哀れみの樹(いつき)
陽が沈み掛けている。橙色の世界は陸地だけのものではなかった。煌く海面は幾重にも重なる波を作り出し、斜陽のありとあらゆる表情を余すところ無く映し出そうとしている。そして一時間もしないうちに暗い世界が訪れるであろう。
(なぁユスト、そなたまだ不服のか?)
船尾で腰を降ろして舵を握るユストに寄り添うイルサーシャは頬を頼れる胸に密着させていた。僅かな間の色彩を目と肌で愉しむ喜びを人間はもとより、剣霊も知っているのであろう。
(いや。今となればあんなイカサマをよく思いついたなと感心しているところだ。不服というよりも寿命が縮んだと愚生は思っているよ。)
(寿命か。そなたの命の灯火はそれぐらいで揺らぐとは思えんよ。)
可憐な白い手には剣霊協会から支給された黒字に金の刺繍が施されたスカーフが握られている。食事を終えた剣霊の緑色の瞳は満足を覚えたのか安らかにスカーフの一片を眺めていた。
吹く風は西へ、潮の流れも西へと向かっている。海面に一条の筋が見て取れた。海の道とはなかなか上手い表現だとユストは思った。第二グッド・キャッチ号はその海の道から外れない様に船首を固定していれば自ずとノエミリオの本島へと辿り着ける予定である。木造の小型帆船である第二グッド・キャッチ号は端々にくたびれた感じが否めないものの、使い込まれた道具よろしく、頼れる存在である。ユストは海と共に生活を営む者でないが、良い船だと判った。だがユストが思う良い船を廃棄する理由は国家が先日発した新規の保安基準に適合しないからと聞く。道具は基準にそぐわないのなら廃棄で済むが、人間の場合はどのような選択を強いられるのか。己を規定という型に押し込められる者は幸を得、そう出来ない者は不幸にも排除させられてしまうのか。ふとした思い付きを察したのか、虚ろな眼差しのイルサーシャの手がユストの頬を撫でた。
(今、つまらぬ事を考えていたであろう?)
(おや、どうして判った?)
(鼓動が少し暴れたからな。)
剣霊よりも女としての含み笑いと共にイルサーシャは胸に着ける頬を強く押し当てる。白銀の髪から百年香の嗅ぎ慣れた香りが漂い、その心地良さはユストに数時間前の出来事を思い返させた。
アンス・ヴォイゲンの挑戦状を真っ向から受け取ったイルサーシャの行動にユストは目を剥く事以外に何が出来ようか。剣の重量しかない剣霊が屈強な男に力で勝る可能性は皆無としか言い様が無い。驚愕と疑問が入り混じったユストの表情を読み取ったのか、イルサーシャは小声で語った。
「ここは我に任せて、まぁ見ておれ。」
任せられるものか、ふざけるのも大概にしろと言わんばかりのユストは握り締める拳に無駄に力が入るを感じざるを得なかった。しかし、彼女には何かしらの策を講じた模様である。ここはユストですら思いつかない何かに委ねるしかない。
「おやおや、思った通りの威勢の良い姉ちゃんじゃないか。」
薄暗い酒場で揺らめく燭台の炎が肘を突いたアンス・ヴォイゲンの五指に陰影を与えている。獲物の動向を覗う様に動いている様は不気味であるが、イルサーシャは腕を組んだまま臆さずに静かに見下ろしていた。
「素手で我の手を握ろうというのか?力比べする以前に、いやらしく踊るその指が否応にも体から離れるぞ?」
「そうだな。ならば…。」
アンス・ヴォイゲンは空いている手で呑みかけのグラスを空にすると、何かを捜し求める野獣の様な瞳に傍らの女が映った。
「ちょいと俺の勝負に協力して貰うぞ。」
女の胸元に利己主義な指が掛かる。布が裂かれる音と女の驚嘆の声が響き、ユストは顔を横に向けた。人間の手が作り上げた物の出来がどうであろうとも、無為にその身を滅ぼす際の断末魔に物寂しさを感じる。引き裂いた服を利き手に幾重にも巻き付けたアンス・ヴォイゲンは再び同じ姿勢を取った。
「これでどうだ、姉ちゃん?」
「ほう。急場凌ぎにしては上出来ではないか。」
腕組みをしていたイルサーシャは右の横髪を耳に掛けた。形の整った耳が空気に晒され、その下にぶら下がる鎌首をもたげた黒蛇のピアスが威圧的な視線を周囲に撒き散らす。
「ところで、勝負というからには何かしらの褒賞が見込めるのであろう?我が勝ったら廃船費用とやらの支払いには目を瞑って貰うが構わないか?」
「良かろう。俺が勝ったら姉ちゃんのその自慢にしている白銀の髪を貰うぞ?」
「我の髪か?」
「そうだ。剣霊の髪はその肌と同じで全てを切り裂くと聞いている。新たに造る俺の船の船首に括り付けてやるよ。」
海が荒れない様にと女の像を先端部に施す慣しがあると聞く。その代替品としてなのであろうが、それは剣霊の命を奪う行為でもある。具体的には自らの刀身を折られる事となる。その様な状況下に於いてイルサーシャの緑色の瞳は妖しく笑っていた。
「なるほど。髪は女の命と聞くが、剣霊とて同じだ。この勝負とやらは既に余興では無くなったな?」
「誰も所有した事が無い剣霊の髪が目の前に転がっているんだ。鼻息が荒くなって当然だろう?泣きべそかいても貰う物は貰うぜ?」
「そなた、既に手に入れたも同然の言い草だな?」
対峙する二人の言葉の遣り取りをよそにミゼレレは手に持つショールをシェス・ロウに渡した。心優しい少年は衣服を裂かれた哀れな女の上半身を覆う様にショールを掛けた。視力を奪われていても彼は気配で状況を把握出来る。無残にも露になろうとしていた胸元を両手で覆う女の姿に艶やかさなど無い。寂しげであり、出来うるならば遭遇したくない光景である。
「さて、早く始めようや。剣霊の負けた時の顔というのにも興味があるんだよ。」
欲望に憑り付かれた眼差しは暑苦しく、異様な輝きを発する。一方のイルサーシャは言葉での勝負は飽きたと言わんばかりに右の二本の指で右耳のピアスをなじり始めた。
「ア スーメ ルゲヴェ ソロウ、 ルクァセ ジャスヌ…。」
初めて耳にする言語である。五百余年を知るイルサーシャはわざと失われた言語を用いてソロウに指示を与え始めた。心で思い描く言葉よりも音で発する言葉の方を動物は好む。故に人間は言葉が通じない動物の意思を知ろうと話し掛けるものである。失われた言語を用いた理由は二つあるとユストは考えた。一つはシェス・ロウという若き剣霊使いに己の手の内を知られたくないからであり、二つ目は対峙するアンス・ヴォイゲンに神妙性を見せ付ける演出の様なものであろう。ともあれ、彼女の発する失われた言語を理解できないユストにはその攻撃方法すら判別がつかない。
「大丈夫ですよ、ユスト・バレンタイン。」
独りいらつくユストを見かねたのかミゼレレが言葉を添えた。イルサーシャよりも長い月日を知る神剣霊も失われた言語を熟知しているのは当然といえようか。
「待たせたな。」
右手を耳から下ろしたイルサーシャは横髪を元に戻す。その僅かな動作の間ではあるが、ユストはソロウの姿が見当たらなかった事に気付いた。
「変な言葉だったな。剣霊独自の願掛けか?」
「まぁそんなところだ。詳細が知りたいか?」
「教えてくれるなら聞こうじゃないか。」
テーブルの中にある椅子をユストが引き出す。彼は澄ました表情をしていたが、イルサーシャを見る目は懸念の色を隠しきれていない。その様なユストに一瞥を投げたイルサーシャは何も言わずに用意された椅子に腰を降ろし、アンス・ヴォイゲンと同じくテーブルに肘を突けて人差し指を挑発的に動かした。
「ならばそなた、五百年前に生まれてこい。」
小馬鹿にされて顔を紅潮させているアンス・ヴォイゲンは左の親指の上に西部金貨を乗せた。
「これが床を打ったら開始だ。その生意気なへらず口、二度と言えない様にしてやる。」
「そう出来ると良いのだがな。」
「出来るさ。数分後には鈍い姉ちゃんでも判るだろうよ。」
「それは未来永劫無理であろうな。」
二つの掌の距離は五センチほどである。分厚く硬い皮に覆われたアンス・ヴォイゲンの陽に焼けた手と華奢で細長い指のイルサーシャの白い手が睨み合う。西部金貨が宙を舞った。人間の手が先に襲い掛かるのか、剣霊の手がいち早く挑み掛かるのか。西部金貨はテーブルの端を打ち、無情な音が響くと共に二つの手は組み合わさる。有り余る力を振り絞るアンス・ヴォイゲンは眉間に無数の皺を寄せ、圧倒的な腕力に負けんとするイルサーシャは歯を喰いしばる。それ見た事かとユストは自らの剣霊の無謀ぶりに目を覆わんとしたが、それも束の間であった。アンス・ヴォイゲンの顔がみるみるうちに蒼褪め始めた。顔面蒼白とはこの有様を見て生まれた言葉なのかもしれないと思わせる程である。うっすらと脂がのった額からは汗が止め処なく溢れ、緩みきった涙腺から涙が滝の様に零れ落ちる。大胆不敵な肉体が何かに怯えるように萎縮している様にユストには見えた。イルサーシャの従者であるソロウが何かをしたのは明白ではあるものの、実体を現していない以上、そこから生み出す推力がアンス・ヴォイゲンのそれを上回ったとは思い切れない。では何が起こったのか。イルサーシャはソロウに自らの手に忍び、アンス・ヴォイゲンの手が触れた時、己の中に溜まるものを吐き出せと指示を与えたのである。人間の想像を遥かに超えた悲痛を全身に浴びせられたアンス・ヴォイゲンの逞しい腕は機能を失ってしまった。鍛え上げられた筋肉は戦意を喪失した肉塊となり、剣霊の軽い一押しに僅かな抗いも無くその身をテーブルに沈ませた。
「さて、もう一度やるか?次は涙を流して収まる程度では済まないぞ?」
左耳のピアスに触れながらイルサーシャが勝利を宣言した。
ウミネコが第二グッド・キャッチ号の縁に羽根を休めに舞い降りた。陸に近付いている証拠であろう。
(イカサマか。実は最後にあやつの腕を倒すのをソロウに手伝ってもらったのがよく判ったな?)
ユストの腕は無駄な贅肉を削ぎ落とし、鍛えてはいるが決して屈強とは言い切れない。その様な腕が操る剣の重量しかないイルサーシャにとって、無力化した物体を押し倒すのも困難であった。
(もし、ペインに同じ事をやらせていたらどうなっていたんだ?)
(恐らく激痛に耐え切れなくなった骨が砕け散り、全身の毛穴という毛穴から血を噴き出して悶絶死であろうな。)
食後の余韻を愉しんでいた目を開き、何事も無かったと言わんばかりの顔で剣霊は見るもおぞましいであろう光景を口にした。
(…まぁ、そうならなくて幸いだったよ。後処理が面倒だからね。)
(それはともかく、我には釈然としないところがあってな。そなたとて同じであろう?)
(ミゼレレの件か?)
(あぁ、そうだ。)
痛々しい見栄えの食痕を隠すスカーフを広げて風になびかせていたイルサーシャは言葉を続けた。
(あの者、神剣霊とはいえ、剣の常軌を逸しているとしか思えん。)
(そうだね。だが、それ故に大地の意思たる神剣霊でよいではないか…。)
ユストの言葉はイルサーシャをなだめる為ではない。自らへの回答であると重々承知していた。美しいものに触れてはならないとはよく耳にする。それは剣霊に触れるべきではないと狭義では片付けられているが、剣霊の表面は勿論の事、その内側にも触れるべきではないとユストはミゼレレの有様を目の当たりにして再認識せざるを得なかった。
イルサーシャに力比べで負けたアンス・ヴォイゲンは流れる涙を拳で拭い、大きく深呼吸をした。敗北を認めた点は潔いが、彼の闘志は依然として挫かれていなかった。
「姉ちゃんには負けたが、美人さんの方はどうだね?」
気だるさが残っていると思われる右腕の先にある手を何度か開いたり閉じたりしている。腕の機能に障害は生じていない模様である。巻きつけていた女の衣服の残骸を解き、新たに左手に巻きつけ始めた。
「我ですか…?」
「そうだ。折角だからあんたにも付き合って貰おうか。まだこっちの腕は元気だからな。」
「拒否は…出来なそうですね。」
「あんたの方が銀髪の姉ちゃんより格が上と見た。その綺麗な薄緑色の髪、とてつもない価値が有りそうだな。」
格が上でも腕力はイルサーシャより更に劣るとアンス・ヴォイゲンは判断したのだろうか。剣霊の力は人間の知己の範疇を超えているのは明白だが、その場に居合わせたユスト自身もミゼレレの能力の全てを知る者ではなかった。
「判りました。ただ、こればかりは我の一存では行動できません。契約者に是非を問う時間を頂けますか?」
「構わんよ。どちらにせよ勝負はするんだからな。」
シェス・ロウに視線を向けながらアンス・ヴォイゲンは卑屈な笑みを投げ掛ける。年端も行かぬ少年に何が出来ようかと言わんばかりである。だが、彼は単なる少年ではない。剣霊の最高位に当たる神剣霊が契約者と認める人間である。ミゼレレの格を言い当てたものの、シェス・ロウの存在を正確に捉えきれなかったのはアンス・ヴォイゲンの落ち度であった。
「シェス、宜しいですか?」
神剣霊の瞳にためらいの色が出ている。これから彼女は何を行おうというのか。まさか前日の如く雷を落とす訳にもいくまい。ユストの興味とイルサーシャの関心はもう一組の剣霊とその契約者から視線を外せなくなっていた。
「そうだね。酒場に行こうと決めたのは僕だ。だからこの勝負は避けてはならないし、負ける訳にはいかないよ。」
「えぇ。その通りです。」
「後はミゼレレの考える様にして間違いは無いと僕は思っているよ。」
「では、ほんの少し頂けますか?我の力を僅かですが解放するので。」
「判った。」
シェス・ロウはミゼレレの前に立ち、ミゼレレは両膝を床に着けて小さな肩に両手を添えた。ユストと同じ柄のスカーフが巻かれている首筋に端麗な横顔が近付く。象牙細工を丁寧に切り出したかの様に整った鼻で食い入る獣の如くスカーフを捲り、麗しい唇を一秒ばかりか、晒されるか晒されないかの首筋に押し付けた。食事とは本能の産物である。一秒とは言えども本能に身を委ねた神剣霊の姿は艶かしさを見る者に思わせた。
「それが美人さんの願掛けか?」
茫然と眺めていたアンス・ヴォイゲンは自己を律するかの様に言い放った。
「願掛けほど生やさしいものではありません。アンス・ヴォイゲン、あなたに剣霊の作法を教えて差し上げます。」
「ほう、俺に作法とはな。上等だ。」
口では空元気な素振りを見せてはいるが、剃り残しの髭が数本見受けられる喉仏が上下に動いていたのをユストは見逃していなかった。剣霊に、とりわけ神剣霊に狙いを定められて生きた心地はしない筈である。奇しくも数ヶ月前にユストは神剣霊の次姉と刃を交えた。あの冷徹で何者にも踏み躙れない眼差しは思い返すだけで背中に悪寒を生じさせる。神剣霊の末妹の眼光に冷たさは無い。だが、全てを包み込まんとする無上の哀れみに誰が抗えようか。
「手を合わせる前に聞きたい事があります。二十年前に会った剣霊とも同じ様な事をしたのですか?」
シェス・ロウの肩に両手を置いたままのミゼレレに殺気は感じられない。そもそもこの剣霊に殺気を出す能力があるのかとすら思わせる程しなやかで涼しげである。聴覚から侵入し、脳と全身に駆け巡る神剣霊の声は欲望を惜しみも無く剥き出したままのアンス・ヴォイゲンの男らしい濃い眉をぴくりと動かさせた。
「あぁ。確かに二十年と言ったが、正確には覚えちゃいねぇよ。覚えているのは彼女が俺にノエミリオまで案内しろと要求してきた事と、ちょうどこの席での話って事だ。」
「宜しければその時の出来事をお話いただけますか?」
戦いに逸る気持ちを抑える為か、アンス・ヴォイゲンはたぎる闘志の化身である左腕をテーブルから離した。思い出話を語るのもまた一興と知るアンス・ヴォイゲンは漁業組合長という肩書きを持つ男だけのことはある。
「あの頃の俺は若くて世間知らずだが勢いもあった。やりたい放題の俺にとって烏の羽根を思わせる色合いの髪と異国情緒に満ち溢れた、あの涼しげな目許は衝撃的な美しさだった。」
「その剣霊とはハガンですね?」
アンス・ヴォイゲンはゆっくりと、噛み締める様にそうだと口にした。
「一目見た瞬間、俺はハガンが欲しくてたまらない衝動に駆られた。彼女の落着いた雰囲気を間近でゆっくりと眺めていたい気持ちは立ち話も何だから、と彼女に椅子に座る様に薦めたんだ。だが、ハガンはテーブルから椅子を引き出す事すら困難だった。あの涼しげな目許に動揺が見え隠れした有様にはぐっと来た。未だに忘れられねぇぐらいだ。剣霊は何もかも斬れるが腕力は無いと知った俺はそこにつけ込んで彼女に力任せの勝負を挑んだ。負けたら俺の横にいろとな。」
憧憬と欲望は紙一重なのであろう。ユストは同じ男としてアンス・ヴォイゲンの言葉を幾ばくかは理解出来た。
「しかし、その夢は叶えられなかった…。」
「ハガンは少し困った顔をして勝負を受け入れた。その表情は俺をさらに奮い立たせたよ。彼女を座らせていざ勝負となったが、手と手が合わさろうとした瞬間、彼女の涼しげな目許はそのままに俺は体ごと弾き飛ばされた。何度挑んでも同じ結果だ。その事実は彼女が俺を拒んでいるかの様で虚しさが込上げて来たよ。」
淡い思い出を語るアンス・ヴォイゲンの表情は先程と違って柔らかい。
「ハガンは刹那の称号を語る剣霊です。彼女の一閃は最速にして誰の目にも捉えられません。勢い余って手首を飛ばされなかっただけでも幸いでしたね。」
剣霊の戦闘手段をミゼレレは公表した。それはまだ見ぬハガンの実力が想像以上であり、並みの者では対処しきれないと示唆するところなのだろう。ハガンはこれから会う特殊番号を持つ剣霊使いの横に立つ剣霊に違いない。弾き飛ばす一閃とは、とユストはポケットに入れていた右手を顎に添えた。
「ではここであなたの中の思い込みを覆して見せましょうか。」
ユストに考える間を与えないかの如く、ミゼレレが行動に移した。椅子の後ろに立ったミゼレレは指一本を背もたれに引っ掛ける。力を込めている様子も無く椅子が床との摩擦音を生じながら動き始めた。この光景にアンス・ヴォイゲンのみではなくユストとイルサーシャも目を見張らざるを得ない。
「さらにもう一つ。」
椅子に腰を降ろしたミゼレレはアンス・ヴォイゲンと同じく肘を突いた。突いたと言うよりは添えたという表現が正しいと思われる何気ない動作ではあったが、肘を中心としてテーブルには亀裂が縦横無尽にほとばしった。
「剣霊に挑むという事は空に唾棄する事、地に拳を打つ事と同じなのです。ご理解いただけたでしょうか?」
亀裂の衝撃で倒れたグラスは素早く二度頷いたアンス・ヴォイゲンを映し出す。驚愕と恐怖に慄いた彼に左腕を再び前に出す闘志の欠片は残っていなかった。
東の空から深い紺色の世界が広がりつつある。普段であればうっすらと月が見えるが、少し様子が異なる。これから迎える明日とは剣霊と剣霊使いにとって特別な日である。二匹目のウミネコが第二グッド・キャッチ号に安息の場を求めて降り立った。
(ともあれ力を交えずに相手を屈服させたんだ。あれはミゼレレならではの手際の良さではないか。)
(なるほど。そなた、我は粗暴だと言いたいのだな?)
(粗暴の後に同じ粗暴を繰り返すのは遺恨を強く残す。だからミゼレレは説得という別の見方でアンス・ヴォイゲンの戦意を和らげたのだと思うよ。)
(説得というよりも絶対の力を見せ付けたと我は思っているが。)
(相手に体ではなく頭で理解させるのは立派な説得だよ。)
(我が神剣霊で無くて悪かったな…。)
何か言いたげなイルサーシャはユストの腕を人差し指で弾くと共に鼻を鳴らす。むしろユストは彼女が神剣霊で無くて良かったと思っていた。神剣霊とは剣ではないのか、という疑問をあの光景を見てしまった以上、どうも払拭出来ない。そもそも剣とは何なのか。現実では暴力に用いる道具であり、美化するならば力の象徴と人々は口にする。では力の象徴とは必ずしも刀身が輝き、その端を刃が冴え渡り、鍔と柄を有する姿なのか。根本的に違う何かが神剣霊の正体なのではないのか、と沈む太陽を眺めつつユストは独り迷宮の入り口で立ち往生していた。
(ハガンか。ユストも一度飛ばされてみてはどうだ?)
ユストの腕を弾いたイルサーシャの人差し指が今度は胸を二回突付いた。鼓動が再び暴れたのを示唆する表現なのであろう。
(愚生が飛ばされて何を望むんだい?)
(そなたの性根が我にとって良い方へ向くかもしれん。そうなったらハガン様様だ。)
男女の会話を遮るかの如く二羽のウミネコが声を揃えて鳴いた。同時に何かに気付いたイルサーシャは手に持つスカーフをユストの首に慌てて当てる。晒された自らの食痕を隠す為である。緩やかな波の響きの中に衣擦れの音が混ざる。船室からミゼレレが姿を現した。
「シェス・ロウの体調はどうだ?」
イルサーシャはユストの胸に横顔を着けたまま語り、ユストは気恥ずかしさから生じたのか、顔を東の空に向けていた。
「眠っておりますからノエミリオ本島に着くまで大丈夫でしょう。」
「まぁ、無理も無いとユストは言っておる。彼も幼き頃は船酔いに悩んだそうだ。」
寄り添う二人と二羽をミゼレレはいつもの様に柔らかな眼差しで見守る。大地の意思にとって二つの番の姿は好ましいものなのであろう。
「間もなく陽が沈みきりますね。ノエミリオの夜空は星が掴めると思える程の美しさと聞いております。お二人も楽しみにしているのでは?」
「星が掴めるか。探究心旺盛で純粋な人間と強欲で鼻持ちならない人間、どちらが先に実際の星を掴むのであろうな?」
「どちらでしょうね?」
ミゼレレはいつもの人差し指を唇に当てながら微笑を漏らした。何を子供じみた事を言っているのだか、とユストは舵を取る手とは反対の手でイルサーシャの髪を掬う。
「ただ、空とは危険な所なのですよ…。」
百年香の匂いと共にミゼレレの言葉がユストに纏わりついた。彼女の言葉が何を意味するのか。千年も遥か昔の人間は空を知ってたかの様な口調のミゼレレにユストは視線を向けるしかない。
「無用な言葉を漏らしてしまいました。忘れてくださいな。」
ユストの疑問を感じ取ったミゼレレは船縁で佇むウミネコに慈しみの眼差しを向けたまま静かに嘯いた。何事に於いても先手を取ってしまうミゼレレに対しユストは心の中で舌を巻いた。
「まぁ星空も良いが、その前に是非とも見ておきたい景色が我にはあってだな…。」
ユストの胸から顔を離したイルサーシャは立ち上がるなり船室へと足を動かし始めた。船室の脇に窓が設けられていた。そこから海中の様子を目の当たりにしたいのであろう。泳ぐ魚を知らない剣霊が興味を注ぐのは当然の行動と言えた。だが、船室は船酔いをもよおしたシェス・ロウと契約者の体調を気遣うミゼレレが先に占めていた。使い込まれて趣深い狭い部屋で看病をしていたのか、あるいは他の視線が無いのを利用してイルサーシャの様に食事をしていたのかは判らない。どちらにせよ、二人の空間を邪魔してはならないと知っていたイルサーシャは逸る気持ちをそのままに白銀の髪をなびかせながら船室へと姿を消した。
船尾にユストとミゼレレが残された。組み合わせが異なる剣霊と契約者は会話で時間を潰す事すらままならない。ミゼレレが言うところの心の内が常に騒がしい男は手持ち無沙汰を紛らわす為に煙草に手を伸ばす。風に煽られた煙がミゼレレの許で掻き消えた。
「何種類の魚をイルサーシャは見るのでしょうね?」
実のところ、ユスト自身も海中を泳ぐ魚に興味があった。内陸で育ち、海を知らない者が歳を重ねようとも大自然の織り成す光景に憧憬を抱くのは不思議ではない。煙草を銜えたまま鼻から出した煙が再びミゼレレの方へと流れた。
「あと数時間を経れば新月となります。その時にあなたの声を聞かせていただけますか?」
ミゼレレは会話とは言わずに声と表現した。要望や疑問を遠慮無く投げ掛けて来いという事である。一本の煙草と共にある時間はせいぜい三分程度である。極めて近くにミゼレレという存在を感じる中、それはとても短い時間とユストは実感していた。
空の色が徐々に暖か味を失いつつある。長い一日が終焉に近付いていた。早朝に大型馬車に乗り、その道中で遭遇した邪剣霊を倒した。無事にデルロア市街地に到着してからは協会の指示に従い船を求めて動き回り、船を借り得る為に剣霊の腕力を試され、寿命が縮む様な思いをさせられ、糸口が見つからない謎も押し付けられた。そして今、借り得た船の舵を取っている。疲れたとは言いたくない。だが、目を少し閉じていたいとユストは自らの生理的欲求に甘んじたかった。
「どうぞ。そのまま楽にしても船は本島へと進みますから。」
ミゼレレの薦めにユストはこの時ばかりは素直に頷いた。イルサーシャに食事を与えた事も有り、体から力が抜けるのも早かった。掌と目頭が温かくなっている。新月か。月が生まれ変わる僅かな猶予は剣霊と契約を結んだ者たちを剣霊障から開放する。この日を迎えるのはイルサーシャと共にしてから何回目だろうか、またいつの頃からこの日を待ち望むのを忘れてしまったのだろうか。二羽のウミネコが一夜の居場所を求めて飛び去った。休んでは飛んで、また休む。この繰り返しは何も彼らだけは無いのだなと思いつつ、ユストは目を閉じた。
第二グッド・キャッチ号が大きく揺らぐと共にユストは目を開いた。平衡感覚が崩れるのと身の危険を感じ取ったのはほぼ同時である。
「ユスト・バレンタイン、大変です。」
常に落ち着きを払っているミゼレレの表情に曇りが見える。それだけ事態がひっ迫している状況に置かれていると知るのに時間は要さなかった。再び船が大きく揺れると共に海面に使い込まれた鋼に似た色合いをした巨大な何かの尾が姿を見せた。
「不運でした。この船の航路と海龍の散歩道が交差してしまった様です。」
剣霊の策敵能力は人間のそれを遥かに上回るが、それは地上という条件が必要なのか。それとも彼女の言う散歩道という表現を信じるならば敵意の無い対象は感知出来ないのか。確かにユストの研ぎ澄まされた五感は殺気を感じ取ってはいない。だがそれは死を目前に控えた恐怖が遥かに上回った結果である。自らの剣霊は何をしているのかとユストの視線は自然と船室へと動く。三度目の揺れは船縁を掴むミゼレレの体を倒させた。イルサーシャは船室の中で直立もままならない己に歯軋りをしているに違いない。このままやり過ごせればと根拠の無い期待にすがるも、海龍は人間を何気なく嘲笑った。強靭で鋭利な尾が第二グッド・キャッチ号の船体を打ち上げ、衝撃に耐えられない船体は荒れる波の飛沫を浴びながら無残にも砕け散った。体が宙に浮いている間、ミゼレレが手を伸ばしてユストに何かを語ったが、木で造られた船体の破壊される轟音が邪魔をして聞き取れなかった。
宙から水面に体が移動する。頭から先に沈み始めた。海龍が引き起こした水流に呑み込まれ、体の自由が奪われた。海中を優雅に泳いでいた海龍の堅固な鱗がユストの右脚を裂いた。流れ始めた血が暗い海の中で滲み始める光景が鮮明に見て取れた。数多の魔物にとって人間の血の匂いは魅力的でこの上ない極上の香りと聞く。思わぬ所で食事に有り付けたと海龍が絶好の機会を見逃すとは思えない。現にユストを取り巻く水流が逆に流れ始めた。敏感な鱗が切り裂いた感触が海龍に食欲を思い起こさせたのであろう。
息苦しい。だが、口を開けては海水が入り込み肺を支配してしまう。酸素の欠乏が視力を奪い始めようとしている。もう駄目だ、と思う中、一振りの剣が海中をゆらゆらと朧気に映り始めた。イルサーシャかとユストは残る力を振り絞って目を凝らすが、輪郭が異なっている。刀身の長さはイルサーシャと変わりは無いが不規則に波打つ形状はありとあらゆる心の襞を具現化したと言わんばかりである。鍔は細くも何物の攻撃にも侵されない不屈の強さを感じさせる。見慣れぬ剣へと手を伸ばすユストに応えたのか、鍔の中央に施された象嵌が光を放ち始めた。柄から木の枝が無数に生え始める。目を疑う光景にユストは思わず口を開いてしまった。肺の中の残された空気が放出され、上へと昇る。意識が遠退く中、一つの逸話がユストの脳裏を過ぎった。それはユストのみならず、この世を暮らす者であれば誰もが幼少時に両親や祖父母から聞かされる逸話である。
遥か昔、大地に一本の樹が生えていた。絡み合う幹は天高く伸び、うねる枝は遥かなる広がりを有している。全ての生物はその樹の下で生活を営み、落ちた実を別け合って共存の道を歩んでいた。ある日、欲深い人間は一本の樹の中を覗きたいと思い、欲求は行動へと転化させてしまった。他の動物たちはそんな事をしては駄目だと人間を諌めた。この樹の中には全ての感情が閉じ込められている。愛情や悲哀、憎悪や嫌疑、羞恥や傲慢、これらをこの樹は無限を思わせる枝の下に集まる我々に時と場合を吟味して少しずつ分け与えているのだ、と説明した。しかし人間は彼らの言葉に耳を傾けなかった。枝を払い落とし、絡まる幹を引きちぎり、その奥から一振りの剣を見つけ出した。そのあまりにも美しい姿の剣の汚れていない柄を人間は握り締めた。同時に動物たちの言葉は聞こえなくなり、単なる鳴き声にしか聞き取れなくなってしまった。怒りと悲しみに身を任せた動物たちは人間に襲い掛かり始めた。やられまいとした人間は手に入れた剣を振るおうとしたが、あまりの重さに持ち上げるのがやっとであった。重さとは単純な重量ではない。その剣が内に秘めるあらゆる感情が重過ぎ、手に余した人間は振り回す事が出来なかったのである。ついに人間は何も斬れないまま殺されてしまった。無残な屍から剣が離れ、動物たちは剣をあるべき樹の中に戻したという。後の人々はこの偉大な樹を哀れみの樹と呼んだ。
星々が零れ落ち始めるノエミリオの空の下、巨大な樹の幹と枝が海面を覆い被さった。