ハイ&ロー【L】
ドアを開けると、もちろん野子がそこにいた。
ただ、様子が少し変だ。しかも渡した原稿の分量からすれば早すぎる。つまんなかったのか?
様子が変とは言っても、落胆、という空気とも何か違う。後から考えると、戸惑い、というのが1番近かったんじゃないかと思う。
「あの、あの……面白いです、こんなに細かく設定作ってたんですよね?」
野子は、何とも言えない複雑な笑顔を浮かべながら、何かを探るような言い回しで俺に尋ねる。
「う、ああ、設定は細かくなったかもね」
褒められているのだろうか?しかし、この微妙な表情と言い方は……。
イマイチ何を言われているのか自信がなかったので、とりあえず曖昧な答えを返してみる。しばらく、何だか緊張感をパンパンにはらんだ沈黙が流れる……。
「……文字、こんなにたくさん、本当にここまで作家の先生って設定にこだわりを持つものなんですね。すごいです」
文字?設定、こだわり……?
え、文字、文字か!?
浮かれ切っていた頭と心が同時に一瞬で冷えていく。
「ちょっと原稿見せてもらっていい?」
「あっ、はい」
俺は、野子から自分の原稿を受け取る。1枚目の原稿の最初の行を指さしながら、
「ここ、読める?」
「はい。たぶんですけど、『ねこみみしかいない……、おれ?たちの……』で始まっているんですよね?」
野子は、学校の先生に分かり難い英文の和訳か何かやるよう言われてそれに答えるような感じで、途切れ途切れに語尾を上げながら、俺が指した1文を読み上げようとする。
「その次の字は読めないですけど、『ぶかつどう』ですか?」
読めていない。確かにそんなに綺麗な字じゃないが、同好会を部活動と読み間違えることはあり得ない。野子は読めていない。俺の書いた文字をたぶん2万5000年前の古代文字としてそのまんまの形で認識している……。
むしろ、野子がきちんと読めるはずもない文字で書いてある原稿をそのまま読めたらおかしい、読めなくて当たり前だ。でも、じゃあなぜ昨日は読めたんだ?分からん、分からん、全然分からん。
(とにかく取り繕って一旦撤退しろ!)
頭の中で俺の本能が叫んだ。この状況ではそれが最善に思える。いや、むしろそれしかないだろ!
「はは、驚かそうと思って設定用の資料渡したんだ。ちゃんとした話の続きは、もうちょっと待ってもらっていい?」
かなり苦しい言い訳のはずだったが、
「あ、やっぱりそうなんですね。ホントにびっくりしました。でも逆に、設定用の資料まで見せてもらえて、すごく嬉しいです!異世界の文字まで創作してから作品作りに取り組んでいるなんて、本当に感激しました!」
ギリギリセーフ。いや、野子、素直過ぎて女神過ぎだよ、何がやっぱりだよ……。
とにかく、命拾いした俺は、野子から『設定用の資料』を取り返し、野子に謝ってから扉を閉めて部屋に逃げ込んだ。
(一体、何がどうなってる?)
部屋に戻った俺は、取り返した原稿をコタツの上に放り投げてから、頭を抱えて考える。
(いや、むしろこれが当たり前だ、今朝までが浮かれ過ぎてて野子なら読めると思い込んでただけだ)
そこまで頭を整理するだけで30分はかかっただろう。だが、そこから先がさらに進まない。
俺は、立ち上がって部屋の中をウロウロし始めた。足元には、開けっ放しのダンボール箱と荷解きした荷物がいくつも転がっている。
そのまままた1時間は過ぎただろうか。
「あっ!」
それまで頭にかかっていた靄の中で、突然何かがつながって思わず大声が漏れる。ダンボール、荷物……!
俺は、ダンボール箱のうち、文房具と原稿用紙が入っていた箱をもう一度探った。
「ない、ボールペンの方にはない!」
ボールペンなどの文房具が包まれていた薄いビニール袋の残骸を箱の中で見つけてつぶやいた。なら、原稿用紙の方か?俺は、同じ箱の中をまたゴソゴソ探る。
「あっ、あっ、あった、これだ!」
ようやく謎の答えに辿り着いた気がする。原稿用紙を包んでいたビニール袋に、白い封筒が貼ってあるのを見つけて俺は思わず叫んだ。




