Crimson Flow:4
また琴美の姿が藍香の目には捉えられなくなる。
人間には見えないほどのスピードで今度は躊躇なく自分を襲うだろう刃物のような爪を、自らが切り裂かれる光景を藍香はどこか現実味のない感覚で想像していた。
だが次の瞬間、乱暴に腕を引っ張られ、藍香は後方に倒れ込む。
ザクッという生々しく耳に残る音を聞いた。
「捕まえたぜ」
琴美にも負けないほどの残忍な笑みをリュウは口元に浮かべる。
指ごと掴み取られ、琴美は食い込ませた爪を抜くことが出来ない。
爪はその根元までがリュウの手のひらに埋まり、甲から突き出していた。
深紅の液体が爪を、腕を伝う。
床を濡らす。
けれど痛みなど感じていないかのようにリュウはニッと唇を釣り上げた。
尖った犬歯が覗く。
リュウはいっそ優雅なまでの動作で琴美の白い首筋にその牙を食い込ませた。
琴美の視線はどこか遠い世界を見つめている。
それは恐ろしさと艶美さとを併せ持つ光景だった。
藍香が声も出せないままただ見つめる前で、リュウは喉を通る熱い血を堪能する。
けれどそれが許されたのはほんの数秒。
頭の中では龍介が止めろとうるさく叫んでいた。
吸血行為への強い嫌悪感が自身にまで伝わってきて、リュウは物足りないまま渋々首筋から牙を抜く。
そして、まだうっとりとしたままの琴美の指から指輪を抜き取った。
指先で弾く。
指輪は宙を舞い、一発の弾丸に狙い違わず打ち砕かれた。
同時に琴美が意識を失って倒れる。
切り裂きジャックを作り出した魔力は消失したのだ。
「もったいね」
リュウは琴美にも指輪の残骸にももう興味がないという風に腕を伝う自らの血を名残惜しげに舐めとる。
五本の爪に手のひらから甲まで刺し貫かれたはずの傷は跡形もなく消えていた。
「架牙深君…きみ…」
「オレの名はリュウだ。架牙深君じゃねえ」
本人の言う通りさっきまで架牙深龍介であった人物は藍香の知る彼ではありえなかった。
話し方と表情の違いでこうも別人になるものなのか。
「えっと…架牙深君に取り憑いてる……とか…?」
「幽霊みたいに言うな。オレは吸血鬼だ」
「あ!まさか血を吸われた松原さんも吸血鬼になるんじゃぁ!?」
藍香は恐ろしい可能性に考え至ってあわてる。
「血ぃ吸われたぐらいで吸血鬼になるかよ。お前魔女のくせにんなことも知らねえの?」
“魔女”と思いがけない言葉に藍香は一瞬ドキリとした。
普通の人間じゃない事は知られたとしても、そこまではっきりと言い当てられるとは思っていなかった。
彼が言う通り藍香は魔女の血を引いている。
古くから続く家系だ。
しかし本当に魔女らしく暮らしていたのは数代前のご先祖様まで。
藍香自身はといえば人間となんら変わりない生活を送ってきた。
むしろ魔女らしいことなんてせいぜいさっきのような簡単なまじないができる程度なのだ。
「わ、私はほとんど人間と変わらないもの!悪い?」
何故だかリュウにはムキになってしまう藍香だった。
たぶんリュウの態度に腹が立つのだ。
腹が立って拳を握り締めて、そこで初めて藍香は自分の手のひらに違和感があることに気付く。
痛みと濡れた感覚に目をやれば先ほど倒れ込んだときにガラスで切ったらしい傷があった。
吸血行為を目にしたばかりの藍香は反射的に血を見せまいと手を隠す。
しかしそんなことをしてもリュウには気取られていたのだが。
「ハンっ。安心しろ、てめえの血だけは頼まれてもいらねぇ」
彼はしっしと手を振るジェスチャーまで交えて拒絶した。
「なっ…!?どういう意味よ!」
ホッとしたけどなんだかまた腹が立つ。
助けて貰っておいて何だが藍香はこのリュウという吸血鬼に良い感情を抱けずにいた。
「さて、オレは帰るわ」
「え?ちょっと!このまま放っておくの!?」
室内にはガラスがちらばっているし弾痕はあるし琴美は倒れたままだ。
「あとは山城っておっさんが来るからやらせりゃいい」
「ちょ…それって誰よ!待ちなさいよ!」
去っていくリュウを琴美を放ったままでは追うことも出来ず、藍香はその後ろ姿を見送るしかなかった。