隣の草薙さん:2
「まだ目を覚まさないのかい?」
成一郎は頭をかく。
妖達は横たわる道場破りを取り囲んで、つついてみたり髪を引っ張ってみたり興味津々だ。
屋敷の一室に寝かされた楓之進はしばらく目を覚ましそうにない。
「蒼、やりすぎだよ。まったく」
咎める言葉に答えず、少年の姿の蒼は楓之進の額に乗った手ぬぐいを桶の水で冷やし直した。
確かにやりすぎと言われればそうだろう。
最初はもっと適当にあしらうつもりでいた。
だが、この男はそうする余裕を蒼に与えないほどには腕が立ったのだ。
それに蒼は勝負を急いだ節があった。
鶏の餌やりも庭の掃除も途中だったし、なによりこんな洗濯日和を逃す手はないと思ったのは最近すっかり奥方の代わりに家事に勤しんでいるからである。
式神をこんなことに使うのもこの主人くらいだけれど。
やってみるとなかなかに没頭してしまう。
「この道場破り、人間にしたらまあまあやる方や。それに蒼ちゃんのこと知ってたみたいやんか。何者なんやろか?」
伊緒里は蒼の隣で楓之進を興味深げに眺めた。
「さてね。うちはそっちの道じゃ有名でもないし道場破りされる覚えはないんだがねぇ」
「その事だけど、実は…」
楓之進は蒼の事を弟子から聞いたと言っていた。
その弟子が誰なのか蒼には見当が付いている。
といっても誰といえるほど知っているわけではないが、狸を追いかけていた侍達と楓之進の太刀筋はよく似ていたのだった。
「どうして黙っていたんだ」
数日前の出来事をすっかり聞き終えたあと成一郎は小言をこぼす。
ただでさえお前は目立つのに、と。
蒼があのあたりに出向いたのは元はといえば成一郎の命によるものである。
言い渡されたのは妖怪騒ぎの調査……のついでに安産祈願で有名な神社があるから御守りを買ってこいというものだった。
たぶんそっちが本来の目的で、調査は建て前だと蒼にもわかってはいたのだが。
神社にたどり着いたのは夜も更けた頃で、追われていた狸に出くわして妖怪騒動を解決したものの結局御守りは買えず、手ぶらで帰ってかなり文句を言われた。
その上人間相手に大立ち回りをやらかしたなどと言おうものなら確実に小言が増えるのは目に見えている。
だから黙っていたのだが結局しっかり小言を聞くはめになった。
「しかしその男達、妖とわかっていてその狸を追っていたんだね?同業者…だったら知らないはずないんだが」
「この楓之進という男もそうだけど、あの時の男達も術の類は一切使わなかったんだ。本当に同業なのかどうか」
妖退治を生業としているのなら、追っていた妖を逃がした蒼に対し腹を立てたとして説明もつくが。
その時だった。
うおっとかうわっとかいう声に目をやれば道場破りが布団の上で上半身を起こした姿勢で固まっていた。
視線は取り囲む妖達に注がれている。
普通の者には見えぬ小さな妖が彼には見えているようだ。
「やっぱりあんたこの妖らがみえるんか?」
伊緒里が腕を組んで凄みを聞かせて覗き込む。
「見えるんやな?」
「…ああ」
楓之進もさすがにたじろぎ頷いた。
妖が見えても囲まれることに慣れてはいない。
「お前たちがいると話が出来ない。少し離れていておくれ」
固まった楓之進に助け船を出したのは成一郎だった。
妖達も屋敷の主に言われれば仕方がない。
わあわあと騒がしく布団から離れた。
「驚いた。術物の類が大人しく言うことを聞くとは」
楓之進は意外そうに目を見開く。
術物――つまり化け物が人間と仲良くしているのがよほど珍しいらしい。
同業者ならば榊河家と知った上でこういう反応をするのは珍しいことだ。
「化け物に取り憑かれ困っているなら力を貸すつもりで来たんだが…どうやら見当はずれだったらしい」
「そないこてんぱんにやられとって力なんか貸せるんかいな」
「全くだな」
伊緒里の歯に衣着せぬ物言いに楓之進は苦笑を浮かべる。
剣を交えたのが退治するべき凶悪な妖だったなら今頃は…。
「そちらは妖退治を生業とされていらっしゃるんで?」
彼は榊河を知らぬようで、成一郎にしてもやはり草薙という名は心当たりがないのだが改めて確認する。
「いや、仕事ってわけじゃない。ただ、昔から常人には見えぬもんがみえるんでね」
腕っ節をいかして妖に困っている者の手助けをしているのだという。
「噂を聞いてか入門して来るのも“見えちまう”のが多いんだ。今じゃ道場ぐるみだな」
道場主だというのも近々この近くに越してくるというのも本当らしい。
「さっきの綺麗な兄さんも、やはりあれか?人ならざる者ってやつかい?」
「なんや、わからんと挑んだんかいな」
伊緒里はあきれたような、面白がるようなそんな表情だ。
「そこにいるそれだよ」
それ呼ばわりされた蒼はあっさりと正体を暴露されたことに顔をこわばらせた。
「成一郎!?」
日頃から目立つなと口を酸っぱくして言う彼がとるには意外な行動だ。
楓之進は蒼よりも更に驚いた。
このちょこんと座った人形みたいに可愛いのと見た目には美人だが喋ると騒がしいのはこの家の娘か道場主の妹かと思っていたのだが、その子供の方があの青年なのだと言われればにわかに信じがたい。
「本当か!?普段はその姿なのか?」
「そや。あないに別嬪やったらちまたで目立つやろ?まぁウチはこっちの姿も可愛くて好きやねん」
伊緒里が見当はずれな回答を返した。
楓之進はぐるりと周囲を見回す。
これだけ妖がうじゃうじゃといる屋敷は初めてだと改めて思った。
「こんなにも化け物がいて危険じゃないのか?まさかあんたも――」
「私は人間だよ」
成一郎はクスリと笑う。
「この子等は草木と同じで自然界に当たり前に存在している。面白そうな事があるとすぐに集まってくるんだ。うちは代々妖と縁深い家でね。妖がらみのやっかいごとがよく舞い込んでくるんだが、たいがいは人間が火種を作っているものさ。でなければ他愛ないただのいたずらですよ」
楓之進はこれまで妖を退治してきてそんな風に考えたことはなかった。
妖が全て悪だとは言わないが、人間を困らせるやっかいでわずらわしい存在と考えていたのだ。
「しかし、いいのか?そんな事まで俺に話して。普通、退魔師の家系はあまり大っぴらにそうだと明かしたがらないようだが」
「ご近所のよしみですよ」
成一郎は嫌みのない笑みを浮かべる。
「まぁあなたも私も同じようなもんだ。協力してやっていく方が互いの利になるでしょう?仲良くやりましょう」
「あ……ああ」
この榊河成一郎というつかみ所のない男はおそらく己とは比べ物にならないほど深い闇を見知っていると思えてならなかったが、こうやって化け物達とほのぼのと過ごしている所を見れば悪意のある言葉とも思えず、楓之進はただ頷くしかなかった。