Crimson Fang:10
魔法陣が一つ消えて、このビルを包んでいる力は消えはしなかったけれど弱まったのは確かだった。
「この調子でドンドン行くわよ!」
藍香は拳をきつく握り締める。
「次も簡単にいくとは思わねぇことだ。奴ももう気付いてる頃だろうからな」
リュウに言われるまでもなくそんな事は藍香にもわかっている。
けれど自分を奮い立たせなければ進めないような気がしたのだ。
握り締めたままの拳がリュウのせいでなんだか虚しくなったけれどくじけている場合ではなかった。
そこから次の目的地までは辺りを窺いながら慎重に歩かなければならなかったからかなり時間を要した。
そうして無事たどり着たもののジェイドが待ちかまえてはいないかと緊張感が走る。
幸いにもそこには何者の気配も感じられなかった。
部屋の壁際には棚が置かれ、ファイリングされた書類や名簿がびっしりと詰め込まれている。
先程の部屋と同じなら壁に魔法陣が貼られているはずだ。
くまなく探す。
しかし見つかる気配がない。
「紙を隠すには紙の中ってか?」
面倒そうにしつつも一応探していたリュウだったが、ぽつりと不吉なことを言った。
この部屋には確かに紙の類が大量にある。
「まさかこのファイルのどこかに挟まってんのか?」
迅が恐る恐る聞く。
「いっそ全部燃やすか…」
応じたリュウもげんなりといった様子だ。
「バカなこと言わないで!火事になっても逃げられないかもしれないのよ!」
藍香は慌てたがさすがにリュウも本気で全て燃やすつもりはない。
ため息とともに手近なファイルをめくり始めた。
迅と藍香もそれに倣うしかない。
パラパラとページをめくる音だけが長い時間続いていた。
「やっぱ燃やそうぜ」
リュウがたまらず言った。
今度は本気だ。
「待ちなさいよ!なんでそうせっかちなの!?…あった!!」
藍香はファイルから魔法陣を取り出して破り捨てる。
そうして何とか危機を乗り越えた。
かに思えたのだが新たな危機は突如として襲いかかったのだ。
扉が弾け飛ぶ。
反射的に身をかがめた三人の頭上を間一髪で扉は飛び越して窓ガラスが割れる音と衝撃が響く。
リュウが素早く構えた銃口の先に長身のスーツ姿があった。
不適に微笑むジェイドを彼が守護天使と呼ぶその生き物は文字通り護って立ちはだかっている。
「なかなかやってくれるじゃないか」
もう容赦はしない。
追い詰めて、狩るだけだ。
例え魔法陣の力が無くなろうと、逃げられはしないとその瞳が言っていた。
不気味な静寂が訪れる。
「誰からいこうか?」
フェミニストな口調はそのままに、ジェイドの恐ろしく冷たい瞳が獲物を見据えた。
鈍く輝く銀のナイフ。
隙を見て二人を逃がしたいリュウだったが簡単にそうさせてくれそうにはない。
ジェイドの視線が藍香を捉えた。
隙がなければ作り出すしかない。
リュウの動きは目で追いきれないほどに速かった。
しかし立て続けに放たれた三発の弾丸は鎧に弾かれ、ひしゃげて床に転がった。
守護天使はすでに目の前にいる。
そう認識した瞬間に肉食の獣を思わせる力で頭を床に押し付けられていた。
「…っ……」
頭蓋骨が軋む。
グルグルと獣が喉を鳴らす音。
もがけば爪が食い込む。
ジェイドがくすくすと笑いを漏らした。
銀の刃はゆるりと藍香に近付く。
「クソっ……どけよ!!」
爪の間からのしかかっている獣を見れば腹側は鎧に覆われてはいない部分が多少はあった。
渾身の力で蹴り上げる。
何とか守護天使の爪から逃れたリュウだったが、それなりの代償を払わなければならなかった。
頬がざっくりと裂けて赤く濡れた肉の奥から骨と歯が覗く。
かなりグロテスクだ。
けれど痛みも伝う血も無視してリュウは銃を構えた。
防御の弱い腹部に集中的に弾丸を撃ち込む。
正確に鎧の間を撃ち抜かれればさすがにエクソシストの絶対的な守護者たるその獣も空中で体勢を崩して床に叩きつけられた。
けれどまだ致命的なダメージを与えるには至ってはいない。
一度は床に倒れはしたもののすぐに起き上がり、血の代わりに白い煙を立ち上らせながら牙を剥き出しに低い姿勢でこちらを見据えている。
リュウが引き金を引けば銃がカチリと堅い音だけをたてた。
このタイミングで弾丸が尽きるとは万事休すというやつだ。
守護天使の口腔内に青い炎が生み出される。
それを防ぐ手だてはないかに思われた。
しかしリュウはこの瞬間を待っていたのだ。
実は弾はもう一発だけある。
人狼用に準備していた銀の弾丸。
値が張るものだから使いたくなかったのにとリュウは渋々、だがなめらかな手つきでそれを銃に込める。
炎が放たれる。
それよりも弾が銃口を飛び出すのが数瞬早かった。
弾丸と噛み合った瞬間炎は口の中ではじけて獣の頭部で小さな爆発が起こる。
そこに血が流れる凄惨な光景はなく、倒れた胴体の頭部があった場所から煙が立ち上る。
いつしかその全身が煙と化して、存在自体が消えてなくなった。
ジェイドはそちらに気をとられている。
今なら逃げられるかもしれない。
瞬間の判断で藍香は迅の手を取り駆け出していた。
しかしジェイドの反応は思ったより速い。
藍香が伸ばされた腕を反射的に払い、顎に突き上げるような掌での一撃を命中させることが出来たのはまさかそのような鮮やかな手捌で攻撃が来ると彼が予想していなかったからだ。
ジェイドの身体がぐらつき、ナイフが床に落ちる。
けれど反撃が許されたのはそこまでだった。
二発目をお見舞しようとした藍香の腕はジェイドのしなやかな指に掴まれ、拘束されていた。
「大人しくしていればいいものを」
ジェイドは乱れた髪を整え、器用に床からナイフを足で弾き上げた。
吸い込まれるように銀色の輝きが手の中に戻る。
その輝きと同じ危険な輝きがジェイドの瞳に宿っていた。