勇者のいる町
ーーーこの町には『勇者』がいる。
王都から馬車で一時間少々走った場所にエスタと呼ばれる町がある。都会の便利さを取り入れつつ、王都のようなあくせくとした雰囲気もない実に程よく住みやすいと住民たちから愛される町である。
「覚悟ッ!」
そんな平和な町にそぐわない、いささか物騒な宣言は、町の大通りにある定食屋……正確には、昼時を過ぎて閑散としたテラス席で一人遅い昼食を摂っていた男の真後ろから発せられた。
男の背後には食材の入った木箱が整然と積んである。その陰から気合十分の様子で飛び出したのは子供であった。子供が思い切り振りかぶっているのはすりこぎ。それを何のためらいもなく男の頭めがけて振り下ろした。
男はまさにホットサンドの一口目にかじりついたところであったが、振り返りもせず椅子ごと半身横に移動した。
「たぁーーー! あぁ!?」
渾身の一撃は一瞬前まで男がいた空間を通過し、空振りの勢いを止められなかった子供は男のランチが載っていたカフェテーブルに突っ込んだ。
派手な音を立ててカフェテーブルは倒れ、子供はそのまま二、三回ゴロゴロと転がる。
「こぉら、エディ! またお前か!」
「やべっ」
騒ぎを聞きつけて店内から飛び出してきた店主が、子供を見つけて怒鳴り声を上げた。
エディと呼ばれた子供は慌てて逃げ出そうとしたが、店主に襟首を掴まれ猫のように摘み上げられてしまう。
「放せよ!」
じたばたと暴れるエディは十歳前後に見えた。華奢な体格なので実年齢はもう少し上かもしれない。村の子供のたいていが身に着けている素朴な麻のシャツにオーバーオールを穿いている。大き目のキャスケット帽を目深に被っているので顔はほとんど分からない。
「『勇者』さん、怪我はないか?」
店主に訊かれ、首を竦める男はとても『勇者』には見えなかった。
ぼさぼさの頭に無精髭。エディと同じくどこにでも売っていそうなシャツに吊りズボンの組み合わせ。両手には襲撃からちゃっかり避難させたランチのマグとプレートを捧げ持ち、口にはまだサンドイッチを咥えている。勇者というにはいささか覇気が足りない姿であった。
エディはぶら下がったままの状態で男をにらみつける。
「お前なんか『勇者』じゃない!」
「エディ!」
店主がまた怒鳴り声を上げたが、今度はエディも怯まなかった。
「お前のせいで、ぼくの父さんはいなくなったんだ!」
「エディ。だから、お前の父親はーーー」
「許さないからな!」
エディは店主の隙をついて腕を振り払うと、あっという間に駆け去ってしまった。
「……騒がせちまって悪かったな」
エディの姿が見えなくなったあと、男はぼそっとそう言った。懐から財布を取り出し、昼食代としては多い金額を店主の手に握らせる。
「受け取れねぇよ」
「いいんだ。貰ってくれ」
返そうとする店主を押しとどめ、男は店を出て行った。
「アンタには感謝してるんだぜ! 俺だけじゃねぇ、この町の皆がそう思ってる!」
男の背に向けそう呼びかけた店主に、男は後ろ手に軽く手を振ることで応えた。
「エディ、聞いたわよ。あなたまたロランにちょっかい出したんですって?」
ニヤニヤ笑いを浮かべながら尋ねてきたのはエディの伯母、ミアである。母親を早くに亡くしたエディは現在母の姉であるミアの家で生活していた。
エディは竹を割ったような性格のこの伯母を愛していたが、今はそのことに触れてほしくない。
「その顔だと今日も上手くいかなかったようね」
無視をしたが表情に出ていたのだろう。楽しそうなミアに言い当てられ、エディは唇を引き結ぶ。上手くいかなかったどころか相手にもされなかったなんて絶対に言いたくなかった。
「そろそろ許してあげたらいいのに」
「……嫌だ」
そういうことではない。さっきはその場の勢いで自分も許さないという言葉を使ってしまったが、許す許さないという問題ではないのだ。
頑なな表情を崩さないエディにミアはやれやれとため息をつくと、壁際に置かれた籠を拾い上げてエディに押し付けた。
「気晴らしに森にでも行ってきな。ついでに夕食の足しになりそうなものも採ってきてちょうだい」
硬い顔のままエディは頷くと部屋を出て行った。窓越しに森へと向かうエディの背中を眺めながらミアは独り呟く。
「顔はアンタに似たけど、頑固なのは父親そっくりだよ。そう思わない? エマ」
振り返った視線の先に据えられた写真立ての中では、輝く長い金髪と青い目を持つ美しい女性が微笑んでいた。
定食屋をあとにした男、ロランはいくつかの買い物を済ませると自宅へ戻ってきた。
ロランの自宅兼店舗は町のメイン通りから一本入った路地に立っている。戸口に金槌が描かれた小さな看板が一つかけられてはいるものの、一見さんには入るのに勇気がいる類の店であった。ロランはここで鍛冶屋を営んでいる。
鍵を開け、室内に入る。炉の火だけがうっすらと灯る部屋は静まり返っていた。ランプに火をつけ、炉に石炭を足す。身体に染み付いた動作でふいごを手に取り、炉の前に腰掛けた。
黙々と鋼を鍛えている時、つい考えてしまうのは過去のこと。
この家がまだ笑い声と幸せで溢れていた時のことーーー。
ーーーロランがこの家を買ったのは、結婚を決めた時である。両親が早逝したためずっと住み込みで世話になってきた親方に独立を認められたその日、仕事帰りに真っ先に向かったのは幼馴染のエマの家であった。
「エマ、結婚してくれ」
急なおとないに不思議そうな顔で扉を開けたエマへの第一声がそれで、後ろからついてきたミアに
「いきなりそれ!? 恋人でもないのに!」
と散々笑われた。
幸いなことにムードも何もない唐突なプロポーズを、エマは花の咲くような笑顔で受けてくれた。親を亡くしたロランになにくれとなく世話を焼いてくれていたエマの両親にもその場で承諾を得、二人は結婚した。
町一番の美人と評判だったエマと結ばれたロランは、友人たちから幸せ者めとやっかみ交じりの祝福を受けたものである。
ありがたいことに自分の独立とともに引退することを決めていた親方から顧客のほとんどを譲り受けたこともあり、ロランとエマはまあまあ順調に新婚生活をスタートした。翌年には子供を授かり、ロランはますます仕事に精を出した。
エマはいつも笑顔を絶やさなかった。食うに困ることはないものの贅沢な生活をさせてあげられているわけでもないのに、幸せで仕方ないというように。
それは、最期の時も。
「ロラン、ごめんなさいね」
エマはすっかり痩せてしまった顔に、それでも変わらず美しい微笑みを浮かべて言った。
町全体どころか国中に拡がる流行り病は、ずっと優しくしてくれたエマの両親をあっという間に連れて行ってしまった。
そして今、ロランの何よりも大切な人にも、その残酷な爪をかけようとしている。
「何を謝ることがある。きっと、きっと良くなるから……!」
ロランは病床の妻に何もしてやることができず、ただただ必死にその手を握りしめた。
「私、ずっと倖せだったわ。あなたと、あの子と一緒にいられて毎日楽しかった。二人を置いて逝かなきゃいけないのは心残りだけど、ロラン……あの子をよろしくね。そしてあなたも……私の分まで長生きして、倖せになって。きっと……ずっと、見守っているから……」
「約束するっ……約束するから……っ! エマ……逝かないでくれ……!」
慟哭するロランの手を弱々しく握り返し、エマは最後にあいしてると呟いた。そしてすぅっと瞼を閉じて、二度と目覚めることはなかった。
悪いことは続くもので、流行り病で国力が弱ったと見た隣国がこの国に進軍をはじめ、両国は戦争となった。町の動ける男たちは皆徴兵されることが決まった。片親となってしまったロランも例外ではない。エマとの最期の約束を守るためにも、ロランは生き残らなければならなかった。
逃げることも考えたが、エマの眠るこの土地を離れたくなかった。
生き残る確率を少しでも上げるためにできることは何でもやってやろう。職業柄体力はあるほうだ。正規兵をおだてて剣術体術のいろはを教わり、暇を見つけては鍛錬に励むようになった。
周りは渋々連れてこられたような輩ばかりであったから、ロランのようなやる気のある男は珍しかったのだろう。正規兵たちは意外と面倒見良くロランに指南してくれた。
鍛冶屋という職を活かして武器の調整も買って出た。補給係も手が足りない状態だったのでもろ手を挙げて喜ばれ、情報を得るための味方を少しずつ増やした。
そんなある日ロランは軍団長に呼び出された。兵の士気を上げるべく時折開く酒盛りにも参加せず、ただ黙々と剣を振っている町民がいるという報告を聞いて興味を持ったとのことだった。
変にごまかしていわれのない疑いをかけられるほうが怖い。ロランは包み隠さず自分の境遇を説明した。すると馬鹿正直な男だと軍団長に気に入られてしまい、戦略会議の末端に混ぜてもらえるようになった。
結果分かったのは、すでに国境付近の砦は落とされ隣国の兵士たちがこちらへ進軍してきているという事実であった。
あの子のいる、エマの眠るあの町にだけは、決して戦火を持ち込ませてなるものか。
ロランはそれまでにまして熱心に鍛え、学んだ。時には思い切って作戦を上申することさえあった。
戦って、戦って、戦って。ようやく隣国との休戦条約が結ばれたとき、町を出てから五年の月日が経っていた。
ロランは戦争で大きな戦果を挙げた『救国の勇者』の一人として華々しく王都へ凱旋した。
「戦で疲弊した国民に希望を与えるにはこういう分かりやすい象徴が必要なんだ。報酬も上乗せしてもらえるって話だし、もう少しだけ我慢してくれや」
同じく『勇者』に祀り上げられた軍団長は皮肉交じりの笑みを浮かべながらロランを宥めた。
振り切って一人先に帰る選択肢もあったが、条約が結ばれたときロランが駐屯していたのは国境近くの村だった。エスタまでは徒歩で一ヶ月近い道のりだ。
戦争が終わったと言っても未だ国内は荒れている。一人旅のよそ者は盗賊や追剥の格好の獲物だろう。凱旋に付き合って道行きが遅くなるとしても、軍隊と行動したほうが安全なのは間違いなかった。
王都に到着したロランには叙勲や貴族女性との再婚の話が舞い込み、このまま正式に軍に入らないかという誘いもあった。しかし、角が立たないようにすべて断り、ロランは早々に王都を後にしたのだった。
どこからちょろまかしてきたのか餞別だと軍団長に押し付けられた馬を駆り、ロランはエスタへひた走る。
凱旋の知らせを受けて気にしていてくれたのだろう。町の入り口に出迎えの人だかりができていた。見違えるほど大きくなっていたが、すぐ分かった。一番前でミアに肩を抱かれながら俯いている子供。
七歳の時に徴兵されて五年。もう十二歳になっているはずの……。
「エディ……」
かすれた声で名前を呼んだものの、溢れる思いが強すぎて言葉が出てこない。馬から下りたロランはただただエディを見つめた。
ミアに促されエディはゆっくりと顔を上げた。ロランと目を合わせーーー固まった。その顔に浮かぶのは、怯え、恐怖。
戦場で自分が屠ってきた者たちと同じ表情だった。
町を離れてからなりふり構わず生きてきたロランは唐突に理解した。己の両の手は血に塗れてしまったのだと。自分は以前のようにこの美しい子供に触れることは許されない存在なのだと。
愕然とした。
後悔はない。この子とこの町を守るために自分ができることはこれだけだった。だが、運命の女神のなんと残酷なことだろう。ロランはエディの目をこれ以上見ていられずに視線を逸らした。
二人の様子がどこかおかしいと察した周囲の町人たちがロランを宴会に誘い、ミアがエディの背中を押して離れていく。エディが何か言ったような気がしたが、振り返ることはできなかった。
それからしばらくは生活や店の再開の準備で忙しく過ぎた。時折エディの気配を感じたが、話しかけられることはなかった。当然だ。
ミアには今後もエディと暮らしてほしいと頼んでまとまった現金を渡してきた。幸い『勇者』の報奨金がたっぷりある。
「エディはあなたと一緒に暮らしたがっているわ」
ミアが言った。
「その資格はない」
ロランは低い声で答えた。現金も断られたが、エディのために使ってほしいと無理に渡してきた。
その翌日からだ。武器を手にしたエディにロランが襲われるようになったのは。エディはお前のせいで父親がいなくなったと叫んでいた。
エディに父親と認識されないのも仕方がない。戦いに明け暮れるうちに自分は以前の自分とはすっかり変わってしまったのだろう。
それがロランを襲撃するためであっても、エディと接点ができるのは内心嬉しいことであった。
自分を殴って気が済むのならとも思ったが、たとえ相手が自分であってもエディに人を傷つけさせたくない。ただやはりこの手でエディに触れるのはためらわれたので、攻撃は受けるのではなく避けるようにしている。
そんな歪な親子関係のまま、ロランが帰郷してもう二週間も経とうとしていた。
エディは消化しきれない思いを抱えたまま、森でベリーを摘んでいた。許してあげたら? とミアは言う。でも何を?
エディの母エマが病に倒れてから父ロランがいなくなるまでは怒涛のようだった。エディの当時の記憶はすでにあいまいになってきているが、感染の危険があるとエマに病の兆候が出てからは近くで話すことができなくなったことは覚えている。すごく悲しかったからだ。
外の通りから窓辺に座るエマへ必死で手を振った。それが最後だった。
エマが亡くなり呆然としているうちに、ロランの出征が決まった。エディは泣いていかないでとすがったけれど、絶対に戻ってくるからとロランは行ってしまった。
それからは数か月に一度届く短い手紙だけが父親との唯一のつながりになった。軍が移動を繰り返しているため、こちらから手紙を出すことはできない。
待つだけの生活に慣れてしまったころ、ようやく戦争が終わった。
もうロランの顔もおぼろげになってきていたが、純粋に嬉しかった。今日か明日かと帰る日を待っていた。
王都帰還の知らせを聞いた数日後、街道の先に馬が見えると近所の子が知らせに来て、ミアと二人で町の入り口まで走った。
「あぁ、本当にロランだわ」
いつも気丈な伯母の涙がにじむ声を聞いて、じわじわと実感が湧いてくる。
本当に父さんが帰ってきたんだ。自分がエディだと分かるだろうか。同い年の子供の中では小柄だけど、父さんが旅立ってからずいぶん背も伸びているはず。気づいてもらえなかったらどうしよう。なんて声をかければいい?久しぶり?それとも、おかえりなさい?
不安になっていつの間にか視線が下がっていた。名前を呼ばれてミアに肩を叩かれ、ようやくエディはそろそろと顔を上げる。
真っ赤に燃える夕日を背に立つロランと視線が合って、何も言えなくなった。
腕と言わず顔と言わず身体中についた傷。補修を重ねたと思われる革鎧はそれでもボロボロで。母と自分を見る時、いつも柔らかく細められていた目はすっかり鋭くなってしまっている。
その、ロランをとりまく何もかもから、生きるか死ぬかの戦いのにおいがした。
戦時下であっても王都に近いからか、男手の不足と少々の食の貧困程度しか戦争というものを感じていなかったエディにとって、それはあまりにも生々しかった。
こわい。
戦の悲惨さを初めて身近に目の当たりにして、エディは体が竦んでしまった。喉に何か詰められたかのように、息まで苦しくなる。
父さん、何か言って。
エディは声の代わりに目で訴えた。これからはずっと一緒だと頭を撫でてほしい。しかし、固まるエディをじっと見ていたロランは次の瞬間にはスッと目を逸らして町の男たちと去ってしまった。
どうして。
戦のにおいが遠ざかってこわばった身体はほぐれたものの、今度はショックで声が出なかった。
どうして何も言ってくれないの。どうして触れてくれないの。どうして一緒に家に帰らないの。
ひとまずミアの家の自分のベットに入ったものの、エディは眠れないでいた。すると真夜中近くになってロランがミアを訪ねてきた。
エディが寝ていると思っている二人は居間で何やら話し込んでいる様子だった。途切れ途切れに聞こえてくる話の切れ端から察するに、エディの今後についてだろう。
「エディはあなたと一緒に暮らしたがっているわ」
感情が高ぶったのか、切れ切れだったミアの言葉が急にはっきりと聞こえた。父の声は低いままだったが、迷いなく言い切った返事も聞こえてしまった。
「その資格はない」
エディの顔から血の気が引いた。
資格がないって、自分の何がいけなかったのだろう。おかえりなさいと言えなかったのがいけなかったのか。離れて暮らしている間に心も離れてしまったのか。ロランの気持ちが分からない。
ひとつ。エディにも理解できたのは、エディはロランに捨てられたのだということ。
戦争で、ロランは変わってしまったのだ。エディの愛した優しい父親は、もうこの世界からいなくなってしまった。
鬱々としながらベリーを摘んでいるうちに、いつの間にか森の奥の方まで入り込んでしまったようだ。日も傾き始めている。暗くなる前に町へ帰らなければ。
エディは立ち上がり、来た道を早足で歩き始めた。
昼は人間にとって安全な森でも、夜はそうじゃない。夜の森は獣の世界だと、そう教えてくれたのも父さんだったなとエディが苦い笑みをこぼしたその時。
「きゃあああああ!」
すぐ近くから子供の叫び声が聞こえた。
エディは悲鳴の主へ駆け寄ろうとしたが、とっさに口を押え木の陰に隠れた。明らかに町の者でない汚れた服を着た男の背中が見えたからだ。
音を立てないようにそっと窺うと、男は明らかに堅気の雰囲気ではなかった。片手にナイフを持っている。
「怖がらなくていい。おじさんととっても楽しいところに行こう。暴れたりしなければ傷つけたりしないよ。君だって痛いのは嫌だろう?」
男は猫なで声で言った。エディがもう少し首を伸ばしてみると、男の目線の先には近所に住む女の子が見えた。
人攫いだ。エディは素早く頭を巡らせた。
まだここは町から少し離れている。自分が全速力で走っても、戻ってくる前に男はあの子を連れて行ってしまうだろう。だったら……。
ベリーの入った籠をそっと地面に置き、エディは腰のポーチを探った。
「お前、何してる!」
エディは木の陰から飛び出るなり、男に向かって叫んだ。
「エディ!」
先にエディの姿に気づいたのは女の子の方だった。背後からの声に男も反射的にエディの方を振り返る。
それが狙いだった。
「食らえ!」
「がっ!」
男が振り返る前から照準を合わせていたスリングショットを、エディはためらいなく撃った。弾は見事に男の顔に命中し、仕込まれていたスパイスの粉を男はもろに被った。
「ぐっ、げほっ! なんだこりゃあ!? 目が開けられねェ!」
胡椒やら唐辛子やら刺激がありそうなスパイスを片っ端から混ぜ込んだ粉だ。それは痛いだろう。ロランへの目くらましに使うつもりで作ったものだが、思ったより威力があったようだ。
「逃げて! 大人を呼んできて!」
エディは女の子に向かって叫ぶ。女の子は転がるように走り出した。エディはスリングショットをすりこぎに持ち替えて、目を擦る男の手首を思い切り叩いた。
「痛ッ、テメェ、何しやがる!」
思わず男の手が緩み、ナイフが地面に落ちた。拾いたかったが、男は目の痛みから立ち直りかけている。仕方なく思い切り遠くまで蹴飛ばし、そのままの勢いで逃げた。
結果的に町と反対方向に逃げることになったが、気にする余裕はなかった。
夕方、仕事に一区切りがついたので、今日は早じまいにするかとロランは釜の火を落とした。道具の手入れを済ませ、仕事場の掃除をしていると店の扉が激しく叩かれる。
警戒しながら細く戸を開くと、そこにはミアの家の近くに住んでいる一家の男が真っ赤な顔をして立っていた。どこから走ってきたのか息も絶え絶えで、言葉が出ない様子である。
右脇に彼の娘を抱えている。出征した頃のエディと同じ歳の頃の子供だ。
「どうした、大丈夫か?今、水を……」
「まって!」
家の中にとって返そうとしたロランを引き止めたのは、父親ではなく脇に抱えられた娘の方であった。
「エディがたいへんなの!ひとさらいが……!」
その言葉にロランは総毛立つ思いがした。
経緯を聞くのももどかしく、娘から場所だけ聞き出すとここ数年ですっかり手に馴染んだ大剣を引っ掴んで家を飛び出す。
間に合え、間に合え、間に合え……!
それだけを一心に念じてひた走る。
こんなことになるなら、嫌われていても、資格がなくとも、傍についていれば良かった。
戦場では、故郷に残した家族を守ること。ただそれだけを思って戦っていたのに、やっと戦が終わった今になってエディを失ったら、何のために剣を握ったのか分からないじゃないか……!
ロランは後悔を噛み締めた。
「……ま、撒いた……かな?」
荒い息を整えながら、エディは呟いた。この森はエディ達の遊び場だ。地の利はある。藪が茂っているところや獣道を駆け抜け、かなり大回りになったが町の近くまで戻ってきていた。
ここまでくれば町まではすぐだ。エディはほっと息をついた。
「待ってたぜ、クソガキィ」
ガサッと音を立てて目の前の木から飛び降りてきたのは先ほどの男だった。エディは息をのむ。
「森の中では逃げられても、町に戻るには街道に出るしかないからなァ。張ってれば会えると思ってたよ」
男はニヤァと寒気のするような笑みを浮かべた。
「あの子に大人を呼びに行くように言った。早く逃げないと、アンタやばいんじゃないの」
エディは男を睨みつけた。震えるな、身体。怖がっているのが相手にばれたらもっとまずいことになる。
だが男にはエディの虚勢はお見通しのようだった。
「あんなチビの話を誰が真に受ける? よしんば信じたとして、エスタみてェな平和ボケした町のやつらに何ができる? あいつらはこっちが何人いるのかも分かってねェんだ。準備するだけで夜が明けちまわァ」
高笑いしながら男はゆったりとした足取りでこちらとの距離を詰める。エディに逃げられるとは少しも思っていない様子だ。
事実、それは難しかった。森中走り回ってエディは疲れ切っていたし、ましてや大人と子供。さっきは不意打ちで目を封じられたから逃げられたが、二度も同じ手を喰ってはくれないだろう。
理屈ではわかっていたが、男に捕まったらどうなるかと考えると身体は勝手に身を翻し、走り出そうとした。
「おーっと、行かせねェぜ?」
「……っ!」
男はたったの二歩でエディの目の前に迫ると力任せに腕を捻りあげた。苦痛に呻くエディの顔を覗き見て、男はつと眉を上げる。
「ただの生意気なクソガキかと思ったが、さっきのチビよりよっぽど整った顔をしてんじゃねェか。思いがけない収穫だな」
「……触るな……っ、気持ち悪いんだよ……!」
「ハッ、その威勢がいつまで続くか見ものだなァ」
エディの腕を捻り上げたまま男は森の奥へと歩き出した。攫った子供を積み込めるような乗り物が隠してあるのだろう。
エディは懸命に身を捩ったり足を踏ん張ったりしてみたが、腕を引く男の手は少しも緩まない。エディの視界が涙で滲んだ。
もう、自分じゃどうにもできない。助けて、助けて。
「父さん……!」
「エディス!」
「!!」
エディの声に応える言葉は手が届くほど近くから聞こえて、エディだけでなく人攫いの男も驚かせた。勢いよく男が振り向いたため、腕を掴まれたままのエディは地面に投げ出されるように転んだ。咄嗟に手をついて顔を上げると木立の間にロランが立っていた。
「クソ、気配がなかった……! ナニモンだ、テメェ!」
「ロランだ。その子の……父親だ。今回は見逃してやるから、その子を離してもらえないか」
ロランは肩で息をしていた。きっと知らせを受けて飛んできてくれたのだろう……自分のために。こんな時なのに、エディは胸が熱くなった。
「信じられるかよ! コイツは人質だ。生きて返して欲しければ黙って見てるんだなァ!」
「そうか」
短く返事をすると、ロランは前触れもなく全速力で男に突っ込んだ。男は泡を食って腰のナイフを抜こうとするも、ロランが距離を詰める方が格段に早い。
「ぐァッ……!」
勢いのままロランは男を殴り飛ばした。男はゆうに三メートルは吹き飛び、地面に倒れて動かなくなる。男と立ち位置が入れ替わる形になったロランは地面に尻餅をついたままのエディに手を差し出した。
「無事か、エディス」
素っ気ない一言。けれど、エディを見つめるロランの瞳は肉親の情に溢れていた。母が生きていた頃と、同じように。
「父さん!」
エディは思い切りロランの首に飛びついた。ずっと被っていた帽子が外れ、長い金髪が背中に流れていく。
「出征の時はあんなに短かったのに。こんなに髪が伸びたんだな……。エマに生き写しだ」
父はエディの髪を壊れ物に触るかのようにそっと撫でた。その時。
「父さん、後ろ!」
「死ねェ!」
いつの間にか人攫いの男が父の後ろに立ち、ナイフを振り上げていた。エディは真っ青になったが、ロランは小揺るぎもしない。背負った大剣をわずかに抜いただけでナイフを弾き飛ばし、エディを片腕に庇いながら後ろ蹴りを放った。
「がッ……!」
男はまたしても吹っ飛び、地面に倒れ伏す。今度は完全に気絶したようだ。しかし父もそのまま放ってはおかず、服に使われている紐を外して男の手と足を縛り上げた。
「娘とまともに話すのは五年ぶりなんだ。邪魔をしないでもらいたい」
そしてエディに向き直ると「すまない」と言った。
「こんな血に塗れた手でお前に触れてはいけなかった」
「えっ……?」
「俺は数えきれないほどの人を殺してきた。本当ならエディスに触れる資格などなかった」
父が最初何を言っているのか分からず、十数秒かけて父の言わんとすることを理解したエディは、やっと帰還の夜の「資格がない」という言葉の真意に気づいた。
「……はぁ!?」
急に最大限に気圧が下がった声を出したエディにロランはたじろいだ。
「あの、だからな、戦時とはいえ俺は……」
「父さんは殺したくて人殺しをしてたの?」
「殺したいと思ったことはないがそんなことは言い訳には……」
「戦争が起こらなくても剣を握ったの?」
「俺は鍛冶屋だからそれはないが……」
「人を殺したのがいいことだとは絶対に言わないけど、父さんが私と母さんを守るために出征したんだって私にだって分かる!」
「しかし……」
「もう、ぐじゃぐじゃ言わないで! 資格がないなんて誰が決めるの!?」
「でもエディスがーーー」
「じゃあ私がいいって決める! それでいいでしょ!? 文句ないでしょ!?」
怒りのままに叫んだエディの目に涙が滲む。なぜだかそれが悔しかったので、ロランの胴に抱きついてそのまま服で涙を拭いてやった。
抱きつかれたロランはしばらく固まっていたが、諦めたかのように身体の力を抜いてエディの背に腕を回した。
「見かけはエマに生き写しだが、中身はミアにそっくりだな」
「……しょうがないじゃない。何年ミアと暮らしてると思ってるの」
「そうだな」
顔を見合わせ、二人は大声で笑った。
「帰るか」
「うん」
人攫いの男は馬と荷車を隠していた。本来攫った子供を乗せるはずだった荷台に縛りあげたままの男を放り込み、ロランとエディは町へ戻る。
荷車に腰掛け、エディは真横に座るロランを見上げる。あの日と同じに夕日がロランを照らしていたが、もう少しも恐くはなかった。
エディが見つめているのに気づき、ロランもエディを見やる。目が合うとエディはふわりと微笑んだ。そこにいるのは確かにエディなのに、エマが笑いかけてきたような気がした。
エディをよろしくね。あなたも、倖せになって。ずっと、見守っているから。
約束する。今度こそ、必ず。
ロランは空を見上げ、きっと近くにいるエマに心の中で誓いを立てた。
キャスケット帽の効果で性別がはっきりしない女の子のキャラクターが好きです(某犬の名探偵のスリの子だったり、某魔法少女と協力してカードからお父さんの絵を取り返そうとする女の子だったり)。
本当は漫画で描きたかったのですが、絵は描けないのでなんとか字に起こしてみました。
エディはあだ名で、本名はエディスです。
ロランは一生エマを愛していますが、支え合うパートナーとしてミアと再婚する未来もあるかもしれないと思っています。