引越の挨拶【できた】
翌朝、と言っても10時は過ぎていたが、俺は昨日書き上げた2話分の原稿と引っ越そうめんセットを持って、野子の部屋に挨拶に行った。
野子からは聞いていたが、母親と2人暮らしらしく、チャイムを鳴らすと母親らしき女性がドアを開けた。
(俺より一回りくらい上か)
野子とは母娘と分かるくらいには雰囲気の似たさっぱりした美人、というくらいの感想だ。野子の性格からすれば、きっとこの母親も優しくて親切な性格だろうな、もし本当にそうだったら普通惚れるだろ、こんな女。
(だが、年下専の俺には通用しない、残念だったな)
上から目線こそが俺にとっての生きる情熱の源だ、……一昨日死んだけどな。
「隣に引っ越してきた杉田です」
長話さえしなければ、表面上の社会性は完璧な俺が、当たり障りのない引っ越しした時によく世間一般でしているような社交辞令的ななんやかんやを母親と交わしていると、奥から野子が出てきたので、あまり話がややこしくなることもなく原稿を渡すことができた。
野子は、
「杉田さん、作家さんだったんですね。ありがとうございます!」
と明るくそう言って受け取った原稿に視線を落とす。
(こいつ、女神か、女神なんだな!)
俺は、初めて野子に会った時の感想を下敷きに彼女への賞賛を心の中で少しエスカレートさせてみた。
「いや、素人作家だからね。他人に読んでもらうのは恥ずかしいんだけど、どう?」
しばらく返事がない。
「……あっ、ごめんなさい、夢中で読んじゃって」
野子は顔を上げて一言だけそう言ってから、立ったまま玄関先でまた原稿に目を落とした。
何か、それまでの野子の様子と違い、うまく言えないがちょっと怖いというか、急に真剣になった感じがしてかなり違和感があったので、褒められているというよりは何だか悪いことをして機嫌を損ねてしまった気がしてくる。
「あ、ごめんね、じゃあ私はこれで」
野子と母親に挨拶をして、俺は、自分の部屋に戻った。さすがに、中学生が主人公で、しかも普段活字をたくさん読んでいるらしい野子が相手でも、とろう系はハードル高かったかもしれない、俺は、少し後悔した。
◇◇◇
部屋に一度戻ってから、気を取り直していくらかお金と身分証、メモ用紙をズボンのポケットに突っ込み、ボールペンをシャツの胸ポケットに刺して、市役所に向かった。どうしても、今日のうちに、一度JTSを使ってみたかったからだ。
JTSとは、国と各自治体が共同でやっている公共サービスの一種だ。小さな出張所のような所でもやっていることもあるようだが、利用するのが初めてであれば、市役所の本庁舎に行った方が確実のようだった。
市役所は、平日9時5時の他、土曜日も午前中は開いているらしいので、今から行けば何とか週明けまで待たなくてもJTSというものを使ってみることができる。幸い、俺のアパートは駅からはちょっと離れている代わりに、市役所には5分くらいで歩いて行ける。昨日のうちに、帰り道でコンビニ入ってこの辺の道路地図見ておいて良かったぜ。