心の秘密その2
ほんの少しだけ、何か話がつながった気がした。
「それは、つまり、もしかして……」
俺はまた言葉に詰まった。
上実は何も言わない。
そうか、俺が上実の説明を遮って尋ねたので、俺の質問を特定するまで待っているんだ。
俺は頑張って言葉を探し、質問の形につないだ。
「治療しなくても、そのままでいても、ハイパーサイメシアについては問題がなくなった、ということですか」
「はい。その通りです」
絶対に気のせいだろう。ただ、俺の目には上実が少しだけ嬉しそうな顔をして応えてくれたように映った。
「途中で遮ってすみません、説明を続けてください」
俺は、上実に続きを促した。
「ハイパーサイメシアが発達障がいという分類から外れたのは、治療法が確立されたからでも、医学的に見て原因などが別のものと解明されたからでもありません。現在でも、両者は同カテゴリーと考えることは十分にできる、という立場が医学界ではとても有力です。それでも発達障がいという分類から外れましたのは、症状そのものを治療する方法は現在もありませんが、その症状を持ったままでも生活に支障がないようにする特殊教育プログラムが開発され、ほぼ完全に社会生活を送るうえでは問題がなくなり、もはやハイパーサイメシアの能力について治療が必要な『症状』あるいは症状が固定した『障がい』と考える必要がなくなった、ということです」
……上実の説明によると、瞬間記憶能力自体は何となくすごいことで治療など全く必要ないように思えるがそうではなくて、ハイパーサイメシアの人とっては、記憶力に優れるというよりも物事の重要性に応じて情報を取捨選択する能力と不要なことを忘れる能力に障がいがあるという方が適切な状態なのだそうだ。それで、かえって社会生活を送ることができずにいたらしい。溢れかえる視覚情報に押し潰されてしまうのだ。
そのうえ、その優れた記憶能力も、発達障がいの人全般に見られるような他人の感情を読み取る能力の弱さと引き換えの面があるのは共通なのだそうだ。要するに、コミュニケーション能力の一部を犠牲にして高い記憶能力を獲得している、というイメージらしい。まあ、ざっくり言えば人間あれもこれも、というわけにはいかない、ということなのだろうな。何となく想像はできる。
でも、『その能力、何となくもったいなくね? 治さないで使えばいいんじゃね?』というようなことを思ったやつはたくさんいたようで、この2万5000年もの間に何度も何度も失敗したり逆戻りしたりしながら、時には『障がい者なんて隔離すりゃいいんだよ』みたいな時代も何度も何度も経験し、あるいはその逆ブレで『障がいなんてそんなものは幻想だ。全ての区別をなくして共生すれば全部解決するんだ』みたいな時代も同様に何度も何度も経験しながら、結局『その能力もったいなくね?』派が特殊教育プログラムを実用化するに至り勝利したらしい。
その特殊教育プログラムの詳細は、
「非常に複雑で多岐に渡るため、省略させていただくことをお勧めいたします」
とのことだ。
ただ、おおまかな仕組みとしてはこうだ。
ハイパーサイメシアは情報の重要性の区別がつけられない障がいなので、そのことを逆手にとったような方法をとっている。特殊教育プログラムでは、幼少期よりあえて人間をデータベース化することを目指して、有益な情報だけを予め選択して目につく物ほとんど全てが有益な情報で埋め尽くされるよう工夫された教材と環境の中にハイパーサイメシアの人を入れてできるだけ無益な情報を入れないようにして大量の情報を詰め込み続ける。そうすると、しばらくしてさすがのハイパーサイメシアの人も一時的に詰め込める情報量の限界が来るそうで、その時を狙って、あまり重要でない情報や無意味な情報も溢れかえっている通常の環境で生活を送るようにするのだそうだ。そうすると、一時的にではあるが、あまり健常者と変わらずに、少なくとも大量に押し寄せてくる視覚情報に圧倒されることなく生活が送れる期間がある。その間に、通常の社会生活に必要なコミュニケーションについての勉強や訓練などを行い、しばらくして記憶能力に余裕が戻り始めたらまた大量記憶の環境に戻り、さらにまた限界がきたら通常の環境に一時的に戻る、というのを繰り返すのだそうだ。
そんなこんなを6年から18年くらい繰り返すと、情報提供サービス士様が誕生する、ということらしい。
「っていうことは……」




