Round 2
「折角最後の一仕事が終わったってのに、オッサンはどこに行きやがったんだ」
殴られた所を冷やしながら、ベンはパッチを探していた。普段なら勝手に休んでいる所だが、今日は一刻も早く今後の話がしたい。
こういうタイミングで理由なく居なくなる男ではない。恐らく何か大事な用があるのだろうが。
「ん」
ゆっくりと首を巡らせていると、覚えのある人間が視界に入って、ベンは動きを止めた。
後ろに強面の男を連れた長身の男。一度会ったあの日から、ずっと遠いテレビの奥にいた相手。
チャンピオンだ。
ベンは自然と顔を逸らし、体重を壁に預けた。譲られた道の中央を、チャンピオンは堂々と進んでいく。
すれ違い際、ベンはチラリとチャンピオンの顔を見た。あくまで軽く送っただけの目線が、ビタリと合う。
チャンピオンが足を止めた。
「おい、どうした」
「先に行っといてくれ」
「だが」
「すぐに行く」
どこか余裕のないチャンピオンの声に、男達は顔を見合わせてから通路の奥に消えた。
「どうかしましたか? チャンピオン」
おどけた調子で、先にベンが口を開いた。
「俺の事を覚えているか」
「……そのセリフは、どっちかって言うと俺のセリフだろ」
「俺は、あの日から君を忘れた事は一度もない」
「それは大変光栄な事で」
不敵に答えながら、ベンは視線を床に落とした。
こういう答え方をしたい訳ではない。寧ろチャンピオンとは、過去の出来事は関係ないかのように明るく話したかった。
しかし、意図せずにこういう口ぶりになってしまうのは、ベンの心の中にまだ引っかかりがあるからか。
「何故、君がこんな所に居るんだ」
「俺みたいなのがリングの側に居るのは場違いか?」
「いや、寧ろ君ほどリングが似合う男は居なかった。だが、それは昔の話だ。君はもうリングに立てない体じゃないのか」
「おかげさまで苦労ばかりだが、なんとかリングにはしがみついてるぜ。チャンピオン様の前座を任されるぐらいにはな」
チャンピオンはそうか、と納得したようにつぶやく。
「危なくないのか」
「何を今更、そりゃ危ないに決まってるだろ」
「ならば何故、そんな事を続けようとするんだ」
言葉の真意が掴めず、ベンは顔を上げる。そこには悲しげな顔でベンを見つめるチャンピオンが居た。
「なぜ君は、そこまでリングに拘るんだ」
「……お前は拘ってないのか。チャンピオン」
「俺は」
そこで言葉に詰まり、チャンピオンは顔を背けた。
「いや、俺も拘ってる。だが、君がリングに拘る理由は無いだろう」
「なんでアンタはそう思うんだ?」
ベンの言葉に返る声はない。
「一度失った夢にしがみつくのは惨めだぞって言いたいのか?」
「そんな事が言いたい訳じゃない。ただ」
「ただ、なんだ?」
ベンがチャンピオンの肩を掴み、逸らされ続けた顔を自分に向けさせる。
「お前は今からリングの上に立つんだろ? そんなクソ漏らしみたいな顔してんじゃねぇぞ」
「じゃあどんな顔をすれば良いんだ。笑えばいいのか? 人を殴るのが楽しくて堪らねぇってキチガイみたいに」
言い終えた後、ハンッと鼻を鳴らすようにチャンピオンは笑う。ベンは突き飛ばすようにその肩を放した。
チャンピオンの上体が軽くよろめくが、その足はピクリとも動かない。
「君は人を殴るのが楽しいのか?」
「そんな事はねぇよ。ただ、俺はリングの上が好きなだけだ」
「それは人を殴るのが好きな事と、何が違うんだ」
チャンピオンの問いに、今度はベンが言葉を詰まらせる。
「悪い。俺が君にそんな事を言う資格はなかった」
ボソリと、聞こえるか聞こえないか怪しい程の小ささでチャンピオンは呟いた。
ベンが歯ぎしりをしながら呟きを返す。
「そんなに嫌なら辞めちまえよ」
「……そうした方が良いのかもな」
「チッ、なんだよ! それは!」
しびれを切らしたベンが吠えた。
「お前はチャンピオンだろ! 一番強い男だろ! 皆お前に憧れて、ガキはお前みたいになりたいって言うような、それがチャンピオンだ!」
「残念だが、俺はそういう男にはなれない」
「何だよそりゃあ、それでもお前はチャンピオンだろうが! 俺達全員が憧れるチャンピオンだ!」
「お前は、俺に憧れているのか?」
チャンピオンの問いを最後に訪れる沈黙。やがて、通路の奥から先程消えた強面の男達が戻ってくる。
「声が聞こえたが何かあったか? そろそろだぞ?」
「今行く」
ベンのことをジッと見てから、チャンピオンは背を向けた。
「元気でな。……頼む」
歯切れの悪い言葉を残して、チャンピオンはリングに向かって歩き出した。
その背中が見えなくなるまで見送ってから、ベンは通路の壁を殴りつける。
「クソッ」
悪態は冷たい廊下に反射して、ベンの背中にのしかかるようだった。