2羽 ぽっかり空いた穴のなか
「トガ、こちらです!」
リール様は尻尾の先で芝生の端をちょんちょんと指していた。ちょうど大人が入るのがやっとなくらいの穴が、ぽっかりと開いていた。
「入るのか?」
上から覗き込んでみると、風が轟という音を立てながら吹き上げてきた。思わず目を瞑りかけたが、なんとか目を凝らしてみる。しかしながら、なにも分からなかった。あまりにも暗すぎて、ここからだと様子をうかがうことはできない。吹き上げてくる風は、少し乾いていて黴臭い。どことなく懐かしさを感じる香りだったが、それ以外はさっぱりだった。
あまりにも不気味だったので、振り返って尋ねてみることにする。
「なぁ、ここはなんだ?」
「ふふっ、入ってからのお楽しみですー! ささ、なかへ!」
リール様は弾むような声で言った。満月のような瞳は、るんるんと陽気に輝いている。悪意の欠片も感じないし、恐らく善意なのだろうが、不安であることに変わりはない。
もう一度、穴に向き合う。
そのまま足を入れるのは躊躇われたので、おっかなびっくり右腕だけ突っ込んでみた。なるべく深くまで突っ込んでみたが、指先は何も捕らえなかった。右肩が穴に入るくらいまで、めいっぱい伸ばしてみても右手は宙を掻くばかりだ。
「あー、これさ……」
安全なのか? 階段とかねぇの?
その体勢のまま振り返って、リール様に聞こうとした、そのときだった。
「もーっ! ドア、開けっ放しにしないでって言ったでしょ!」
甲高い声と同時に、後頭部に小さな塊がぶつかった。
「いてっ!? っ、う、わぁーっ!?」
激突の衝撃でバランスが崩れ、そのまま穴の底へと真っ逆さまに落ちてしまう。
落下することへの憧憬はあったが、大空のそれと底なしとしか思えぬ穴への落下は別問題だ。手足をばたつかせて何かをつかもうとしても、手も足もなにもつかむことはなく、落ちて、落ちて、落ちて――……ばたんっと柔らかいものに包まれる形で終わりとなった。
「うぅ……なんだ、ここ……」
相変わらず真っ暗闇のなか、拳サイズの青色がぼやっと見えた。
「ん? 客人? 客人じゃん! ちょっと、大きい私! 先に言いなさいよー!」
青色は文句を口にすると、ばしっと大きな音を発する。
すると、空間全体が明るくなった。目の前に漂う青色の正体も明らかになる。全身青色の鱗に覆われ、ふわふわと浮いている。白い二対の角を生やし、満月のような眼をしたその姿は、色の違ったリール様瓜二つだった。だが、リール様と違って小さい。目の前の生き物は、俺の手のひらに乗るくらいのサイズしかなかった。
「え……あ……リール様、縮んだ?」
「ふーん、大きい私を様付けねぇ……しかも、エジュン族の子どもが?」
小さくて青いリール様は、俺を観察するようにふよふよ浮いている。
「10歳? うーん、羽の大きさ的に、もうちょい上? ねぇ、何歳?」
「……15です」
「あら失礼。とても見えなかったわ。それにしても、かなりの童顔ね。体格も標準より小さい。ちゃんと食べてるの? 最後に食べたのはいつ?」
「昨日。パオン食べた。あと、スープ」
正直に答えると、青いリール様は胡散臭そうに目を細めた。しばし考え込むように長い尻尾を小さな手でつかむと、上に向かって声を張り上げた。
「ちょっと、大きい私! こいつ、本当に客人なの!?」
「客人ですよー」
上からふわっとした声が降ってくる。
顔を上げてみると、俺が落ちてきた穴に大きな月が見えた。大きいリール様がこちらを見下ろしているのだと思う。
「トガはバグロルに追われていたんですよ。でも、誤って落ちかけていたので助けました。小さい私、記憶共有します?」
「結構! 事情は概ねつかみました。あとは、こちらで引き受けます。ドアを閉めてくださいな」
「ですが、せっかくの客人ですよ?」
大きいリール様が不満そうに声を少しばかり尖らせる。
小さなリール様は、不服そうに大きなため息をついた。
「分かりました。大きい私の大きな目がドアの代わりにすることを許可します」
「ふふっ、さすが、小さな私ですね。ありがとうございますー」
「癇癪でここを潰されては困りますからね。私たちの仕事場がなくなってしまいますから」
小さなリール様はそう言うと、俺に向き直った。
「バグロルに追われてたって、なにをしたんですか? まあ、そのまえに食事ですね」
小さなリール様は尻尾から手を離すと、小さな手をバチンっと叩いた。
すると、どうだろう!
目の前に机と椅子が現れたのだ。机の上には、ふわっふわの白いパオンと焼いた卵、ポリッジのようなものが乗っている。俺は滅多にありつけない豪華な料理に目が釘付けになってしまった。
「食べなさい、客人のトガ」
小さなリール様は優しい声色で言った。
「大きい私は分かってないみたいだけど、数か月はまともな食事をしていないのでしょ? 本当はもっともてなしてあげたいのだけど、あんまり急いでたくさん食べると死んでしまうから」
「本当に、食べていいのか?」
ごくり、と喉を鳴らす。
「本当の本当に、食べていいのか?」
「ここで取り上げるような外道ではないわ。好きなだけ食べなさい」
その声を聞くと同時に、俺の身体は動いていた。飛ぶような速さで椅子に座ると、食前の祈りとか礼儀作法とか一切考えず、ただただ貪るように食べた。途中、「デザートよ」と言って出された見たこともないピンク色の果実は皮を剥かずに、しゃりしゃりと齧る。生まれてこの方味わったことのない甘みが口いっぱいに広がり、身体全体が浮遊感に包まれるようだった。あまりの甘さに頭がぼんやりとする。つつっと口の端から伝った果実の汁がもったいなくて、空いてる指で拭った。
「いい喰いっぷりねーバグロルに囚われてたの?」
「バグロル? あー、赤い目の奴らのことか?」
指を舐めなが言うと、リール様は頷いた。
俺はいったん手を止め、どこから話したらいいものか考え込んだ。
「5歳のときから収監されてんだ。それまでは、なんとか家族一緒に暮らしてたんだけどな」
「バグロルはエジュン族と因縁があるからね……でも、本当にそれだけ?」
「それだけさ」
エジュン族が収監されること自体、なにも不思議なことではない。それ自体はよくある話だ。だが、咎羽のことは黙っておくことにする。
「んで、俺の処刑が決まったから、逃げてきた。まさか、こんな岩山の上に誰かが住んでるってことは思いもしなかったけどな」
「知らなかったの?」
「知らないさ。というか、ここは……?」
腹がやや満たされて、ようやく俺は周囲を見渡す余裕ができた。四方を岩壁に囲まれた部屋だった。松明のようなものはないが、その代わり天井を含む壁全体が薄く淡い灯りを放っている。壁には古風な石造り扉が四方にそれぞれ一つずつあり、それぞれに赤・青・緑・黄の石のようなものが嵌められていた。
「星詠み塔よ」
小さなリール様はそう言うと、テーブルの上に静かに降り立った。
「分かりやすく言えば、星を観察する場所かしらね」
「それって、昼の星も?」
次の果実に伸びかけていた手がぴたりと止まり、まじまじと小さなリール様を見つめた。
「あら、昼の星を知っているの?」
「昔、聴いたことがあるんだ。昼の星、見えるのか!?」
「私は見えないわ。でも、そうね……ついてきなさい」
小さなリール様は青い石が嵌った扉まで浮遊する。
俺が急いで追いかけると、リール様が小さな尻尾を使って器用に扉を開けるところだった。扉に近づくと、これまた見たことのない模様が所狭しと記されている。一部、文字のような箇所もあったが、小さすぎて読み取ることはできなかった。目を細めて読もうとしていると、リール様はちょっと驚いたように瞬きをしている。
「あら、トガ。貴方、文字が読めるの?」
「簡単な大陸文字なら」
「そう! それならいいわ! これは良い客人かも……!」
小さなリール様は嬉しそうに口をあけて笑う。大きなリール様ほどではないが、口の隙間から俺の指を貫通しそうなくらい鋭い牙がちらりと見えた。
(……これ、かなりヤバい場所に逃げ込んだんじゃねぇか?)
一抹の不安を抱えながら、扉が開くのを待つ。
だけど、ここがどのような場所でも、これまでよりは良いはずだ。まともな食事をさせてもらったし、俺たち種族への偏見もない。俺はそう言い聞かせながら、軋みながら開く扉を見つめる。この部屋には、一体なにがあるのだろう? わずかな期待と大きな不安を胸にため込み、扉の向こうを覗き込む。
「なんだ……これ?」
考える前に、俺の口から言葉が零れ落ちる。
そこに広がっていた光景に、俺は思わず目を見開いた。