Round 3
ボロボロに剥がれた外装。今にも音を立てて崩れそうな古い建物。落ちかけの看板は何が書いてあるか読めないが、かろうじてジムという文字は見える。
「こんな場所で特訓しようってのか?」
「金がねぇんだ。文句言うなよ」
呆れた声を漏らすベンに、拗ねたようにパッチが返す。
「金がないっつっても流石に限度があるだろ」
「じゃあなんだ、お前が建て替えてくれるのか? お前を鍛えるための場所だ、出世払いでもいいぞ」
「リングの上でも死亡保険はかけられるのか?」
「あの世に出ていくことを出世とは言わねぇぞ」
建て付けの怪しい扉にパッチが手をかける。力任せに引っ張ると、耳障りな音を立てて開いた。
「ほれ、中身は割とマシなもんだろ」
多少埃は目立つものの、室内の設備は最低限以上が揃っていた。
サンドバッグと、人体を模したような木人形。バーベル。そして、中央に鎮座する広いリング。
ただ一人の為に用意するには大げさな程だ。
「……いよいよか」
「そうだな。いよいよだ」
パッチがサンドバッグを叩く。小気味いい音が鳴って、静かに揺れた。
ベンもジムの中に入り、ニッと笑う。
「最低限の整備は頼んでたつもりだが、お前に使わせるにはまだまだだな」
「何だよ、焦らすじゃねぇか」
「ま、そもそも1年は基礎に使うつもりだった。ここの設備なんざ、それからでもいい」
「おいおい、リングに上がらせねぇつもりか?」
おどけたベンの言葉に、パッチは鋭い目を向ける。
「お前は前座をやってた間もトレーニングを続けたつもりだろうが、ここから先は根本的に違う」
「と、いうと?」
「お前はリングの上で、1時間以上全力で戦える自信があるか?」
パッチの言葉に、ベンが言葉を詰まらせる。
「そりゃあ、全力で戦い続けるってのは無理かもしれねぇが」
「2時間半。ToVの記録にある最長の試合だ。その間に一切の休憩はない。最も、相手をダウンさせてる間は休めるかもしれないがな」
パッチがベンに歩み寄り、その胸筋を殴りつけた。
「相棒。残念だが、お前の筋肉はハリボテだ」
「なっ」
「自分を強そうに見せるために、殴られる為に作られた筋肉だ。スタミナは足りねぇ、破壊力も見掛け倒しだ。そんなんじゃこの先を勝ち続ける事なんかできやしない」
「そこまで言われるほど貧弱か?」
「忘れたか? お前に負けは許されないんだぞ」
ベンの眉がピクリと跳ねる。
「今のままじゃ確実に負けるってか」
「雑魚に勝つだけなら、一ヶ月で仕上げられる。お前の爆弾に触られる前に倒せばいいだけだからな。全ての試合を完封で終わらせればいい。それこそ、チャンピオンみたいに」
「チャンピオンみたいに、か」
パッチが殴ったサンドバッグに歩み寄ってから、ベンはその表面を撫でた。
過去の自分。リングに上っていた自分。絶対的な強さを持っていた自分。
ベンは捨て身の戦法を好んでいた。相手が拳を振り上げるのと同時に殴りかかり、拳を体で受けて殴り返す。牽制で放たれる打撃に怯まず掴みかかり、そのまま床に沈める。
形こそ違えど、それは液晶の奥に見た姿と重なる。相手の攻撃を捌き、一瞬の隙を突き敵を眠らせる、あまりにも呆気ない試合。
ベンの中に癒えない傷を残したあの日とも。
「そいつは、できそうにねぇな」
「ああ。お前はそこまで器用じゃないだろ」
そうだな、と答えてベンは笑った。
「俺は、アイツにだけはなりたくねぇ」
「珍しいな。お前がそういう言い方をするのは」
「恨みとかは無いさ。だが、まぁ、相容れないってトコだな」
かつての己と重なるからこそ、ベンにとって失ったものであるからこそ。
「アイツに憧れるってのは、見苦しいってもんだ」
「そうか」
パッチはニヤリを笑い、言葉を続けた。
「そういう事なら近道はできねぇな。まずお前の体を仕上げる。まずは走り込みだ。メニューは後で渡す」
「あいよ」
「それと、お前の携帯や荷物は俺に預けろ。相棒に限って無いとは思うが、気が散らされるといけねぇ」
「ん? ……まぁ、特別使うって事はねぇから良いけどよ」
ベンは自分の荷物をパッチに投げ渡した。
「相変わらず荷物が少ねぇな。本当にこれで全部か?」
「あー、小型のラジオがあるが、軽く曲聴くぐらいだ。前からトレーニングの時に使ってたヤツだな」
「……それぐらいなら、良いだろう」
一度眉を寄せたパッチに、ベンは小首をかしげる。
「そういう指示は珍しいな。どうした、男に逃げられた女の霊でも取り憑いたか?」
「今までのママゴトとは違うからな。まぁ、トレーニングの邪魔になるもんは預かっておきたいだけだ。気になるあの娘とは別れてもらうぜ」
「ハッ、俺の番号知ってる女なんざ居ねぇよ」
「自分の右手のダイヤルぐらい知ってるだろ。最高に都合がいい恋人だ」
「可愛げの無い恋人だな。だがソイツになら、携帯がなくてもアイサツできるだろ?」
「相棒は頭の中だけでイケる口か? 若いってのは良いもんだな」
「生憎と、俺の息子もゴツいもんでな」
軽口を言い合う間に、パッチがベンにファイルを投げ寄越した。
開くと、中には一日のトレーニング内容がびっしりと書いてある。ベンの顔が段々と渋くなっていった。
「初日からこれか?」
「初日だからこそだ」
「厳しいトレーナーを持っちまったな」
「どうした、萎えたか?」
「一日にこんだけ動けば、流石の息子もギブアップだろうな」
「丁度いいだろ」
嬉しそうなタメ息を吐きながら、ベンは準備運動を始める。
「お前が走り込み行ってる間、部屋の整理しといてやるよ。要望あるか?」
「シャワーが近くて冷蔵庫があってベッドの柔らかい広い部屋」
「あいよ。相棒の世話が終わったら、ここをホテルにでもするかね」
「良いんじゃねぇか? 染み付いた汗の臭いをなんとかすればな」
準備運動を終えたベンが、ピョンピョンと軽く跳ねる。
ポケットに入れたラジオのイヤホンを耳にはめた。
「じゃ、行ってくるぜ」
「あいよ」
ジムを出るベンの背中を見送ってから、パッチは部屋の奥に荷物を運び始めた。