2度目の初恋
刺激がほしい、と思うのは簡単だ。
けれども、そういった状況にはならない。
一緒に出かけるくらい気の合う同級生はいないし、そもそも休日に出かけるようなアミューズメントパークも無い。
あるのは落ち着いた雰囲気のカフェや最近出来た大きめの図書館。
勉強しやすい場所があるのはありがたい。
ただ、
ここは刺激を求める場所では無いと思う。
日常からかけ離れた非日常を味わいたい、と考えてはいるが、やはり具体案がないから夏休みは図書館に入り浸るかな、と思案しながら帰路につく。
「今年の夏休みはおじいちゃん達の家に行くからね。」
今日の夕食は母のこの一言で始まった。
今残業中の父から連絡があったらしく、受話器を置いて言った。
仕事の都合で短期間(1ヶ月)、丁度じいちゃんばあちゃんの家の近くの部署を手伝いに行くとかで、その期間が俺の夏休みと被るから一緒に行く事が即決定した。
母はそういうところがある。
「でも、優ちゃんは部活してないし、委員会に入ってもいないでしょ?」
まあ、そうだけどさ。
あと、「優ちゃん」呼びは高校生男児には子どもっぽいので「優人」って普通に呼んでほしい。
「着いたぞ、優人。」
「ん...」
寝ぼけ眼で父からの呼びかけに返事をする。
車の中は揺り籠の中のようで、若干寝不足気味の心身には丁度良く、ある程度気持ちよく眠る事が出来た。
車から降り、自分の荷物を持って祖父母の家に入る。
記憶にあまりないが、五歳の頃にいっときいた母方の祖父母の家は、冷房が無いのに涼しい。
昨晩なかなか寝られなかった為、直ぐに寝そべってしまう。
「あら、そこにいるんだったらしばらくの間留守番よろしくね。ついでに宿題もやっちゃいなさいよ。」
眠いのに宿題なんか出来ないよ、と薄れゆく意識の中で返事をした。
目が覚めて時間を見ると丁度お昼時で、来たときには無かったちゃぶ台の上におにぎりとメモが置いてあった。
両親、祖父母共に用事があるとのことで、留守番は俺一人。
さっきまで寝ていたのになんと不用心なことか、と独りごちたが昔からのご近所さんしかいない田舎ならではなのだろう、と思い直してお昼にした。
空気の流れは無かったが、空間は相変わらずひんやりとしていた為、梅やおかかといったいろんな具材が入ったおにぎりを口に入れていくと満腹感を覚えた。
冷蔵庫に入っていたフルーツも食べたことで自然と、課題をしようか、という気になり、伸びをして頭を冴え渡らせると、甘い香りがした。
蜂蜜やマカロンみたいな甘さではないが、かといって柔軟剤でもない。
さっきまでのフルーツでもない。
記憶から呼び起こそうとするも、なかなか出てこない。
普段であれば放って置くのだが、無性に気になってしまい、外に出てしまった。
昼時、ということもあってか、さっきよりも日向は暑く、炎天下だというのに帽子や水分を持たずに歩く。
...しまった。
木々が生い茂る日陰の方を歩いていなければ、いつ倒れてもおかしくない。
しかし、脳内で鳴り響く警鐘を無視して、記憶の中を探りながら甘い香りを辿って歩き続ける。
勿論、いつもであれば引き返して、それ相応の準備をしてから出かける。
決して、こんな衝動的な行動はしない。
けれども、「今」でなければもうこの香りや突き動かされるような衝動、何かがもう少しで判りそうな、そんな状態だった。
だから、とにかく歩いた。
そうすると近くに川が流れているのが見え、少しばかりの納涼を得られた頃に、蔦と大きな木々に覆われ、囲まれた屋敷を見つけた。
甘い香りが強さを増し、ここだと思ったときには緑豊かな芝生の上に身体を横たえていた。
浮いたり、沈んだりする心地から肌寒さを感じ、目を覚ますと薄暗い部屋の中で俺は揺り椅子に腰掛けていた。
感じた肌寒さは、炎天下の中歩いて出た汗がひいたことによる生理現象であった。
残った汗を拭きたい、外との温度の違いで風邪をひきそうだ。
かろうじてハンカチをポケットに入れていたような気がする、と思いだし、探ろうと揺り椅子から降りると、部屋の外からスリッパと床の摩擦音のようなものが聞こえてきた。
聞き慣れていなければ、周囲の雰囲気とあいまって怪奇音に聞こえていたに違いない。
音の主は開けっぱなしであった部屋の前で一旦止まり、少しだけ顔を覗かせてこちらを見た。
艶やかなその髪は暑さなどまるで知らないような漆黒で、肩よりも20センチほど長く、緩く波打っている。
この薄暗さで更に際立つ白い頬はそれでも血色が良さそうに見える。
唇は横一文字に結ばれており、髪同様の黒さを持つ瞳は大きく見開かれて、要するにこちらの様子を覗っているのだった。
肢体は健康的で、腕にタオルをかけ、お盆にのせた飲み物はガラスコップに結露を生じており、喉が渇いていることも自覚してきた。
喉が渇いた。
「どうぞ。」
「えっ、」
「えっ?喉が渇いたって、」
...どうやら口に出して言っていたらしく、ありがたく飲ませてもらうことにした。
よく冷えた麦茶は喉を潤し、あと2、3杯ほしかったのでボトルごと持ってきてもらった。
十分に麦茶を飲み、汗も拭いてさっぱりしたところでお礼を言った。
「あの、お茶ありがとうございました。わざわざここまで運んでもらってすみません。重かった、ですよね...。」
言ってて、何当たり前なことを、と突っ込んで言葉がしりすぼんでしまう。
日頃から同級生達と言葉を交わしていればこんなことにはならなかっただろうに、普段の行いが如実にあらわれる。
「...そんなこと、無いですよ。」
少し間を置き、少々遠慮がちに言った声の主はワンピースの上から羽織っていた薄手のカーディガンの袖を腕まくりし、普段から身の回りのことは自分でしているからちょっと重いものくらい平気だ、と言ってのけたのだ。
そこそこ運動が出来る高校生男子としては、「ちょっと重いもの」と表現されたことに多少ではあるが肩を落としてしまう。
でもそれもそうだ。
こんな山奥で一人で日常生活を送るのであれば、高校生男子くらい運べるよな、と無理やり納得させようとしていたら、
「意識は無いようでしたけど、起こして肩により掛からせたら自分で立って、...いましたよ。」
と、一言。
目が覚める前の浮遊感の正体がわかり、少し安心した。
同時に、ほのかに香る甘い匂いがし、唐突に聞いた。
「あの、良い匂いがするんですけど、...甘い匂いを...、追いかけて、ここまで来まして。」
「あ、そうだったんですか?やだ、窓開けてたから外に漏れ出しちゃったんだ。」
聞けば金木犀が好きらしく、香油を自作してるのだという。
「え...、匂い大丈夫だった?キツくなかった?」
「あ、いや、大丈夫、香りがしたのはじいちゃんばあちゃんの家にいるときで、ここから結構離れたところだったからさ、気にしなくて良いよ。それよりもさ、香油作るってすごいよな。材料とか特に、買い物するのが大変そう。」
「んふふ、そんなこと無いよ。無い材料はネットショッピングで買ってるもん。」
「あっ、そっか、そうだよな。」
ふふふ、ふふ、とお互い肩をふるわせて笑っていた。
周囲の涼しさだけで無い、彼女の声も心地よく、そこから長い時間談笑してしまった。
振り子時計が午後四時を知らせた時間に、暗くなると危ないから早く帰った方が良いよ、と教えてもらい、帰ることにした。
「はー、今日は楽しかった。本当にありがとう。」
「うん、私も楽しかったよ。...また、...来てくれたら嬉しいな。」
「あ、っうん、わかった、また来る。あした、明日は宿題持ってくる。」
「ふふふ、うん。明日ね。」
外に見送りに出てきてくれた時に「帽子被って汗拭きタオルと水分も持つんだよっ。」と大きな声で言われて気恥ずかしかったけど、素直に「...わかった。」と返事が出来て良かった。
幸いなことに、昼間よりも暑さが和らぎ帰宅時に誰も居なかった為、昼間に外出していた事は誰にも知られずに済みそうだった。
頭は冴え渡り、勢いで宿題をしていたら母も戻り、夕食作りを手伝うことになった。
いつもはちょっとムスッとした感じで返事をするのだが、すんなりと手伝うことを言う。
普段であればちょっと突っかかる為、素直な俺の反応を見た母から怪訝な表情をされたが、気にせずスルーした。
夕食時になり、久しぶりの里帰りでもある為、近所の人達も呼んで一緒に食べることとなった。
この辺りは、やはり子どもがいないらしく、来る人みんな母世代の人ばかりで学生時代の話で盛り上がっていた。
時折話の話題が振られるが、殆ど返答できずに先に進み、聞くばかりになっていたからいつの間にか腹は膨らみ、宴会からは早めの退席となった。
まだ寝るには早い時間であった為、電子書籍で漫画を読んだ後、再び宿題を進めてトイレ休憩を挟む。
廊下に出て歩くと母と遭遇してしまい、トイレにも先客がいたが良い機会だと思って質問した。
「昼間はどこに行ってたの?」
「あら、書いてなかったっけ?久しぶりだったから生活回りの器具とかちょっと使って思い出していたのよ。あとご近所さんにもあいさつをね。」
「あっ...、そうだったんだ。」
「本当は優ちゃんも連れて行きたかったんだけど、すやすや寝てたから一人で行ったのよ。」
「俺寝てたのに、一人にするとか不用心だな...」
「あら、ちゃんと鍵は閉めてでたのよ。」
おっ、思いがけず聞きたいことが聞けた。
「へー、じゃあどっから入ってきたの。俺鍵とかいじってないのに。」
「家の裏の所に引き戸があってね、そこからよ。」
と、続きを聞きたかったがトイレの先客が出てきたからマイペースに会話を切り上げ、トイレに入ってしまった。
...裏口のことは、明日聞くか。
翌朝、涼しい時間に起きることが出来た。
昨日の夕食の残りを食べて早めに彼女の所へ行こうと思い、大広間へ行くとお酒を飲んでいたらしく(かなり)、大の大人が(全員男)雑魚寝をして大きないびきをかいていた。
幸い、近くの台所に残り物が避難されていたので、そうしてくれたであろう母やその同級生達に感謝をして、いつもより少し早めの朝食をとることにした。
昨日食べなかったものを中心に食べていると、大広間から足音がして少し身構えると、まだ目を覚ましきっていない父がやってきた。
「おお、おはよう、珍しく早いな。」
「おはよう。昨日は盛り上がったみたいで。」
「まあなあ、これからお世話になるし、ひさびさだからな。」
と聞いたあと、しばらく食事に夢中でお互いに会話をしなかったが、ふと、思い出したように父が口を開いた。
「そう言えば、いつもならまだ寝ている時間だろう、優人、どうしたんだ?こんな朝早くから。」
「ぐ、」
思わぬタイミングでやってきた質問。
驚いてじゃがいもを喉に詰まらせそうになったが、落ち着いてお茶を飲み、答えた。
「課題をするのに、涼しい時間の方が捗ると思って、」
「おお、そうか、それもそうだな。」
「あと、読書感想文を少し歩いたところにこことは違った涼しい場所があったから、そこで本を読んで構想を練ろうと思ってる。」
彼女の所へ行くのに、後で伝えるより今サクッと伝えた方が、父さんなら変に追求はされないだろうと思って言ったのだが、なかなか返事がない。
普段なかなか外出しない息子が帰省して1日で外に出るのはやっぱりどう考えてもおかしいと思うか、と逡巡していたら、
「まあ、仕事でたまにここを使うかもしれないから構わんが、...まあ、朝早い方が移動しやすいかな...。」
と、何となく歯切れ悪く返答してくれた。
「他人の家の敷地には入らないようにするから、暗くなる前に帰るから...。」
と、もう一声押しておくと、納得したように頷き、
「家の中にも入るなよ。」
と、敷地内に入らないのだから家の中に入らないことなど当然なのに何を言っているんだ、と父にしては珍しい文言を最後に残して朝の仕事に出かけて行った。
それから彼女のもとへ行く準備をし、言われた通り帽子を被って、水分そして思い出した汗拭きタオルを持って普段なら朝食を食べている時間に家を出た。
昨日とは違い、まだ日も昇りきっていない早朝で早すぎたかな、と足を止めるがそうであれば読書感想文用の本をどこかに腰掛けて読めば良いだろう、と帰着したので、彼女の家へと足を進めた。
意識は朦朧としていたものの、案外記憶していたらしく、迷わず昨日の見覚えのある屋敷に到着した。
周囲に民家はないが、怪しまれない程度に門から中を見ようと思って近づくと、運良く彼女が近くにいて安心し、ほっと一息ついてから挨拶を交わし、中に入らせてもらった。
家の中は相変わらず、と言うよりちょっと寒いくらいの気温で鳥肌が立つ。
その様子を見た彼女は呼びの羽織り物を出してきて、そこまでしてもらう必要は、と思ったが、やせ我慢が出来るほど器用でもなく、身震いしてしまったのでありがたく借りることにした。
薄手のポンチョのようなもので、ふわふわした感じが妖精のようで何だかむず痒い気もして彼女を見たら、俺の悩みはそっちのけ、と言わんばかりで椅子の上に置いた、その他の課題を入れたリュックに興味津々で目を輝かせていた。
「え、そんな面白いものは入ってないよ?...」
「えっ、あっ、ううん、ごめんね、じろじろ見ちゃって、」
とたん、花がしぼむように謝罪が入り、本当に課題しか入れていないことを思い出し、念押しのように聞く。
「あ、その、見たかったら見てもらって良いんだけど、本当に課題しか入れてないよ?何も面白みのあるものは入れてないからね?」
「え?良いの?」
「う、うん。」
その途端に花がほころぶような笑顔を見せ、遠慮がちにワクワクというオノマトペを周囲に踊らせながら鞄の中から丁寧に教科書を出して読み始めた。
そして、もう声はかけない方が良いな、と思い、俺は読書感想文の為に本の世界に入り始めた。
気付けば正午になっており、肩をポンポンとされてこちらへ戻ってきた。
朝、お昼は外で食べると書き置きをして出たので、朝食時に作って持ってきていたサンドイッチを食べようとしたら、冷蔵庫に入れておいてくれてたらしく、他の食事と一緒に出してくれた。
そう言えば鞄の底の方に入れていたなあ、とのんきに考えながら食べ始めると、あ、これ聞いてなかったな、思い切って聞くことにした。
「自己紹介まだだったよね。俺は柊優人って言います。昨日は助けてくれて本当にありがとうございました。」
「...へっ......?....あっ、自己紹介!はいっ!こちらこそ遅くなってしまってごめんなさい!ここに住んでいる一瀬蓮華ですっ!」
若干間があったな。
まあ良いか、お互い集中していてお腹が減っただろうし。
「お昼ご飯、自分で持ってきてたのにごちそうになってしまって、すみません、おいしいです。」
「そんな気にしなくて良いのに。優人君の口に合うようで良かった。」
「普段和食が多くておしゃれなものは食べ慣れないですけど、すごく美味しいです。」
「ふふっ、そんなにかしこまらなくても良いのに。歳も同じくらいだろうからさ。」
くすくすと、楽しげで心が安らぐ。
本当に同い年だったので、一瀬さんの希望通りくだけた感じで話すことにした。
義務教育でないにしても、高校に行くことが当たり前になってきた昨今で、同じような夏休みでないことに疑問を感じなかったと言えば嘘になるが、身寄りがないのかもしれないし、人によってはバイトをしながらの学業が合わない人もいる。
この辺りには高校が無さそうだから、最終的に一人暮らしの選択になるのだろう。
その事情や背景を無理やり詮索するほどデリカシーが無い人間でもないので、そういった方面は聞かないようにした。
それでも地頭が良いらしく、会話をしていて尽きない話題、コロコロ変わる表情に引き込まれて、午後があっという間に過ぎ去ってしまった。
「わっ、もうこんな時間。ごめんね、私が話してばかりだったせいで、課題全然進まなかったでしょう?」
「や、大丈夫だよ。話してて何となくの構想は出来上がったから、あとは原稿用紙に書き殴る。」
「か、書き殴るって、」
「今良い感じでやる気がみなぎってきているから。」
「ああ、なるほど。」
同い年の子と(しかも女子)こんなに長時間話したことはなかったが、まだ足りないくらいだったので、自分から約束を取り付けた。
「あのさ、明日もここに来て良い、かな。」
「うん、また来て!」
笑顔がはじけた瞬間、心臓をギュッと握られたように胸が高鳴り、手を振って別れたあとも脳裏に鮮明に浮かび上がってくるほどであった。
そんなに遅い時間ではなかった為、赤面した顔が丸見えだったと思うが、むしろ見えていてほしいとさえ思った。
帰ってからは直ぐに読書感想文の作成に取りかかり、しばらくしてから夕食となった。
今日は昨日ほどの宴会ではないらしいが、ご近所さんが片手で数えられる人が来て一緒に食べるみたいだ。
親友同士が集まったみたいで、昨日より両親は楽しそうに話し込んでおり、自分たちの子どもについて勉強がどうとか、部活の遠征でどこに行くとか、近況報告で盛り上がっていた。
「むかしは子どももついてきてくれたけどー、今ほんとにぶかつが忙しくてえ、」
「部活ならいいだろお~、うちは二人ともつまらんから行きたくないって言ってさあ~」
「小さいときは山を走り回ってて、それだけで楽しいって感じだったよねえ。毎年みんなで集まるのも楽しかったよねえ。」
「それ思えば、優人君はいい子だよねえ、」
いいえ、ほぼ無理矢理でしたよ。
そろそろ離脱しないと記憶にない昔話の矛先が向きそうだったので、波風立てないように「ごちそうさまでした。」と言って席を立った。
あとに残った不穏な空気は知らずに。
部屋に戻ってから、まだ寝るには早い時間だった為、明日の準備をした。
大人達の、子どもの話でふと考えたのが、彼女からそういった話題が一切出てこなかったことだ。
ある程度成長した初対面ではとにかく、昔はどこに住んでいたのか、が聞かれる。
というか、ほぼ好奇心で、だ。
これはつい最近まで父の仕事の関係で各地を転々としていたから体験談として語れる。
純粋に友達になりたい、みたいな気持ちならまだ良いが、上辺が取り繕えず下心が丸見えの言動が年々感じるようになってきた。
初めのうちはクラスメイトに校舎内を案内してもらうような「転校生あるある」をしてもらっていたが、邪魔される事が多くなり、自然と人を遠ざけなければやっていけなくなってきたのだ。
対して、環境が違って初対面ということもあるのだろうが、彼女は人の心内に土足で踏み込んできたり、厚かましさを押しつけてきたりすることがないから、気づいたら緊張が解けているのだ。
また、観察力もあり、何気ない動作一つでこちらの思いを読み取った上での行動をとる。
要するに、本当の理性や知性を持っているんだと思う。
今まで考えもしなかった事で理論立てて展開される会話を思い出して、原稿用紙に向かった。
「んぐ...」
ゴリゴリとツボを押してほしいくらいに肩や首がこってしまい、時計を見るとあと1時間で日をまたぎそうで驚いた。
続きを書き始めてからはもう後半に差し掛かっていたからそこまで時間はとるまい、と考えていたものの、思った以上に時間を食ってしまい、休憩せずのぶっ通しで意識もフワフワしてきたので、おとなしく寝る選択をとった。
目覚ましをかけ忘れた寝起き1番に感じたのは廊下をドタドタと忙しなく走る音だった。
神経を覚醒させて周囲を見ると、部屋の両側を通る廊下の父がしているところだった。
あくびをして話しかける。
「ふわあ~、おはよう、父さん。天気でも荒れるの?」
「おお、優人、おはよう。今日はいつも通りか。天気予報でこの辺りの地域が暴風雨になるって言っててな。」
あ、あたった。
寝ぼけ眼で小さくガッツポーズをするが、彼女が心配だ。
他の足音も聞こえるので、恐らく母や祖父母も起きていると予測して、台所へ向かおうとすると父に腕を捕まれた。
「えっ、なに、どうしたの??」
先に戸締まりを手伝った方が良いのだろうか。
「っ、...」
何かを言おうとしているのだが、考えがまとまりきっていないようで、視線をあちこち変えて言い淀む。
その様子を見ていると、昨日の夕食時に感じた、親世代トークに巻き込まれる面倒くささの陰に隠れたモヤッとした違和感、不安感が顔を覗かせる。
はっきりとは判らないものの正体を口に出そうとしたその時、すんでのところで、
「今日は家の中でじっとしているように、外は危なくなるから。」
と釘を刺され、今日の外出は無しになってしまった。
これまで記憶にある限り、体調が天候に左右される事はなかったのだが、彼女が(見た感じ)暴風雨のなか一人でいることに心配しか無い。
肝心な、踏み込んだ事を聞いていなかったせいで要らない心配をしているのだろうが、悶々としてしまう。
朝食後はみんなで家の戸締まりをして、そのあとは課題に勤しんでいたのだが、外の風が強くなってきてここが倒木の下敷きになるんじゃないかとか、それならより山に近い一瀬さんの屋敷のほうがそうだろう、と言うか一瀬さんって呼びにくいな、名前で呼ばせてもらおうか、とか後半はどうでも良いことを考えていて、昼食に呼ばれたときに課題の進み具合を確認したら全く進んでいなかった。
午後からは気を引き締めて机に向かっていたのだが、気もそぞろで答え合わせをしたらかつて無いほどの得点の低さで驚いた。
あまり集中できなかったはずなのに、気づいたら母が部屋まで来て夕食が出来たことを教えてくれた。
外は昼間よりもひどい天候で、台所に行くとラジオがつけられており、ノイズ混じりで時折「台風」というワードが聞こえてくる。
父や祖父母はもう食べ始めており、父は目が合うと一度反らしたが、再び視線を合わせ今朝の言いつけを守ったか問いかけてきた。
「優人、今日は外出していないよな?」
「えっ、ああ、うん。こんな天気だからしたくても出来ないよ。」
そんなに心配することじゃないだろ、と俺にしては珍しくおちゃらけた感じで言ったのだが、意に反して食卓は地雷の真横をスレスレで歩いているような、ピリピリした緊張感に包まれる。
いつもは口の中でとろけるなすびの煮浸しも喉を通らない。
....................。
そんな苦しい沈黙を破ってくれたのはいつも通りマイペースな母だった。
「しばらく天気が荒れるって言っていたから、良いっていうまで外に出ないようにね。」
じゃあ、ごちそうさま、と言ってさっさと部屋に行ってしまった。
父や祖父母はぽかんとした表情だったが、ハッと我に返り、食事を続けた。
部屋に戻ってからしばらくはボーッとしていたが、しばらく荒れて外出できないなら、出来るだけ課題を進めておく方が英断だろう、と無意識に何と比較したかは深く考えずに続きに手をつけ始めた。
これが思いのほか集中できて、気づいたときにはいつもの就寝時間で心地よい眠気と共に布団に入った。
それから1週間ほどは暴風雨が続き、一瀬さんに会えなかったが、課題を完遂することが出来た頃合いを見計らったように天気は回復した。
とは言っても、土砂災害の危険性から山の方には近づけず、再び外出できるようになったのは更に3日経ってからだった。
朝目が覚めて、心配をかけないように全員が起きてから、一緒に朝食をとっているときに、気分転換がてらに天気の良い日中は外出する旨を話してから昼食用のおにぎりと、その他諸々のグッズを準備してから家を飛び出した。
久しぶりの一瀬家の屋敷は暴風雨なんて無かったかのように、いつも通りで、それ以上に木々が青々と茂って瑞々しさが増していた。
念のためにベルを鳴らすと、しばらく使われていなかったらしく、錆び付いた金属音で、思った以上に大きな音がして、肩をビクリと震わせた。
しまった、普通に呼べば良かったか、と後悔先に立たず。
もうベルは鳴らさないぞ、と待っていたら家の中からパタパタと音がして、
「あ!優人君!久しぶり!」
「うん、久しぶり、い、いちのせ、さん、......。」
彼女の花開くような嬉しそうな様子を見て、今日こそは名前で呼ぶぞ!と意気込んでいたのに、いざその時になると羞恥心で顔を見られなくなる。
彼女も、俺が初めて名前を口にしたことに気づいたようで、初めはポカンとしていたが、不思議そうに言葉を紡ぎ出した。
「ねえ、優人君。」
「はい、なんでしょうか。」
彼女は人見知りとかしないらしく、自己紹介をし合ってから楽しそうに俺の名前を呼ぶ。
照れくさいような、むず痒いような、心地良いような。
「一瀬さんって、言いにくくない?」
「..........、?」
何を言われるのだろうかと思っていたら、発語についての話題になった。
「......、あ、うん、...たしかに。」
さ行の連続で。
「だよね~。うんうん。優人君が呼びやすいようにしてね。普通に蓮華って呼んでもらってかまわないからね。」
さあ入って、と手招きされておじゃまする。
母とはまた違ったマイペース加減だな、と思いのほか目下の悩みが早く解決して少々呆気にとられてしまった。
屋敷の中はカーテンや窓が開けられており、空気の入れ換えがされていた。
「雨風がすごかったね~。優人君のところは大丈夫だった?」
「...うん、外の音はうるさかった。」
「そうだったんだ。そのわりに、課題は全部終わったみたいだね。」
にこりといたずらっ子のような笑みでこちらを見てくる視線が合い、何だか悪いことをしたようでドキリとする。
「うふふふふ。背中の鞄が軽そうだよ。」
「はは、相変わらず鋭いね。」
「名探偵、蓮華ちゃんです!」
ビシッと決めポーズをとって振り向く。
ツボにはまって笑ってしまい、蓮華もつられて笑っていた。
同い年なのに子どもっぽいところがあり、そのテンションで少し踏み込んだ事を話題にしようとしたのだが、上手くはぐらかされてしまう。
それが2、3回ほどあったので、以降は聞かないことにした。
天候が荒れている間は埃をたてないように拭き掃除をして、あとは本を読みふけっていたとのことで、自分でも意識しないうちに顔に書いてあったのだろう。
「何か読む?」に対して「うん。」と即答した。
案内された部屋は「ザ・本を収める部屋」と言わんばかりの部屋で、壁一面の天井から床は勿論のこと、部屋の中に等間隔で設置された本棚には様々な種類の本がぎっしりと陳列されていた。
「汚さなければ飲み食いできる」とお達しももらったので、遠慮無く入り浸ることにした。
結構お世話になっているから、何か家のことを手伝いたい旨を話すと、彼女から、蓮華からは天気が荒れる前とその最中にいろいろしてしまってする事が無いから、と言われ一緒にその部屋で本を読んでいたのだ。
ある時は外国語の本を似たような言語の辞書と共に引っ張り出してきて、なんとか翻訳しながら読むとロミオとジュリエットであったことが判明し、またある時は翻訳された哲学書で、「堅苦しいね」とくすくす笑いながら意見交換を行った。
そんな風に本を読みふける日もあれば、午前中は近くの森や川で小学生のようにはしゃいで遊んだりと、日によっていろんなことをした。
彼女は物知りで、何が食べられるもので食べたらいけないものはどういうもので、代わりに薬になるとかっていうことまで教えてくれた。
楽しい、たのしい、楽しい。
そう思うのと反比例してあっという間に時間が過ぎ去り、いつまでも此処に居られたら良いのに、と寂寥感を身にしみて感じる。
彼女と出会うことは特に約束していなかったが、毎日会いに行き、日常生活では感じられなかった安らぎを得ていた。
これが、人を好きになることなのだろうか。
屋敷へ行くときには必ず浮き足立つ。
なので、道中たまにこけそうになった。
そんな日々だったが、あの悪天候以来、祖父母や父は心配や不安感を滲ませていた。
その不安が伝播したのか、食卓で母も静かだった。
何度か蓮華の話題を出そうとしたが、その度に喉に何かがつかえているような圧迫感を感じ、結局最後まで告げずじまいとなった。
「明日帰るからね。」
唐突に、母から告げられた。
今日は珍しく、父が居ない状態での夕食だった。
祖父母は既に食べ終わっており、母と2人きりの夕食だった。
「えっ、な、いつ、」
「朝準備が出来次第。…もしかしてこっちでないと出来ない課題がまだ残っているの?」
「いや、そういうわけじゃないけど、急だなって、思って…。」
「なら良かった。お父さんは明日帰れるように、昨日準備してたみたいだから、優ちゃんもなるべく今晩中に準備しておいてね。」
いくらなんでも、と口に出しかけたが、蓮華のことは誰にも言っていないから「はい」としか言えない。
まだ夏休みは1/4残っている。
蓮華と一緒にいたい。
一日でも長く一緒に。
だからこそ、早まった帰省を少なからず憎く思いながらお礼の手紙を書いた。
現役高校生で、テクノロジーが進化した昨今にそんなものを...と感じるだろうが、事前にわかっていれば連絡先を交換するとかしていた、勿論。
後悔を引きずらないように、手紙の最後に住所と連絡先を書いた。
どんな形でも良いから、交流を続けたかった。
丁度、見送りに来てくれた顔見知りの近所の人をつかまえられた。
「すみません、この手紙をあの先に住んでいる一瀬蓮華さんに渡してもらえないでしょうか?もし難しければ郵便受けに入れるだけでもかまいませんので...。」
そう言って、差出人と宛名を書いた封筒に入れた手紙を渡す。
少し大雑把な位置表現になってしまったかもしれないが、周辺に家は無いって言っていたからこの表現で問題ないよな、と思ってご近所さんの顔を見ると...、眉を僅かにひそめ眼を大きく開き、周囲をキョロキョロ見てわかりやすすぎるくらい挙動不審になった。
あいにく、周囲はそれぞれ別れを惜しむように言葉を交わしており、助けを求められなかったご近所さんは、決して先の説明が大雑把すぎるとかの類では無い、怯えも混合された表情で言った。
「......何を、言っているんだ?..........あそこの家は、...一瀬家は、……もうずっと前に一人娘が亡くなってから、誰も住んでいない空き家だぞ。」