まず服と喧嘩する」
「服と、喧嘩」
「裾を踏んで転んだら、鍛えるどころじゃないだろ。動きやすい服は持ってるかい?」
カーテローゼは少し考えた。
「乗馬用の装束でしたら」
「それなら最初は何とかなるだろうね。本当に興味があるなら、明日またおいで。踵の低い靴でね」
「わかりました」
即答すると、女性は少し目を丸くした。
どうやら本当に来るとは思っていないらしい。
「あたしはベルタ。この鍛錬所をやってるアルバートの妻だよ」
「カーテローゼと申します」
姓も爵位も言わなかった。ここでは、それで十分なような気がした。
帰り道、ずっと黙っていたヒルデがとうとう口を開いた。
「お嬢様」
「何?」
「明日も、あちらへ?」
「ええ」
「本当に?」
「ええ。……何か問題でも?」
ヒルデは何か言いたそうだったが、結局「かしこまりました」とだけ答えた。
* * *
翌日、カーテローゼは乗馬用の装束を身につけ、再びアルバート体術鍛錬所へ向かった。ベルタが着ていたものにも少し似た、ゆったりとしたズボンに長袖のシャツ、その上から腰回りを隠す丈のチュニックを重ね、足元には踵の低い革靴を履いている。普段のドレスに比べればずいぶん簡素だが、乗馬用としてはごく普通の装いだった。
ヒルデは馬車の中で何度か小さなため息をついていたが。
鍛錬所の扉を開けたカーテローゼを見るなり、ベルタが笑った。
「本当に来たね」
「昨日、来ると申し上げました」
「貴族のお嬢さんの『また来ます』なんてのは、挨拶みたいなもんだと思ってたよ」
どうやら昨日の時点で身分には気づかれていたらしい。考えてみれば、服装だけならともかく、侍女と護衛の騎士を連れて歩いているのだから隠せるはずもない。
ベルタはカーテローゼの格好を上から下まで眺めると、ひとまず満足そうに頷いた。
「その服なら昨日のドレスよりはずっとましだね。それで、何がしたい?」
「特には思いつかないのですが」
「痩せたい?」
「今のところ困っていません」
「強くなりたい?」
「喧嘩をする予定はありません」
ベルタは腕を組み、しばらくカーテローゼの顔を眺めた。
「じゃあ何で来たのさ」
「暇なので」
数秒の沈黙のあと、ベルタは腹を抱えて笑い出した。
「いいね。そんな理由で来た人は初めてだ」
何をするのかもわからないまま来てしまったのだから、まずはベルタに任せることにする。最初に教えられたのは、しゃがんで立つという、ごく単純な動きだった。
「足を肩幅くらいに開く。つま先は少し外へ。そうしたら、膝だけ前へ出すんじゃなくて、お尻を後ろへ引くようにしゃがむんだ」
言われた通りに腰を落としてみる。乗馬用だけあって脚そのものは動かしやすかったが、深くしゃがむにつれてチュニックの裾が床へ触れそうになり、カーテローゼは途中で動きを止めた。
「……これ、汚れませんか?」
「ん?」
「床に付きそうです」
「鍛錬しに来てるんだから、そりゃ多少は汚れるよ」
ベルタは呆れたように笑った。
「気になるなら次からもう少し丈の短いのを着てきな。今日は床に付かないように気をつければいいさ。それより背中を丸めない。視線は前」
もう一度しゃがむ。
「そう。もう少しお尻を後ろへ」
やり直す。
「膝はつま先と同じ方向。そうそう、それでいい。じゃあ十五回」
最初の五回くらいまでは、カーテローゼも「これならば大したことはない」と思っていた。ただしゃがんで立つだけである。剣を振るわけでも、重い荷物を運ぶわけでもない。
ところが十回を越えた頃から太腿がじわじわと重くなり、十二回、十三回と進むにつれて、先ほどまで何でもなかったはずの「立ち上がる」という動作が急に難しくなってきた。十五回目を終えたときには、思わず息を吐く。
「……思ったより大変ですね」
「だろう? 少し休んだら、もう十五回」
「もう?」
「もう」
てっきり終わったのだと思っていた。
ベルタに言われるまま少し休み、再び十五回。それが終わると、さらにもう十五回。三度目の最後の数回では脚が自分のものではないように重く、立ち上がるたびに太腿が震えた。
それでも、途中でやめたいとは不思議と思わなかった。言われた通りに身体を動かし、一回ずつ数を重ねていけば、必ず終わりが来る。やるべきことが明快なのが、妙に気持ちよかった。
「十四。あと一回」
ベルタの声に合わせ、最後にもう一度ゆっくりと腰を落とし、どうにか立ち上がる。
「十五」
終わった。
カーテローゼは大きく息を吐いた。脚は重く、額にはうっすら汗まで滲んでいる。それなのに、何とも言えない達成感があった。
「初日にしては上出来」
ベルタは満足そうに頷くと、奥へ引っ込み、ほどなくして陶器の杯を手に戻ってきた。中には薄い乳白色の液体が入っている。
「はい、これ飲んで」
「……これは?」
「豆のしぼり汁」
「豆……?」
カーテローゼが聞き返すと、ベルタはその反応を面白がるように片眉を上げた。
「豆だよ。お貴族様のお嬢様はご存じないかもしれないがね」
「豆……あの、家畜の餌などにする作物のことでしょうか?」
「そう。その豆の栄養で家畜があれだけ大きく育つんだ。だったら人間の身体にだって悪いはずはないだろ?」
理論としてはいささか乱暴な気がする。
カーテローゼが何とも言えない顔で杯を眺めていると、ベルタは笑いながら向かいの椅子へ腰を下ろした。
「まあ騙されたと思って飲んでみな。生き物ってのはね、口に入れたもので身体を作ってるんだよ。せっかく鍛えたって、材料が足りなきゃ丈夫な身体にはならないさ」
詳しく聞いてみれば、豆を柔らかく煮て潰し、布で濾した液に山羊乳から取った乳清を加え、飲みやすいよう少量の蜂蜜を混ぜているという。
「もちろん、ちゃんとした食事が一番だよ。これだけ飲んでりゃいいってものじゃない。でも、鍛錬が終わってすぐ食事ってわけにもいかないだろ?」
そこまで説明されれば、一応筋は通っている。
カーテローゼは覚悟を決め、杯に口をつけた。
「……豆ですね」
「豆だからね」
「美味しいとは言いづらいです」
「蜂蜜が入ってるだけありがたいと思いな」
* * *
鍛錬を始めて最初に起きた変化は、残念ながら素晴らしいものではなかった。翌朝、ベッドから起き上がろうとした瞬間に太腿と臀部へ強烈な痛みが走り、立つことすら辛くなったのである。
「お嬢様!? どこかお怪我をなさったのですか!?」
「大丈夫。『筋肉痛』だそうよ」
「きんにくつう?」
「身体を強くする過程で起きるらしいわ」
「なぜ騎士でもないお嬢様が、わざわざご自分からそのような目に……」
カーテローゼ自身も少しだけ同意したが、痛みの治まった三日後にはまた鍛錬所へ向かっていた。
今度は五キロの重りを使った。最初に持ったときは「思ったより軽いですね」と言ってしまったが、何度も持ち上げているうちに腕が重くなり、十回を三度繰り返す頃には、すっかり腕に堪えるようになっていた。
「軽いって言ったのは誰だい?」
ベルタが面白そうに笑った。
「……わたくしです」
それが妙に悔しかった。
翌週も同じ重りを使ってみたところ、前回より少しだけ楽にできた。その次には一段階重いものへ挑戦し、今度は途中でできなくなったが、何度か通ううちにそれも持ち上げられるようになった。
勉強のように試験で点数がつくわけでも、婚約者教育のように誰かから評価されるわけでもないのに、先週できなかったことが今週はできる。その単純な変化が、カーテローゼには思いのほか面白かった。
鍛錬後には、相変わらずベルタが豆汁を出してくる。
「今日は豆と杏仁」
「それは少し美味しそうですね」
「杏仁の香りがする豆汁」
「期待値を下げる言い方をしないでください」
別の日には、
「今日は黒豆と山羊乳」
「味は?」
「豆」
「聞いたわたくしが間違っておりました」
そんなやり取りを繰り返すうち、いつの間にか自宅でも作れないものかと考える程度には馴染んでいた。
数日後、侯爵家の厨房では、カーテローゼが料理人を相手に熱心に何かを説明していた。
「豆を煮て潰して、濾したものです。そこに山羊乳から作った乳清と、少し蜂蜜を入れていて……風味付けに杏仁を加えることもあります」
「……はあ」
料理人は真剣に聞いてはいるものの、どうにも完成形が想像できていない顔をしている。
「山羊や牛の乳よりもう少し、とろりとしているのです。ですが濃すぎるわけではなくて」
「……なるほど?」
言葉とは裏腹に、料理人の顔にはまだ疑問しか浮かんでいなかった。
少し離れたところでその様子を見ていたヒルデは、小さくため息をついた。
ちなみに『アルバート体術鍛錬所』という名の割に、アルバート本人はほとんど表に出てこない。
ベルタの夫であり、元騎士団の鍛錬係だったという彼女より更に大柄な男は、たいてい奥の工房で器具を作ったり修理したりしているらしい。時折ぬっと現れては新しい重りを置き、また無言で奥へ引っ込んでいく。
初めてまともに言葉を交わしたときもそうだった。
「これ、新しい」
アルバートが置いた鉄の器具を見て、カーテローゼは尋ねた。
「何を鍛えるものですか?」
「背中」
「どう使うのでしょう」
「引く」
説明はそれで終わり。横からベルタが「この人に説明を期待しちゃ駄目だよ」と笑っていた。
* * *
三か月もすると、社交界では奇妙な噂が流れ始めた。ヴァルデック侯爵令嬢が平民の鍛錬所へ出入りしているらしい、婚約破棄の傷心でおかしくなったのではないか、いや、ああいう場所で実は男漁りをしているのではないか。
しかし、カーテローゼは特に気にしなかった。
筋肉は噂では増えない。鍛えれば増える。極めて明快である。
ある日、カーテローゼは腰掛けに座り、重りにつながった取っ手を胸元へ引く鍛錬をしていた。最後の一回を終えて腕を伸ばしたところで、入口の方から聞き覚えのある声がした。
「……カリン?」
振り返ると、そこに立っていたのはユリウスだった。
「ユリウス様」
彼はカーテローゼと、その前にある鍛錬器具を交互に見た。
「何をしているんだ?」
「鍛錬です。週に二、三回来ています」
「君が?」
「はい」
それ以外に誰がいるのだろうと思ったが、口には出さなかった。
ユリウスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……変わったな、カリン」
「もう婚約関係にはありませんので、人前ではその呼び方をおやめくださいますか?」
一瞬、ユリウスの表情が固まった。
「……すまない、カーテローゼ嬢」
「いえ」
変わったのだろうか、とカーテローゼは考えた。髪型も服装も以前とさほど違わない。鍛錬を始めてから姿勢が良くなったとはヒルデに言われたし、階段を上っても息が切れにくくなったが、ユリウスが言っているのは、おそらくそういうことではないのだろう。
ただ、以前の自分なら、婚約者教育にも侯爵家にも何の役にも立たないことへ、これほどの時間を使うことはなかった。
「そうかもしれません」
そう答えたところで、横から声がかかった。
「それ、次使っていいかな?」
振り向くと、最近この鍛錬所で何度か顔を合わせるようになった青年が立っていた。
「はい。わたくしは終わりましたので」
カーテローゼが場所を譲ると、青年は腰掛けに座り、彼女が使っていたものの倍ほどの重りを選んだ。
さすがに重すぎるのではないかと思ったが、青年は難なく取っ手を引いた。
しかし何度も繰り返すうち、引くたびに上体が少しずつ後ろへ揺れ始める。
「あの」
「なに?」
「差し出がましいかもしれませんが、今の数回、少し勢いで引いていらっしゃるように見えました」
「そう?」
青年はもう一度引いてみる。
「……本当だ」
「ベルタさんには、勢いをつけないと引けなくなったら重すぎると言われました」
「じゃあ少し下げるか」
相手はあっさりと重りを減らす。
その瞬間、カーテローゼはほんの少しだけ、その青年に好感を持った。
「ありがとう」
それだけ言うと、青年は再び鍛錬を始めた。
ユリウスは、そのやり取りを黙って見ていた。
* * *
青年の名はルーカスといった。
それ以来、カーテローゼとルーカスは鍛錬所で顔を合わせれば、自然と同じ器具を使ったり、回数を数え合ったりするようになった。
「あと二回」
「無理です」
「さっきは余裕あった」
「ありません」
「あるよ、君ならできる」
「ではあなたも次は五キロ増やしてください」
「話が違う」
ある日の鍛錬後、ベルタがいつものように二人の前へ杯を置いた。
「はい、豆汁」
ルーカスは一口飲み、眉を寄せた。
「……何回飲んでも慣れないな、これ」
「今日は美味しい方だよ」
「これで?」
ベルタが眉を吊り上げた。
「嫌なら身体の材料なしで鍛えな」
ルーカスは黙ってもう一口飲んだ。
「わたくしは、慣れましたけど」
「そんなもの?」
「そんなものです」
そんなやり取りを重ねるうち、周囲から見れば、二人はずいぶん気安い間柄になっていたのだが、本人たちはまるで気づいていなかった。
しばらく経った頃、カーテローゼはようやく彼の正体を知った。
ルーカスはただの利用者ではなかった。王弟の次男、つまり国王の甥。れっきとした公爵令息である。
「……言ってください」
「聞かれなかったから」
「普通は言うでしょう」
「鍛錬所で爵位を名乗る人なんて、いないよ」
それもそうだった。ここでは皆、動きやすい簡素な服を着て、家名は名乗らず、名前だけで呼び合っている。
ルーカスも例外ではなく、彼女にとっては鍛錬好きの気さくな青年でしかなかった。カーテローゼ自身も、自らヴァルデック侯爵令嬢だと名乗ったことはない。
もっとも、正体を知ったところで、鍛錬所での二人の関係が変わることはなかった。
* * *
一方その頃、ユリウスは少しずつ、しかし確実に追い詰められていた。
フィオナとの日々は楽しかった。
彼女は何を言っても目を輝かせ、旅へ行きたいと言えば「素敵です」、新しい事業を始めたいと言えば「きっと成功します」、領民のために盛大な音楽祭を開きたいと言えば「皆様、きっと喜びます」と笑ってくれた。カリンとはまるで違う、その無条件の肯定が心地よかったことは確かだった。
ただ、旅に出れば、その間の侯爵家嫡男としての務めを誰かが代わらなければならない。新しい事業には出資金が必要になり、華やかな催しを計画すれば、見積金額は莫大なものになった。その一つ一つに向き合ううち、今まで自分が意識していなかった仕事が、ひとりでに片づいていたわけではないことを思い知らされていった。
「そんな細かいことは、執事に任せればいいのでは?」
フィオナにそう言われたとき、頭の中にカリンの声が蘇った。
『執事には、執事の仕事があります』
以前なら聞くだけで腹が立った言葉だったが、今では嫌というほど意味がわかる。執事は忙しかった。家令も忙しかった。父も忙しかった。そして彼らは皆、ユリウスが思いついたことを実現するためだけに存在しているわけではない。
やがて父である侯爵から、「お前が始めた事業の赤字は、お前自身の予算から補填しろ」と告げられた。
「侯爵家の予算からは……」
言いかけたところで、父の顔を見て口を閉じた。
出るわけがない。
その夜、机の上に積み上がった請求書を前にして、ユリウスは初めて自分から計算盤を引き寄せた。
カリンなら、どうしただろう。
――まず総額を出してください。
記憶の中の声に従って合計を出し、青ざめた。
――定期的に発生するものと、一度だけのものを分けましょう。
分けてみたら、もっと青ざめた。
カリンは自分の夢を潰していたのではなかった。夢の後ろについて回る金と時間と人手を、自分が見ようとしない代わりに見ていただけだったのだ。
* * *
卒業祝賀会から半年ほどが過ぎ、王都にも秋が深まった頃。カーテローゼは王宮の夜会で、ユリウスと再び顔を合わせた。
久しぶりに見る彼は、以前より少しやつれていた。目の下には薄く隈があり、顔色もあまり良くない。夜会にふさわしい礼装に身を包んでいることに変わりはないのに、以前のような、目先の楽しさにすぐ飛びつき、その先に何があるのかまでは考えないような浮ついた雰囲気は消えていた。その代わり、どこか地に足がついたように見える。
カーテローゼがそう思っていると、ユリウスの方も彼女に気づいた。少し迷うような間を置いてから、こちらへ歩いてくる。
「カーテローゼ嬢」
今度は、間違えなかった。
「ユリウス様。ごきげんよう」
カーテローゼが礼をすると、ユリウスもそれに応じた。以前ならそのまま何か新しい計画の話でも始めそうなところだったが、今日はなかなか口を開かない。
やがて彼は、小さく息を吐いた。
「少し、話をしてもいいだろうか」
カーテローゼは一度だけ彼の顔を見て、それから頷いた。
「ええ」
ユリウスはしばらく言葉を探すように黙っていた。
「……あの頃の私は、君が何をしてくれていたのか、まるでわかっていなかった」
カーテローゼは何も言わず、続きを待った。
「君が何かを尋ねるたびに、私は夢を否定されたと思っていた。費用はいくらかかるのか、誰が準備するのか、その間の仕事はどうするのか……そんなことばかり言われる、と」
ユリウスは自嘲するように少し笑った。
「でも違った。私は考えていなかっただけなんだ。思いつくところまでが自分の役目で、その先は誰かがどうにかしてくれるものだと思っていた」
カーテローゼは少しだけ目を伏せた。
「……そうでしたか」
「すまなかった」
「今、それにお気づきになったのでしたら、よかったと思います」
ユリウスは意外そうに彼女を見た。
「……怒っていないのか」
「怒っていた時期がなかったとは申しません」
「そうだったのか」
「気づいていなかったんですか?」
「……全然」
少しばつの悪そうな顔をしたユリウスを見て、ざまあみろ、と全く思わなかったわけではない。ただ、想像していたほど胸がすくこともなかった。
それよりも、ふと気になることがある。
「ところで、音楽祭はどうなりました?」
「規模を四分の一にした」
「入場料は?」
「貴族用の席は有料にした。平民向けには、広場の後方に無料の立ち見場所を作る」
「警備費は?」
「騎士団と相談した。規模を小さくした分、費用も減らせたよ」
「……そうですか。それなら今度は、成功するかもしれませんね」
思わずそう言うと、ユリウスは何とも言えない顔をしたあと、ふっと笑った。
「そういうところが、本当に君だな」
「何がです?」
「いや。ありがとう、カーテローゼ嬢」
ユリウスは一礼すると、人の波の向こうへ消えていった。
それで終わった。
復縁を迫られることもなければ、泣いて縋られることもない。婚約を破棄した男が破滅することもなかった。ただ、自分がしていたことをようやく理解し、以前より少しまともになった。
それでいいのだと思う。
そう思っているのに、カーテローゼはすぐに夜会の賑わいへ戻る気にはなれなかった。怒っているわけでも、悲しいわけでもない。ただ、長いあいだ自分の生活の一部だったものに、今ようやく本当の意味で区切りがついたような気がして、少しだけ静かな場所にいたかった。
夜会の客が自由に出入りできるよう開け放たれた扉を抜け、バルコニーへ出る。
夜の空気は思いのほか冷たく、火照った頬に心地よかった。眼下には王宮の庭園が広がり、その向こうには王都の灯りが見える。
手すりに軽く指を置いて息を吐いたところで、背後から足音が聞こえた。
「ここにいた」
振り返ると、ルーカスだった。
「探していたのですか?」
「そういうわけではないけど。さっき話していたのは、元婚約者?」
「ええ」
ルーカスは隣まで来たが、何を話していたのか無遠慮に聞き出そうとはせず、しばらく同じように庭園を眺めていた。その距離が妙にありがたく、カーテローゼの肩から少し力が抜ける。
「……何を話したか、聞かないのですか?」
「君が話したければ聞くよ」
その答えに、カーテローゼは少し考えてから言った。
「音楽祭の収支について」
ルーカスがこちらを向いた。
「元婚約者と久しぶりに再会して、話すことがそれ?」
「ほかに何を話すのです?」
数秒耐えたあと、ルーカスはとうとう吹き出した。
「いや、君がそれでいいならいいんだ」
「問題ありません」
今度は迷わずそう答えられた。夜風に当たったおかげか、胸の内に残っていた妙なざわつきも、もうほとんど消えている。
「じゃあ、全然違う話していい?」
「どうぞ」
「明日、鍛錬休まない?」
カーテローゼは首を傾げた。
「なぜです?」
「王都の外に新しい湯治場ができたんだ。湯は筋肉の疲労回復にもいいらしい」
「湯?」
カーテローゼが怪訝そうに眉を寄せると、ルーカスは慌てて付け加えた。
「もちろん男女は別だよ。ヒルデを連れていけばいい。着替えや入浴を手伝ってもらって、後で合流しよう」
「そういうことですか」
少し心が動いた。
「身体の材料になるよう考えられた食事も出る」
かなり動いた。
「どのくらいかかりますか?」
「馬車で一刻くらい。朝出れば、夕方には戻れる」
「予約は必要では?」
「もうしてある」
カーテローゼはルーカスをまじまじと見た。
「……いつから行くつもりだったんですか?」
「三週間前から」
「わたくしが行くと言っていないのに?」
「だから今聞いてる。断られたら騎士仲間と行くつもりだった」
それなら特に問題はない。しかも身体の回復に良いというのなら、鍛錬との相性も悪くなさそうだった。
「では、ご一緒させていただきます。ただ明日は本来、脚の鍛錬日でしたので、次回に脚と背中を合わせて鍛えることになりますね。少々鍛錬量が多くなりますので、負荷の調整が必要ですが……」
「脚の日をずらせばいい」
「予定は予定です」
「予定通りやることと、ちゃんと鍛えること、どっちが大事?」
カーテローゼは少し考えた。
「……ちゃんと鍛えることです」
「じゃあ、明日は湯治という名の鍛錬日。しっかり疲労を取るのも大事って、ベルタさんがいつも言ってるよね?」
「……理屈としては通っていますね」
「まあ、俺としては、明日の外出まで鍛錬の一部にされるのは少し複雑だけど」
ルーカスが何を言っているのかは、よくわからなかった。
* * *
翌朝、約束の時間少し前に侯爵邸の玄関を出ると、門前には一台の馬車が停まっていた。
ヒルデが外出用の荷物を持って後ろに続く。護衛については、王国騎士団に所属するルーカス本人がいるため、別に人を増やす必要はないということになっていた。そのあたりは、公爵家と侯爵家の間ですでに話がついていたらしい。
そこまでは何もおかしくない。
ただ、カーテローゼは馬車の前に立っているルーカスを見て、少し首を傾げた。
いつもの鍛錬着ではなく、きちんと仕立てられた外出着を身につけている。それ自体は当然としても、騎士団の仲間も、ベルタもアルバートも、鍛錬所でよく顔を合わせる者たちも誰一人として見当たらない。
「ほかの皆様は?」
「皆?」
ルーカスも首を傾げた。
「鍛錬所の皆様です。湯治場へ行くのでしょう?」
「行くけど」
「まだお揃いではないのですか?」
ルーカスはしばらく黙った。それから、何かを確認するように尋ねる。
「カーテローゼ嬢。昨日の話、どういう外出だと思ってた?」
「鍛錬の疲れを癒すための、慰労会か親睦会のようなものかと」
「……なるほど」
ルーカスは額に手を当てた。
「二人で行くんだけど」
今度はカーテローゼが黙った。
隣でヒルデも黙っている。ただし、ヒルデの沈黙は主人のものとは少々意味が違った。
「二人で?」
「侍女はいるけどね」
「それはもちろんです」
そういうことではない、とルーカスは言いたげだったが、そこで説明を始めるのも何か違うと思ったらしい。
「……まあ、いいか。とりあえず行こう」
「はい」
カーテローゼは素直に馬車へ乗り込んだ。
どうやら昨日の会話には、少しばかり認識のずれがあったらしい。
ただ、それがいったい何についてのずれなのか。
この時点で正確に理解していたのは、ルーカスとヒルデだけだった。
久しぶりの創作&初めてのオリジナル作品です。軽い気持ちで楽しく読んでいただけたら嬉しいです。
もし続きが浮かべば連載版も検討中です。




