Round 5
ランニングから帰ったベンが勢いよくジムの扉を開ける。リング脇のベンチに座っていたパッチが鋭い視線を送った。
「どうした相棒。いつもより相当遅いぞ」
「悪い。ちょっと、とんでもねぇニュースが入ってきてな」
吐き捨てるように答えると、ベンはパッチに歩み寄る。手が届くほど近く、ともすれば今にも胸ぐらを掴見そうなほど、ベンは気迫に満ちている。
「なんだ。そのニュースってのは」
「今のチャンピオンが次の大会に勝てば引退するらしいな」
椅子に座ったまま、パッチは深くため息を吐いた。
「そこに座れ」
パッチがリングの縁を指さして、ベンがそこに腰を下ろす。
「それをどこで知ったんだ」
「コイツでちょうど耳に入ってな」
ベンが投げ捨てるようにラジオを放る。
「ご丁寧に週刊誌にもヤツの事が書いてあったぜ。財布はアンタに取られちまってるから、おつかいはできないけどな」
「俺が言ったコースから外れたのか」
「今はそんな話をしてるんじゃないだろ」
獣が唸るような、敵意の滲み出る声。パッチが押し黙る。
「知ってたんだろ」
「何が」
「アイツが次の大会で引退するって事だ。オッサンが我慢しろっつった1年間のトレーニング期間と丁度被る」
パッチは答えない。
「俺の財布や携帯取り上げるのも、このジムにTVやラジオみたいなのが無いのも、そう、ランニングのコースがやたら殺風景なところばっかりなのも、俺にこのニュースが知られない為だったんだろ?」
ベンには答えない。
「実際、俺もうまく騙されちまったよ。ラジオがなけりゃあ絶対に気づかなかったぜ。これを取り上げなかったのは、オッサンにしてはツメが甘かったな?」
どこか相手の気を伺うような、歯切れの悪い言葉。
堪える。
「そんなつもりは無かった」
「じゃあどんなつもりがあるってんだよ! 全部偶然だってのか! ああ!?」
ベンが立ち上がって吠える。握りしめた拳がブルブルと震えていた。
「そうだ」
「……くだらねえ嘘つくんじゃねぇよ。なぁ、わかるだろ」
全力で叫び散らかそうとして、だがベンの口からそれは出てこなかった。代わりに溢れたのはどこまでも力のない言葉。
それは怒りよりも悲しみが勝ってるように見える。
「相棒。なんで俺が、お前を相棒って呼ぶかわかるか」
深くうなだれていたベンが顔を上げる。
「お前は賢い。物分かりが良い。強いが、驕らない。勘違いをしない。その上で、希望がない訳じゃない。目だけはいつも眩しいぐらい輝いてる。コイツなら一生付き合っていけると思った。コイツと居たら楽しいだろうと思った。コイツはダイヤの原石で、ドン底から這い上がらせてくれると思った。
だから俺は、お前を相棒って呼ぶんだ」
縋るような寂しげな顔で、パッチはベンを見た。
「相棒なら分かるだろ。自分がリングに上がることの意味が。なら、分かるだろ。俺の事も。俺はお前に、死んでこいなんてクソみてぇなセリフを言いたくねぇ」
半年前とは違う、弱々しいパッチの言葉。だからこそ、それは本心だ。
誰より長く付き合ってきた友が、奈落の底に飛び込もうとしている。その背中を押せる人間なんて居るはずがない。
ギリッと、ベンが歯を鳴らした。
「ああ。分かるよ。アンタの気持ちも。俺は物分かりがいいからな。分かる、俺が半年間でどれぐらい強くなったかも」
ベンがゆらゆらとした足取りでサンドバッグに近づき、そして、拳を振りかぶった。
重い踏み込み。全力の一撃。轟音。殴り飛ばされたサンドバッグがその勢いのまま天井にぶつかって、その中身をブチ撒ける。
「俺が全力でぶん殴ったら、老いぼれなんざ即死だ。だから俺はアンタを殴らねぇ」
振り向いて、ベンはパッチを睨みつけた。
「1つ訊くぞオッサン。本当に、俺がリングに上がれば死ぬと思って、俺を騙したのか?」
「……それは、今のお前ならリングの上で死ぬことは無いって意味で言ってるのか? それとも俺が誰かと、例えばチャンピオンと口約束でもしたのか疑ってるのか?」
パッチの言葉に鋭い舌打ちをして、ベンは踵を返す。
「残念だ、クソ野郎。二度と俺のことを相棒って呼ぶんじゃねぇ」
「……好きにしろ。新しいトレーナーでも探すんだな」
一発、壁を殴りつけて深くヒビを入れてから、ベンはジムの外に出ていった。こめかみを押さえながら、パッチが頭を抱える。