叫ぶ女
女の声は、怒鳴っているのとは違うかもしれないが、半分裏返った悲鳴のようにも聞こえる。
「あの……」
俺は、それ以上の言葉が出ないまま、固まってしまった。
俺も、一応は色々な社会経験を積んだ大人だ。誰かが誰かと仕事上のことで怒鳴り合っている姿を見ることも何度かはあった。ただ、その時の女の声には、過去に俺が経験したものとはどこか質の違う、何かをとことん思い詰めたような悲壮感が込められていて、とても無視することができるような雰囲気ではなかった。
「申し訳ございません。何でしょうねえ。何かうちの編集と行き違いでもあったんでしょうか」
夜場が丁寧だがあまり気持ちのこもっていない、エレベーターの扉が開くまで何とか間を持たせられればいいという感じが透けて見えるセリフを口にする。俺も、それに乗っかることは出来ただろう。ただ、その時の女の声の中には、どうしても俺にとって無視できない何かが含まれていたようだ。
「すみません、一応気になるのでちょっと」
俺は、曖昧に夜場のセリフを受け流して、もう一度ロビーに向かって早足で歩き出した。
「まあ、まあ、先生」
夜場も、やっぱり曖昧に止めようとはするが、俺の機嫌を損ねないようそれ以上強くは言わず、何となく俺の後をついてくる。
ロビーに戻って声のした方を見渡すと、さっき俺が受付に声をかける前に内線電話で誰かと話をしていた若い女が、丸山の社員らしい男に向かって必死に何かを懇願している姿が見えた。
「奈子ちゃん、もういいよ。ありがとう。でも、本当にもういいから」
よく見ると、女と丸山の社員らしき男の他に、もう1人、30くらいだろうか、女よりは年上風の男の姿が見える。その男が、必死に懇願しているスーツ姿のその女を後ろからなだめようとしているようだ。
「でも、本当に、本当に先生の作品は素晴らしいんです! 原稿を、作品を、読んで欲しいんです! でも、私の力では世の中に先生の作品を出して行けないんです。だから……」
女は、男の制止を振りほどいて涙声で声を張り上げ続けていて、段々声がかすれてくるのが分かった。
だが、丸山の社員らしき男には全く取り合う様子はない。いい加減にしてください、そういうことされても困るんですよ、すみませんが警備員呼びましたから、みたいなことを女に向かって言っている。
「…………」
何かを言葉にしたい俺だったが、何も口からは出てこない。俺の横では、夜場がニタニタと意味不明な笑みを浮かべながら時々チラっと俺の方をのぞき込んでいる。
たぶん、俺がロビーに戻ってから30秒くらい経った頃に、本当に警備員が3人現れ、その女と、女が『先生』と呼んでいた男を押し出すようにエントランスに連れて行き、そのまま2人を外に出て行かせた。
(つまみ出す、という光景を実演するとあんな感じになるんだろうな)
漠然とした不快感と何だかよく分からない怒りにも似た気持ちが胸の辺りでざわつくのを感じる。だが、どうしようもなかった。第一、何が起きているのかも実際ところよく分からない。事情も分からないまま何となくムカつくというだけで怒り出すわけにもいかない。それに、俺は今日、丸山文庫から作品を出版してもらうために持ち込みに来たんだ……。
「いや、驚きましたね。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。さっ、改めましてこちらへどうぞ。お部屋にご案内いたします」
元々、夜場の印象は直感的にはキモいとしか言いようもなく、丸山文庫文芸編集部次長という何だかとても偉いらしい役職名がついていなければ関わり合いたくないような気持ちになるが、一方で、その肩書きの魅力にどうしても抗えない自分がいる。結局、俺は何もできずに黙って夜場の後についてエレベーターに乗り込んだ。
夜場は、24階のボタンを押して扉を閉めてから何か俺に向かって話し続けていたが、何を話しているのかほとんど耳に入ってこない。俺は、自分でも自分が今どういう気持ちでいるのか分からなかった。
……24階でエレベーターが止まり、扉が開いた。その瞬間、外の光景に何か目眩を覚えた。




