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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第二章 ノエミリオ諸島編
19/74

船を求めて

 揺らめく煙草の煙がデルロア市街地の一画を漂い、風に煽られて渦を巻きながら音も無く消える。脳裏を掠める考えとは実際に目で見ると、この様な姿をしているのかもしれない。

 デルロア市街地の土を踏んだユストに対し、彼の所属する剣霊協会は早々にノエミリオ諸島へ赴き、特殊番号を持つ剣霊使いと接触する様にと指示を下した。毎度毎度ではあるが、一方的な指示にユストは不平を漏らさず、黙々と任務を遂行している。単に真面目な性格の持ち主なのか、任務に没頭する事で何かを忘れようとしているのか、同じく音も無く消える煙を見つめていたイルサーシャですら知りかねていた。どちらにせよ、任務は完遂しなければならない。任務を直視するのは大前提であり、逃亡や絶念は剣霊の誇りに掛けて許されるものではない。また直視出来ない状態、つまるところの完遂が不可能と判った時は死と直面する瞬間でもある。

「何か面白いものでも見つけたか?」

 市街地の見取り図である。程よい厚みのガラス板の表面をけがいて作られている。通行人の利便を図る手段としては勿論の事、大都市の景観を損なわないオブジェとしても見て取れた。このデルロア市街地は裕福な都市なのであろう。荒んだ心は趣向を凝らす余裕が無いからだ。

(船を依頼するなら何処が良いか選んでいたんだよ。)

 ユストの腕に触れるイルサーシャの手から返事が伝わる。周りに誰もいないのを良い事にユストはこの場で煙草を吸っていた。

(それなら軍隊にお願いすれば良いだけの話であろうに。)

(無口な男と頭に薔薇を挿した女が軍艦を貸しくれとお願いして、はいどうぞと快く受諾するほど軍隊はお人好しとは思えないな。軽くあしらわれるか、自警団に引き渡されるかのどちらかだね。)

 小馬鹿にされたといわんばかりに唇の端に僅かに力を入れたイルサーシャは横髪に挿した赤紫色の薔薇を押さえつつ、ユストに触れる指に規則性の無い孤を描かせていた。

(ならばこの際、剣霊とその契約者だと申告すれば良かろう?)

 ユストは静かに首を横に振った。剣霊使いが他に自らの素性を明かすのは極力避けるべきである。その慣例を敢えてここで破ろうとは思い切れない。 

(それでは協会と西との政治的な色合いが濃く出てしまう。その問題が無いとしたら既に協会がお膳立てしてくれている筈だよ。)

(そなた、やはり協会に何か反目して嫌われたのではないのか?)

(まぁ、世の中、何事もすんなりとはいかないものさ。)

 市街地の見取り図の一部を指差した後、ユストは銜えている煙草を携帯する灰皿に押し付ける。彼が指差した部分にはデルロア港湾局とあった。海上の交通手段として舟を調達するならば最も妥当な線といえる。幸いな事に見取り図の縮尺が正確であるのなら港湾局まで徒歩で五分程度の移動距離である。重苦しい灰色を織り成している石造りの庁舎が立ち並ぶ中、ごみ一つ無い石畳の上に落着いた靴音を響かせる。赤から黄へと変わるのか、またはその逆なのか、街路樹の鮮やかな化粧は硬質な空間に暖かな色彩という安らぎを与えていた。

 目的地には誰もいなかった。乳白色の石を削って造られたカウンター越しの小窓は閉ざされ、絡まる蔦を彫刻で表現した小ぶりな置時計が飾られている。その脇には市章をモチーフとした重石を載せたメモ紙が置かれていた。綴られた文字の濃淡や跳ね具合が細い。筆跡からして女性のものであるとユストは思った。

(昼休みだそうだ。愚生たちも少し時間を潰すぞ。)

 置時計の針が揃って上を示してから僅かに時間が経過している。昼休みが終わるのは長い方の針が再び上を示す頃合であろう。秒針が刻む規則正しい音が石造りの部屋を満たしていた。

(昼休みとは悠長なものだな。)

 しっとりとした色合いのカウンターと対を成しているかの様に磨きこまれた重石の表面をイルサーシャは人差し指で弾いた。硬質な物体同士が奏でる高音の残響が秒針の音に混ざる。耳に心地良い。

(適度な休息時間は新たな鋭気を養うものだよ。)

(ふうん。ならばこの際、空いた時間を利用してユストも昼食を摂ったらどうだ?)

(海に出るんだ、コーヒーだけにしておくよ。)

(そうなのか?)

(あぁ。)

 イルサーシャの真似をしてユストも重石を弾く。単調でごく短い詰まった音しか鳴らなかった。

 再び陽光の下に身を晒した二人はデルロア港湾局からそう離れていない食堂に足を運んだ。屋外の開放された世界を満喫出来る様にテラスに設けられたテーブルに空席が一つだけあった。その席に通された二人は軽く周囲を見渡す。デルロア市街地在住と思われる者は勿論、旅行者もその中に混ざっている。腰に物騒な得物を下げている者もいれば紳士淑女のなりの者もいる。

「コーヒー二つだ。」

 注文を取りに来たウエイターにイルサーシャは予め決められた台詞の様に言い放つ。剣霊は人間と同じものを摂取しない。二杯のコーヒーはユストの為のものであり、他からの見た目を取り繕う為でもある。椅子に座るなり足を組み始めたユストに壁越しに立つ憲兵が視線を向けたが、武器を所有していないと思われる彼を長い間観察する必要は無かった。

(ところでユスト、ノエミリオ諸島はここからどれくらい離れているのだ?)

 二人掛けのテーブルに対面で座る時は互いの足首を交差させる。わざわざ隣同士に座り、他の視線を気にしない恋人同士を演じるのは二人の趣向にそぐわない。

(船で半日と聞いている。この分だと現地に到着は日が沈む頃だな。)

(その船が無かったらどうするのだ?泳いで渡るつもりか?)

(まさか。そう言うイルサーシャは泳げるのか?)

(そなたが泳いでいる剣を見た事があるのなら、なりに努力はしてみるが。)

 二杯のコーヒーがそれぞれの前に並べられた。白磁のカップには灼熱の太陽をイメージした描画が青と緑の二色で施されている。揃いとなるソーサーには淡い茶色をしたチョコレートが添えられていた。その柔らかで光を吸収する個体の表面は艶やかで深い琥珀色の液体と対を成している。イルサーシャに返す言葉が無いユストは自らの手前に置かれたカップの取っ手に指を絡ませた。白磁の縁は薄過ぎず厚過ぎず、心地良い口当たりと程良い温度のコーヒーを提供してくれた。

(実際のところ、愚生は泳ぎが苦手でね。)

 嗜好品を前に満足げなユストはチョコレートを手に取った。表面にデルロア市街地の市章が刻印されている。半分に折り、コーヒーの中に入れた。残った半分はソーサーの上に戻す。銀製のスプーンで数回掻き回し、渦巻く小さな世界の終焉を見つめた後に再びコーヒーを喉に通した。

 彼は幼少期に一度だけ海に行った件を話し始めた。その声は誰にも聞こえない。イルサーシャだけのものである。今の祖国は中央行政府と名前も政治体系も変わってしまったが、領土は変わらぬままである。中央は他の三国に囲まれる形をしており、海には面していない。王立銀行に勤めていたアウグスト・バレンタインと彼の妻であるマリア・バレンタインの夫妻は一人息子であるユストに大陸の端々にある海を体感させようと、夏期休暇を利用して東部帝政国家のとある市街地へ家族で脚を伸ばした。揺れる馬車に身に預けて数日後、ユスト少年は水の青と空の青が融合して織り成す景色に感動を覚えた。所狭しと建造物が並ぶゲルハルステンとは異なる景色。だだっ広い世界だな、と彼は無意識に言葉を口にして表した。折角国境を渡って海に来たのだから泳いでらっしゃいと美しい黒髪が自慢の母親に言われ、ユスト少年は服を脱ぐなり、異なる青と青が融合した先を捕まえようと走り出す。くるぶしから下に冷たい感覚を覚え、やがて腰までその感覚が伝わってくる。気が付けば肩から下は海水に浸かっている。数十分後、泳ぎ疲れたユスト少年は砂浜に腰を降ろして日傘を差している母親の許に戻ろうとしたが、引く波の力に負けて思うように前進できない。自分が大自然に飲み込まれるのではないかと恐怖に駆られた。もう家には戻れないのかと不安の真っ只中に身も心も置いてしまったユスト少年は泣いて父親の救援を求めるしかなかった。

(今思えば、ただ単に泳ぎ方が下手だったのかもしれない。)

 弄ぶ銀製のスプーンの表面に歪んで映し出された自らの顔を目の当たりにしてなのか、幼き頃を語る自らの意外な側面に対してなのか、ユストが短く笑う。一方のイルサーシャは最初は行儀良く両手を膝の上に乗せて座っていたものの、思い出話が進むにつれて両肘をテーブルに着き、両指を交差させたその上に形の整った顎を乗せていた。細める目の奥にある緑色の瞳はしなやかな優しさに満ち溢れている。

(なるほど。この髪は母親譲りだったのだな。)

(その点に関しては母にとって自慢の息子でいられたよ。)

(母親にとって息子は最愛の男だそうだから当り前であろう?)

 溺れかけた翌日、中央出身である母親の料理とは味付けが異なる東部の朝食で腹を満たしたユスト少年は両親に手を引かれながら遊覧船に乗船した。木造ではあるが、四大勢力の中でも抜きん出た技術力を有する東部の建造物に幼心ながら関心を寄せた。何故船は浮くのか、こんなにも大きな乗り物を何人掛りで作り上げるのか、飽くなき知識の欲求は前日の失態を忘れさせてくれる。旅先で生き生きと話す息子を両親が喜ばない理由があろうか。ユストは大きくなったら大陸一の設計士か技術者になるかもしれない。本当は学業を修めた後は同じく王立銀行の行員として働いて欲しいのだが、とバレンタイン夫妻の会話も普段より弾む。だが、徐々に顔色が悪くなる息子の様子を知るとそうもしていられなかった。船酔いである。幼少期は三半規管が鍛えられていない。平衡感覚の麻痺は頭痛と吐き気をもよおし、うずくまるしかない。岸に戻るまでの三十分の間、ユスト少年は海の上から臨む景色に心を打たすどころか備え付けのトイレから出られない状態になってしまった。

(そなた、なかなか可愛らしいところがあるではないか。)

 イルサーシャは両耳にぶら下がるピアスを外して同じ姿勢を取っていた。彼女の言葉に従う二匹の黒蛇は思いついた何かしらを常に語り掛けてくるという。ユストの話に集中したいが為に騒がしい従者は邪魔者扱いにされてしまった。

(人間、生まれた時は誰もが純粋なものだよ。)

(その言い方だと、海がそなたをひねくれた人間に育て上げた要因の一つの様だな。)

(今ある姿はこれまでの経験と環境による結果さ。)

(なんだ、今後についてはも関係してくるのか?)

(今後?もう既に関係しているよ。)

 二杯目のコーヒーを飲もうとイルサーシャの前のカップにユストは手を伸ばした。今度は先程半分にしたチョコレートを口に含み、湯気が収まりつつあるコーヒーを飲んだ。噛まずに舌の上で転がしているチョコレートが口内の温度とコーヒーの熱で軟らかくなり、溶け始めている感覚が伝わる。仄かな甘味の中に苦味と酸味が混ざり、安らぎの一時を与えてくれる。まるで人生の一片を表現しているかの様である。甘い経験と苦い経験が融合し、長い年月を掛けて心に染みきった時、人は良き思い出と穏やかな顔をして語る。今の自らもその様な表情をしているのだろうか、とユストは二口目のコーヒーを啜った。

 手に持つカップの中身が空になり、ソーサーと重なる硬質な音が響くと同時にイルサーシャはテーブルの上に放り投げられたピアスを掴んだ。

「ユスト、そろそろ時間だ。」

 わざわざ言葉を音で出したのは、彼女自身の中で区切りをつける為であろう。僅かに首を傾けながら左耳から先に、次に右耳も同じ様な動作でピアスを着ける。それぞれの黒蛇は自らの居場所を恋焦がれていたかの様に抵抗も無く納まった。短いが、なかなか楽しい一時を過ごせた。あるいは短い故に楽しく感じられたとも考えられる。契約者の言う適度な休息時間を少しばかり理解出来たと剣霊は感じていた。


「ご意向に添えず、誠に申し訳ございません。」

 両手を前にして深々と頭を下げるデルロア港湾局員はユストが筆跡から判断した通り、女性であった。落着きを感じさせる濃い灰色の制服を身に包み、滑らかな茶色の髪を肩の辺りで切り揃え、毛先が跳ね上がっている。躍動感と若々しさを思わせる彼女が悪い訳ではない。時の重なり具合が芳しく無かっただけである。ノエミリオ諸島への定期便は二人がデルロア市街地の門を潜る一時間前に出航していた。次の定期便は四日後であると、港湾局員は恐る恐る二人に伝えた。

(さて、四日もの間、惰眠を貪るのか?)

 コートのポケットに手を入れたユストの腕に手を絡めるイルサーシャの表情は平静であった。

(出来ればそう願いたいところだが、協会の指示では早々にとあった。)

(ならば今から泳ぎの特訓しかあるまい。無論、は見ているだけだがな。)

 意地が悪いにも程がある。昔話などするべきではなかったと言わんばかりのユストの事情を知らない港湾局員は頭を下げたまま、目の前の二人にご機嫌を伺う眼差しを送っていた。何も語らずに苦虫を潰したような表情ををする男と人前にも関わらず腕を絡めたままの女が浮かべる不敵な笑みは港湾局員にとってどんな文句を言われるのかと心胆を寒からしめた。

「まぁ、そなたを責めるのはお門違いというものだ。船を借りられる場所を教えて貰えれば助かるのだが。」

 幾分上機嫌なイルサーシャは港湾局員に楽な姿勢にするよう薦めた。

「え、船を借りる、ですか?」

「そうだ。は何かおかしな事でも口にしたか?」

 下げた頭を元の位置に戻した港湾局員は驚きを隠せなかった。南西自治国家において船舶は全て国の財産であり、登録制にて使用者が決められている。使用頻度及び使用する日時は使用者の自由であるが、登録以外の用途は国家の名に於いて登録を抹消の上、船舶を取り上げられてしまう可能性が充分有り得る。その旨を説明した港湾局員は顎に指を添えているユストに視線を向けた。軍事は軍事、観光は観光、漁業は漁業と型に嵌めて管理しておかなければならないのは治安の為には当然である。抜け道は無いものかとユストは思慮に耽る様子で乳白色のカウンターを人差し指で叩いていた。

「つまり、デルロア港に停泊する船舶の管理はここで行っているのか?」

「はい。おっしゃる通りです。」

「ならば、廃船間近の船舶の所有者を紹介して欲しい。船の大小は問わない。」

 意図が読めないが、判りましたと怪訝な面立ちで観光局員は返事をすると、船舶管理台帳らしきもの奥から持ち出し、二人の前で広げた。隙間無く並べられた文字の上に指を這わせて目を凝らしながら要望のあった船を探し出す。一頁捲り、その中程で指が止まった。

「有りました。識別番号五千五百三十四、第二グッドキャッチ号です。三日後の正午を以って廃船とあります。」

「その名からして漁船だな?」

 前のめりになり指差す文字を見つめるユストの腕をイルサーシャは離さない。何も語らないユストの言葉をイルサーシャが代理で発音している様な光景に港湾局員は二人の睦まじさを見せ付けられていると思い、仕事一辺倒の彼女にとって少々羨ましくも感じた。

「えぇ。小型の漁船でして、所有者は…アンス・ヴォイゲン…漁業組合長です。」

「ほう、胴元か。なら話は早い。ついでに漁業組合本部の場所を簡単な地図で貰えないか?」

「かしこまりましたが…何をなさるおつもりでしょうか?」

 要望通りに白紙の上に定規を使って羽根ペンを走らせる港湾局員の問い掛けはイルサーシャの緑色の瞳をユストへと動かす。僅かな沈黙は地図を描く白紙と羽根ペンの先が擦れる音を際立たせていた。

「それはここでは言えないが…誰にも迷惑は掛けないそうだ。」

 まるで他人事の如く語るイルサーシャはユストを見つめたままである。不可解な表情の港湾局員と視線が合ったユストは縦にした人差し指を自らの唇に当てた後に西部銀貨二枚をカウンターの上に置いた。情報提供の謝礼と口外無用の手付けである。鈍い銀色の物体を手に取るのを躊躇する港湾局員の心を撫でるかの様に置時計の秒針が時を刻んでいる。間もなく十四時を過ぎようとしていた。

 港湾局員の地図は彼女の実直さが滲み出ていた。直線のみで構成された地図は明確であり、誰であれ道に迷う事は無かろう。実際にユストとイルサーシャは目的地である漁業組合本部が置かれている建物に余計な時間を取る事無く辿り着けた。少々くたびれた感が否めない煉瓦造りの二階建ての建造物である。良く捉えるならば、デルロア市街地の歴史は海と共にあると他に知らしめる雰囲気を醸し出していた。門下に広がる庭は手入れが行き届いている。ただ、二人の目的であるアンス・ヴォイゲンなる人物は留守であった。

「ヴォイゲンさんならいつものところですよ、きっと。」

 街で見かけたことの無い来客の問いに従業員と思われる男は床の掃き掃除の手を休め、酒を飲む素振りをして見せた。

「ほう。因みに何という名の店なのだ?」

「乙女の涙、だったかな?この時間に営業している酒場はいくつもありませんから、直ぐに判ると思いますよ?」

「ほろ苦くも甘酸っぱい酒が楽しめそうな店の名ではないか。」

 漁業に関する道具らしきものは見当たらない。ウミガメと思われる骨格が壁に飾られていた。ここは事務所としてのみ機能させていると思われる。かたじけない、とイルサーシャの口を借りて短い謝意を述べたユストはコートの裾を翻すと共に年季の入った事務机の縁に右の人差し指を軽く這わせた。埃は付着していなかった。まだ見ぬアンス・ヴォイゲンは几帳面な性格なのか、それとも目の前の従業員の機転が素晴らしいのか。両手をポケットに入れて玄関のポーチを後にした。

「今日はうろうろ歩いてばかりだな。」

 デルロア中央駅付近まで戻るとイルサーシャが口を開いた。何も嫌味を口走りたかった訳ではない。疲れていないかと遠まわしに表現しているのは五年以上の付き合いで理解している。昼を過ぎて幾分時間が経過しているだけに人々の往来は増え続けている。逆に嘶く馬たちは二人が到着した頃より明らかに数が減っていた。次なる目的地へと自慢の俊足を動かしているのだろう。我々もそうしたいものだと、一台だけ残っている大型馬車に乗車する客たちを眺めている中、イルサーシャがユスト、と短く彼の注意を惹き付けさせた。言葉の先に視線を移す。そこには神剣霊と幼き剣霊使いが歩いていた。向こうもこちらに気付いたらしく、いや既に出会う想定でいたのか、歩調を変えずに近寄る。

「どうやら滞りなく事は済んだ様だな。」

 イルサーシャの言葉にシェス・ロウは静かに頷く。大型場車内で起きた邪剣霊討伐に於ける事後処理を十二歳の剣霊使いは買って出た。街道や辺地及び人目に触れない夜間の出来事であればそのまま放置しても差し支えは無いが、今回は大衆の面前でユストは剣戟を放った。人目に触れさせてはならない剣霊使いの剣技そのものはミゼレレにより守られた。別に技を晒すなと協会の規定には無い。ただ、剣技の公開は死と隣り合わせである。その技を見た者をユスト自身の手で口を封じなければならなくなる。剣霊使い以前に剣を携える者としての、非情ではあるが、ごく当り前の処世術と言えようか。

「えぇ。お二人のご好意に甘えて折れた剣も僕が協会の連絡所に提出してきました。」

「礼には及ばん。重ねて言うが、視界が閉ざされたそなたの、あの場に居合わせた乗客を守らんとする顔つきと心意気は立派であったとユストは言っている。も全く同じ意見だ。」

 邪剣霊の剣体の亡骸は協会にて共通銀貨十枚の報酬となる。十二歳の少年がこの大金をどの様に扱うのかイルサーシャはふと興味を持った。

「あれ、イルサーシャからいつものお香とは違う甘い匂いが…。何の花だろう?」

 閉じた目の奥で答えを手繰り寄せようとしているシェス・ロウを見つめるミゼレレの柔らかな眼差しが白銀の横髪に向けられる。不思議がる小さな両肩を腰を折った神剣霊の手が包んだ。

「シェス、お二人は優しい時間を過ごした様です。」

「優しい時間?」

「そう、お互いの心の内が解け合う一時ひとときの事です。」

「僕とミゼレレもその優しい時間を知っているのかな?」

「えぇ。若かろうと老いろうと常に絶やしてはならない、掛け替えの無い拠り所です。」

 ミゼレレが可憐な人差し指を唇に当てた。大地の意思が微笑んでいる姿をシェス・ロウは生涯を通して守らなければならない。神剣霊を母とし、友とし、やがては愛の対象とする少年は彼女の言うところの優しい時間を誰よりも多く奏でるのであろうとユストは幼き剣霊使いに目を細めていた。

「ところで、僕たちはお二人と共にノエミリオ諸島へ赴く様に協会から指示を仰ぎましたが、ご一緒しても差し支えありませんか?」

「構わん。こういうのは頭数が多いほど楽しいというものだ。」

 イルサーシャの言葉にありがとうと短い返事をしたシェス・ロウは肩に乗るミゼレレの冷たい手に己の小さな手を重ねながら利発そうな顔をユストに向けた。

「これからどちらまで行くのです?お二人は潮騒が聞こえる方向と反対に歩いていると僕は感じているのですが…。」

「実はだな、とある酒場を探していたところなのだ。」

 ユストの腕に自らの腕を絡ませたイルサーシャがデルロア港湾局から漁業組合に至るまでの経緯を説明した。勿論、歩く足は止めていない。探しているとは言うものの、店を構えている場所は大方予測が出来る。デルロア中央駅から左に進めば目的地は自ずと現れるとユストは読んでいた。

 剣霊協会の連絡所である花屋から百メートル先であろうか。重厚で過度の装飾を施した扉を持つ店が一軒、目に飛び込んだ。質素で素朴な気品を備えた店構えが多い中、異色を放っている。軒の上に掲げた看板には乙女の涙とある。扉の横には身形の整った男が立っていた。腰に得物をぶら下げてはいないが目付きが鋭い。見る者に研ぎ澄まされた刃を連想させる冷たい目付きである。周囲の気配を感じ取ろうとするシェス・ロウのしなやかな髪にユストは数回手櫛を入れた。

「行くか、とユストが聞いておる。」

「子供の僕が酒場に入れるかな…?」

 シェス・ロウは斜め前に立つミゼレレの手を握った。是非を問う行動にミゼレレは何も導かなかった。時には背中を押さずとも判断させなければならない。今が正にその時なのであろう。

「子供とはいえ、そなたは剣霊使いだ。剣霊使いは目下の難事に目を背けてはならないとはユストから聞いておるが?」

「…そうだね。行こう、ユスト・バレンタイン。」

 強い意志の表れを感じ取ったユストは髪を掬っていた手で小さな肩をさすると、胸元のポケットから取り出した煙草を銜えて乙女の涙へ足を向けた。

「旦那。そこの黒いコートの旦那、あんただ。」

 目付きの鋭い男は左腕にイルサーシャを従えながら煙草を銜えるユストに声を掛けた。ちらりとユストも視線を彼に向け、わざわざ店の前で火を点ける。どうせ店の中は他の煙草の煙で充満しているに違いない。どこで火を点けようと同じである。

「席料として一人西部銀貨一枚だ。美女の同伴は大いに歓迎するが、子供はな…。」

 イルサーシャとミゼレレの頭の先から踵の先までを舐める様に見た後に、目付きの鋭い男はシェス・ロウに卑猥な笑みを送る。目を閉じていようとも卑屈な口の歪みを少年は感じ取れた。また、それを甘受してはならないとも知っていた。ユストがイルサーシャを介して何かを言い出す前にシェス・ロウは上着から銀貨を一枚取り出し、目付きの鋭い男の顔の前に突き出した。

「ここにいる四人分の席料と子供の僕を店に通すという例外に対する手付けだ。」

 シェス・ロウの小さな指の間にあるのは西部銀貨ではない。四ヶ国の国章が刻まれた共通銀貨である。通貨としての価値は西部銀貨の八十倍は約束されている。先の大型馬車で倒した邪剣霊の報酬の一部であろう。

「小僧、これを何処で手に入れた?」

「小僧じゃない。僕には偉大な御方から頂いた、ちゃんとした名前がある。いいから受け取るんだ。」

 突き出した腕は微動だにしない。頑なにこわばらせた腕を包む袖の下では一筋の汗が流れているのがユストには見て取れた。

「舐めた真似を…。」

 目付きの鋭い男は利き手で懐の何かを掴む。それと同時に、銜え煙草のままのユストは腕に絡みつくイルサーシャの手を右の人差し指で軽く弾いた。

「それ以上動くな。懐のものをの前にゆっくりと出してもらおうか。」

 ユストの腕から離れたイルサーシャの緑色の瞳に力が込められている。剣霊の睥睨は見る者の体の自由を奪う。別に剣霊の特殊能力ではない。剥き出しの急所に全てを切り裂く切先が狙いを定められた者が知る殺気と言えようか。強力な殺気は体の動きを抑制されてしまう。動けば切り裂かれるという危険回避の本能が働くものである。剣霊という単語が頭に浮かばない時点では無理も無いが、何故それぞれの男の前を女が自分に向けて立っているのかと目付きの鋭い男は最初に気付くべきであった。

「お前、俺が手にしている物が判るのか?」

 たかが威勢の良い女だ、と目付きの鋭い男は思いつつも、その額にはうっすらと汗が滲み、次に喉が急激に渇き始めていた。

「あぁ。幼くとも勇敢な心を無碍にしようとする、どうしようもないなまくらであろうな。」

「なまくらかどうかは見てから判断してもらおうか。」

 目付きの鋭い男はふんと鼻を鳴らし、懐に入れた利き手をイルサーシャの眼下に晒した。あたかも護身用とは言い難い、細い刀身を持つ諸刃のナイフである。早く獲物に喰らい付かんとしている刃が斜陽を浴びて妖しく輝いていた。研ぎ澄まされた刃を目の当たりにすれば女は動揺すると目付きの鋭い男は読んでいたが、事の運びはその様には転ばなかった。頭に薔薇を挿した白銀の長髪は表情を変えず、薄緑の豊かな髪は涼しげな趣をごく自然に保っている。その後ろで彼の言うところの黒いコートの旦那は悠長に煙草の煙を鼻から出していた。何者なんだ、と思う矢先、おいとイルサーシャが声を掛けた。

「そなたに一つ教えてやろう。打ち所が悪いと人間は軽く叩いただけでも命を落とすそうだ。実は剣も同じでな…。」

 細く長短の均等が取れたイルサーシャの五指のうち、一番長い指がナイフのとある箇所に触れた。乾いた音と共に刀身は二つに裂かれ、哀れな切先は持ち主の両足の間に転がった。

「剣とは誇りの象徴であり、その先にある刃は誰にも犯されぬ真理だ。それを一時の感情から生じた脅しに用いられ、今後もその様な為に用いられると知った剣は己の誇りを汚されて身を裂かれるような思いであろうな。故に同じ剣であるがその身を楽にさせた。悪く思うな。」

 唖然とする目付きの鋭い男は二三度口を動かした後にようやく声を出した。

「お前、まさか剣霊…なのか?」

「さぁ、どうであろうな。」

 目付きの鋭い男に一瞥をくれたイルサーシャはシェス・ロウの伸ばしたままの腕の先の下で手を広げ、共通銀貨をそのまま落とせと言った。素直に頷いたシェス・ロウは指先に込めた力を緩める。金属と金属が擦れる音が短く響き、受け取った共通銀貨を立ちすくむ男の上着のポケットに入れた。

「剣霊かどうか、この指に触れて確かめるか?先に断っておくがは人間の打ち所とやらは知らぬぞ?」

 勝負は決した。目付きの鋭い男に次の手は打てない。銜えていた煙草をそのままにユストは一歩踏み出し、扉の取っ手を握った。

 蝶番の軋む音は妖しげで魅惑が溢れ出る世界へと誘う。採光用の窓が無い空間は数多くの燭台を必要とし、揺らめく炎は人間の苦楽と欲を浮き彫りにする。整然と並べられたグラスに映り込む客の顔は取り繕った外側なのか、はたまた包み隠された内側なのか。酒場とは有り体の世界である。

 燭台の上に短くなった煙草を置いたユストの目がアンス・ヴォイゲンを探す。奥で酒場に良く似合う、もっともらしい女を脇に従えた男がグラスを傾けている。歳はユストより十歳ほど上であろう。日に焼けた肌と太い筋肉質な腕は実際に漁を行っている者の証である。何という種類の酒を吟味しているかは判らないが、少なくとも薄い酒では無さそうである。向こうもこちらに視線を向けた。酒場に似つかわない者が現われたのだから当然の行為である。アンス・ヴォイゲンと思われる男に近付こうと板貼りの床に音を立てずに進むイルサーシャをミゼレレが制した。

「ここはに任せて貰えますか?」

 何か考えがあるのだろうか。どうするのだとイルサーシャは言葉に出さずに緑色の瞳でユストに指示を仰ぐ。大地の意思たる神剣霊の言葉にユストは頷くしかない。その動作を確認したミゼレレは頭に掛けていたショールを取り除いた。幾重にも畝を成す見事な薄緑色の髪が解き放たれる。ユストはおろか、アンス・ヴォイゲンと思われる男とその脇に座る女もグラスを手にしたまま華麗なる剣霊の姿に見入っていた。

「あなたがアンス・ヴォイゲンですか?はミゼレレと言います。あなたにお願いがあってここまで来ました。」

 男はグラスを豪奢なテーブルの上に置くと正面に立ったミゼレレの顔を覗き込んだ。一方のミゼレレは臆する事無く、その柔らかな目許に力を込めずにいる。穏やかな水面を思わせる眼差しを知った男は何を思い立ったのか鼻で短く笑った。

「あぁ、いかにも俺がそうだが。あんた、絶世の美人だな。さては今朝このデルロアに到着した剣霊だろう?」

 既に大型場車内の件は自警団を通して広まっているのであろう。噂や憶測とは当事者が考えるよりも早く広まるものである。

「何故そう思うのです?」

 剣霊と言い当てられても表情を変えないミゼレレの問い掛けを待っていたかの様にアンス・ヴォイゲンは自らの頬に人差し指の腹を当てた。

「黒子やしみが無い。あんたの肌は丹念に磨きこまれた彫刻みたいだ。人間が触れちゃあいけねぇ肌だ。」

「どうやら剣霊に深い見識をお持ちのようですね?」

「俺は二十年前に剣霊と遭遇しているからな。そこの銀髪の姉ちゃんも剣霊だろ?」

 頬に当てた人差し指がイルサーシャに向けられた。

「いかにもと彼女はあなたのおっしゃる通りです。剣霊の願い、聞き入れてもらえませんか?」

「船を借りたい、じゃあないのか?漁業組合長の俺に相談するのはそれぐらいだろ。」

「えぇ。あなたの所有する第二グッド・キャッチ号をお借りしたいのです。無理は承知の上でのお願いです。何かお望みがあれば遠慮無くどうぞ。」

「あれの廃船費用だな。西部金貨二十枚だ。ただ…。」

 この時、初めてミゼレレの目許が僅かに動いた。身の危険、いや敵意を感じたのであろうとユストは感じていた。

「それよりも勝負しないか?」

「勝負、ですか?どの様なものでしょう?」

 アンス・ヴォイゲンはシャツの両袖を捲くるとおもむろにテーブルに右肘を突いた。

「力比べだよ、剣霊さん達。」

 ユストは心の中で舌打ちをした。重量と力は綿密な関係にある。鍛え上げられた男の二の腕から繰り出される力に剣体の重量しかない剣霊が対抗出来る訳が無い。切り刻む事は出来てもここでは別の話である。二十年前に剣霊に遭遇したと語るアンス・ヴォイゲンは剣霊の弱点も見抜いているのであろうか。彼の挑発的な行動にミゼレレは応えない。うろたえていはいないものの、何かをためらう様子がユストには覗えた。

「よかろう。その勝負、が受けて立とうではないか。」

 イルサーシャが重い沈黙を破った。同時にユストは誰にも聞こえない溜息を漏らさずにはいられなかった。やぶれかぶれにも程があるとしか言い様が無い。

「荒事となったらの出番だ。心配するな。」

 ユストの内心を読んだかの如くイルサーシャが嘯く。しかし、彼女が頻繁に口にする格調高い誇りで切り抜けられる事柄ではない。脇にイルサーシャを抱えて走り去るか、場合によってはアンス・ヴォイゲンを切り伏せるか。ユストはいらだつ己を静めようと新たな煙草を銜えた。テーブルの上に置かれた呑み掛けのグラスがアンス・ヴォイゲンの勝利を確信した笑みを揺らめく燭台の炎と共に映し出していた。



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