市役所へ行く【心その5】
これまでの(すでに終わった)人生の中で、他人が話している言葉が聞き取れないことはいくらでもあったが、言葉自体は復唱できるほど明瞭に聞き取れているし単語レベルでの意味も完全に理解できているにもかかわらず、その言葉の意味が飲み込めなかったのは、もしかすると初めてかもしれない。
「……すみません。今のお答えをもう一度言っていただけますか」
「はい。杉田様が利用申込書にお名前とご住所を記載なさった際にご使用になられた文字は、約2万5000年前に日本で使用されていた日本語を表記するための文字です」
上実は、一字一句違わずに、おそらくはイントネーションも完全に同じ抑揚で、先ほどの回答を繰り返した。
俺には、何をどう考えたらいいのか分からなくなった。言葉も出ない。
(もしかして、ここは日本とほとんど同じ設定の異世界ではなく、まんま日本そのものなのか?)
1分くらい沈黙した後、ようやく俺は次の質問を言葉にすることができた。
「あの、今は西暦何年ですか」
「本日現在、西暦2万7025年です」
来ちゃったよ、そう、来ちゃったんだよ、2万5000年もの未来に。俺が死んだのが西暦2025年だから、ぴったり2万5000年後だ。しかし……。
一体どういうことだ、何もかも分からないことだらけだ、いやむしろ何1つ分からない。さすがにこの状況では分からなくて当たりまえだが。何なんだ。どうしてここが2万5000年後なんだ。文字が少し違ったりするけど、ほとんど2万5000年前と変わんないじゃないか!
◇◇◇
……何を尋ねればいいのかよく分からなかったが、とにかく土曜日の窓口業務が終わる正午までの約1時間ちょっとの間ずっと、俺は何でも思いつくままに、この世界についてと、俺のいた世界がこの世界になるまでの間に起きた出来事について、上実に訊きまくった。
結果としては、この世界に至るまでの歴史については、正直、あまり大したことは分からなかった。巨大隕石が直撃したとか、終末戦争が起こったとか、地球温暖化で陸地の大半が海に沈んだとか、何だかよく分からない超強力太陽フレアの影響とか、とにかくそういう人類滅亡的な巨大イベントが何もなかったからだ。それでネットもパソコンもスマホもないって、おい人類、一度ミジンコにでも退化したのか?
「いいえ。人類はミジンコに退化しておりません。これまでの進化の過程においても、人類がミジンコと生物学的に直接交わった時期はありません」
上実は淡々と解説する。そりゃそうだろ、たぶんだけど知ってました……。
「100年単位では人類の文明はほぼ一直線に発展することができますが、現在では、文明は1000年単位になりますとそのような一直線な発展を遂げることはできず、必ず科学技術も含めて衰退する期間が必要となることが文化人類学的に解明されております」
結局、西暦2025年以降も、少しは科学技術も発達していった時期もあったようだが、それでも人類は別に超時空航法とかを発明して銀河系の外に飛び出して行ったりしたわけではなく、何やかんやしているうちに、上実の話では必然的なものらしいが、何となくフワッと少しずつ1000年単位で衰退して行き、かなり衰退しきった頃にまた少しずつ発展に転じ、またしばらくしたら衰退し、その後またまた盛り返し……、というようなことを延々とやっているうちに、とにかく今に至ったということらしい。すごくフワッとしているが。いや本当に……。
ぶさけてんのか、それとも仕事で何か嫌なことでもあったのか、神様よ。
「それにしても、私が知っている範囲で言えば、西暦2000年頃から今までほとんど人類には変化がないように見えますが、その認識は間違っているのでしょうか」
そう、『知ってる範囲』も何も、俺、その時代しか知らないから。
「間違っているとは言えません。西暦2000年から現在までには大きく変化したこともございますし、全く変化していないもの、時間と共に消えていったものなど様々ございます。杉田様の着目なさるものによって、『ほとんど人類には変化がない』とお感じになったとしても、必ずしも間違っているとは言えないということになります」
分かるような分からんような……。ただ、ふと、昔小説のネタ集めのために読んだ物理学か何かの記事の一文が浮かぶ。
(人間に認識されることによって初めて世界は生まれる、か……)
ようやく西暦2万7025まで辿り着きました。ここまで思いがけず色々な方にお読みいただき本当にありがとうございます。




