剣霊協会規定第十三条
逃げろ。ひたすら逃げろ。
己の中が体に言い聞かせようと単純明快な言葉で語り掛ける。だが、やみくもに逃げる事にユストは疲れを感じていた。疲労という、態の良い言葉では生ぬるい。何もかも投げ出したくなるだるさから生じる疲れだ。それでも足は勝手に動く。迫り来る恐怖と晒された危険を回避する為に前へ前へと進む。
先に安息が有るのかは判らない。されど後戻りは出来ない。追っ手に捕らえられる。中央王立国家は倒れ、中央行政府と名前を変えた。王立軍の一兵卒であるユストは敗残兵狩りという血に飢えた狂猛な追撃から逃走していた。敗残兵を捕縛した者には一人あたり中央金貨一枚の褒賞が約束されていると聞く。金貨の為なら軍隊に所属しない民間人も我先にと扱い慣れない剣や槍を抱えて襲い掛かる可能性は非常に高い。金に目が眩んだ者など誰一人とて信用は出来ない。だから後ろや横ではなく、前に逃げなければならない。
秩序のあらましを示す軍服は所々が破け、汚れてしまった。腰に携える剣は刃こぼれが激しく、野に咲く花も斬れないであろう。いや、頼りにする剣はこんな出来合いの品ではなかったとユストは訝しんだ。自らが柄を握るのは剣霊が宿りし逸品である。鞘を持たない抜き身の剣は常に自らの前に立ち、幾多の困難を共に乗り越えた。動く足を止めずにベルトに掛けてある固定具を解除する。無残な音と共に斬れなくなった剣は地を打った。別れの言葉を掛けず、労いの視線を送らずにユストは当ても無く前へと急ぐ。目の前に一人の女性が見え始めた。腰から下まで伸びた白銀の髪が美しい姿は五年前に契約を結んだ剣霊イルサーシャに違いない。助かったという思いが気だるさに打ちひしがれた腕を自然と前へと伸ばさせる。
「待っていたぞ、ユスト。」
嘆願を思わせるユストの有様を緑色の瞳は静かに捉え、その奥には何物にも代え難い悲しみを携えていた。
「答えろ。マナエグナとは何なのだ?」
動く足が止まった。伸ばした手は届かず、またイルサーシャもその手を取ろうとしなかった。
「何故、そなたはマナエグナという言葉を我に伝えなかった?」
膝から落ちたユストを見下ろすイルサーシャは左の耳を触り、自らの足元にピアスを落とす。暗い床がピアスを飲み込んだかと思うと共にペインの巨躯が姿を現した。ユストの頭の上で喰らいつかんと口を開けてイルサーシャの指示を待っている。
「まぁ今更そなたの言い訳を聞こうとは思わないがな。」
次に右の耳に触れたかと思うとユストに向けてピアスを投げた。実体となったソロウがユストの体に絡み付き、自由を奪れた。
「マナエグナとは長年探していた我の謎を握る鍵なのだ。その言葉が判った以上、そなたと共にする必要が無くなった。この五年の間、なかなか良い関係を築いていただけに残念だ。」
踵を返したイルサーシャが遠退き始めた。
「さらばだ、ユスト・バレンタイン…。」
ソロウの強靭な肉体が肌に食込み、ペインの口の中に広がる漆黒がユストに迫り始めた。あまりの苦しさはユストの口を動かした。
「イルサーシャ、お願いだ、愚生と共にいてくれ!」
心の声は口を動かし、動いた口は音を発した。輝かんばかりの星々に見守られながら自らの声にユストは我に返った。
夢であった。心臓が暴れているのが手を当てなくても判るぐらい酷い夢だと思い、次にここで何をしているのかと頭の中で時間を遡らせる。第二グッドキャッチ号はノエミリオ本島に辿り着く前に海龍に砕かれ、海に放り出されてしまった。あぁ、そうだったとユストは深い溜息を漏らし、不意に出た咳が飲み込んでいた海水を吐き出させた。意識が遠退く間際に揺らめく海中で見た光景を思い出し、頚動脈に手を当てる。
一本の白い腕がユストの霞んだ視界に映った。イルサーシャかとユストは頚動脈に触れていた手を伸ばして掴もうとしたが、避ける様に引っ込められてしまった。誰の腕だ、と眉間に力を込める。潮に浸かっていた目が沁みる様に痛みを訴えていた。
「大丈夫ですか?」
聞き慣れた声はイルサーシャではなかった。ミゼレレのものである。海水で濡れた髪は薄緑から深い緑色に変化し、身を包むドレスは霊体に貼り付いて彼女の持つ曲線を艶かしく表現していた。
「愚生は…何か言っていましたか?」
声が出せると改めて自覚した。それは新月の日を迎えたという証拠である。
「可哀想に。心のわだかまりが恐ろしい夢となってしまったのでしょう。」
「えぇ。夢で良かったとしか言い様がありません。それよりも…。」
自身が頼りとするイルサーシャは、そしてミゼレレの愛情を一身に受けるシェス・ロウは、と目を細めて辺りを見回す。だがユストが望む人影は細かい砂で形成された浜辺には見当たらなかった。
「二人は我たちから少し離れた所に流れ着いた様です。」
全てを哀れむ瞳の柔らかさは変わっていない。その表情からして二人の安否に気を揉む必要は無いのであろう。ならばとユストは身を起こそうとしたが、体は意思の通りに動かなかった。
「無理はいけません。今はそのまま安静にするべきです。」
夢でうなされたユストの顔を覗き込むミゼレレの額から水滴が零れ落ち、形の整った顎先へ伝わり、ユストの頬に落ちた。
「いや、ここは愚生の事よりもミゼレレ、あなたに付着した水分を早く除去しなくては取り返しのつかない事になる。早く剣体に戻って下さい。」
夜のさざ波は静かに一定の間隔を置いて音を奏でている。耳に心地良い響きに呼応するかの様に一呼吸置いてミゼレレは首を横に振った。
「それは出来ません。剣霊の剣体に触れられるのは契約者のみとイルサーシャと共にするあなたは熟知しているでしょう?人間の婦女で言うなれば生涯を共にすると決めた者以外に己の裸体を晒すのと同じなのです。」
裸体を晒す。意味合いは違うが、海中で見た一振りの剣はミゼレレの剣体に違いない。何を今更、とユストは思ったが、剣には剣の言い分も有るのであろう。
「あの剣の事はどうぞお忘れ下さい。我とてユスト・バレンタイン、あなたを助ける為に止む無き手段を選ばざるを得なかったのですから。」
全てを包み込む哀れみの瞳が静かに閉じた。止む無き手段という結果は自責の念あるいは羞恥心を生んだのか。ミゼレレのいたたまれない表情を直視するべきでは無いとユストは顔を横へ背けた。再び水滴が一滴、ユストの頬を打ち、口元へと流れる。塩辛い味が伝わった。潮水なのか涙なのか。それも理解してはいけないとユストは思った。
「判りました。剣体の件は忘れます。ただ、愚生はあなたの霊体に触れる事が出来ません。何か良い方法はあるのですか?」
横に向けたままの顔の先に地に降ろしたミゼレレの腰がある。力無く佇む優美な曲線はもの淋しげにユストには映った。
「剣霊協会規定の最後の一条をご存知ですか?」
「確か、第十三条でしたか?半年前に規定に追加されたと覚えています。」
えぇ、と静かに答えたミゼレレの優美な曲線がユストに近寄った。剣霊協会は所属する剣霊使い達に幾つかの規定を遵守させている。第十二条は剣霊使い同士の手合わせは無益であり人材を失う事もあり、厳禁と記されている。では規定の最後にあたる第十三条とはどのような内容か。非常時に於いては他者と契約をした剣霊に自らの血を分け与えよとあった。卒無く並べられた言葉が織り成す現実は極めて酷な状況を示唆するものである。ようはイルサーシャの知らないところでミゼレレに食事を与えろという指示に他ならない。剣霊にとって契約者の血は霊体を保つ源であり、誰の血でも良い訳ではない。剣霊が執着するのは二つの事柄である。柄を握る者、つまり契約者の選定が一つであり、その契約者の体内に流れる血の全ては己自身の物と決め込むのが二つ目である。そもそも第十三条に則った他の剣霊へ食事を与える具体的な方法をユストは知らなかった。
「今置かれた状況からして十三条を適応するしかないと我は考えますが。」
「愚生の腕なり手首なりに口を付けるという事でしょうか…?」
「それでは口を付けた瞬間にあなたを刻んでしまいます。」
背けた顔をそのままにユストは視線をミゼレレの顔へと向けた。ここは自らが海の藻屑とならずに済み、しかもその為に止む無き選択を強いられた神剣霊に酬いるべきなのか。
「具体的にどうすれば良いのか愚生にお教えいただけますか、第十三条を。」
「それは…。」
ミゼレレは俯き、普段よりも小さい声で語った。
「第十三条とは唇を重ねる。そう、簡単な事です。」
濡れた髪が星の瞬きを撥ね返し、頷く神剣霊の横顔を鮮明に映し出している。イルサーシャがこの事態を知ったらどうなるだろうか。先程見ていた夢が現実になるのだろうなとユストは思った。
「恐らくシェスとイルサーシャも我たちと同じ境遇なのでしょうね。」
ミゼレレ自身も大事にしているシェス・ロウの血をイルサーシャに分け与えるのは心苦しいのであろう。細めたままの双眸はミゼレレらしさが覗えない。落ち着きが無いと言えばそれまでだが、己の中で問答をしているのであろうと思いながらユストは顔を上に向けた。
「唇を重ねるとは何であるか、ユスト・バレンタインはご存知ですか?」
人間であれば愛情から生じた行動と表現出来る。だが相手は剣霊である。人間ではない。知らないと返事をする前にミゼレレは微笑の形を唇に与えた。子供をあやす様な優しさが半分、残りは欲求の前に立たされた昂ぶる心を自制している様な趣が覗えた。
「我の姉である剣霊帝の食事の摂り方なのです。唯一無二の剣と同じ場所で食事を摂るのは恐れ多いと姉以外の剣霊は他の部位に自ずと口を着ける様になりました。第十三条とは我の姉を真似る事で一時的に力を得る事なのです。二十分の食事で…そうですね、五時間は契約が結ばれた状態でしょうか。」
五時間か、とユストは思いつつ体を仰向けに戻した。星の位置からして夜明けまで効果は持続する案配であろうか。日が沈み終わる頃から気を失っていて助かったとは運が良いとしか言い様が無い。
「二十分ですか。気を悪くされない事を願いますが、イルサーシャより長い食事ですね?」
「人間と同じく、剣霊にも食事の量と速さはその数の分だけあるのですよ。」
「あと一つ、気になる事が…。」
「食痕なら残りません。先に言った様に一時的なものですから。」
「そうですか…。」
新月を迎えようとも神剣霊が人間の心を読む能力は衰えていなかった。濡れた髪を一つに手繰り寄せたミゼレレの顔が近付く。吐息も無く、女の匂いもしない。これから重ねるであろう唇は虚ろに開き、女でしか出来ない形を保っていた。
ユストの視界から星空が消え、いつもの冷たい感触が唇から伝わり始める。ミゼレレは第十三条に則った食事を摂り始めた。痛みなど無い。ユストの額にいつよりも優しさに溢れた手が触れ、彼の黒い髪の感触を味わおうとそのまま後頭部へと潜り込む。剣霊が血を摂取した事により互いを知る時間が許され始めた合図でもある。ユストも左手をミゼレレの頭に置いた。指先が冷える。髪の形状や色合いは自らの剣霊と異なるが、触れた感覚は同じなのだな、と思う。大地の意思であろうと人間の意思であろうと剣には変わりない。いつもなら百年香の爽やかな香りが鼻孔をくすぐるが、今回は望めないであろう。その埋め合わせと言わんばかりにミゼレレの唇よりも奥にある舌がユストを探し始めた。先と先が触れた時、僅かな躊躇の色を互いに示したが、たがが外れた様に舌同士が身をくねらすと共にミゼレレはユストの上に体を預けた。濡れていようとも冷たかろうとも、女の肌が持つ独特の感触が判る。女の柔らかな胸が男の固い胸に密着し、後頭部に触れていない空いている手が頬を撫で始めた。ユストも髪を撫でていない手をミゼレレの腰に回す。二つの手は互いの体の線を舐める様に動き、やがては自ずと握り締め合う。重なる二人の耳にさざ波の心地良さは無用になり始めていた。
二十分。砂浜に横になっていたユストは長い時間だと言った。それは間違いであった。一時間の時の経過をして、さざ波の音がユストの耳にまとわり付き始める。肩で息をし、この場で倒れ込みたい脱力感を伴ったユストの瞳には無情に輝く星々は映ってはいない。映っていたのは黒子や傷の無い、きめ細かな肌を露にし、唇以外も重ねたという余韻に身を置いた神剣霊が豊かな髪を放射状に広げて横になる姿に他ならなかった。
大地は焦がれ、人間は悦を知ってしまった。
ミゼレレの潮水で濡れた背中、と言うよりは砂が付着した背中を丁寧に拭き上げたユストは固く絞ったスカーフを広げて元あった首筋に巻きつけようとしたが、途中で止めた。イルサーシャが目の前に居る訳でもなく、誰もいない夜空の下で食痕が露呈していても差し詰め問題は無いだろうと感じたからである。おもむろに歩き始めたユストは砂浜の所々に転がっている流木を集め始めた。裸体のままのミゼレレはユストの横を歩き、その横顔を見つめていた。少し下に目を向ければイルサーシャの食痕が目に映り込む。眉をひそめて顔を背けるミゼレレは女の表情をしていた。
集めた流木に火が灯った。煙草に火を点ける為にユストが所持していたマッチは海水に浸り、使い物にならない。大気を操るミゼレレの指先が灯したのである。海や川を流れに流れた流木の表面は固い。樹皮は勿論の事、軟質な皮質は容赦無く当たる岩に削り取られ、残っているのは水分を寄せ付けない固い部分である。固くて軽い流木は良く燃える。仄かな温かさが肌を通じて伝わると共に、ユストはこのノエミリオと思われる島に辿り着いて以来、安堵の溜息を初めて漏らした。
流木集めのついでに食料も用意した。名前は判らないが手頃な果実を結んだ木から拝借した。柘榴色に似た重々しい色の果実はミゼレレが言うには人体に影響する毒素を含んではいないとの事である。暗い赤は凝固を始めた血に似ている。敢えて言うなれば食痕の色にも通じる。イルサーシャ以外の剣霊に食事を与えたユストの唇へ食痕に似た色の果実を運ぶ。瑞々しさは有るが、甘さは広がらず、酸味も感じられない。味気無いが、喉が潤い、胃に水分が染み渡った。続けて二口目でかじり取った果肉を飲み込と共に火にくべた流木の弾ける音が鳴り、ユストの注意を惹いた。
「我はシェスにこう教えました。人間は食事の最中でも会話という意思の疎通が出来る唯一の生命だと。それはとても貴重で喜ばしい事であり、常に心掛けるようにとも伝えました。間違えではありませんよね?」
なるほど、とユストは思った。動物は何かを食べる際は満足を覚えるまで口を動かし続け、人智を凌駕する剣霊に至っては口を付けたまま静かに目を閉じているだけである。
「えぇ。あなたの教えは正しい。ただ、愚生は何から喋れば良いのか思い悩んでいました。」
「思い悩む、とは?」
揺らめく炎が片手を砂浜に着けたミゼレレの滑らかな起伏に富んだ顔を余す所無く表現している。露になっていた胸元は豊かな髪で覆われ、その上を空いている腕で覆い隠す様に押さえていた。ユストは放置されていたミゼレレのショールを手許に寄せると乾き易い様に炎の前で広げた。
「ミゼレレ、あなたも人が悪い。愚生が夢でうなされていた原因についてです。」
「マナエグナですか…。」
ユストは新たな果実で喉を潤した。ミゼレレの姉であるインファンティラと戦った際に彼女が最後に放ったマナエグナという言葉は人間の記憶が無いイルサーシャの過去を語る上で最も重要な鍵であろう。あれから二ヶ月の間、ユストは行く先々で古書に目を通したが、マナエグナに関する記載を見つけられなかった。己が把握していない中、イルサーシャには伝えられない。仮に伝えても彼女は首を捻り、見知らぬ過去について更なる謎を深める可能性は充分に有り得る。それでは困る。悩む剣は切れ味を曇らすからだ。
「マナエグナとは何でしょうか。」
新たな流木を炎の中に投げ込む。ミゼレレの髪は乾き始めている。深い緑色が徐々に軽やかになっていた。
「およそ五百年前の人間は争いに身を置いていました。領土を奪い、民を服従させる。争いとは呆れるほど単純で明確であり、残酷なものです。マナエグナとはその犠牲として滅亡した、とある民族の名です。彼らは神を慕い、他との接触を好まず、平穏な暮らしを望みましたが、隣国の侵略に抗えずに歴史の中に消え去ったのです。」
「神を慕うとは、剣霊を崇めていた事を意味するのでしょうか?」
「いいえ。マナエグナの民は独自の崇拝対象を有しておりました。確か二体の神、イルセリアとイルイザリムという名であったと覚えています。」
イルセリアとイルイザリムとはどの様な神であろうか。ユストがイルサーシャのそれぞれの耳からぶら下がる蛇を思い描いたのはごく自然な行動と言える。だが、どちらがイルセリアで残った方がイルイザリム、と想像するよりも前に疑問が生じた。イルサーシャは二匹の蛇を我の従者と度々表現している。崇拝の往き付く先を従える人間の女というのは少々出来過ぎた話である。確かにソロウとペインの力は頼れる。常人の考えや理屈など通用させない強さがある。しかし彼らには悪いが神にしては神聖味に欠ける。腹を満たすべく飽くなき欲求を訴える神を崇めるほど、過去の住人であったマナエグナの民たちは妄信の迷路から抜け出せなくなっていたのであろうか。それともまた別の神々しい何かが存在したのか。民の記録が見つからず、その崇拝対象も同じく闇に消えたままである。謎が謎を呼び始めた。普段であれば気を紛らわすのに煙草を用いるが、今回は海水に浸って役目を成しそうになかった。
「残念ですが、これ以上は我の記憶の泉から浮かび上がる言葉はありません。しかし…。」
「しかし?」
「我の姉ならば更なる知識を有していると思います。」
ここで言うミゼレレの姉とは創造の剣霊ではない。絶望の剣霊の方であろう。つまり剣霊帝に教えを乞うというか。ユストは手にしていた果実を口へ運ばずに砂浜に置いた。
「剣霊帝様は人前に御姿を見せないと愚生は聞いておりますが?」
「人間を生かしたという自らの労を実感したく思われた姉は年に一度、剣霊と契約を結んだ者の中から一名に謁見を許します。ユスト・バレンタイン、今回はあなたにその機会が巡る様に取り計らいましょう。」
「このままコノリギスへ向かえば宜しいのですか?」
「えぇ。このノエミリオでの任務を終えた後で大丈夫ですよ。剣霊帝というお立場も御座いましょうが、我の姉サリシオンはあなたを気に入る事でしょうね。」
「愚生としてはそうあれば、と願うだけです。」
ミゼレレは胸元を覆い隠す腕をそのままに優しげな笑みをユストへ送る。立ち上がったユストは先程手繰り寄せたミゼレレのショールの表面に触れ、水分が蒸発したのを確認した後に露になっている女の背中に回り込んだ。ミゼレレの両肩に広げたショールが掛けられた。
「デルロアへの馬車の中でも同じ様な出来事がありました。あの時、我はとても嬉しかったのです。」
「そうでしたか。今回はもう少し手を加えさせて貰います。」
ユストの気遣いは吹く風にさらわれない様にと垂れ下がるその端と端を結び、その結び目を右肩の上へとずらす。大気に晒されていた胸と背中がショールの下に包み込まれた。胸元を覆い隠す腕を楽にしたミゼレレの手がユストの手に伸びたが、何かに気付いたかの様に動きを止めた。
「今一度あなたの手に触れても…宜しいですか?」
「いや、それは止めるべきです。」
辿り着くべき場所を失った白い手がもの悲しげに膝の上に置かれた。
「ユスト・バレンタインの手はイルサーシャを握る手でしたね…。」
己を言い聞かせるかの如くミゼレレは嘯く。無用な事を言わせてしまったとユストは後悔の味を噛み締めた。
ユストとミゼレレが流れ着いた砂浜から直線で一キロメートル程の距離を置いた場所にてシェス・ロウは目を覚ました。きっかけを作ったのは常に自らの横に立つ薄緑色の豊かな髪をした剣霊ではない。二ヶ月前に出会ったばかりの白銀の長い髪をした剣霊である。彼女は誰かと会話をしている。その声で目が覚めた。
「駄目だ。それは断じて我が許さん。」
相手は誰だろうか。彼女と契約を結んだユスト・バレンタインと口論でもしているのだろうか。自ずと目が開き、満天の星が剣霊障から開放された若き剣霊使いを出迎えてくれる。故郷であるコノリギスの夜空も息を呑むほどの絶景ではあるが、この輝き具合には少し負けたなと思う。
「そなたたちは我慢という言葉を知らないのか?我とてこうも濡れて弱っているのだ。」
複数の者を相手にしている様子だが、彼女の声しか聞こえない。ユスト・バレンタインなら自分と同じく煩わしい剣霊障から解き放たれて声が出せる筈だ、と理解しているシェス・ロウは声が聞こえる方に顔を向けた。何気ない動作は首筋、厳密にはミゼレレの食痕付近がずきずきと痛みを感じさせる。彼女に何かあったのだろうかと不安が過ぎり、口を開かせた。
「イルサーシャ、ミゼレレは何処?」
長い髪の下に隠れている耳の下にそれぞれ二本の指を当てている、いわば不可思議な格好をしていたイルサーシャの緑色の瞳が横たわる少年に向けて動いた。
「気が付いたか。ミゼレレならここにはおらん。ユストもだ。」
「状況からして…はぐれた、のかな?」
「そうであろうな。とはいえ、御身が無事でなによりだ。」
両手をそのままにイルサーシャの切れの長い目尻が細くなる。荒事は任せろと気丈夫この上ない剣霊にもこのような表情が出来るんだ、と二ヶ月ぶりに見る華麗な姿の影響もあるのか、シェス・ロウは顔が熱くなるのを感じていた。
「ところで、イルサーシャはさっきまで誰と喋っていたの?」
あぁ、と軽く返事をしたイルサーシャの両腕が初めて動いた。隠れていた両耳がノエミリオの空気に晒される。横髪を耳に掛ける仕草は年上の女性そのものであり、シェス・ロウの鼓動を高鳴らせた。
「こやつらが腹が減ったとうるさくてな。目の前に極上の血が転がっているから早く食わせろとせっつくものだから叱っていたのだ。」
年上の女性の耳からぶら下がるピアスが彼女の言うこやつらの正体である。銀色の髪が煌く星々の様に輝き、黒い蛇たちはその光を反射させ、妖しげな雰囲気を醸し出していた。
「極上の血って、もしかして僕の事?」
「いかにも。神剣霊が認めた血は別格であろう?」
「…怖いな。そんな彼らを従えるイルサーシャも大変だね?」
「我にとっては騒がしいだけだ。それに今、怖いと言ったが、そなたを遭難から救ったのはソロウなのだぞ?」
右耳のピアスを人差し指で弾いた後にイルサーシャは第二グッド・キャッチ号が大破する時の状況を説明した。船酔いに苦しみ、体力を消耗したシェス・ロウは船室で床に伏せ、その脇でイルサーシャは船窓から海中を泳ぐ魚を眺めていた。大小の群れが通り過ぎる中、巨大な影が近寄ってくる。敵意が感じられない上に海という未知の世界に於いて彼女の策敵能力は発揮されなかった。巨大な影が海龍と判明した時には既に第二グッド・キャッチ号は穏やかな波の上にはいない。イルサーシャは咄嗟の判断でソロウを布状にしてシェス・ロウの体を包み込み、頚動脈を締め上げて気を失わせ、自らもペインに同じ様に包み込めと指示をしたのである。
「そうだったんだ。有難う…。怖いなんて言ってしまって、ソロウは気を悪くしていないかな?」
上半身を起こしたシェス・ロウは首筋に手を当てながらはにかんだ笑みを口元に見せた。
「気にするな。感謝の言葉で充分だ。」
「でも、僕はたいして濡れていないのにイルサーシャは…服が肌に貼り付いているよ?」
「ソロウには死に物狂いでそなたを守れと命じたが、我自身については何も付け加えなかったらこの有様だ。体に纏わり付く潮水が気持ち悪くてついつい緩んでしまったとペインは弁解しているが、単に怠けただけだと我は思っている。」
ユスト・バレンタインは毎日この様な話に耳を傾けているのか、とシェス・ロウは思った。彼の事だから半分呆れた顔をして鼻から煙草の煙を出しているのであろうと頭の中で表情を描いた。
「面白い二匹だね。親近感が少し湧いたよ。」
「そうか。そこでそなたにお願いがあるのだが。」
イルサーシャは大儀そうに立ち上がるとシェス・ロウの前で背中を向けて再び腰を降ろした。
「我の服を脱がせてくれないか?濡れたボタンに触れるのはどうも気が引けてな…。」
濡れるのを嫌う両手が白銀の長い髪を左右に掻き分け、潮の香りの中に百年香の匂いが混ざった。普段は視力を閉ざされているシェス・ロウにとって、この香木の爽やかな匂いがイルサーシャそのものであり、彼女が目の前にいるんだと改めて実感した。等間隔に縫い付けられた五つのボタンが姿を現す。琥珀を削り出し、滑らかな色合いの中に封じ込められた白い縞模様はシェス・ロウの好奇心をくすぐろうと、少年のまだ固くなっていない柔らかな指を待ち望んでいる。
「駄目だ。僕はイルサーシャの契約者じゃないから出来ない。」
「ほぉ。それは間違って我に触れれば傷を負うという恐怖によるものか?それとも女の柔肌に対する恥じらいがそうしているのか?」
「…両方だよ。僕だってもう十二歳を過ぎたんだ。」
「そうであったな。」
馬鹿な相談を持ちかけたものだとイルサーシャは自らに失笑した。致し方ないと細い人差し指が背中の中央へと廻り、一番下のボタンの留め糸を捜し始めた。生地同士が重なる隙間に指を差し込み、そのまま上へと上がる様子をシェス・ロウは見つめていたが、彼女の指は動かなかった。
「糸を切り飛ばさないの?」
「そのつもりであったが、先日このボタンを縫い付けてくれた、ある夫人の優しい横顔がちらついて、ためらいが生じてしまった。何か良い方法はないものか…。」
「優しいんだね、イルサーシャは。」
「そなたの剣霊には敵わんよ。」
布が擦れる音が聞こえた。とても滑らかな音だ。怪訝に思ったイルサーシャは人差し指をそのままにして首を動かす。シェス・ロウは首元のスカーフを解いていた。ユストと同じく黒字に金の刺繍が施された剣霊協会所属の証であるスカーフが風に揺られている。違うのは記されている番号と食痕の大きさだろうか。イルサーシャの食痕はユストの頚動脈付近に彼女が口を開いた時と同等の大きさで残っているが、シェス・ロウの場合は首周り全体が赤黒く変色している。
「そなた、それは…。」
これにはさすがのイルサーシャも目を剥いた。
「ミゼレレの食痕だよ。剣霊協会の規定で第十三条についてユスト・バレンタインから聞いた事はある?」
「非常時に他の契約者の血を得るとは聞いてはいるが、その手段については我は聞かされていない。そもそも常に契約者の前に立つ剣霊にとって非常時というのは死と直結している状況ではないのか?」
「でも、今が非常時だと僕は思っているよ。」
シェス・ロウの正しい状況判断の前にイルサーシャの思惑は意味を成さなかった。
「で、我はどうやってそなたから血を貰えば良いのだ?」
体の向きを正面に直したイルサーシャの緑色の瞳にシェス・ロウが映る。剣霊を目の前にしても堂々として落ち着いた雰囲気は幼かろうとも剣霊使いとして彼が一流である事を物語っていた。
「ミゼレレの食痕に口を付けるんだ。他の剣霊の食痕から血を摂る。それが第十三条だよ。」
食痕とは剣霊が契約者と認めた痕跡と表現されているが、剣霊の立場からすれば料理を食い散らかした皿とも言える。故に人目から隠す様に促す。つまり、今のイルサーシャは助かりたければ他者が食い散らかした皿に口を付けろと指示を受けたのである。拒否すれば刃が塩分に侵食され、剣としての命脈が絶たれてしまう。それではユストに申し訳が立たない。腹を括るとは正にこの事かとイルサーシャは感じていた。
「ユストはその事を知って我に黙っていたのだろうか?」
「いや、恐らく彼自身も知らないと思うよ。第十三条は半年前に規定に加わったんだ。」
「とはいえ、そなたの方がユストより若い番号を所持しているであろう?」
「僕は協会の本部があるコノリギスにいたからね。」
「まぁ、凡そは理解したが、一つ確認しておく。シェス・ロウ、我はそなたを知ってしまうが、悔いはしないか?」
剣霊は摂取した血から、その者の過去や心身の全てを読み取る。いわば裸同然にされてしまう。常人であれば臆するのが普通であるが、神剣霊が認めた契約者は確固とした意思と共に首を縦に動かした。
「僕にやましいものは無い。だから安心して。」
「そなた、将来は立派な男になるであろうな。」
人間とは言わずに敢えて男という言葉をイルサーシャは使い、その響きはシェス・ロウの口元を喜びの形にさせた。食事がし易い様にと小さな顔を右に傾ける。それにしても物凄い食痕である。赤黒い一帯は大小の血管を浮き上がらせ、その中を流れる血の動きが星空の下であろうとも如実に見て取れる。イルサーシャは初めて他の剣霊の食痕を目の当たりにしたが、これが神剣霊の力の源であり、力を得る代償なのかと憶測を生じさせる程、痛々しい。覚悟を決めた面立ちのイルサーシャは白銀の長い髪を持つ頭を他の剣霊の食痕に近づける。目を閉じ、ユストしか知らない唇を動かした。
「すまない。」
シェス・ロウの首筋に冷たい感触がいつもの様に伝わった。白くて可憐な、全てを切り裂く手が小さな胸板に添えられる。脈拍を知ろうとしている。やはり優しい剣霊だなと思いつつ、シェス・ロウは目下の白銀の長い髪を眺めていた。食事を始める前にすまない、とイルサーシャは言った。彼女の言葉の行き着く先は血の提供者である若き剣霊使いに対してなのか。先に食痕を残した神剣霊に対してなのか。それとも彼女の正式な契約者に対してなのか。どれも当て嵌まるであろうとシェス・ロウは思った。だが、数字の悪戯ではないが、一つを三つに等分は出来ない事も彼は知っていた。イルサーシャの心の声という一つは三名に振り分けられたが、最も比重を置いているのはユスト・バレンタインなのであろう。それは幼心ながらに少し羨ましくも感じていた。
シェス・ロウにとって百年香という女の匂いを纏う白銀の長い髪はノエミリオの夜景よりも魅力に溢れていた。