編集部次長
俺が黙ったままその場で立ち尽くしていると、満面の笑みを浮かべて紺色のスーツにピンクのネクタイのその中年男が、俺のすぐ目の前にきて顔を寄せてくる。
(ち、近い……)
キモい。微妙な丁寧語満載の挨拶を大声でかけながら駆け寄ってきたそのおっさんだが、誰であろうと脂ぎった中年男にパーソナルスペース突き破られて顔近づけられるとか、俺の想像できる範囲で最悪から3、4番目くらいの悲惨な大事故だ。脂の乗ったキモオタ2頭が顔寄せ合ってる姿を見せられる周りの人間にとってもおんなじようなものだろう。
ただ、こいつ『なんとか編集部次長』などと名乗っている。しかもここは丸山文庫本社の中。
俺は、何とか理性、いや打算かもしれないが、とにかく前頭葉のどこかの部位を全力で働かせて生理的な嫌悪感を抑え込んだ。それまで緊張が極限に達していたのでかえって嫌悪感を露わにする余裕がなかったことも好都合だったのだろう。
「あ、初めまして。杉田と申します」
半分固まりながら、何とか言葉が出た。
「これはこれは。改めまして、私、文芸編集部次長の夜場大樹と申します。今後は、直接私が先生のご担当をさせていただく予定でございます」
夜場と名乗ったその男は、名刺を差し出してから深々と頭を下げる。頭の先が、俺の○ンコに当たりそうだ。
「あ、ご丁寧に、こちらこそ今日はよろしくお願いいたします」
5歩は後ずさりたかったが、さすが俺、わずか4歩さがったところで踏み止まり、頭を下げる。
夜場は気にする様子もなく、頭を下げている俺に向かって、さらに慇懃な言葉を続ける。
「とんでもございません。『今日は』などとおっしゃらずに、これからはぜひとも末永いお付き合いをさせていただければと思います」
……緊張の極限にあった俺だったが、さすがに、
(もしや、これは……?)
と思い浮かぶ程度には状況が想像でき始めていた。ただ、ここで態度を崩すほど俺は子どもじゃあない。
「大変ありがたいお言葉をいただきまして恐縮です。ただ、私のような者が丸山文庫様と今後お付き合いさせていただけるとは思っておりませんでしたので、どうお返事したらいいのかよく分からないところがあり、何だかお恥ずかしいです」
段々、俺の日本語も怪しくなってくる。だが、とにかくこれは訊かねば。
「私がお送りさせていただいた原稿、お読みいただけましたでしょうか」
「ははは、さすが杉田先生、ご冗談もお上手で。もちろんでございます。すでに活字にいたしましたものを社内で最上部まで回して、社長以下、全員が拝読させていただいております!」
さすがに社長が読んだとかは話盛り過ぎだろうが、割とクリアに事態が飲み込めたよ。無事、効果はあったんだろう、神様がくれた才能は。
……夜場は、その後も大声でひとしきり歯の浮くようなお世辞混じりの挨拶を続けてから、
「あ、失礼いたしました。こんなところで長々と。まずは上の方にお部屋をご用意いたしておりますので、そちらで改めて今後のお付き合いについてのお話をさせていただければと思います。私が、エレベーターホールまでご案内させていただきます。どうぞ、こちらでございます」
と、思い出したように案内を始める。
夜場の後について受付の裏手の方にあるらしいエレベーターホール向かって歩き出す。
それほど明るくはないロビーだが、何だか視野が狭くなるほど眩しく感じる。緊張感のせいだろうか、地に足がつかない。方向感覚がおかしくなる……。
俺たちは、エレベーターの前に着き、夜場が上に向かう矢印のついたボタンを押そうとしたその時だった。
「いい加減にして下さい! その話はもうお断りしたじゃありませんか!」
ロビーの方から男の怒鳴り声がした。思わず我に返って声がした方にふり返る俺。だが、エレベーターホールからはロビーは見えない。
「ほ、本当に、本当にすみません! でも、でも、この先生はすごい方なんです! 紙にして世の中に出すには丸山さんのお力が必要なんです、機会をどうか与えてやってください、お願いします!」
男の怒鳴り声に続いて、今度は若い女の大声が同じ方向から聞こえてきた。




