命を救ってくれた神様に執着されています
やばい。男と目を合わせた時、直感的に脳裏に浮かんだのはその三文字。普通の、スーツ姿の男だった。見た目で言えば四十位の。しかし、焦点の合っているようで合っていない目とか、走った訳でもなかろうに上がっている息とか、上手くいえないけどやばいと思った。
私はじり、と極力目立たないように後ずさる。二歩、三歩。そして悟る。駄目だ。完全にロックオンされている。体が震える。駄目だ、本当に駄目。私は踵を返す。男のスニーカーが砂利を踏む。追ってくる気だ。地面を蹴る。急げ。殺される?犯される?私は必死で足を動かす。捕まる訳にはいかない。ばたばた。焦る足はもつれ、思うように速度が出ない。すぐに肩に手が掛かる。捕まった。悲鳴を上げようとして、掠れた小さい呻き声を出す。誰か助けて。
男は私の髪を鷲掴み、人気のない寂れた神社へと引きずっていった。
「助けて……」
やっとの思いで声を絞り出すと、それと同時に涙がぼろぼろと溢れ出した。しかし、それで男の不興を買ってしまったようで、彼は思い切り私を地面に引き倒す。ぶちぶちと音を立てて髪の毛が抜けた。その痛みで今度こそ悲鳴を上げてしまった私の横腹を、男は思い切り蹴り飛ばす。
「うっ……ぐうぅ!」
男は咄嗟に丸まった私を見て鼻で笑うと、ズボンのベルトに手を掛け、脱ぎ始める。私は息を呑み、慌ててうつ伏せになるとそのまま這いずって距離を取ろうとした。その背に衝撃が走る。また踏みつけにされたのだ。どっ、どっ!と何度も低い音と衝撃。吐き気に襲われながらも、前進する。逃げなきゃ。頭の中はそればかり。チカチカする目で辺りを見回す。背の高い雑草と藪の向こうに、誰かいてくれないかと願っての事だった。しかし、神主が常駐してすらいない神社の事。参拝者などそういるはずもない。ただここにあるのは、本尊から孤立したこの場所に佇む、小さな祠だけ。思わず手を伸ばす。助けて神様。
祠の中、祀られているのが短刀だと気付いたのは、拵にあしらわれた金箔が暗がりの中誘うように煌めいたから。
「あ……!」
ああ神様、神様!助けて下さるんですね!私の中に勇気が湧き出る。背中の痛みも男の恐怖も途端に無くなり、私の体は前進する。手が祠の戸に届く。迎えるようにするりと開くそれの向こう。闇に溶け込む漆に浮かぶ、爛々と輝く瞳を思わす金箔の煌めき。お助け下さい。心中で乞い願う。そして、鞘から刀身を抜き取った。
「あっち行け!消えろ変態!」
私はうつ伏せのままぶんぶん短刀を振り回す。何年も安置されていたままだった筈のそれは、刃こぼれ一つ、錆一つ無い美しい姿で、動かす度に木漏れ日を反射させ輝く。私の手の中に神様がいる。これ以上心強い事はない。男は遂に怯んで完全に足を離した。私は急いで体を起こし、短刀を構える。震えそうになる体を、見えない何かが後ろから抱えるように支えてくれている。
「いいのか、刺すぞ!」
大声で威嚇すれば、しばらく迷う素振りを見せていた男は遂に逃げ去っていった。
それから四日。まさかこんな事になるなんて。
「はああ……困りますねえこれ程までに感謝がないとは……」
「いえホント、スミマセン」
後ろから睨みを利かせてくる彼に、思わず頭を下げる。そのまま顔だけ上げてみるが、彼がまだ切れ長の目を細めて見下ろしてきていたので下げ直す。
「ならさっさとあの短刀を取りに行きなさい」
「いえ、あの、御神体泥棒するのは流石に……」
「本人が取ってこいと言っているんです、何が不足ですか」
「法的な正当性……」
「祟るぞ」
「もう祟ってるようなもんじゃないですかぁ……」
彼が分かりやすく黒いもやを出し始めたので、私は慌てて「スミマセン」と繰り返す。しかし、流石に誤魔化しが効かなくなってきてしまったようで、彼は私をジロリと上から睨みつけてきた。やばい。私は冷や汗を流す。
そう。祠の神様の助けを借りてあの男を撃退したのが四日前。その時は短刀を祠に返して手を合わせて帰ってきた私だったが、やっぱりそれだけでは感謝を表しきれないと思ってしまったのが運の尽き。とりあえず翌日ネットで調べた通りに米と水と塩をお供え物にと持ってきた私は、祠の上にどっかりと座る、平安貴族風の着物を着た美丈夫と出くわす事になってしまったのだ。
「ああ、自分で来ましたか。危うく祟るところでしたよ」
「ええっ?!」
訳も分からぬままたじろぐ私を見て、男はにやりと唇の端を歪める。
「助けてやったでしょう。恩を返しなさい」
「恩……あの」
おずおずお供え物を取り出す私を見て、男は「おや、貴女の感謝はその程度でしたか」と鼻で笑う。
「えっ、あの、そんな事は……」
「でしたら、これを持ちなさい」
男がそう足先で指し示したのは、祠に安置されている例の短刀。私は反射的に首を振る。
「いやっ……御神体じゃないですか!」
「だから何だと言うのです。私がいいと言うんです、やりなさい」
「いやいやいやいや。そもそも貴方何なんですか」
「私?私はこれですよ」
男がまたそう足先で指し示したのは、祠に安置されている例の短刀。私はまた反射的に首を振る。
「いや、ありえませんて」
「散々神様神様と縋っておいて今更それですか。いい度胸ですねえ」
「だって……」
反論の種を探そうと、私は男を観察する。黒地の着物に、金糸の髪。何となく短刀の拵を連想させるカラーリングの美丈夫は、よく見れば着物の裾や指先が透き通っている。
「……いや、信じない」
「愚か者めが」
男が黒いもやを纏い始めたので、私はビビって「スミマセン!」と頭を下げた。すると、彼は「分かればいいんです」ともやをしまった。
「ほら、さっさとこれを」
男がまたまたそう足先で指し示したのは、祠に安置されている例の短刀。私はまたまた反射的に首を振る。
「いや、それとこれとは別です」
「強情な女ですねえ!」
「むむむ無理なものは無理です!」
私はそう叫ぶと持ってきたお供え物を急いで並べ、走って退散した。ああしたとも。神様っていうのは祠のある場所から動けないと思っていたからだ。動けるなんて聞いてない。しかも三日もつけ回されるなんて予想外が過ぎる。
「ほら、早くそこの角を右に曲がりなさい」
「無理ですもうホント、無理です!」
「早く」
「あうう……」
この三日間、帰り道はいつもこの調子。外に出る度祠へ誘導せんとぶつくさ耳打ちしてくるのだ。なんたってもう、この神様はこうもしつこいのか。
「だから無理なんですってばあ……何でそんな事しなきゃなんないんですか……」
「……あそこにいても先細りです」
「先細り?」
「お前、あそこに祠があった事を知っていましたか?」
「……あ」
そういえば、知らない。彼は私の反応を見て頷くと、「本尊はもうしばらく持つでしょうが、あそこはもう駄目です。忘れ去られ、時期に全ての力を失う」と目を伏せた。それで私は彼の透けた指先なんかの理由を察して、ちょっと申し訳ないような気持ちになる。助けてくれた神様なのに。
「そんな……でも、私のところに来ても……」
「今私の存在をここまで強く感じ取れる程に私を信じているのはお前だけです。お前が短刀を持ち、守り刀として私を崇めなさい」
「ううーん……」
そんな事情を聞いてしまった後では軽々しく無理とも言えず、私は腕組み。しかし、悩める私の耳に、何だか聞き捨てならない音が飛び込んできて。
「……‘ちっ’?え、舌打ち?」
「この私が下手に出てやったというのにその程度ですか」
「え?え?」
「いいから早く取りに行きなさい」
「最低!てか今ので下手に出たつもりですか?!」
早足で家へと向かう私を、彼は「おいこら待ちなさい」と追いかけてくる。まったくもってふざけんなだが、この日々はもうしばらく続きそうだ。