1話 お姉さんと一緒に暮らそう
この出会いは突然現れた。
木々が鮮やかな温もりを感じさせる色に色づき始め、朝晩が冷え込む季節が近づいてきた日だった。
魔法の国。名は――〈チャイラッハ王国〉。
ここでは誰もが体内に宿す魔力を使い、魔法と共に生きている。
もちろん全員が炎を纏ったり、巨大な氷を操ったりするわけじゃない。大半は魔道具を使って生活している。魔法は日常の一部だ。
その魔法を統べ、生活を支えているのが〈魔法協会〉。魔道具の開発から魔導士の育成、魔物退治まで、とにかく魔法に関することは何でもやっている。
そして、その頂点に立つ存在――それが大魔導士。
山々と鉱物資源に囲まれたこの国は、大魔導士率いる魔法協会の支えもあって、豊かに発展してきた。特に都市部の進歩は目覚ましく、便利で快適な暮らしをしている。
――が、私は都市部で暮らせるわけもなく、田舎町が近くにある森の中で暮らしている。
森での暮らしは多少不便なところはあるが、魔道具もあるし、少し歩けば近くに町もある。困ったことはなく、森での暮らしも慣れ、この生活を謳歌していた。
はずだったのだが、私は困ったことになっていた。
(私の布……?)
いつものように明け方、屋敷からの仕事帰り、家の前まで帰路に着くと扉の前に布のかたまりがあった。その布には見覚えがあった。なぜなら、私が今朝物干し竿に干してきた布だったからだ。
何事だと思い、近づいてみれば子どもが蹲って寝ていた。見た目からして、おそらく3〜6歳ぐらいだろう。
大方、木の実や果物など食べれるものを探しにきた結果、こんな辺鄙な森の奥で辿り着いてしまったのだろう。それにしても無事にここまで辿り着いたこの子は幸運だと思う。
こういう子どもを街中で見かけることは少なくない。特に最近はこの辺りで大災が起こったからだ。――竜による災害が。
1人でいるのを見るに、きっとこの子の家族もその惨事に巻き込まれたのだろう。命からがら、生き延びたはいいものの、この子のような年では到底一人では生きられない。運良く孤児院に拾われるか、そのまま朽ち果てるかだ。そんなような子たちは大災が起こる度増えていく。
大魔導士様がいるとはいえ、所詮はただの人間だ。一人でこの国中を護るのは難しい。
なにより、大災や事件が起こったとき、彼らは危険な場所に赴き前線に身を投じ、いつも救いの手を差し伸べてくれる。貴族や王族が優先されはするが、こうして安全にぬくぬくと過ごせているのは魔法使いたちのおかげだ。……多少の犠牲はやむを得ないと私は思っている。
魔法協会だってそうだ。尽力してくれているとはいえ、手の届かないところはある。全てを救うことは神に等しいとさえ思う。
それでも、国のため街のため、魔法に人生を捧げてる魔法協会の人たちや大魔導士様は私よりも偉大な人間であることは確かだ。
いつもの私なら、こんな子どもを見かけても、見ないふりをして立ち去る。ここで情けをかけて何になる。その後の生活を支援してやれるのか?安全な生活を保障してやれるのか?――否だ。
救いの手を差し伸べるということは責任を持たなければならない。表面だけの善行、口先だけの正義に意味はない。
無情だと言われても仕方がない。あのまま逝かせてやるのがせめてもの私の善意だ。
そもそも、こっちにだって生活というものがある。子どもを養う余裕なんてないし仕事柄無理だからだ。
それに何より……子どもは苦手だ。接し方が分からないしすぐ泣くしすぐいじける。
私の手にこの小さな重みは手に余る。
今日も例に漏れず、見ないふりをする。――そのはずだった。
しかし、目の前の子どもは私の家の扉の前にいて、私が外に干してた布を己にかけて、ぐっすり眠っている。家に入るための扉は外開き、出入り口は一つだけ。窓もあるにはあるが、内側から鍵がかかっているし、小さくて入ることはできない。つまり、入れないのである。
この森の中にある家の中に人がいて、朝には起きてくると思ったのか、力を使い果たしたかのようにピクリとも動かず寝ていた。
こうも寝ているところを起こすほど、そこまで非情ではないと思いたい。
起きたら孤児院にでも届けよう。仕事帰りで疲れているのだ、面倒ごとには関わりたくないが、今は眠気が勝っている。そう思い、目の前の子どもを抱き上げた。本当にぐっすりと寝ているようで、抱き上げたにも関わらず、全く起きる気配はない。
……汚れるのには目を瞑ってベッドに寝かせてあげた。私の中にあるせめてもの良心が勝った。
生憎ベッドは一つしかない。この子と共にするわけにもいかなく、私はベッドにもたれ、目を瞑った。
*****
「……んっ、あれ……?」
目が覚めると、子どもにかけていたはずの毛布が私にかけられていた。当の子どもはというと、部屋の隅で固まっていた。
窓の外を見ると、既に太陽は高い位置にいた。仕事が休みだからと言って少し寝過ぎてしまったようだった。
ずっと隅にいさせるわけにもいかないので、なるべく怖がらせないように近づいて声をかける。
ここで怖がらせてしまってはさらに面倒になるに違いない。
「大丈夫だよ、大丈夫」
この子にとっては何一つ安心できないし、大丈夫ではないと思うけれど、近くに町があるにもかかわらず、この森のこの家まで辿り着いた。ここにたどり着くまで、どれほどの不安を抱えて歩んできたのだろう。どれほどの絶望を感じていたのだろう。私には計り知れないが、そんなもの子どもが背負うべきではない。
時に言葉は無力で、大丈夫という言葉は身勝手に思えるかもしれないが、何よりこの言葉を一番欲しているのはこの子だと思う。
そして、その安心感を与えるのが今、私がしてやれる精一杯のことで、大人がすべきことだと思う。
「……えっと、その、何もしない、は違うか。お腹、空いてる?」
そう聞くと子どもは静かに首をコクリと頷いた。
身体に問題はなさそうだ。食欲もある。その反応に安堵して、キッチンに向かい、作り置きしておいたスープを温める。
「ティーナ」
魔法名を唱えると、コンロに火がつき、鍋の下で炎がチラチラと音を立てる。
豆とじゃがいもしかない素朴なスープだけど、何も食べていない胃にはちょうどいいかもしれない。私用に用意したはパンは胃を驚かせてしまうかもしれないし。
しかし、子どもはなかなか手をつけようとしなかった。
「……毒とかは入ってないよ」
そういって、私が一口飲んでみせると、子どもは恐る恐る手を差し伸べてスープを口に運び始めた。やはり、毒の心配をしていたのか。
こんな子ども毒で殺しても意味ないだろうに。わざわざ拾ってスープを与えて殺すくらいなら、見殺しにするに決まってるのだから、そんな意味のない行動するわけがない。
5分もしないうちに器は空になった。
「えっと……まだいる?」
数分前と同様、子どもは静かにコクリと頷いた。
スープをよそうと先ほどとは打って変わって、勢いよく口に運び始めた。
(よっぽど、お腹すいてたんだなぁ)
汚れている口周りを布巾で軽く拭き、落ち着いたところで――
「えっと、服、脱げる?」
子どもは生まれたての子鹿のようにプルプルと震えているが、何もしないから安心して欲しい。怖がらせたつもりはないんだけど……これだから子どもは分からない。
「イシュカ チェ」
桶に入った水に杖を当てて唱える。
簡単な魔法とはいえ、詠唱もなしにこうやって魔法名を唱えるだけで、さっきまで冷たかった水が魔道具によってお湯にしてくれるんだから本当に便利な世界だ。
この子どもを洗うと同時に、私も身を清める。昨日は仕事帰りのまま寝てしまったから早く汗や汚れを洗い流したかったのだ。
服は私のお古を着せて綺麗な見た目になった。まだまだブカブカだが、これでもだいぶ裾を捲った方だ。私のお古で申し訳ない……男の子の服なんて持っていないんだからしょうがないのだけど。
可愛らしい顔立ちだからどっちか分からなかったが……どうやら男の子のようだった。
綺麗な赤毛にわたしと同じ緑色の瞳。そこまで痩せ細ってもないし傷もそんなになかったから、恐らく最近竜に襲われた町から来たのだろう。とはいえ、かなり距離があるからここまで来たのだとしたら大したものだ。
さて、ここまで身綺麗にしたらもういいだろう。もう、私にお世話する義理はない。私のベッドを与え、一晩休ませ、食事を与え、身体を綺麗にしただけでも褒めてほしいものだ。これなら、孤児院なり教会なりどこかしら受け入れてくれるだろう。
森の中に住んでるとはいえ、移動が不便というわけでもない。もっと開けたところまで行くと、すぐ近くの街まで道が繋がっており、歩きで数十分もかからない。飛んだり、瞬間移動ができたりしたら楽なのだろうけど、こういう移動魔法は規則が厳しいのだ。
かくいう私もこの近くの町で週5日で家政婦として働いているから移動には慣れたものだ。
「おいで」
私は慣れているが、最近まで野垂れ死ぬ一歩手前までいたこの子に、この長い距離を歩かせるのは酷だと思い抱き上げて家を出た。
開けた道に出るまでが少し大変なのだが、そうこうして歩いているうちに補整された道に出た。
この子は何も言わず、暴れもせず、私に抱っこされるままだ。やはり、子どもは何を考えてるのか分からない。
子どもがいるからかいつもより遅いペースで街に着いた。街に来る途中でこの子は寝てしまった。ご飯を食べ、湯を浴びたからなのか体が温まって眠くなってしまったのだろう。
まあ、でも寝ている間に預ければちょうどいい。
この町で特定の家というより色んな家で家政婦をしている私を見知っている人は多い。
「あら、クララちゃん。今日は休みじゃなかったのかい?……ってその子!どうしたんだい?はっ!まさか隠し子かい!?」
「トラさん!違うよ〜朝起きたら家の前にいたの」
このように町に行けば必ずと言っていいほど話しかけてくる。
この早とちりな女性は、果物屋さんの奥さん。通称トラさん。私がご贔屓にしてるお店の一つで、顔見知りというわけだ。
「冗談冗談!へぇー。それで、わざわざ綺麗にしてやって孤児院に届けようってか!あんたらしいね……どうせなら一緒に住んじまえばいいのに」
ガッハッハと豪快に笑うトラさんはいつも元気いっぱいだ。
簡単に言ってくれるが、私にとってこの子は面倒極まりない存在でしかないのだ。一緒に住むなんてごめんだね。しかし、あんたらしいという言葉にこの町でのわたしはそう見えるのだと安堵した。だから、それに合うように返事をする。
「ははっ。うーん、わたしもそうしたかったよ。……でも、生活が苦しいからね。昼間はいないことの方が多いし。それに、この子は孤児院で他の子供たちと一緒に暮らした方が楽しく過ごせると思って……」
「それもそうだね、あたし達も若い人が少ないからってあんたに助けてもらうことは多いし。子どもの面倒となるともっと大変よね〜」
その言葉に笑って返す。ご贔屓に〜なんて言葉を交わしたのち、孤児院に向かった。
孤児院に預けるのは、面倒臭いというのが本音なのだが、これもこの町で生きる処世術だ。色んなところで良い顔をする。真面目でよく笑い、誰にでも分け隔てなく接する。そう、子どもを拾うような【良い人】に人は騙されるのだから。
孤児院に着く途中も、顔見知りに何回か会った。その度にみんながわたしに声をかけてくれた。
わたしがそういう人間じゃないのをよく知っているから、トラさんのようにふざけて隠し子だのなんだの言う人もいたけど大方子どもを見かけてはこれからの生活を心配してくれていた。その度にこれから孤児院に預けに行くと説明した。
孤児院に着くと、シスターが外にいた。ちょうどいい。子どもたちが遊んでいるのを見守っていたのだろう。
「シスター!」
「クララさん」
遠くから、シスターに届くように私が声をかけると、にこやかに素敵な微笑みで駆け寄ってくれた。流石はシスターだ。
町の人曰く、シスターはこの孤児院に長く勤めているらしく大のベテランなんだとか。でも、見た目は私とあまり変わりないように見える。気になって一回聞いたことがあったけど、さらりと躱されてしまった。
「どうされたんですか?って……なるほど」
飲み込みが早い。私の腕で抱かれるこの子の状況を見てすぐに察したようだった。流石はシスターだ。
「分かりました。受け入れましょう」
「…ありがとう、シスター。わたしがこの子を育てられればよかったんだけど……」
「いいえ。このような子どもたちを受け入れるのがわたくしの役目ですから。一人でも幸せな生活を送れるよう願うばかりです」
こういう人こそ本当に【良い人】というのだろう。偽善的でもなければ打算的でもない。まさに私と大違いという人だ。
今だに寝ているこの子を起こさないようシスターに渡そうとする……が、私の服を掴んで離さない。少し強引に離そうとするも、手が緩められることなかった。
「ふふっ、随分と懐かれているようですね」
「懐かれるようなことはしてないんだけどね」
「そんなことありませんよ。クララさんはとてもお優しい方です。街の人もみんなそう言ってますよ!……それになにより、その子が懐いているのが何よりの証拠じゃないですか」
私には到底信じられないことを口にするシスターは本当に人が良いのだろう。そんな言葉に返せる言葉もなく私は困ったように笑うことしかできなかった。
「あ、起きた…」
「あら」
生温かい空気感に耐えられなくて、何か話題を探そうとしたら子どもが起きてしまっていた。起きたら何かと面倒そうなんだけどな……。流石にこの森から町まで子ども1人を抱っこし続けるのは疲れたので、起きたタイミングで子どもを下ろす。
「起きた?早速だけど、ここは孤児院。坊やがこれから過ごす場所だよ」
そう言ってしゃがみ込み子どもの頭を撫で、優しく見えるように声をかける。それに合わせてシスターも子どもに視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「はじめまして。私はここのシスター。エイリシュと言います。今日からここがあなたのおうちですよ。」
柔らかい笑みに誰もが絆されそうになるが、その言葉に子どもは何も返さない。
誰だって急に環境が変わってたら戸惑ってしまう。今も心中は不安でいっぱいなのだろう。大人2人に囲まれて、どうすればいいのか分からないのだ。
私に拾われてからだって、一言も発したことはなかった。
シスターはこういう子どもを沢山見てきたのだろう。慣れているシスターと違い、戸惑いを見せる子どもは私の手を掴んで離さなかった。あまつさえ、私の後ろに隠れようとする。そんな行動にシスターは「やっぱり懐かれていますね」と笑いながら言うがそんなことはない。
生まれたばかりの雛鳥が、最初に見たものを親と認識してしまうように――状況は違えど、この子も最初に手を差し伸べたわたしを親鳥とでも勘違いしているのだ。しかし、それはすぐに勘違いだったと気付くことになるだろう。私はこの子の親でもなければ保護者でもない。ただ、森で迷っていた子どもを守衛に届けただけの、何でもない通りすがりの人だ。その後、保護するのは守衛でありシスターであり、私じゃない。
まあ、最初はみんなこんな風に戸惑い、迷い、どの手を取れば良いか分からないものだ。だからこそ、この子にはシスターに手をとって孤児院で暮らして欲しい。
せっかくの休日なのだ、こんなことに時間を費やすのでなくゆっくりベッドでゴロゴロしたい。そう思い、離れようと立ち上がる。
すると、子どもは私の足をぎゅっと掴んだ。
「……やだ」
(喋った)
その言葉に私とシスターが驚いていると「……お、ねぇちゃん、と一緒がいい」と続けた。
その言葉にさらに驚いて動揺を隠さないでいると、シスターは鈴のような笑い声で「ふふっ、こんな小さな子にここまで言われてしまっては手放せませんね」と言ってきた。
冗談じゃない。私は子どもと向き合い目線を合わせて話した。
「でも、ここの方が同い年の子だって沢山いるしベッドもふかふかだし、美味しい食事だってあるよ。ここの方が……坊やは幸せになれるんだよ」
この子の歳なんて知らないが同い年の子くらいいると思う。嘘は言っていない。ここで暮らした方が幸せになれるというのも本心だ。――私はいつまでも他人任せで他人に縋り意地汚い生き方をしていることだろう。
これ以上子どもの方を見ていられなくて俯いた。
私を掴んでいる手は、ぎゅっと、さらに強く握り返してきた。
「やだ」
さっきよりはっきりと凜としたような声だった。
そんな風に言われても、困るだけだ。
(私には……私なんて…………)
今ここで顔を上げてしまったら、目を見てしまったら、私は後戻りできなくなるような気がした。しかし、何故か自然と子どもの方を向いてしまった。
目があった瞬間、無理だと直感的に悟った。
それにシスターの手前、ここまで言われてしまってはわたしは断ることも出来ない。結局、私はこの子のもつ妙な輝かしさに惹かれてしまったのだ。
「……分かった!じゃあ、そこまで言うならお姉さんと一緒に暮らそう」
不安ばかり募っていく。心配ばかり重なっていく。
この子を家に招き入れた時点で、私は責任を持たなければならない運命だったのかもしれない。
運命というにはあまりにもお粗末で、私の心に重くのしかかってくるけど、一緒に暮らそうと言ったときの、あの子の顔が焼きついて離れなかった。
微かに笑ってたあの顔は私の責任と共に頭の片隅に残ったのだ。
「ふふ、男の子のお世話は大変かもしれませんが、きっと貴方なら大丈夫ですよ。何かあったら私もサポートしますから!」
そう言ってガッツポーズするシスターは本当に頼もしく見えた。
(……ん?)
「よく、男の子って分かったね」
「えぇ、まあ。たくさんの子どもたちを見てきてますから」
服は女性もの、私のを着ているし、ぶっちゃこの子は女の子と見間違うほど可愛らしい顔をしている。私はお風呂に入れてようやくわかったって言うのに……当たり前だと言わんばかりで答える。流石はシスターだ。
シスターから「また、いつでも来てください」と両手を握られた。ぎゅっと掴まれた手からシスターの気持ちが伝わってくるようだった。少しの助言と男の子用の服装をもらい、帰路に着く。
行きと同じく子どもを連れてるわたしにみんなは同じよう声をかけてくれた。中には頑張るんだよと食糧や衣服を分けてくれた。
(あぁ、この町の人たちは人が良すぎる……)
さらには、果物屋さんを通ったとき奥さんに「私は最初っから連れて帰ると思ってたよ。なんたって、あんたは人が良いからね!」とまで言われてしまった、
その期待に応えるためにも私はできる限りのことをこの子にしようと決めた。
こうして、私とこの子の生活が始まった。
まさか、この出会いが数年後の私の人生に深く関わる事になるとは、この時は思いもしなかった。
*****
町では調子に乗って、会う人会う人にこの子と一緒に暮らすと宣言したみたいになってしまったが、これからどうすればいいんだ……。
生まれたばかりの責任感ではまともに立つことすらできやしない。育てられる自信もない。
行きと同様、帰りも抱っこされたままの子どもを横目に私はものすごく悩んでいた。
……悩んでいても仕方がないので、日が出ているうちにベッドのシーツと布団を洗うことにした。だいぶ汚れていたあの子をそのまま寝かせたし、私も仕事帰りのまま寝てしまったから、洗わないと今晩寝るところがなくなるところだった。
魔法を使うと、ものの数分で干し終わる。代わりのシーツと布団を出して整えたら完成。昼間っから子どもを抱っこして街まで往復したせいか、既にヘトヘトだ。本来なら休みの日は一日中ベッドでゴロゴロしているというのに、とんだ災難だった。
コップに飲み物を注ぎ、椅子に座って一息つく。
しかし、明日からはこの子がいる生活が始まるのだ。それに、明日は仕事なのだ。今日中にこの子どもをなんとかしなければならない。肝心の子どもはというと、相変わらず隅の方に座っていた。
私がベッドを整える間も隅で大人しくしていたようだった。
「あー、、、ねぇ、そんな隅にいないで、こっちにおいで。今日からここが坊やの家なんだから」
そういうと、意外にも素直に私の向かいの椅子に座った。あの町にも少なからず子どもはいるとはいえ、普段はほとんどお年寄りの相手ばっかりで、こう、一対一で向かい合うことなんてなかったから、真っ向から座られても困る……。子どもの面倒を見てほしいというのも家政婦の一環としてあるが、あくまで接するのは“クララ”であり“私”じゃない。
私に子どもの世話ができるかと言われれば――できない。子どもと接した経験がなさすぎるのだ。
この町に来るまでは大人たちに囲まれていたし、この町に来てからはお年寄りか大人たちと過ごした記憶しかない。手伝いで孤児院に出向くことはあったけど、子どもとはあまり関わらないようにしてたから本当に未知の生き物である。
でも、起きて会話したときよりも警戒心みたいなものはなくなっている気がして少し安心した。本当にこの子は私を親鳥か何かだと勘違いしているのだろう、だからこそシスターではなく会ったばかりの私を選んだのだと思う。
そんな、懐かれるようなことは何一つしてないんだけどな。
このままだと埒があかない。そう思ってはいるものの、目の前の子どもになかなか話しかける勇気が出ない。どう接しろというのだ。言葉がどのくらい通じるかも分からないのに。このくらいの歳の子って話せるのか?
はぁー、情けない。この子より何歳年上だと思ってるんだ。
もう既にシスターの手を借りたいところである。
まあ、でもこの子どもと接する経験は無駄にはならない気がする。クララとしても役立ちそうだと思い、意を決して話しかける。
「名前、なんていうの?お姉さんにお名前、教えてほしいな」
こんな会ったばかりの人に名前を教えるかなんて分からないけど、まあ、教えてくれなかったらそれはそれでこっちとしてもありがたい。
……名前を聞いたら後戻りなんてできなくなる気がしたから。名前というのは自分が自分であるために大切なものだから。自分にも相手にも記憶に深く刻まれる可能性がある。
だから、聞こうとも思わなかったが、こうして一緒に暮らす事になった以上、坊ややあんたと言い続けると町の人の前で言ってしまう可能性がないとは言い切れない。絶対にクララは子どもをあんたなどとは呼ばないだろうし、ここでボロを出してしまっては元も子もない。だから……だから名前を聞く事にした。
「…レイ」
「そう……いい名前だね。わたしはクララ。できればおねえちゃんじゃなくて、クララって呼んでほしいな」
「……ク、ララ?」
「そう、クララ。それがわたしの名前」
レイは小さな声で少し恥ずかしげに、困ったようにわたしの名前を繰り返した。
なんとなくレイに惹かれた意味が分かった気がする。だって、この国の言葉でレイは――“太陽”という意味を持つのだから。だからなんだっていう話だが、この子の瞳に抗えなくなるのは事実だ。自分でもよく分からないけれど。
お姉ちゃんと呼ばれるのはどうにもむず痒くなるため、名前で呼んでもらうことにした。姉という意味ではないと分かってはいるものの、私たちはそういう関係性ではないのだから。
「ねぇ、今年で何歳になるの?」
「よんさい」
予想はしていたが、はるかに幼かった――。
(4歳……?4歳って何ができるんだ?)
まだ、赤子同然ではないかと頭を抱え込む。シスターの話をもっと聞いてくればよかった。
もし、何かあったとき責任をとるのは私なのだから。
私はこれから一緒に生活をする上での約束事を考えた。
「いい?一緒に暮らす以上、レイには約束してほしいことがあるの」
「やくそく?」
「そう、約束。」
一つ目、私が家にいない間は勝手に外に出ないこと。
二つ目、勝手に物に触らないこと。(ただし、棚にある本は読んでヨシ)
三つ目、勝手に火を使わないこと。(お腹が空いたら、テーブルの上にある食べ物を食べること。)
四つ目、高いところや危ないところには近づかないこと。
五つ目、もし何か困ったことがあったら私に絶対連絡すること。(鈴の音が鳴ったら私に連絡して床下に逃げること)
考えた末に、この五つの約束を取り付けた。
こうして会話を続けることで、だんだんとレイの話す量も少しずつ増えてきていた。
昨日は運良く私の家に辿り着けたかもしれないが、森というものは何があるか分からないのだ。ここは魔物が出るような禁足地が近いわけではないし、危ない獣もいないが、万が一があるかもしれない。
私を育ててくれたおじいさんが亡くなる前に半径3メートルの距離で対象物を囲む結界の魔道具を作っておいてくれた。この町に引っ越してから、その魔道具を使っている。私の魔力を込めることで結界ができるようになっている。一回発動したら、発動者本人が解除するか、壊れるまで永続するかなので魔力の消費量もあまりないという、とても便利な道具である。
この魔道具に登録した人間以外の魔力を持った人間や動物が侵入しようとしたら、鈴が鳴る仕組みだ。しかし、残念ながら結界の対象物から離れていたら鈴の音は聞こえないし、結界と言っても侵入できないというわけではない。普通に入れる。つまりは、危険を知らせてくれるアラームのようなものだ。
昨日、家に帰るまでこの子が扉の前にいることに気づかなかったのはそのためだ。
だから、あの子には鈴の音が聞こえたら絶対に私に連絡して床下に隠れるように念を押した。
連絡手段はあらかじめ魔鉱石が埋められている通信魔道具を渡した。お互いに持っていれば使えるので、これは大丈夫。使い方についてもしっかり教えた。
他にもとりあえず、お腹が空いたらテーブルのものを食べる、暇だったら本を読むかお絵描きする、そしてベッドか机以外のものにはあまり触らない、ということを教え込んだ。
だいぶ窮屈な生活をさせてしまうのは申し訳ない。しかし、私と一緒に住むというのはこういうことだ。この生活だけは譲れなかった。
それに、もしかしたらこの生活に嫌気がさして孤児院に行きたいというようになるかもしれない。
そんなこんなで、ゆっくりと時間をかけ説明していたら外がもう暗くなっていた。
トラさんには生活が苦しいと言ったが、別に1人で暮らすのなら十分過ぎるほどの食料はある。家政婦として働いているから、少なくはあるが賃金ももらっている。この町は年寄りが多いから何かと若い手を必要としている人が沢山いる。家政婦と言いつつも、要はお手伝いさんだ。畑作業を手伝ったり重たい荷物を運んだり、買い物に代わりに行ったり、家事したりと色々やっている。
それに賃金の代わりと言ってはなんだが、お裾分けと称して野菜や果物などくれることもある。料理も貰うことはあるが、どうにも人の手料理は食べることができないので、丁重にお断りしている。飲食店のはいけるんだけどね。
トラさんも優しくていつも内緒だよって言って果物をくれるし、いつも買うパン屋さんだって値段をまけて売ってくれる。
みんな優しく温かい……私は意外とこの町が気に入っているのかもしれない。
夜ご飯を2人分作って、食べて、お風呂に入って寝る。今日は色々とありすぎて本当に疲れた。
今頃はこの子は孤児院にいて、私は今日も独りベッドで寝るはずだったんだけど。
もう既に私の腕の中で眠っているレイを抱きしめる。この子、警戒心ってものが全くない……。
厄介ごとや面倒ごとは増えた。これからのことに沢山、頭を悩ませることだろう。
それでも、
「…あったかい」
この温もりで充分だと思えた。