Crimson Fang:5
非常階段の踊り場で龍介はタバコを取り出した。
実を言えばヘビースモーカーなのはリュウよりも龍介の方だ。
授業の合間にまでこうしてタバコに火を付けている。
龍介はゆっくりと煙を吐き出した。
目で追えばビルに挟まれた細い空からわずかに降り注ぐ光が眩しい。
彼はリュウほど日の光を疎ましくは思っていない。
確かに直射日光に長く当たれば体力の消耗は激しくなる。
しかし灰になったりはしない。
それは龍介が普通の吸血鬼とは少しばかり違うことを示していた。
そうしてタバコが半分ほどになった頃だ。
「君はこんな所で何をしているのかな?」
振り返ると笑みを浮かべてジェイドが立っていた。
足音にも扉の開く気配にも気付かなかった。
夜よりも感覚が鈍るとはいえ吸血鬼のそれは人間よりもはるかに鋭い。
それなのにだ。
血晶剤ばかりに頼って生体から血を接種していないからだとリュウが頭の中で指摘する。
血晶剤とは血液から成分を取り出しカプセルに閉じこめた薬であり、龍介は定期的に接種しているのだが。
しかしやはり新鮮な血液には及ばないのが実状だ。
血が足りていなければ格段に感覚は鈍る。
さらに酷くなればこんな風に活動することだって出来なくなるかもしれない。
やはり全く人間の血を接種しないという選択肢などないということに龍介は気付いている。
気付いていて気付かないふりをしているだけだ。
だからリュウもしつこくは言わなかったけれど。
「僕にも一本くれるかい?」
タバコをくわえたままだったことを失念していた。
龍介は内心でリュウとジェイド両方に苦笑を返す。
喫煙を咎めるでもなくにこやかに近付いてくるジェイドの真意は読めない。
二人の間には緊張感が生まれていた。
「授業態度も喫煙も、君はちょうど大人や社会に反抗したい頃なのはわかるよ。しかし今は受験に向けて大切な時期だろう?好き勝手に振る舞うべきじゃない、と一応大人として進言しておくよ。火をもらえるかな?」
タバコを指に挟んで弄びながらジェイドは言う。
「…どうぞ…」
龍介がライターを取り出すとジェイドは笑みを深くした。
「まあ僕は獲物さえ狩れればあとはどうでもいいんだけれどね」
ジェイドがゆっくりと煙を吐き出しながら言うのと、タバコが龍介の唇からこぼれ落ちるのはほぼ同時。
腹部に視線をやれば深々とナイフが突き立っていた。
「…っ……あ…」
鉄の柵にしがみつくように何とか身体を支える。
足下には赤い雫がポタポタと音を立てて落ちた。
それを目にしたジェイドのにこやかな笑みは残忍さを帯びて。
冷たく暗い炎を宿した瞳で龍介に向かい懐から取り出したもう一本のナイフを構えた。
次に狙うのは心臓か。
普通のナイフなら致命傷になり得ない。
けれどこのナイフは違う。
銀製だ。
心臓を貫かれても無事だという保証はない。
「こんなとこにレイン先生がいるのぉ?」
「絶対こっちに行ったって」
「非常口から出てったって言うの?」
「わかんないけどぉ。でも、行ってみればわかるって!」
近付いてくる女子生徒達の声。
ジェイドが一瞬気を取られ、視線を戻した時には龍介の姿はそこになかった。
彼は追おうとはしない。
ことさらゆっくりと煙を吐き出し、どうせ逃れられはしないのだと嘲笑った。
ゴミ置き場は昼間でも薄暗い。
何かがガサゴソと音を立てていた。
数日前にリュウに出くわした場所だ。
今日はいるはずもないのだけど。
気になって覗き込めばゴミ袋を抱えた藍香を見つけて野良猫が猛ダッシュで逃げて行った。
「よいしょっ…と」
ゴミ袋を二つ大きなゴミ箱に放り込んでパンパンと手を払う。
満月はもう明日に迫っている。
龍介までが首を突っ込むなと言うがどうしたものかとため息をついた。
そこへ突然上から降ってきたものがあったから、藍香は思わずぎゃっと小さく悲鳴をもらした。
降ってきたのは人だ。
「架牙深君!?」
藍香が呼びかけても彼は膝を着いて着地した体勢のままうずくまっている。
この上は非常階段。
つまりそこから飛び降りたことになる。
しかし彼は飛び降りた事で怪我をしたわけではないらしい。
彼が自らの体から引き抜いたのは血に染まったナイフだった。
刃先から柄までが銀でできたそれは赤い糸を引いて地面に転がる。
けれど血が止まらない。
傷がふさがらない。
龍介は血の気の薄い唇を噛み締めた。
まだ日中。
血が足りていない今の状態では銀製の武器による傷が癒せようはずもない。
ナイフに付いた血が灰になってさらさらと落ちるのを見て藍香は冷たい手に心臓を掴まれたような怖さを感じた。
龍介が人間ではないことを目の当たりにした恐怖ではなく不死身のはずの吸血鬼が傷を回復出来ない事態が起こっているのだという怖さだ。
自分が何とかしなければ。
助けなければ。
そればかりが藍香の思考を占めていた。
でも、どうすれば?
その答えに藍香は一つだけ思い当たった。
「しっかりして!今、血をあげる」
藍香はこともあろうにナイフを拾い上げると自らの指に刃を当てたのだ。
いらない、龍介はそう言おうとした。
人の血を飲む事に嫌悪を感じずにはいられない。
それなのにドクンと鼓動が跳ねる。
白い指先から流れ出した真っ赤な色から視線が放せなくなり、理性がかき乱される。
頭の中でリュウが何か叫んでいた。
やめておけと言っているのだ。
まるでいつもとは逆だ。
けれど、龍介は自らを御することができなかった。
惑わされているかのように引き寄せられ、温かな血を口に含んだ。
その瞬間衝撃に近い感覚に襲われる。
今まで味わったことのないくらい甘い血の味、血の匂い。
こんなに少しでは足りない。
もっと血が欲しい。
唇が指先から腕へと移動しても藍香はそれを受け入れた。
本当は怖かったけれど、これは輸血と同じ。
人助けなのだと自分に言い聞かせて。
龍介は衝動に任せて白い肌に牙を食い込ませかけ、しかし乱暴に身を離した。
「余計なことすんな!!」
それはリュウの声だった。
「貧血だったんでしょ?血が足りないって。前みたいに血を飲めば怪我だって治るんじゃないの?」
「るせえ!消えろ!!」
藍香は返す言葉が浮かばないほど腹が立った。
消えろとはあんまりだ。
あんなにも勇気を振り絞って血をあげたのに。
リュウの血の色の瞳を睨み付けて思い切り拳をその頬に叩き込んだ。
「なによ!助けようとしたのに、そんな言い方…」
涙が出そうだが泣くのは嫌だった。
くるりと向きを変えてそこを後にする。
藍香が行ってしまったのを見てリュウはそのままビルの壁を背に座り込んだ。
リュウが出てこれたのは龍介が吸血衝動に負けて意識を手放したから。
幸いここには太陽の光が届いていない。
でなければ昼の光の中で身体の主導権を得るのは彼には難しいことだ。
リュウは珍しく頭を抱えた。
平手ではなく拳をくらった頬はジンジンと痛んだがそれも無視して。
「魔女の血…」
それは吸血鬼にとって一度口にすれば忘れられない麻薬のようなもの。
ほんの少し口にしただけなのにもう甘美な誘惑に捕らわれている。
他の血を口に出来なくなったらおしまいだ。
彼女なしでは生きられなくなる。
そういう吸血鬼をリュウは過去に見た。
あれ以上飲めばおそらくそいつと同じになっていただろう。
あるいは、もう…。
「んなわけねぇ。あいつはほとんど人間に近いんだからな」
それでもたった一口で傷を完全に癒すほどの魔力を持っていたのだけれど。
リュウは嫌な考えと焦りを無理矢理に頭から追い払った。