隣の草薙さん:プロローグ
キャラクターについては本編(特に第10部~15部)を合わせて読んでいただくとわかりやすいかと思います。
どうぞよろしくお願いします。
長きに渡り他国との外交を絶っていたこの国は黒船の来航により新たな道を歩もうとしていた。
後に幕末と呼ばれるこの時代の中で、庶民は来る日本の変革にまださほどの関心を示していない。
というよりも、慎ましやかに暮らす人々にとって、日々をつつがなく過ごせるということこそが最重要であり、日々の営みを守ることで精一杯なのだ。
これはそんな時代にあった小さな物語。
門前町として栄えるこの町は昼間なら参拝のためにやってきた人々が多く行き交い、商店が軒を連ねなかなかに賑わっている一角だ。
しかし今は草木も眠る丑三つ時、墨を塗り込めたような深い闇に全てが包み込まれていた。
その闇の中を走る影がある。
袴姿の侍風の男が数人。
手に行灯を持っている者もいてそこだけぼんやりと明るい。
その前を走るのは一回り小さな人影だ。
小さめの影は先の見えない暗闇の中を必死で逃げていた。
けれどやがて神社の境内に迷い込み、追い詰めらてしまう。
朱塗りの鳥居の前で侍風の男達は自分よりやや小振りのその影を囲った。
「狙ったのが俺達だったのが運の尽きだ」
「さあ正体を現せ」
追われていた小柄な美女がかざされた行灯から眩しそうに目を背ける。
「何の事やらわかりません。私はただ道案内を…」
「ついて行って川にはめられたり、持ち物をとられた人間が大勢いるのは知っているぞ」
「そうやって何人の者を化かしたんだ!」
女に侍達が詰め寄る。
一人が腰の刀を抜きはなった。
「ひぃ…、ごめんなさい。もうしませんから。許して」
女は狸の姿に変わっていた。
「命ばかりは!」
「だめだ、化け物の言うことなど信じられるか」
侍は拝むような格好の狸に刀を振り上げる。
しかしそれを振り下ろすことは出来なかった。
「やめておけ。もう十分だろう」
男達が一斉に声の主を向く。
誰一人自分達のすぐ近くに立つその人物にその時まで気付かなかった。
気配を感じなかったのだ。
刀を抜いた本人ですら腕をつかまれて初めて気がついたほどだった。
すらりと背の高い、こちらも袴姿の男に、行灯を持った一人が光を向ける。
一瞬息をのんだ。
束ねた髪は赤く、薄い色の瞳が光に透けて金に近い色に見えた。
髪で顔の左半分は隠れていたがそれでもわかるほどに整った面差しの青年は、感情を浮かべずただ静かに男達に鋭い視線を配る。
「は…離せ!貴様何者だ!?」
腕を掴まれていた男がやっと我に返って言った。
腕を振りほどこうとするがびくともしない。
手近にいた一人が助太刀とばかりに刀を構えた。
そちらに掴まえていた男を押しやって、青年は地面にうずくまって震えていた狸を拾い上げる。
一人の男が斬り込んだ刃は空を切った。
それを合図に次々と追ってくる斬撃。
鉄と鉄の打ち合う硬い音が響いた。
いつの間にか青年の手には一振りの日本刀が握られている。
抜き身ではなく美しい模様の鞘に納まったままの刀が幾度か刃を打ち返す。
男達とて伊達に刀を差しているわけではない。
やがて避けるばかりではいかなくなった青年に複数の刃が迫った。
しかし次の瞬間男達は驚愕の声を上げる。
刀が半ばから折れていた。
いや、むしろ断ち切られたと言った方がいい鮮やかさで、白々と輝く刃の残像だけが視界をかすめる。
刃先が地に落ちた時にはすでに狸共々青年の姿は目の前から消えていた。