1.始まりの記憶
吹雪、豪雪、崖沿い、雪山の中
自分は何処から歩いて来たのだろう、ただ必死に前に進んでいた
そんな中、吹雪いていたせいで辺りをちゃんと見れていなく、背後の程近い位置で漸くそれの気配を感じた
大型の、肉食の、凶暴な、飛竜種モンスター
ぐあっと右手を振りかぶられ、自分に向かって爪が伸びて来たのに、反射的に持っていた盾でそれを防いだ
吹っ飛ばされそうになったのを何とか堪えたが、持っていた盾を覆ってしまうほどのモンスターの手は、そのまま自分の盾を上に弾いた
不味い、そう思うのとほぼ同時に、そのモンスターの尻尾がドッ!と鈍く自分の身体を左側から打ち付けた
右肩から雪の上を滑り、ぐわんぐわんと揺らぐ視界に、早く身体を起こさなければ、とガクガクとする腕で何とか四つん這いになる
野生動物であるモンスターが待ってくれる筈もなく、弱った自分に一歩踏み出した時だった
ピシッ、バキバキっと嫌な音が地面から聞こえ、モンスターによって吹っ飛ばされていた自分の足元が揺らいだ
深い雪がただ凍って出来ていた場所だったのだろう、モンスターの巨体がそこに一歩踏み出した結果、自分の足元は瓦解した
崩れて、数十メートルの高さはあるだろう崖から、自分は落ちた
落ちて行く中で、獲物を取り逃がしたことに憤慨してか、モンスターが「ガアアアアアっ!!」と雄叫びを上げたのが聞こえた
やけにスローモーションでそれらを見ながら、自分は死を覚悟して目を閉じた
――わたしの記憶は、そんな死を覚悟したところから始まった。
*
ズキン、ズキン、と脈動と同じくらいのテンポで痛みが生じる。その痛みは段々と強くなり、鉄の棒のような硬い物で頭を殴られたくらいの衝撃の痛みを感じ、それにはっと目を開けた。ぶわっと全身から噴き出ている汗は、痛みからくる冷や汗だろう。
見慣れない天井に、何とか身体を起こして、きょろりと辺りに目を向けた。
(ここは……、どこだ……? 身体中痛む……けど、動く……生きてる……)
見回してみても、全く見覚えのない部屋の中に、首を傾げる。そして、首を傾げながらもっと重要な疑問を抱いた。
雪山の中でモンスターに襲われ、崖下に落ちた。それは覚えている。そして、こうして思考をすることも出来ている。
部屋の中の物を見て、「あれは水」「あれは本棚」「あれはテーブル」――そういう物の名前は分かる。
けれど、もっと重要なことが分からなかった。
(……そうだ、そんなことはどうでもいい。そんなことよりも――……自分は一体誰なんだ?)
落ちて行く中でモンスターが叫んでいた姿だって覚えている。襲われたことだって鮮明に。
けれど、自分が何故あんな雪山の中を一人で歩いていたのか、何の目的で歩いていたのか、どこから来たのか、どこへ向かおうとしていたのか、それ以前の記憶が全くなかった。
名前も、分からない。
寝ていたベッドからふらりとした足取りで立ち上がり、部屋の隅に置いてあった鏡の前に立った。
映った自分の姿にも、覚えはなかった。
短めの、光を反射すると青っぽく見える黒髪に、深い海のような蒼の瞳、キリッとした目鼻立ちは整っていて、肌は白く、女にしては少し高いだろうと思う身長に伴って、すらりと長い手足は筋肉質であり、腹筋も割れているほどではないがちゃんとあり、鍛えられた身体である。おそらく二十代前後の見た目。ただ、モンスターに襲われて崖下に落ちた影響で、その身体の殆どの部分は包帯が巻かれていた。
頭にも包帯は巻かれていて、左側の顔半分はガーゼで殆ど覆われている。目はあるんだろうかと疑問に思い、動かしてみれば痛みと共に、眼球が動く感覚はしたため、おそらくモンスターの尻尾に叩かれ腫れてはいるのだろうと予想できた。
ただ、それだけ冷静に考えられても、鏡に映る自分のことは、やはり一切分からない。
――何でここに居る?
――どうして一人で雪山に居た?
――そもそも何処から来たんだ?
――名前は、年齢は、何をしていたのか、分からない
考えても考えても分からなくて、痛む傷にパニックにでもなりそうになった時だった。
「おやまあ、目が覚めたのねえ」
緩やかなそんな声に、慌てて振り向く。
そこには自分の身長の半分ほどで、杖を携えた、年老いた婦人がにこにことした顔でこちらを見て来ていた。全体的に丸っこいフォルムのその人は、可愛らしい、愛嬌のあるおばあちゃんという感じである。
「もう立ち上がっても平気なのかねえ。痛くはないのかい?」
「あ、えっと、貴女は……」
「ああ、わたしねえ、わたしはこの村の村長をやってる者よお。お嬢ちゃん、まだ動いちゃ傷に悪いから、ベッドに戻った方がいいわあ」
ね、と小首を傾げながら言われたそれに大人しく従い、ベッドに腰かければ村長のおばあさんは近くにとことこと歩み寄って来て、ベッド脇にあった椅子に「よいせ」と言いながら腰かけた。
「ひとまず起きれて良かったねえ。あの高さから落ちて生きとるとは、随分頑丈なお嬢ちゃんだねえ。眠っとる間にあんたの身元だけでも調べようとしたんだけどねえ、どうにも崖から落ちた拍子にあんたの荷物は散らばって、今はもう雪の下でねえ……。道筋からしてこの村に向かってたようだけど、お嬢さんは一体どこから来たのかしらあ? なしてこの村に向かっていたの?」
聞かれたそれに息を飲む。
「そのこと何ですが――……」
*
「あらあ……記憶がない、って……?」
聞かれたそれにこくりと頷けば、村長は心配そうに自分に目を向けて、眉を下げた。
「名前も、年齢も分からないの? 何処に行こうとしてたのか、とか」
「はい……すみませんが、全く……。こうして話はできてるので、知識的なものはあるんですが、自分に関しての記憶はとんと……」
「……あんな高さの崖から落ちたものねえ。生きてるだけでも奇跡みたいなものよお。でも、そのショックで記憶を無くされたなんてねえ」
「はい、ええ、まあ……」
「にしても、随分と落ち着いていらっしゃるのねえ。不安じゃないのかい?」
聞かれたそれに、頬を掻きつつ苦笑を浮かべる。
「いや、はは……不安、ではあるんですけど、何というか……元からこういう性格だったのかもしれません」
冷静なそんな答えに、村長は「そお?」と返すと、じっと自分を見つめて来たのだった。
「この地域わねえ、山の方はずっと雪が降り続けていて、あなたが倒れてたのはそんな場所らしくてねえ、持っていた荷物はもう深い雪の下でねえ……力になってあげられなくてごめんなさいねえ」
「あ、いえ……助けて頂けただけで……。あ、貴女が雪山で倒れているわたしを見つけてくれたんですか?」
「いいえ、手当てをしたのはおばあちゃんだけどねえ、その話はまた後でしてあげるわあ」
そうして、にこりと笑いかけられたのに首を傾げていれば、村長はややあって頷く。
「――ねえあなた、この村でハンターをやってみんかえ?」
「ハンター……、ですか?」
唐突に提案されたそれに、目を丸くさせていれば、村長はうんうんと頷いた。
「あなた、こうして話せてるなら知識はあるのよねえ。ハンターという職業は分かるかしら?」
「ええ……何となくなら」
「何だかねえ、最近この村の周囲の各地で、モンスターが活性化していてねえ、今この村はモンスターに脅かされていて、正直猫の手も借りたい状態なのよねえ」
「はあ……」
「この村にもギルドはあるけど、辺鄙な場所にある村だからもっと大きなギルドから派遣されてくるハンターの数が少なくてねえ、困っているのよお」
「…………」
「あなた、随分鍛えた身体しているし、元はハンターだったのかもしれないわあ。怪我が治ってからでいいから、考えてみてくれないくれないかねえ?」
「ハンター……」
「ハンターは情報収集がカギとなるお仕事だから、人と関わることも多いし、やっていればもしかしたらあなたを知っている人に出会えるかもしれないし、あなた自身も何かを思い出すかもしれないわあ」
言われたそれらを聞きながら、自分はハンターという職業について考える。
ハンター、国や村の外に出れば多く生息しているモンスターを、ギルドという統括機関から発行されたそれらの討伐や捕獲の依頼を受け、それに順じて狩りを行う職業。モンスターというのは、当然名の通り危険な生き物であり、ハンターという職業は常に死と隣り合わせと言っても過言ではない職業だ。
ただし野生動物であるモンスターを狩るという行為は、基本的にギルドで制限されており、ギルドにて発行されていないクエスト外で狩りを行えば密漁扱いとなり、罰せられる。そのため、基本的にハンターになるには、ギルドからの試験を受けてライセンスを発行する必要がある。
「あの、でも、わたしは記憶がないので、身分が……」
「ああ、もしハンターになってもらえるなら、おばあちゃんが請け負ってあげるわあ。それに、ライセンスが取れればそれが身分証にもなるし」
「はあ……」
「勿論、別のお仕事も紹介できるようにしておくわあ。あなたの気が済むまで、この村に居てくれていいからねえ」
「……何から何まですみません、ありがとうございます」
「いいのよお、助け合って行った方がみんないいでしょお?」
言って村長はこつっと杖を床につき、椅子から立ち上がった。
「このお部屋は、ハンター用の借家の空き部屋だから、好きに使ってくれていいからねえ」
「あ、はい……」
「それからねえ、そこの机に置いてあるピアスとイヤーカフだけど……どっちもあなたの左耳についてた物よお。治療に邪魔だったから外させてもらったの。あなたの唯一の持ち物になるかしらねえ」
言われたそこに目を向ければ、そこには何の変哲もない青い石のついたピアスと、シルバーのなんらかの模様が入ったイヤーカフが転がっている。
「今はお話、これくらいにしておきましょうか。また様子見にくるわねえ。養生してねえ」
にこにこと笑いながら言われたそれに「はい」と答えれば、村長は玄関から出て行った。
手を伸ばして、ベッド脇のテーブルに転がっていたイヤーカフを摘まみ、手の平に転がしてみる。まじまじと見つめてみれば、それの裏側に何かが彫ってあるのが見て取れ、摘まんで目に寄せて、じっと見た。
そこには「M.A.I」と、彫られている。
「……そのまま読んで、マイ、か」
それが何を意味しているのか、自分のイニシャルなのか、何も分からなかったけれど、何となくその響きは気に入った。
二つともをきゅっと左耳に嵌めて、息を吐く。
知識はある自分は、ハンターが危険な職業だということは分かっていた。
けれど、何故かその職種について、自分の中でしっくり来ているところがある。理由は分からない。だって、自分のことが何も分からないから。
ただ、自分のこの鍛えられた身体、それから何故あんなハンターしか踏み入ってはいけない地域を一人で歩いていたのか。
――「元はハンターだったのかもしれないわあ」――
そうであれば簡単に説明はつく。
そして、こうして手当をしてもらい、部屋まで貰った自分には、村長に一宿一飯以上の恩がある。その村長が「猫の手も借りたい」と言っていたのだ、だから、悪くないかと思う。
「……ハンターか。やってみるのも悪くない」
こうして、ハンター名「マイ」は誕生した。