隣の草薙さん:1
神社の入口に佇む鳥居よりも更に高い位置に一人と一匹の姿があった。
人にはとうてい登るのが困難な背の高い大木の枝の上だ。
下にはまだ男達がうろうろと辺りを探し回っているのが見えた。
青年の腕の中で狸が不安そうにまん丸な瞳で見上げた先にはお月様とよく似た金の色の瞳。
頭を撫でられれば化け狸は少し安堵した表情で目を細めた。
青年はしばらくしてひと気のなくなったのを見計い一跳びに地上に降りる。
「これに懲りたら人間をからかうのはやめておけ」
やっと地に降ろされた狸は何度も振り返りながら礼を言って去っていった。
それから数日後の朝のことだ。
雲らしい雲はなく空はどこまでも青い。
空気は澄んでいて日差しがやっと暖かさを帯びてきた頃。
「あーおーいーちゃーーーん!!!」
ドタドタと騒がしい足音が廊下を渡っていく。
見た目は年頃の娘なのにそうとは思えない騒がしさであったが、当人は全く気にする風もなく全力疾走中だ。
程なく中庭に目当ての人物を発見して伊緒里は勢い余りつつも足を止めた。
「っと、…こんなとこに…おったんかいな」
息を整える間もなく言えばほうきを抱えたまま屈み込んで鶏に餌をやっていた蒼が振り返り少女のように可愛らしい大きな瞳を何事かとぱちくりさせる。
しかし伊緒里が騒がしいのはいつものことなので蒼は餌やりを再開した。
「ちょ、ちょっとぉ、鶏とたわむれてる場合やないで!」
「洗濯は?」
「それどころやないんやて」
「何かあったの?」
そう聞いたのも半ば事務的だった。
「道場破りや!」
「どうじょうやぶり?」
蒼はやっと立ち上がる。
「そうや!今、来とるんや!」
蒼は愛らしい面に怪訝な表情を貼り付けた。
「とにかく、一緒に来てえな!」
言うが早いか伊緒里は蒼を抱え上げる。
先程と同じ勢いで廊下を引き返した。
質素な造りの屋敷にはこれまた質素な道場が併設されていた。
既に相当の野次馬が道場をのぞき込んでいる。
といってもそのほとんどが人間ではなく妖の類であったのだが。
道場の中では数人の男達がへたり込んでいる。
「これでうちの門下生は全部ですよ」
屋敷の主人、榊河成一郎は困ったように頭をかきながら言った。
道場の主とは到底思えないような優男である。
それもそのはず
「もともとうちは妻が指南役でね。その妻も今は身重で動けませんし、私なんてただのお飾りですからねぇ」
ということだった。
「いやいや、ごまかそうったって無駄だ。うちの門弟が見た凄腕の剣士はこの道場に出入りしていると調べはついてるんだ」
対する道場破りの男は、体格が良く強面、それでいてどこか親しみのわく表情も見せる。
年こそまだ若いがいかにも頼りがいのありそうな男だ。
「確か背の高い、赤い髪の、えらく綺麗な男だったと聞いているんだが」
外にいた者達が、黒髪で年は十ほどの小柄な少年である蒼に一斉に視線を集めた。
成一郎はまた困ったという風に頭をかく。
「ああ、確かにそういう者はおりますね。しかしアレはうちの流派ではないのでねぇ。どうぞお引き取りを」
「だが、このままだと俺は看板を持って帰ることになるぞ。困るんじゃないか?」
「…なるほど、確かに、それは妻に半殺しにされかねないな」
「ならば、その者を呼んでもらおう」
道場破りはにやりと笑みを作った。
「というわけだから、よろしく」
成一郎は道場を出てまっすぐに蒼の元へとやって来た。
どうやら覗いていた事に気付いていたらしい。
「どこで見られていたのだか知らないけれど、お前が目立つ容姿なのが悪いんだからね。ほら、主人の命を助けなさいね」
この人はいつもこんな感じで飄々としてどこまでが本気かわからない。
榊河家の本筋から随分遠い家に生まれながらその霊力の高さ故請われて術を継いだ。
蒼の主人となることを引き受けた際、榊河の実力者として立派な屋敷を持つことだってできたのに元の質素な暮らしを続けることを条件にした変わり者、というのが一族内の評価だ。
けれど蒼も今の暮らしは悪くないと思っている。
今は契約者のいない伊緒里もここが気に入っていつの間にか居着いてしまっているし。
だから今はとりあえず道場と主人を護るために一働きしなければならないようだった。
ため息を一つついた瞬間に少年の姿は消え失せて、代わりに赤い髪を高い位置で結った青年が出現している。
「蒼ちゃん、頑張れー!」
伊緒里の緊張感に欠ける声援と周りの視線を受けて蒼は道場の入口へと向かった。
道場の主につれられて現れたのは想像よりよほど若く線の細い男だった。
髪で顔が半分ほど隠れているがなるほど弟子達が言う通り、男にしておくには少々勿体ないくらい整った顔立ちをしている。
そう思って道場破りは寸の間見とれ、それから我に返って言った。
「俺は今度近くに道場を構えることになった草薙楓之進という。一つ手合わせ願いたい」
「……ほら」
成一郎が背を押す。
「蒼だ」
勝負の前に名乗るのは礼儀だと成一郎に促され蒼は渋々そう言った。
「真剣か木刀かどっちだい?あんた、どっちでやりたい?」
「……そちらの好きにすればいい」
そう答えた蒼に木刀を手渡したのは成一郎だ。
「手合わせなら木刀で十分でしょう。流血沙汰になったら掃除が大変だ」
楓之進も素直に木刀を手に取る。
どちらからともなく構えて向き合った。
瞬間、空気は肌が切れそうなくらいに張り詰める。
先に仕掛けたのは楓之進だった。
蒼はそれをあえて真っ向から受け止める。
体格で見れば己に力の分があるように見えるのだが楓之進は受け止められた獲物をそれ以上押すことができなかった。
楓之進には構え合って初めて気付いたことがある。
蒼の左の腕には指先まできっちりと包帯が巻かれているのだ。
しかし剣を交えてみればその包帯が怪我のためではないことは知れた。
勝負を優位に進める要素には成り得ない。
一度二人は離れる。
互いに隙が見いだせないというようにしばらく距離をとった。
次に打ち込んだのもやはり楓之進の方だ。
蒼は今度は受け止めはしなかった。
受け流し、相手の懐に飛び込み様に一撃。
楓之進は見た目にそぐわぬ素早い動きで跳びずさる。
直撃を免れたのはさすがというべきだろう。
しかし蒼はすでに楓之進の動きを追っている。
手が痺れるほどの打ち込みを今度は楓之進が受け止める形になった。
何とかしのいだが次の一撃は楓之進の手から木刀をもぎ取っていく。
それでも反撃に転じ蹴りを繰り出した所に腹部を凪ぐ一撃。
真剣であったなら命が無かっただろう。
そう思ったときには楓之進の意識は暗い闇へと引きずり込まれていた。