市役所へ行く【心その7】
この世界では、話し言葉は問題なく通じるようだった。
問題は書き言葉、文字だ。
文字については、完全に別のものにとって替わられていたわけではなく、漢字とひらがな、カタカナの区別は元の世界と一緒でそのまま残っていて、個々の文字の形が少しずつ変化しているようなイメージらしい。なので、文字によっては全然俺の生きていた当時と変わっていないものもごくたまにあるし、変わっている文字も部分的に変化しているだけのものが大半なので、頑張って読めば、6割から7割くらいの意味は推測できるのではないか、というのが上実の見解だった。
さらに、アラビア数字と、アルファベットはほとんど変化していないので、
「そのままお読みになれると思います」
とのことだった。
なるほど、確かに数字は読めていたし、特に意識はしなかったが、市役所の2階で『JTS→』とか書かれていた案内のプレートは読めていた気がする。上実の話では、
「数字やアルファベットは元々の形が単純で、しかも世界のかなり広い地域で記号としても使われ続けているために、歴史的に見てあまりローカルな事情の影響を受けて変化することがなかった、と主要な言語学学会誌の複数の頁に掲載されております」
とのことだ。
「もし、2万5000年前に生きていた人が現代にタイムスリップして来たとして、その人が現代の文字を覚えるには、どうしたらいいですか?」
突飛な質問にも、上実は、質問の意味さえ明瞭な言い回しであれば少しも怪訝そうな表情をすることもなく流れるように淡々と答えてくれるので安心感がある。最初は、冷たい役所の人間くらいに思っていた俺だが、段々と上実のシンプルで誠実な対応に好感を覚えるようになっていた。
よく見ると、面長のかなり綺麗な顔立ち、肩の少し下の辺りまで伸びている飾り気のないセミロングのやや赤みがかった髪がサラサラしている。20代前半から半ばくらいだろうか。声も声優っぽいし、人気のアイドル声優とか言われたら、そのまま信じるかも。
まあ、それはともかくとして、この質問に対して上実から返ってきた答えもシンプルで実用的なものだった。
「この市役所の総合庁舎に併設されている中央図書館には、オーデイオブックコーナーがございます。そのコーナーには、幼児、小学生、中学生向けに、それぞれひらがな、カタカナ、そして常用漢字の学習用のオーデイオブックが合計16冊ございます。それらは全て、CDから流れる音声に合わせて文字の書き取りを行うものとなっておりますので、それらのオーディオブックを利用すれば、2万5000年前からタイムスリップして来た方であっても、順番に文字が覚えられます」
本当に頼りになる女だ。これで、時間さえかければ文字問題は何とかなりそうな気がする。助かるぜ。でも、あったんだ、CDって。
「ちなみに、あなたがつけているネームプレートのお名前、何とお読みするんですか」
ちょうど正午を迎えるギリギリの直前になって、最後に、ふと気になった上実のフルネームの読み方を尋ねた。
「私の名前は、上実心と読みます。……それでは、業務終了時刻となりましたので、情報提供サービスをここまでで終了させていただきます。ご利用ありがとうございました。手数料は、1400円となります。この伝票をお持ちになって、1階正面玄関脇ににございます出納課で手数料をお支払いください」
上実心は、説明の途中で事務机の端に置いてあったデジタル式の目覚まし時計みたいな形の箱についているボタンを押して、利用時間を示していたらしいカウンターを止めてから、そう言った。