ほんの出来心
勝利の余韻とは誰が初めに言った言葉なのか。そしてこの余韻とは何か。達成感というものを感じている様では危険だとイルサーシャは知っている。大型馬車の展望室に戻ったイルサーシャは一撃を繰り出した体を冷やそうと吹く風に身を任せていた。満足を覚えたら誇りに曇りを生じてしまう。彼女にとって余韻とは安堵が大部分を占め、安堵の行き着く先は彼女の契約者であるユストの無事に他ならない。剣霊が剣霊として全うする為には契約者の存在は不可欠であり、イルサーシャにとってユスト・バレンタインという契約者はそれ以前に男として捉えてしまう。五年という歳月を共にしてその感情が芽生えてしまうのは抗えない已む無き出来事なのか。たった五年。五百余年を知る剣霊にとって、たったの五年である。その僅かな時の流れが生じさせた結果はいつまで続くのだろうか。
彼女の白銀の毛先を躍らせている風が衣擦れの音を運んできた。足音はしない。涼しくも実直な緑色の瞳が展望室の出入り口へと動いた。
「流れる景色は見る者の心を優しく撫でるものですね。」
先程までその華奢な両肩にあったショールを頭上から掛けていたミゼレレが姿を現した。豊かな薄緑色の髪を隠している。同じ剣霊とはいえ、彼女の前面に押し出された整った顔にイルサーシャは魅力を感じていた。
「大地の意思たるそなたでも同じなのか?」
「えぇ。我たち神剣霊は大地の意思とはいえ、幾つかあるうちのひとつに過ぎませんから。この風景を姉上たちにもご覧差し上げたいものです。」
彼女の言う姉たちとは絶望の剣霊サリシオンと創造の剣霊インファンティラに他ならない。三位一体と言われる神剣霊のうち、始まりの剣霊であり剣霊帝と人間から崇められる長姉、かたや大地を汚す愚かな生物として人間の存在を否定する次姉。天恵の剣霊の姉を想う言葉は確執する強大な力の間に挟まれた末妹たる心境を物語っていた。
思慮という表現では遠く及ばない趣の視線を有するミゼレレの周りを二匹の蝶が舞い、一羽の鳥が彼女の直ぐ脇の手摺に止まった。天恵の剣霊は万物を育む力を有していると聞いている。育むとは愛情が無ければ為し得ない。故にミゼレレという剣霊は愛情に溢れ、生物はその温もりを差し伸べられたいのであろうとイルサーシャは感じていた。だが、ミゼレレは目を細めるだけで可憐な指で愛撫という慈悲を与えない。剣霊が触れて良いのは契約者のみである。想像の枠では収まり切らない強大な力を有していても、その実態は一振りの剣なのだから。
「我の剣体が気になりますか?」
思考を既に読まれているのは判っている。目を剥くまでもないが、イルサーシャは素早く一回頷くと共に邪推した気まずさをごまかす為か横髪を耳に掛けた。
「実のところ、契約者であるシェスに我の剣体を一度だけ見せた事がありますが…暫くは開いた口が塞がらない状態でした。」
「そなたの事だ、人間からしてみれば厳かで気品に満ち溢れた逸品なのであろう?しかも物凄い切れ味ときた。ユストも同じ行動しか取れないかも知れんな。」
「どうでしょう?我の剣体はそう滅多に見せるものではないと剣霊帝様に言い聞かされておりますから…。」
姉と言わずに剣霊帝と謳ったのは絶対服従に抗えない妹を表したのか。それとも単なる口実として姉が登場したのか。剣霊が実の姿である剣体をそう易々と見せるものではないのは剣霊であるイルサーシャ自身も理解している。例えるならば年頃の女が衣服を身につけていない姿を分け隔ても無く晒すのと同様である。
「それよりもシェス・ロウの傍にいなくて良いのか?」
「この中は安全です。我といるよりもユスト・バレンタインに肩か背中に文字を記してもらって会話を愉しんでいる頃でしょう。」
わざとではないだろうが、皮肉にもユストと同じ台詞をミゼレレは口にした。だが不思議と腹立たしくは思わなかった。ミゼレレの声は幾層にも織り成す心の襞を優しく包み込む。剣霊障によって視力を奪われた者と声を奪われた者とが意思の疎通する姿をイルサーシャは脳裏に描く。確かにミゼレレの言う通りの手段が当て嵌まり、納得をした。
「横、宜しいですか?」
断る理由は無い。イルサーシャは白銀の長い髪に手を回し、項から先を手前に手繰り寄せた。風圧で踊る剣霊の毛先が他の剣霊に触れれば切先同士が交わる音が発するものである。つまりお互いが痛む。少なからずの作法にミゼレレは微笑で応え、イルサーシャと同じ様に木製の手摺に両肘をついた。
「イルサーシャ。あなたの契約者、ユスト・バレンタインの様子ですが…。」
格下の剣霊の名をわざわざ呼び、一呼吸置いたのは注意を引く為の演出だろうか。ミゼレレは両肘をついた腕に横顔を預けて覗き込む様にイルサーシャを見上げた。髪を手繰り寄せた為にイルサーシャの汚れを知らない耳が露になっている。
「先日、風邪をこじらせたが、人間にはよくある出来事だ。」
「具体的には発熱と我は見ていますが…?」
程よい大きさの耳たぶからぶら下がる黒い蛇の鋭い眼差しがミゼレレを捉えている。だが、普通の人間ならいざ知らず、さすがに神剣霊の前ではイルサーシャの従者の威嚇は意味を為さない。魔剣というものがこの大陸に存在するのなら、それはミゼレレの事であろう。魔剣は見る者の戦意を尽く霧散させるという。しかもそれは押し付けるのではなく、溶け始めた氷の様に気付かない内に消失してしまう。イルサーシャの従者たちもその例外ではなかった。
「あぁ。数日の間、高熱が続いたが、雨の中を駆けずり回ったからであろう。あの者、気力が滅入ると全てが駄目になる性質でな。契約者として選んだ我の責任とはいえ、見当違いであったのかもしれん。」
ここぞとばかりに日頃の鬱憤を吐き出すかの如く鼻で笑いながら語るイルサーシャにミゼレレは目を細め、落着いたままの表情を崩さなかった。
「その見当違いな部分をあなたが補えば良いだけではないですか。」
尤も過ぎる言葉はイルサーシャに反論する余地を与えない。ミゼレレは楽にしていた腕に付けていた横顔を元の位置に戻した。
「人間は無論ですが、剣霊にも弱味はあるものです。お互いがそれを理解して慈しみ、己の胸の内に抱き寄せられてこそ、初めて剣霊とその契約者に成り得るのですから。」
「まぁ、そうなりたいと我も思ってはいるが…なんせ我はユストにとって『遺失物』扱いだからな。」
「それは彼の剣を携える者としての決意の顕れでしょう。剣の柄を握る手と剣霊の柔肌に触れる手は同じです。どちらに重きを置くかにより彼の生涯は決まってしまうのです。確かに些か棘のある言葉かもしれませんが、それをも包み込む優しい手を自ら差し伸べるべきです。」
「我に出来るだろうか…。」
出来るとも出来ないともミゼレレは言わなかった。麗らかな唇に人差し指を添えたまま、その奥で微笑をたたえていた。流れる景色に家屋が増え、潮の香りも強くなっている。この大型馬車の終着点であるデルロア市街地に近付いているに違いない。十二頭の駿馬たちは御者の指示通りに徐々に速度を落とし始めているのが判る。イルサーシャは体の前に手繰り寄せていた髪を元の位置に戻した。まるで剣霊の意志の強さを示すかの様に白銀の長い髪は風になびかなくなった。心の内を示すかの如く潮騒が耳にまとわり付き始めていた。
デルロア市街地は南西自治国家の第二の都市と謳っても誰も否定しないだろう。二方向それぞれ五キロに伸びる外壁は複雑な石組みで構築され、見る者を圧倒する。もう二方向は天然の防壁である。入り組んだ入り江は押し寄せる潮の力を和らげ、居住者たちに対しては水害の心配も和らげていた。外敵から護る為に掘られたと思われる割堀に掛けられた全長二百メートルほどの吊橋を大型馬車が中央を渡る。細い鋼鉄を束ねて作られたハンガーケーブルは主塔から放射状に延び、その隙間から望める堀の中身は海水であろうとユストは眺めていた。吊橋を渡りきると共に角を持つ勇ましい魚をモチーフとしたデルロア市街地の市章が描かれた鋼鉄製の門が左右に開かれる。外壁の上部には等間隔に配置された見張りの守備兵がいる。彼らが大型馬車の速度に合わせて開門の伝令を発したのであろう。馬の蹄の音が土を穿つ鈍いものから石畳の上を走る硬いものに変わった。その心地良い快活な響きを数分愉しんだ後、大型馬車は完全に停止した。デルロア市街地の中央に位置する大型馬車の発着地。そこを人々はデルロア中央駅と呼んでいる。出立を心待ちにしている馬たちと遠路を駆け抜けて息が荒い馬たちに溢れ、それ以上の数の人間が様々な思惑と共に往来を埋めていた。
「自警団との対応は僕とミゼレレに任せて下さい。」
乗客たちがいそいそと大型馬車から降り始めている中、シェス・ロウは邪剣霊とその被害者の亡骸に対する事後処理を買って出た。ミゼレレの指図ではない。その証拠にミゼレレの表情がいつもと違う。少々の驚きと感心が入り混じったものである。
「ほぉ。手間を掛けるが、構わないのか?」
売り子の少女から受け取ったコートを腕に掛けたままのユストの肘に両手を巻き付けているイルサーシャが答えた。
「えぇ。これは後方の車両で起きた出来事。お二人は前方の車両の乗客です。」
「なるほど。」
何処へ赴こうとも晩秋の陽光は淡い。ユストはイルサーシャの手を軽く二回叩いて離す様に指示をし、コートの袖に腕を通した。
「僕もいろいろと覚えなければいけない事が有りますから。」
シェス・ロウは六十五の番号を持ち、ユストは七十二の番号である。まだ十二歳になったばかりの少年の方がユストより剣霊使いとしては先輩に当たるが、人生経験は勿論の事、剣霊使いとしての実務経験はユストの方が遥かに積んでいる。生を受けると共に神剣霊と契約を結んだ彼はその言葉通りに見聞を広げたいのであろうとユストは勿論の事、イルサーシャも理解していた。
「では、邪剣霊の剣体はそなたが協会に提出するが良い。」
「ん…。それはユスト・バレンタイン、あなたの報酬では…?」
「邪剣霊を倒したのはユストだが、乗客を守りきったのはシェス・ロウ、そなただ。我とユストは加勢したに過ぎん。」
イルサーシャの白い手はユストに触れていない。シェス・ロウには剣霊障の影響でその光景は判らないが、剣霊の確固とした言葉は契約者に是非を問わずに発したものであると、その滑らかな口調で判断出来ていた。
「良いのですか?」
困惑気味のシェス・ロウは首を傾げ、利発な少年を思わせる長くて整った睫毛を持つ目許に力を入れていた。ミゼレレは黙ったままである。ユストは銜えた煙草に火を灯した。
「遠慮するな、堂々と受け取れ。剣とは敵を倒す為ではない、敵から守る為にあるのだ。」
「敵を倒す為ではない、敵から守る為…。」
イルサーシャの言葉を反芻し、その真意を噛み締めたシェス・ロウは力強く頷いて見せた。その後ろでは彼の教育者であり母親代わりでもある神剣霊が優しげな笑みをたたえていたのをユストはゆらめく煙越しに眺めていた。
デルロア市街地にてユストとイルサーシャがまずすべき行動は、剣霊協会の連絡所へ足を運ぶ事である。中央駅を起点に大きな通りが二つ伸びていた。左側は店舗が所狭しと並び、飲食関係は勿論、生活雑貨から武具の調達も可能の様子である。右側は市政及び軍事の中枢機関の建物で埋め尽くされている。それぞれの通りを往来する人物の格好や顔付きでその役割が判るものである。
(さて、どちらに行くものか…。)
二本目の煙草に火を灯したユストは鼻から煙を出した。
(簡単だ。石ころを自然な形で隠すなら庭というのが鉄則であろう?)
イルサーシャの細い人差し指が左側を示している。彼女の言葉が正しいのかは判り兼ねるが、どうせ歩くのであれば多少の目の保養も必要である。再び鼻から煙を出したユストは足先を左へ向けた。大都市なだけに往来する者の数が多い。つまり普段の速度で歩けない。ましてや通行人がイルサーシャに触れたら怪我をさせてしまう。普段ならば三十分もしないうちに連絡所を見つけ出していたが、今回ばかりはそうもいきそうに無い。連絡所発見までの所要時間の記録が悪い意味で更新しつつあった。
(一つ聞いて良いか?)
煙草を持たない左腕に手を添えているイルサーシャはユストの許可を待たずに言葉を続けた。
(そなた、ミゼレレとは目を合わせないのだな。実はああいうのが好みだったのか?)
手持ちぶたさによる発言なのか、ユストを見上げるイルサーシャの瞳に力は入っていなかった。
(恋焦がれる十五六の少年ではないよ、愚生は。何時とて目は心の内を表現しているものであり、彼女はそれを正確に読み解く。それが恐ろしいだけだ。)
(実は我もユストの心の内が手に取るように判るぞ?)
彼女にその様な能力があるとは初耳である。いぶかしむユストの眉間を目の当たりにしたイルサーシャはふんと鼻を鳴らした後、挑発的に横髪を耳に掛けた。
(邪剣霊を倒した後にミゼレレと我が何を話したか、であろう?気になるのは契約者として至極当然だ。話してやらない事も無いが、その前に一つ問いに応えて貰おうか。)
問いとは何か。ユストの脳裏にある単語が鮮明に浮き上がる。創造の剣霊インファンティラが片腕を失った際に発した、マナエグナという単語である。その後、マナエグナについては何も判っていない。行く先々で手にした如何なる歴史書にもその片鱗を覗う事は不可能であった。この秘密をミゼレレが耳打ちしたのだろうか。そして何故隠したのかと追求を受けるのか。伸びに伸びきった煙草の灰が重力に任せて地に落ちる。同時にイルサーシャの手がユストから離れた。
「そなた…この場で我を抱き締められるか?」
手を離したのは言葉での回答はいらないという意思表示の顕れであろう。目から鱗が落ちたと言わんばかりのユストを見据えた緑色の瞳が近付いてきた。まだ数口は吸えるであろう煙草の先端を二本の指で摘まみ上げる。剣霊に熱という概念は無い。
「我は出来るぞ?」
剣霊の冷たくも温かくもない両手が首筋に廻った。百年香の香りがユストの嗅覚を刺激したのと同時に白銀の長い髪を持つ横顔が彼の胸に密着した。
(イルサーシャ、こういう事はだな、言われると出来なくなるものだといつも教えているだろう?)
(そうだ、契約者としてそなたの不可を我は可として全てを補う。これがそなたが知りたがっている、ミゼレレとの会話の答えだ。)
(ならば素直にそう教えてくれれば良いだけではないのか?何もこんな事をしなくても…)
(我も判らん。ほんの出来心だ。)
僅かに目を細め、幾分の満足を覚えた微笑をたたえながら答えるイルサーシャの視界に、数ある露店の中の一つが映った。何かを思いついたのか、ユストの首に廻していた手が離れ、その露店を指差した。
(ユスト、我もあれが欲しい。)
今度はどんな無理難題を押し付けられるのかとイルサーシャが指差す彼方へユストは大儀そうに顔を向けた。両端を細長い木材で鋭角を持つ二等辺三角形に組んだハンガーラックに色とりどりのショールが掛けられている。素朴さの中にきらりと輝く洒落たデザインを形成する木材は色合いからしてチークだろうか。約二ヶ月ぶりに再会したミゼレレがショールを肩に掛けていた姿に感化されたのであろうとハンガーラックの一箇所を眺めつつユストは思ったが、イルサーシャの言い分はそれだけではなかった。鋼鉄からなる刀身を潮風から守る手段であり、霊体で動き回る剣霊にとって自然な姿でいられる。なにも高級な逸品である必要は無い。ミゼレレの入れ知恵なのかイルサーシャの発案なのかは確かめるのは些か無粋であるとユストは黙って頷いた。戦いの後の気分転換は剣霊にとっても必要なのである。
「そなたがこの店の主か?」
露店に近付いてきたユストとイルサーシャに女店主は深々と頭を下げた。ユストより歳上である。強いて言うならば先日会ったドルク夫人と同じ世代であろう。潤いのある亜麻色の髪を項より幾分下で束ねた姿は清潔感が漂い、厚くも薄くも無い唇の横にある黒子が女としての魅力に一役買っている。目尻に数本走る小皺が豊かな人生経験と店を構えている者の苦労を物語っていた。また彼女からすれば、少々歳の差を思わせるが見る者に微笑ましさを感じさせる二人は単なる冷やかしではないと判っていたつもりであった。何故ならこの晩秋の中、女の方はドレス一枚で歩いている。羨ましい事に若さ故の薄着なのだろうか。だがこの日は前日より肌寒い。
「いっらっしゃいませ。どのようなものをお探しですか?」
「その、我に似合う品をだな…。」
そなたという言葉使いといい、我という聞きなれない一人称は女店主の首を捻らせるのに充分過ぎる効果があった。国外の旅行者であるには違いない。よくよく見れば白銀の長い髪あるいは身に着けている衣服からなのか、心地良い香りを嗜む端正な横顔はこの南西自治国家の女のそれとは趣が異なる。北の王族の縁者、東の貴族の令嬢、中央の富豪の孫娘、と様々な想像が彼女の中で渦巻く。
「お客様のお召し物に模様がありますから、ショールは主張を抑えて単色の物が宜しいかと。」
「そうだな。そなたに任せよう。」
買い物慣れしていない様子が手に取るように判る。やはり外の世界が眩しくて仕方が無い箱入り娘なのだろう。
「お召し物の模様の色と合わせて黒は如何ですか?素敵な銀色の髪との比較が折り重なって、すれ違う誰もが感嘆の溜息を漏らすと思われますよ?」
女店主がハンガーラックに手を伸ばした。織り目が細かな黒色のショールをイルサーシャの目の前で広げたが、イルサーシャは憤りを隠しきれずに目尻に鋭いものを与えていた。
「黒は駄目だ。容姿容儀がいかがわしい、我を小馬鹿にする言葉遊びが大好きなあの女とイメージが重なる。」
移動が容易な折りたたみ式の木製カウンターの端に手を衝き、自らの心の内を吐き出す様に語るイルサーシャの語気には力が込められていた。どうやら気に食わない同性が好む色を選んでしまったのであろう、と女店主は後悔せざるを得なかった。年頃の女は取り扱いが難しいものである。横に立つ男は何も語らずに黙っているが、普段は我が侭な彼女に振り回されて辟易しているのではないのだろうか。あるいはそれもまた魅力と感じて優しい眼差しを送る度量を備えているのか。そもそも恋人なのか付き人なのかすら不明である。だが、あの女という言葉の後に一瞬の出来事とは言えども、ユストが声を出さずにほくそ笑んでいたのを女店主は見逃していなかった。
「でしたら、お客様の瞳の色と合わせて深い緑は如何でしょう?神秘的な美しさが一層際立ちますよ?」
滑らかな肌触りを約束してくれそうな深い緑色のショールを女店主は指差したが、イルサーシャは明るい表情を表に出さなかった。
「それも良いが…実のところ、その色合いは我よりも似合う知人が既に所有しているのだ。」
今回もはずれてしまった。女店主のやや困った表情を読み取ったユストは主張の多いイルサーシャの肩に手袋越しの手の平を置いた。何かふんぎりを着けさせるかの様に親指で二回叩く。
「我の好きな色か…ならこれだな。」
何も語らないユストの指示に従った様にイルサーシャはハンガーラックの中から赤みを帯びた紫色のショールを手に取った。同時にユストは感心を示した表情をしたが、契約者の珍しい表情が見える位置に剣霊は立っていなかった。
「素敵な色合いのものをお選びですね、お客様。」
「我に似合うか?」
「落着いていて気品のある女性が好む色です。非のうちどころがございませんわ。」
女店主は自らの胸の前で得意気に手を打ってみせた。
「そうか。そうも言われると返す言葉につまるではないか…。」
女店主の行動や褒め様にわざとらしさが否めないが、商売根性の巧みを凝らしているだけであろうとユストは傍観していた。むしろ、イルサーシャがこの手のおだてに乗り易い性格であったとは知らなかった。
「さて、代金はいかほどか?」
「こちらのショールでしたら銀貨八枚ほど頂きたいのですが…。」
女店主が言う銀貨とは南西自治国家にて造幣している西部銀貨の事である。庶民にとって西部銀貨一枚は三日分の食料に相当する。国に寄って換算比率は異なるが、ここでは西部銅貨二十五枚で西部銀貨一枚、西部銀貨二十枚で西部金貨一枚と聞いている。少々値が張り過ぎだと感じたユストは値引きの交渉をしろと命じるべくイルサーシャの肩に再び手を置こうとしたが、それよりも早くイルサーシャの方が先に口を開いた。
「よかろう。八枚だな。値切らない代わりと言ってはなんだが、この辺りに剣を銜えた鳩の紋章を掲げている店を知っていれば教えて欲しいのだが?」
値引きを試みない端正な鼻筋の上客は珍奇なお願いを投げ掛けた。女店主は胸の前で合わせていた両手をそのままにして記憶の糸を手繰り寄せていた。
「確か、ここから五軒先の花屋さんがその様な看板を使っていた様な…。」
「左様か?かたじけないな。」
「その看板がどうかしましたか?」
「我の遠い親族が営んでいるそうだ。話で聞いただけで何を生業にしているのか知らなかっただけに窮していたところだったのだ。」
赤紫色のショールを手にしたままのイルサーシャは自らの肩ではなくユストの左腕に掛ける。言われた通りの代金をユストが折りたたみ式のカウンターに並べ、二人は揃って踵を返した。ありがとうございましたとお辞儀をする女店主の視界に西部銀貨の鈍い輝きが入り込んだ。
結局、男の方は何も喋らなかった。世の中は広い。変なお客、とは口が裂けても言えないが、そう思わせるには二人の行動は充分であった。強いて言うならば、女の方である。吐く息を飲み込ませる程の美しさは剣霊ではないかと思わせた。いや、まさか。剣霊は冷酷無情で全てを切り裂くと幼い時から教え込まれ、これまで疑問を覚えた事すら無かった。そもそも剣霊が買い物に興じると聞いた例も無い。やはり他所の国から来た世間知らずの箱入り娘なのだろう。
「あら…?」
わざわざ声に出したのは怪訝に思ったからに他ならない。折りたたみ式のカウンターの一部が地面を覗かせていた。硬質な木の表面に十センチ程度の切れ込みがある。先程、世間知らずの箱入り娘が昂ぶる感情に任せて手を衝いた場所でもある。長年使い込み、乾燥しきった木材は狂いが生じると聞く。その大半は割れである。手を衝いた衝撃で木目に沿って割れたのであろう。これもまた味といえようか。そう思い込んだ女店主は売上金である西部銀貨を大事そうに財布にしまいこんだ。
「ユスト、そろそろ気付いても良いのではないか?」
先を歩くイルサーシャが不意に立ち止まった。基本的には剣霊が契約者の前を歩く。契約者を前方からの不意打ちから守る自然な行動と言われている。側面と後方については剣霊の策敵能力、いわゆる殺気の感知能力次第だが、人間のそれよりも遥かに優れている為、いざという時の対応は容易いものである。
冷ややかな眼差しを送ると共にイルサーシャはか細い肩を腕に掛けたままの赤紫色のショールに擦りつけた。何を主張しているのか理解出来ないユストは黙って見つめるしかない。
「そなた、ミゼレレには何も言われずともこれ掛けるのだな。なかなかの見物であったと、我の従者が教えてくれたぞ。」
イルサーシャが自身の右耳を指差す。あぁ、なるほど、とユストは心の中で溜息をついた。自身の剣霊が神剣霊に嫉妬している。ショールの代わりに掌を乙女心丸出しの剣霊の肩に添えた。
(髪に付着した塩分を拭い落としてからだ。)
(我がこれしき程度で錆びるものか。)
どの様な根拠がそこまで言い切らせているのか。単に感情に任せた言葉であるとは容易く察せた。感情に支配された者が振るう剣は何も斬れないが、剣そのものが感情に支配されては何も斬れないばかりか、その身を破滅させる事になる。ここは彼女の思う通りにしてあげようとユストは肩の力を抜いた。
(イルサーシャ、悪かった。確かに君は愚生に偽りを語ったことは一度も無かったな。)
淋しげな肩と白銀の長い髪を外気に晒されない様にショールで包み込む。壊れ易い何かを守ろうとする仕草に似た男の手に女は冷たい手を重ねた。
(…ユストが悪い訳ではない。剣霊はその身が滅ばぬ限り長久を知るが、人間はそれが出来ない。命という限りがある。我はユストと共にある時間を感じていたいだけだ。)
吹く風に舞う百年香の匂いが二人を優しく撫でた。余談だが、ユスト・バレンタインが他界するまでの間、自らの剣霊であるイルサーシャに謝ったのはこの時が最初で最後であったと言われている。
露店の女店主の記憶は正しかった。小さな店構えの花屋の脇には銅版を叩き出して作られた立て看板があり、嘴に剣を銜えた鳩がモチーフとなっている。看板と表現するよりは店の雰囲気作りのオブジェと称した方が的確かもしれない。ブリキのバケツの中に切花が並び、大陸中の各地方から取り寄せた珍しい植木も販売している。二人以外の客は白い薔薇と黄色の薔薇のどちらにしようか迷っているデルロア市街地の住人と思われる老婆が一人いるだけである。備え付けの古めかしい作業台の上で販売用の種の良し悪しを分別している小太りの中年がこの店の主であり、連絡所の係員であろう。ユストはおもむろにその男に近付くなり、ポケットから取り出した共通金貨を十枚並べた。金貨、ましてや希少価値の有る共通貨幣である必要は無いのだが、これは箔付けである。並べた十枚の配置はユストの二本の指に従い様々な形を織り成していく。
『神は剣を生み、人に剣を与え、人は剣を手にした。我が身我が心、その果てまで剣と分かつ者。』
この所作が出来る者が剣霊使いであると連絡所の係員は教えられている。剣霊使いの特徴として協会から支給される番号入りのスカーフを食痕付近に身に着ける点がある。これは剣霊使いだけが知る事実ではあるが、食痕の位置と剣霊の数は同じと考えなければならない。首筋に食跡があるユストは比較的判り易いが、目に付き難い部位に食痕があれば、剣霊使いと判断するのは難しくなる。また、連絡所の係員たちにはその事実が明かされておらず、連絡員同士が顔を合わせる事は無いのでスカーフの謎が解明される事は永遠に無いであろう。
「もしや、あなた様は…。」
店の主にとって久しぶりの剣霊使いの登場であった。確かにデルロア市街地という巨大かつ堅牢な都市に剣霊使いは不要であろう。難事は駐屯する軍隊でほぼ全てが片付く。並べられた共通金貨からユストに、そして隣にいるイルサーシャに視線を移す。彼女が持つ緑色の瞳の奥深さは剣霊以外何者でもない。
「そこの扉から裏庭に出れますので、どうぞ。」
店の主が指差す方向を一瞥したユストは頷くと共通金貨をしまい込み、商品への水やりで濡れた床を歩き始めた。ぎこちない音と共に木製の扉を開き、裏庭へと進む。花屋を営むだけに植栽の手入れが行き届いている。中央に小ぶりで簡素な鳩舎が設けられており、中には二羽の鳩が佇んでいた。純白の羽根を持つ方は六十五と刻まれた足輪を嵌め、白に茶の斑点が散りばめられた模様の方の足輪が七十二とある。自らに与えられた番号と同じ足輪の鳩の頭を撫でる。抵抗はおろか、嫌がる素振りすら見せない。剣霊協会の忠実な僕はこの時を待っていたかの如く、気持ち良さそうに首を捻った。同時に首からぶら下げている、ソノイの樹液で作られた小筒がぶらぶらと宙を踊る。イルサーシャが小筒をつまみ、空いている方の指で紐を切断する。
「シェス・ロウへの指示も気になるのであろう?」
小筒を差し出しながらイルサーシャは悪戯な色を目許に浮き立たせる。純白の鳩に視線を投げたユストは首を振った。
(なんとなくだが、内容が判るよ。ユスト・バレンタインを監視しろ、とあるだろうね。)
(そなた、協会に嫌われていたのか?)
(さぁ、どうだか。)
指と指が触れた時にユストは己の中で膨らむ興味を隠す様に語り、イルサーシャも追究を求めなかった。受け取った小筒の上部が弾け飛ぶ。イルサーシャの一閃に他ならない。小筒の中には丸められた紙切れが一枚入っている。両手を使って広げ、記された文字を追うユストの腕に温かくも冷たくも無い手が絡みついた。
(今ので我が錆びないのを少しは理解したか?)
(あぁ。それは判ったが…。)
ユストの関心は指示書の内容にしか向けられていない。晩秋の淡い陽光が思慮に耽る剣霊使いの横顔を撫でている。
(早々にノエミリオ諸島へ赴き、かの地にてA七の番号を与えられし剣霊使いと接触を図り、指示を仰げ、だと。)
何をそこまでユストを惹き付けるのかと、指示書を覗き込んだイルサーシャの為にユストは読んで聞かせた。彼女は文盲ではない、今の文字が読めないだけである。流れる時に人間は姿を変えないが、使用する文字は徐々に変化をもたらせている。利便とは都合の良い言葉である。人間が変われないから取り巻く周囲が変わるしかないのであろう。
(このA七というのは何だ?記述を誤ったのか?)
どうやら数字の表記は五百余年の時から変化を生じていないらしい。イルサーシャが指差した部分には確かにA七とある。
(これは特殊番号だよ。通常番号の愚生とは実力の差が有り過ぎる。)
(そなたのその言い方からして、向こうが上、という事だな?)
(そう。通常番号を与えられた者は邪剣霊の討伐が殆どだが、特殊番号の保持者はそれ以外にも暗殺や破壊工作を命ぜられると聞いているが…真相は明かされていない。)
(つまるところ、暗躍が得意という事か。ならば正々堂々の勝負は苦手と我は捉えるが?)
(果たしてどうかな…?)
曖昧な返事をしたのには意味がある。正々堂々と言うが、生死の狭間を掻い潜る剣霊使いにとってそれは偽りに他ならない。如何に相手を素早く確実に、しかも己と己の剣を傷付けずに倒すとなれば奇をてらう必要もある。相手の行動を読み解こうと目を細め、己の行動を読まれない様に細めた目に涼しい世界を漂わせる。剣技は生ものであり、見破られては意味を為さない。見破られるとは、その剣技を胸に抱えたまま死の世界に片脚が浸かったも同然である。剣を携えた者の生き方とはその様に孤独で乾いた心の持ち主にしか為し得ないとユストは考えていた。だが、この主張をイルサーシャにぶつける訳にはいかない。彼女は剣である。剣には剣の主張もあるだろうが、常に己が最上と決め込んでいればそれで良い。疑問を持つ必要は無い。それはあくまでも柄を握る者の領分である。
コートの裏ポケットから携帯用のペンと紙を取り出したユストは承知したと短い言葉を記すと共に鳩舎の扉の取っ手からぶら下がっている新たなソノイの小筒に丸め入れた。七十二の足輪を持つ鳩の首に掛ける。鳩は自らの役目を理解しているのか、ユストが促さなくても鳩舎から飛び立った。六十五の足輪を持つ純白の鳩は同僚の羽ばたく姿を目で追っただけで胸元の羽根を膨らませていた。
裏庭の扉を閉め、花屋を後にしようとした二人は薔薇の花を選んでいる老婆に目を留めた。まだ白か黄色のどちらにしようか悩んでいる様子である。ユストは老婆の横に立つと二種類のさらに隣に有る一本の薔薇を手に取った。イルサーシャが肩から掛けているショールと同じ赤紫色の薔薇である。茎の所々にある棘は先端が赤い。生命の躍動感を思わせる場所であり、それは傷を負って流れ始めた鮮血の色に似ている。花屋の主人の前に手にした薔薇を見せた。
「こちらは銀貨二枚になります。」
いわゆる高級な一輪である。構わないと首を縦に振ったユストは言われた通りの金額を払い、がくから数センチの花梗を残して手折る。不必要な部分を備え付けの古めかしい作業台の片隅に置き、幾層にも重なる柔らかな花弁を持つ薔薇をイルサーシャの右耳の上に挿した。
(なんのつもりだ?)
今一つ釈然としないイルサーシャの両肩を掴んで出入り口の硝子扉へ体の向きを変えさせる。低温で形成された硝子は分厚く、ぬめるような表面は鏡の様に景色を写す。
(そなた、剣が花を添えられて喜ぶと…)
(喜ぶと思うよ。)
剣霊の主張を遮る契約者の言葉は簡素であり、効果は絶大だった。
(愚生もこの色が好きでな。ほんの出来心だ。)
言葉に詰まるイルサーシャの肩から手を離したユストは新たな煙草を銜えて先に花屋を後にした。奇しくも我と同じ言葉をユストは口にした、と思ったイルサーシャは彼を追い掛けようとしたが、せめてこの赤紫色の薔薇の名前だけでも知ろうと振り向いた。使い込まれたブリキのバケツの中に同じ薔薇が数本投げ入れられており、バケツの縁に貼り付けられた紙に手書きで名前が記されている。だが、彼女はこの文字を読めない。
「…悪ふざけもいいところだ。」
軽く舌打ちをした剣霊は自身の中で温かいものを感じつつ、横髪にある赤紫の薔薇を押さえながら脚を動かし始めた。
プラウドオブゲルハルステン。ユストが手にした赤紫色の薔薇の品種名であり、花言葉は変わらぬ尊厳と言われている。ゲルハルステンとはユストの祖国であった中央王政国家の首都名に他ならない。深い赤紫色の花弁と鋭利な棘を持つ佇まいは気品に満ちた誇りと何者にも侵されない不屈の精神を謳う国家の象徴として国章にも用いられていた。今は亡き祖国への想いと自らの剣霊に対する敬意を重ね合わせたユストの心の内をイルサーシャは知る由も無かった。
一連のやり取りを眺めていた老婆は二人が店を出た後に白でも黄色でもなく、赤紫色の薔薇を手にした。