Crimson Flow:3
龍介がその無惨な現場に到着した時、藍香は倒れている杏奈の傍らに屈み込んでいた。
血の匂いに駆けつけてみれば案の定だ。
心の内でやはりとつぶやく。
藍香は手にした小さな小瓶に被害者の血液を採取したようだった。
杏奈を発見したというだけならまず考えられない行動だ。
「あなただったんですね?」
藍香が一瞬ビクッと身をすくませ、ゆっくりと振り返った。
「あなたが、やったんですね?」
龍介はもう一度ゆっくりと質問を繰り返した。
あまりにタイミングが悪い。
藍香自身でも直前の行為を考えれば疑われるのも無理がないと思った。
「わ、私じゃないわ!橘要が」
「橘要?それはあり得ません。橘先生なら書道部の部室にいらっしゃいましたから」
そう、龍介は藍香を探していて橘要を見つけ、それからしばらく様子をうかがっていたのだから。
血の臭いに気付いたときには確かに彼はそこにいた。
「そんな…!!」
琴美が嘘をついていたということだろうか。
それを言ったところで架牙深龍介が信じてくれるとは到底思えなかった。
「先生、目的はいったい何です?」
「待って…私がやったんじゃないって証拠を、見せるから」
藍香にしては珍しく歯切れの悪い言い方だ。
「でもその前に、彼女を病院に!」
「…わかりました」
切り裂き犯かもしれない危険な人物を怖がる様子のない龍介に疑問を抱く余裕は今の藍香にはない。
人を呼んで、見つかる前に二人はその場をこっそりと離れた。
場所を教材倉庫に移し誰も来ないことを確認して鍵を閉める。
そうして藍香はさっき得た長谷部杏奈の血液の入った小瓶を取り出した。
龍介はただ黙って藍香の次なる行動に注意を払っている。
一瞬、彼女はためらった。
今から起こることは自分が犯人ではない証拠と共に『普通の人間』ではない証拠を示すことになるだろうから。
けれどそれは今のところ本当の犯人を知り得る唯一の方法でもあった。
「架牙深君、ライター貸して貰える?」
龍介は素直に内ポケットからライターを取り出して手渡す。
まもなく日が沈むのだろう、室内は暗い。
そこにライターの火が灯る。
その火を瓶の口に近付ければ不思議なことにそちらへと燃え移った。
ぼんやり明るい炎は瓶の口でゆらゆらと揺らめき、そこにだんだんと見覚えのある風景が浮かんできた。
この学校の廊下。
向こうから歩いてくる人物。
残酷な笑みに彩られた口元。
あまりに強烈な記憶を血は覚えている。
血に刻まれた記憶は炎によって炙り出され真犯人を映し出していた。
「おい。そこを動くなよ」
突然、龍介の雰囲気が変わった。
今までの行儀の良い表情とは打って変わって口元を嘲笑がかすめる。
ちょうど日が完全に沈みきったことなど藍香は気付こうはずもない。
「架牙深君?」
藍香の脇を何かがかすめ、ピシッと音を立ててガラスが弾けた。
窓に開いた穴が弾痕だと認識できるより早く、ガラスはまるで薄い紙のように切り裂かれ床に落ちて散らばった。
龍介の手の中には拳銃。
窓の外には松原琴美が立っている。
いったいどちらに驚けばいいのかもはや藍香にはわからない。
目の前で繰り広げられた一瞬の出来事はまるでスローモーションのように緩慢で、それなのに思考が追い付かなかった。
銃口を向けられた琴美は枠だけになった窓の向こうで炎の中の記憶と同じ残忍な笑みを浮かべている。
「ジャック・ザ・リッパー?ハッ!まんまじゃねぇか」
龍介――いや、今は龍介の体を借りて表に現れた『リュウ』という存在――はおもしろくもなさそうに吐き捨てた。
ガラスを紙切れのごとく切り裂いたのは琴美の指先から20cmほども伸びた爪。
その爪は何物をも切り裂くナイフのような鋭さと硬さを備えている。
銃を突きつけられているにもかかわらず琴美は前へと足を踏み出した。
銃弾は容赦なくその肩を打ち抜いた…かに見えたが弾丸は琴美に届く寸前で切り裂かれて足元に転がった。琴美の姿が消える。
動きが速すぎて藍香の目には追いきれないのだ。
リュウには見えているのだろう。
「チィっ!!」
見えてはいても当たらない。
弾をことごとく裂かれて無駄に消費していくことにいら立つリュウ。
「松原さん、なぜ?なぜあなたが生徒や長谷部さんを傷つけたりしたの!?」
姿が見えないのでどこにともなく藍香は呼びかけた。
意外なことに、応じて琴美は動きを止める。
「撃たないで!」
藍香は琴美とリュウの間に立ちはだかった。
二人に身長差はあまり無いから真っ直ぐに視線がぶつかる。
「どけ!」
それでも藍香の視線はゆるがない。
「私は松原さんと話がしたいのよ!」
琴美が驚いたような、それでいて泣き出しそうな表情を浮かべる。
「私はああいう子達が嫌いだった。派手な外見で、いつも地味な私を見て笑ってる。高校生の時に私をイジメた子達と一緒。だから今でもすれ違う度に怖くなる…」
琴美は切り裂きジャックから元の彼女の表情を取り戻し唇を噛み締めた。
「大人になれば変わると思ってた。だけど同じだった。教師になる夢は諦めようと思った。でも、これを見つけた時から私は変わったの。もう怯えることはない。あの子達も、長谷部さんも、嫌な物は消せばいいってわかったから」
鋭い爪が輝く琴美の指にはアンティークなデザインの指輪がはまっていた。
見つめていると何故か心の中をざわつかせるそれが琴美をこんな風にしてしまったものに違いない。
「こんなやり方間違ってる。嫌な物は消せばいいとは思わない。誰だって苦手なものはあるけれど、それに正面から向き合った時に変われるものなんじゃないの?」
「私にはそんなのは無理よ」
それでも必死に呼びかける。
「そんなことない!逃げるのを止めて振り返るだけで、それだけでいいの。それが変わり始めているってことだから」
「私はあなたみたいに強くないの。…あなたは嫌いじゃなかったけど、知られてしまったから仕方がない…。もう引き返せないの」
また彼女の顔から彼女の表情が消える。
もう琴美を止められないことを示していた。