馬車内の剣戟
吹く風の比重が徐々に増しているとイルサーシャは感じていた。正確には湿り具合と言おうか。誰もが初めて体感する感覚に意識を集中させ、胸を躍らせるものである。五百余年を知る剣霊にも未知の世界が存在する。海が彼女にとってそれであった。腰より下に伸びた白銀の髪が潮風に身を任せてなびいている様は彼女を永劫の一端を知る剣霊ではなく、明るい未来と幸福を信じてやまない乙女として映し出していた。
ドルク夫人の許を去ったユストとイルサーシャはデルロア市街地へ向かうべく、南西自治国家特有の大型馬車に乗り込み、二階の展望室の片隅で流れる景色を眺めていた。駿馬十二頭を三列に並べ、二十人乗りの客車を二台連結して運行している定期便である。客車の車体は木造であり、腐食を防ぐ為に天然タールとソノイの樹脂の混合物で塗装されている。その配合割合は、南西自治国家の国家機密とも言われ、天然タール特有の鼻を突く臭いは皆無であり、塗装面の皮膜の劣化という心配も無用である。加工が容易な木材の大半は白い肌をしているが、この混合物を塗布すれば濃く深い茶色になり、重厚な雰囲気を醸し出している。車体中央側面には南西自治国家の国章が掘り込まれており、黄金色の塗料で彩られ、誇らしげな重厚な輝きに他国の人々は目を奪われるであろう。二人がいる展望室は二階と呼ばれているが客車の屋根部に手摺と柵を張り巡らせて立ち入り出来る様にした程度のものである。とは言え、ごく自然で楽な姿勢で八方から景色となびく風を楽しめる環境はそうそう無い。これも大型馬車の醍醐味の一つであった。
(なぁユスト、そなたは海を知っているのか?)
イルサーシャは踊る髪の先端を二本の指で摘んで弄びながら、もう片方の手を煙草の煙を揺らめかしているユストの腕に添えた。
(一度だけ。愚生が十歳に満たない頃、家族で東の海岸に旅行に行った覚えがある。)
(ほう、そなたにも家族という概念があったのだな?)
意外な関心を示すイルサーシャとは対照的に呆れ顔のユストは気持ちを落着かせるべく煙草に口を付けた。腕を動かしても彼女の手は離れない。ユストの家族とはそれほど関心の対象となっていたのである。
(愚生とて人の子だ。木で実って勝手に落ちた訳ではないよ。そもそも愚生の家族よりも海について知りたかったのではないのか?)
煙草を銜えたままのユストは手袋を嵌めていない左手を白銀の髪に伸ばし、何かを確かめる様に数箇所を握り締めた。
(何をしているのだ?)
怪訝な表情のイルサーシャの問い掛けにユストは即答をせず、鼻から煙を吐き出した後に思慮に耽っていた瞳を自らの剣霊に向けた。
(イルサーシャ、体が重く感じないか?)
(剣霊が肥える訳無かろう?いくらユストとはいえ、愚問にも程があろうに。)
今度はイルサーシャの方が呆れ顔になった。だがユストが動揺の色を示す事は無かった。
(愚生の左手に顔を近付けてごらん?)
差し出されたユストの左手はイルサーシャにしてみれば己の柄を握り締める事を唯一許した、頼りとするところの左手である。剣体となった彼女を自在に操る左手の表面のうち、四本の指の付け根は固く隆起し、虎口部にはこれまでに対峙した敵と剣先を付き合わせた数と同等の皺が走っている。イルサーシャは横髪を耳に掛けつつ差し出された頼れる左手に麗らかな横顔を近付けた。
(そなた、汗をかいたのか?)
白銀の髪に触れた事により百年香の香りが移り、そこに混じった匂いをイルサーシャは言い当てたつもりであった。だが、ユストは首を縦に振らなかった。
(違う。潮の香りだ。海辺にいる事は潮風との付き合いとなる。つまり、鞘を持たない抜き身の剣である君にとって海とはその身を容易く瓦解させるのに充分な環境という事だよ。)
言われてみれば確かに髪先が少し重く感じる。髪を弄んでいた指先が普段よりもべた付くのは気のせいではない。
(故にユストはこれまで我を海辺に近付かせなかったのだな?)
(そうだよ。だが協会の指示でデルロアへ向かわなければならない。今回ばかりは仕方ないな。)
車体と同じく木製で出来た柵状の手摺に両肘をついたユストは再び鼻から煙を吐き出し、疾走する馬たちに視線を向けていた。
(馬たちが気になるのか?)
(よくもまあ十二頭それぞれが同調して上手く走っているものだと感心していたところさ。)
(我にはそう見えない。実はもっと速度を上げる方法があるのだがな。)
面白い事を言う。ユストはたてがみをなびかせる馬たちからイルサーシャに視線を移した。さも得意気な微笑を湛えつつ、彼女はユストと同じ様に両肘をついた。無論、会話する為に肘の先端同士が密着していた事は言うまでもなかろう。
(知りたいか?ユスト。)
(馬の数を増やせば良いとか言うなよ?)
(そこまで我は間の抜けた事は言わん。知りたければ、もう少しここで外を眺めていても文句を言わないのが条件だ。)
(構わんよ。既に潮風に身を晒している以上、塩分を洗い落とすのはどちらにせよ避けられないからな。)
流れる景色は赤や黄で化粧を施した樹木や草々で埋め尽くされ、雨天の翌日であることも幸いして土埃がたつ事もなく色褪せない。五百余年を知る彼女とて大地が織り成す美しい風景に心を傾けたいのは自然の理なのであろうとユストは思った。
(では教えよう。最前列の右から二番目と左端の最後部を隣同士にすれば良い。)
(あの葦毛と青毛か?理由は?)
(左端の最後部にいる雄は右から二番目の雌に夢中でな。柔らかな白と灰の斑模様の体毛に色気を感じているらしい。横で走らせたら良い所を見せつけようと全力で走るだろう。脚の速さもさることながら体力に満ち溢れている姿は優れた雄であると見せ付ける格好の場だ。実のところ、雌の方もまんざらでもないらしく、あの艶やかな青毛に魅力を感じているようだな。雌とは言え、己のしなやかな体で魅力的な雄を虜にしたいと鼻息が荒くなるかもしれん。)
剣霊が動物の心を読み取る能力に優れているのは剣霊使いである者にとって誰もが知るところである。ただイルサーシャの場合、読み取った心情を独創的な見解で語る。直接的な利益には繋がらないが、聞く者の心が和む。人間であった頃の記憶が無いとイルサーシャは言うが、実直でありつつも詩的な要素を疎かにしない人間であったのであろうとユストは捉えていた。
(で、どれほどの効果が期待出来るんだ?)
(具体的には我にも判らん。あの雄の頑張り次第ではないのか?あと中央の鹿毛の雌だが、あれは新たな命を宿らしている。御者は勿論、当の本人すら気付いていない様子だ。それとだな…。)
もう結構、とユストの左手が挙がり、イルサーシャの言葉を遮った。
(馬にもそれぞれの事情があるのは判った。愚生は下で喉を潤してくる。君はここで好きな様にしていて構わないよ。)
(おい、そなた独りで大丈夫なのか?)
話はこれからだ、と言わんばかりのイルサーシャの深い緑色の瞳に一瞥を与えたユストは首を縦に振った。
(この定期便の一番の売りは速度よりも安全だ。単騎での行路より多少の時間は掛かるが、魔物に襲われる可能性が極めて少ない。デルロアに着くまで風に飛ばされるなよ。)
(仮に飛ばされたら、そなたは探してくれるのか?)
(自警団に遺失物捜索願を提出するね。)
(遺失物という言葉は余計ではないか?)
(馬鹿な考えは起こすなと言う事さ。)
肘と肘が離れる。ユストは風になびくコートの内に両手を隠して展望室を後にした。
病み上がりだから体を冷やしたくないと言えばそれで終わるが、敢えてその言葉は使用しなかった。ユストの体調を気にしたイルサーシャの食事に影響が出て困るのは結局のところ双方である。
前方と後方の車両の連結部に従事者用に据え付けられた簡易な椅子に二十歳前後の少女が腰を降ろしていた。甘い色の金髪を後ろで三つ網にしている彼女は大型馬車内の売り子である。身に着けているのは白いブラウスだが、清潔感を見る者は覚えるであろう。また、身頃に施された細かなプリーツが彼女が国家事業の従事者である誇りと国家事業の従事者として選ばれた品の良さを醸し出している。彼女は籐で編まれた使い込まれた四角い籠を整然と揃えた両膝に載せていた。
「お食事はいかがですか?今朝作られて間もないものです。」
屈託の無い笑顔と共に少女は籠の上に被せられたハンカチを取り外す。サンドウィッチが整然と並べられていた。茶色掛かったパンはライ麦を使用し、瑞々しい野菜と食感を損なわない程度に薄切りにされた生ハムが挟まれている。ユストは喉を潤すだけのつもりであったが、籠の中からひとつを丁寧に紙ナプキンで包んで差し出した少女の笑顔に反抗する術を知らなかった。
「あいにくですが酒類は運行中の車内安全を考慮して販売しておりません。お飲み物はコーヒーで宜しいですか?」
何の躊躇いも無く頷くユストを見た少女は胸を撫で下ろした。乗客に酒が無いのかと一日に何回言われるか数えた試しは無いが、言われる度に申し訳ございませんと頭を深々と下げなかった日が一度でもあったであろうか。少なくとも武器を腰に下げていない目の前の黒いコートを着た寡黙な青年は荒事を好まない理解ある紳士なのだと彼女は感じていた。
「カップはご乗車記念としてお持ち帰りいただいて構いませんので…。」
籠と同じく編まれた籐で覆われた保温容器から注がれたコーヒーは緩やかな湯気を立てている。渡された陶器のカップは素朴な形をした灰色ではあるが、内側は釉によって鮮やかな青と緑が融合した世界を奏でている。南西自治国家の国章が表面に誇らしげに刻まれ、その対面側にはデルロア定期便と彫られている。
「他の市街地へ向かう定期便のカップは内側の色が違うんですよ。全部で八種類あるそうです。」
工芸品が織り成す感慨深い色彩に視線を落としているユストに向けて少女は語り掛ける。琥珀色の液体を喉に通した。作り置きとはいえ、久しぶりのコーヒーである。ユストは誰にも聞こえない至福の溜息を漏らした後、心優しい少女の教示に対して軽く頭を下げ、車窓の景色に視線を移した。
デルロア市街地に赴く理由をユストは朧気ながら理解しているつもりであった。この大型馬車の終着点は南西自治国家にしてみれば単なる一都市で話は済まされない。港を臨む都市は自ずと繁栄するものである。そこに人々は集まり、ゆるぎない経済力と生産性が生じる。国家としても予算をつぎ込み、外敵から街を守る強固な外壁を建設し、それなりの数の軍備を整えている。得体の知れない敵が紛れ込んでも対処する能力は充分に有していなければおかしい。その様な中にわざわざ剣霊使いが赴く必要があるだろうか。その必要があるとなれば手練れた者が遣わされる筈である。
協会より剣霊使いとして認められた者の番号は七十六で終わっていると聞く。七十二の番号を与えられたユストが赴くには絶対的な経験が少ない。つまり、デルロア市街地は通過点であり、その先にある場所が今回の任務地と考えるのが妥当である。デルロア市街地を介さなければ辿り着けない場所。ノエミリオ諸島に他ならない。話で聞いた程度の知識しか無いノエミリオ諸島とは如何なる場所なのかと脳裏を占め始める中、申し訳無さそうな少女の声がユストを現実に引き戻した。
「あの…、お連れ様の分は用意しなくても宜しいのでしょうか?」
カップの縁を口につけたままのユストは視線だけ売り子の少女に向けた。視線と視線が交わるのを実感した時に、少女は再び嫌味の無い笑みを送る。この仕事に従事する際に訓練を受けたのか、それとも天性のものなのか、どちらにせよ彼女を魅力を引き出す武器には違いないとユストは思った。
「銀色の長い髪をした素敵なお連れの方ですよね?ご乗車の際にお見かけした瞬間、息を呑むほど見とれてしまいました。」
あれは人間ではない、剣霊だよ、と教える訳にもいかない。少々興奮気味に語る売り子の少女の言葉にユストは耳を傾けつつ、手に持つ紙ナプキンの包装を解いた。微細なざらつきが触れる指によく馴染み、四方に蔦模様が施されていた。
「この仕事に従事させて貰い二年ほどですが、今日は眼を奪われる様な方を三名も、しかも同時にご覧出来て、とても幸せです。」
嬉々として語る売り子の少女に微笑を送っていたユストの眉間が陰りを見せた。三名という言葉に未知なる危険を感じた為である。軽食を終えたユストは、コートの内側から携帯用の羽根ペンを取り出すと用済みの紙ナプキンを二つ折りにしてその上に文字を並べ始めた。
『君の言う三人の特徴は?』
まさか筆談となるとは売り子の少女は微塵にも思っていなかった。また同時に目の前の男が黒地に金の刺繍が走る布を首筋に巻きつけている意味を彼女なりに理解した。彼は喋れないのであると。揺れる馬車の中で書かれた文字が読めないのではない、南西自治国家とは語尾が少々異なる言葉は彼女の回答を幾分遅らせた。
「お一人はお客様のお連れ様です。二人目は柔らかな薄い緑色の髪が豊かな、優しいお顔の方です。最後は栗色というか赤が混じったような感じの長い髪で冷たい感じの方でした。」
『何故冷たいと感じた?』
「わたしが声を掛けても目尻を尖らせて何の返事もしていただけませんでしたので。』
『二人に連れはいたのか?』
「薄い緑色の髪の方は…お子さんでしょうか、わたしより歳下の男の子が後ろを歩いていました。」
思い出すかの様に語る彼女の言葉の端に疑問が生じている理由をユストは判っていた。母親なら子供を自分の前を歩かせるからである。剣霊は自らの契約者を不意の攻撃から守る為に前を歩くという定石を売り子の少女が知らなくて当然である。ユストは頷くと共に言葉を続ける様に促した。
「栗色の長い髪の方は…おそらくお独りだと思います。」
数秒間だが、ペン先が紙ナプキンに当てられたまま止まっていた。純白の世界に深い青色が滲み、広がり始める。気を取り直したかの様に再び文字が記されると売り子の少女は頷きながら答えた。
「えぇ、お二人とも後方の車両にお乗りになりました。後方の乗客数は十名ちょうどです。」
ユストは紙ナプキンとカップを震える声の主に渡すと再び展望室へと戻った。売り子の少女には事の状況が理解出来なかった。先程までは物腰が落着いていた男の冷たい眼差しと何物も寄せ付けない気迫に体が硬直して自由が奪われ掛けている。未体験の緊張が喉の渇きを訴えさせ、声を出そうにも上手く出来るかどうか確証が掴めない。目の前にいた男は荒事を好まない紳士にあらず。彼は荒事に身を置く剣士である。
「どうしたユスト。なんだかんだ言いつつも、実際に我が風圧で飛ばされていないか心配になったのか?そうなったら我も困るが、そなたも困るからな。」
見慣れた契約者に向けて剣霊は木製の手摺に身を預けたまま口を開いた。一方のユストは足早に歩み寄りながら、素手であった左手に手袋を嵌め始めている。その仕草は剣霊使いが戦いに臨む前の見慣れた姿でもあった。
(出番だ、イルサーシャ。)
か細い白い腕を掴まれると同時にユストの声がイルサーシャの中を駆け巡った。
(そなた、先に何と言ったか覚えているか?この馬車は安全ではなかったのか?)
(あれは外からの攻撃に対してだ。まさか邪剣霊が内側に潜入するとは想定外だった。)
イルサーシャに四の五を言う間を与えずにユストは掴んだ腕を引張りながら歩き始めた。後方の車両にも展望室はあるが、そこに人影は見当たらなかった。十人の内、一人ぐらいは流れる景色と頬を撫でる風を堪能しようと上がってきても不思議な話ではない筈である。遅きに失したのか。売り子の少女が語った薄緑色の髪をした女性、いや剣霊は天恵の剣霊ミゼレレであり、その後ろを歩く少年は彼女の契約者であるシェス・ロウに違いない。神剣霊と崇められる彼女が易々と倒れるとは思えないが、馬車内という閉鎖された空間で、しかも至近距離で敵と対峙となれば彼女は苦戦を強いられているのではないか、とその能力の片鱗を数ヶ月前に垣間見たユストは感じていた。
(後方の車両だな?すでに刃を交えているようだが…この比喩し難い強大な意志を我は感じた覚えがあるな。相手を圧倒出来る筈なのに何故か防御に徹している。)
(それはミゼレレだ。彼女は戦う為の剣ではない。それに若年のシェス・ロウには荷が重いだろう。助力に向かうぞ。)
何故イルサーシャはこの時点になるまでミゼレレの気配に気付かなかったのか。神剣霊は大地の意志の具現と言われている。穏やかにしている大地の有様にわざわざ気を巡らす者はいないのと同じであるとユストは知っていた為、敢えて追及はしなかった。
(助力とはいうものの、この狭い車内で我に出来る事は限られると思うが?)
(愚生がやる。ペインの力を借りたい。)
緑色の瞳に力が入った。ユストが言うところの愚生がやる、とはイルサーシャにとって剣体に戻れという指示でもある。
(剣体の一部が敵の体に触れた時、ペインに力を解放する様に指示して貰えないか?)
(…あの者がその気になれば馬車が内側から砕け散るぞ?)
(そこを程よく制するのが君しか出来ない、今回の重要な仕事だ。)
イルサーシャはユストの言葉に疑問を感じていた。敵の体に触れた時、という曖昧な表現に対してである。切った時あるいは貫いた時と表現するのが妥当ではないだろうか。展望室から客室へと繋がる狭い階段を降り、後方の車両との連結部へと進む。そこは売り子の少女が控えていた場所でもある。先程まで物静かにコーヒーとサンドウィッチを手にしていた男が連れを伴って戻ってきた。売り子の少女にとって思わず見惚れてしまった女は白銀の長い髪を揺らしつつ、歩く男の腕に自らのそれを絡ませ寄り添っていた。さながら絵になる光景に再び我を忘れて見入っていた。
「そなた、ここにいては危ないぞ?隣の車両に邪剣霊が潜んでいるからな。」
男が何も語らなかった為でもないが、女の方は芯の強い声の持ち主に聞こえる。邪剣霊と耳にして緊張で震える脚を押さえ付けながらも売り子の少女は笑顔を忘れなかった。
「お気遣いは嬉しいのですが、わたしはこの場所が持ち場ですので離れる訳にはいきません。」
男の腕に触れる女の細い指が無造作に動いている。滑らかな曲線を描く爪先は長過ぎず短過ぎず、女性らしさを最も顕している。まるで男の意志を探る様に動く有様に売り子の少女は視線を外さなかった。
「若いにもかかわらず殊勝だな。その心掛け、我たちが守ろう。」
恐らく自分より二つか三つほど上であろうと思われる同性に若いのにと、まるで百年以上の歳月を知る様な口調に売り子の少女は返す言葉を探しきれなかった。加えて我という表現はどの地方の言葉だろうかと思った。初めて耳にする一人称である。だが緑色の瞳の奥底に潜む世界を垣間見た時、売り子の少女は何も考えられなくなってしまった。
独立した意志を持っていたかの様な細い指が動かなくなると同時に男の腕から離れた。男はコートを脱ぐと売り子の少女の頭に被せた。見た目よりも軽めで滑らかな肌触りのする裏地から香木の爽やかで心落着く匂いが僅かに漂う。白銀の長い髪を持つ女の移り香であると女心が教えてくれた。
「ユストのコートを被って目を閉じていれば、そこにいても安全だ。間違っても目を開いてはならん。ついでに我たちの勝利を祈ってくれると有り難いのだがな。」
売り子の少女は被せられたコートの襟元を左右の手で掴み、疑いを知らない瞳を閉ざした。このコートの持ち主はユストという名前なのかと思うと共に相方のそれも気になる。子の名前とは親の意志を受け継ぐ。目の前に立つ白銀の長い髪を持つ女はその気高い雰囲気に相応した名前を親から授かったのであろう。彼女の言うところの邪剣霊との戦いが終わった後、いつもの様に無事にデルロア市街地に到着した後、彼女に名前を尋ねてみようと心に誓った。
力を込めずに目を閉じれば自然と耳が冴える。一定の間隔で揺れる馬車の聞き慣れた軋み音に混ざり、女の声が混ざった。
「我の魄を護りしペインよ聞け。我の命により我の契約者の指示に従うのだ。あるべき姿に戻りし我の一部が襲い掛かる難事に触れし時、そなたの力の片鱗を見せよ。難事の内側に潜む苦痛を喰らい尽くせ。」
戦いに挑む者の祈りなのか、勝利を願う呪文なのか。何かに語り掛ける、いや、言い聞かせる様に落ち着きを払った声色は売り子の少女に好奇心を植え付けた。白銀の長い髪を持つ女は決して目を開けてはならないと言ったが、少しくらい閉じたままの瞼を楽にさせても非の追及を受ける事は無かろう。被せられたコートの重ね合わせた前身頃の隙間から恐る恐る外の光景を覗う。白銀の長い髪を持つ女の姿が見当たらない。先程と違っていたのはユストという名の男の左手が直剣を握り締めていた。偶然なのか、先程までいた女の髪と同じ色、同じ長さと思われる刀身は曇りの無い輝きを放ち、威厳に満ち溢れている。そしてその威厳を他に汚させないと護っているかの様に二匹の黒蛇が柄頭から血抜きまで絡み付いていた。剣の良し悪しを知らない者でも彼が手にする一振りは至高の逸品であるのは容易く想像できた。だが同時に、その逸品を何処に隠し持っていたのだろうかと売り子の少女は思わざるをえなかった。コートを脱いだ時も彼は何も身に着けていなかった。そもそも彼の腰から下と同等の長さの剣を鞘無しの抜き身のまま隠し持つのは不可能である。不可解という思慮の先に剣霊という糸口が姿を現す。姿を消した女の揺らめく白銀の長い髪は剣霊の刀身を表し、剣霊の実の姿を見た者はおろか、その技を見た者は確実に死に至らしめられると聞く。ユストという男は剣霊に柄を握る唯一の権利を与えられた者、剣霊使いであると確信と驚愕が入り混じった時、直剣に絡み付く黒蛇と視線が交差した。造形である筈なのに見る者を飲み込まんとする力。睥睨とは正にこの事を言うのだろう。売り子の少女は咄嗟にコートの隙間に闇を与えた。
さすがにこの時ばかりは笑顔を作れなかった。
馬車の連結部に通じる扉は内側から開かなかった。運行時に関係者以外が不用意に開けてしまうという事故を未然に防ぐ安全策と考えれば至極当然とも言えた。車体の壁面と扉の隙間、黒ずんだ鉄製の取っ手の脇に外から閂が掛けられているのが判る。右の人差し指で隙間の表面をなぞり、木肌の触り心地から材質を読み取る。多少の荒さが手袋越しの感覚でも判る。つまり加工が容易な柔らかい木であると判断できた。扉の真横に立ったユストは閂の中央に切先が当たる様に直剣を隙間に削り込む様に差し込んだ。腰を僅かに落とし、左手を柄に、右手を柄頭に添えて体重を掛けながら直剣を押し込む。切先が閂の固い感触を伝えると共に右の掌に力を込める。音無き呼吸をする口の中でかみ合わさった奥歯が軋み、右腕の筋肉が最大限に隆起した時、閂はその役目を終えた。ユストの愛剣は閂を貫き通すことで二つに切断した。差し込んだ隙間から愛剣を引き抜き、扉を開ける。蝶番の付け方からして手前に引く構造である。その為か運行中の風圧によって開け難いという点は皆無であった。耳を覆いたくなる様な風の呻きがユストを取り巻く。車内で何が起きているか知らされていない御者と彼の意思に従順な駿馬たちは走行速度を落としていない。むしろそれで良い。血を欲する衝動を押さえつけて馬車に乗り込むほど頭の切れる邪剣霊である。仮に馬車の速度が遅くなれば、身の危険を察知して暴れだす可能性もある。逃げ出しはしないだろう。何故なら目の前に渇望した人間の血があり、ユストの剣霊使いとしての経験から判断するならば邪剣霊は決して背中を見せない。イルサーシャの言葉を借りるのなら、邪剣霊と言えども剣は自らが抱く誇りを全うするしか知らないのであろう。後方の車両との感覚は目測で一メートルだろうか。足元に視線を落とす。頑丈に噛み合った鋼鉄製の連結部の表面に打刻が施されていた。車両の通し番号と南西自治国家の国章である。この時ばかりは自らが他国の出身で良かったとユストは軽く鼻で笑った。連結部を足場にして後方車両の扉に手を掛ける。前後の車両の間を巻き込む風圧がユストの黒い髪を縦横無尽になびかせる。愛剣を握りながら扉の閂をずらす。車両の内部に人間の気配を複数感じ取れた。死者は出ていない様子が判る。車内は静かで張り詰めた空気が立ち込めている。死者が出ていれば次に殺される者たちは騒ぎ、車外へ脱出しようと試みるからである。扉を押し開け、背中から寄り掛かる様に閉めた。
売り子の少女はちょうど十名と言っていたが、ユストに視線を向けたのは六名だった。視線を向けなかった一人は車内の前方寄り一箇所に集まっていた乗客の先頭にいる少年、生れながらにして神剣霊と契約を結んだ第六十五番目の剣霊使いシェス・ロウである。二人目は薄緑色のうねる豊かな髪が見る者に印象を与える天恵の剣霊ミゼレレであり、品のある女性らしく肩に深い緑色のショールを掛けた彼女は自らの契約者とその他の乗客を守ろうと共有通路の中央に両腕を垂らしたままとはいえ、敵対する者の行動を抑止すべく堂々と立っていた。残る二人はミゼレレより更に奥、車両の最後部に目を向ければ自ずと判る。厳密には一人と一体である。邪剣霊の色香に惑わされ、邪な誇りの生贄となっていた男と、飢えを満たして幾ばくかの満足を得て剣体に戻った邪剣霊である。
左手に直剣を握るユストの突然の来訪に乗客は慄き、また淡い期待の眼差しと共に彼に道を譲った。誰が来たのだろうかと考え事をしている様な表情のシェス・ロウの肩に右手を置いたユストは親しみを込めて二回撫でた後に自らの名を小さくも勇敢な肩に綴った。
「…ユスト・バレンタイン?」
再び二回撫でた後にユストはミゼレレの許へと近付く。板貼りの床が軋む音は落ち着きを伴った歩調を示唆していた。
「お久しぶりですね、ユスト・バレンタイン。あなたがここへ来るのを待ち望んでいました。」
ミゼレレはイルサーシャよりも先に気配を感じ取っていた様である。大地の意志という大自然の結晶からなる剣霊は人間の意志からなるそれとは明らかに格が違う。それにしても同じ馬車に乗り合わせたのは何かの縁かとユストは疑問に思った。
「偶然ですよ。」
対峙する敵に視線を固定したままミゼレレは手短にうそぶいた。神剣霊は人間の心を読み取れる。ミゼレレの声は耳に心地良く優しいが脳裏に直接語り掛けてくる。彼女の前では余計な詮索は意味を為さない事を以前も体験していたユストは自らの愚かな行為に冷笑を送った後、立ち止まり、左手に持つ直剣の切先を相手の眉間の先に定めた。ミゼレレより一歩半後ろの位置である。剣を構える者それぞれには不可視の領域がある。気迫と剣跡が交わり最大限に威力を発揮する空間であり、その名の如く視力で推し量れるものではない。いくら手にする剣が優れていても気迫という相乗効果が見込めれなければ切れるものも切れない。その逆も然り。相対する敵の不可視の領域とユストのそれが交差するかしないかの紙一枚の隙間の絶妙な位置にユストは立ち止まったのである。ユストの視線が目の前の敵を貫く。ユストと身長はたいして変わらない。立ち姿からして剣の扱いには慣れている様子が伺える。邪剣霊の剣体はイルサーシャと同じ直剣である。刀身の長さはほぼ同じであり、違うのは幾多の剣戟を絡め取ったと思われる鍔がある点と所々に浮き始めた錆が確認出来る点であろうか。錆が浮いていようと車窓から零れる陽光はその切先を鈍く輝かせている。剣そのものの殺傷能力が衰えているとは誰も思えないであろう。ユストが剣を構えて暫くした後にミゼレレはそのまま数歩後退した。彼女が心の内を読み取れる能力をユストは逆手に利用し、退く様に勧めた為である。同時に彼は問い掛けと要望を語り掛けた。
「三回です。全て刺突撃でした。」
これは問い掛けに対する答えである。敵はどの様な攻撃を何回行ったのかという内容であろう。対峙する舞台は馬車内の共用通路であり、縦横共に二メートル程度である。上下は二メートルより少し余裕があるか。どちらにせよ、得物を存分に振り回すには狭すぎであり、斬撃において威力を発揮できる環境ではない。縦横上下が駄目であれば残るのは前後の攻撃、つまり刺突撃しか当て嵌まらない。邪剣霊に支配されているとはいえ、敵もその点は頭ではなく肌で理解している様である。剣の扱いにそれなりの腕があるに違いないとユストは見ていた。相手は右逆手で突撃の姿勢を取り、万全の瞬発力を繰り出せる様に両脚を程よく開いている。ユストも左逆手で同様の構えを移す。刺突撃には刺突撃で応戦する。左手を軸としたユストの一撃は右手を軸とする主だった者にはクロスカウンターという脅威が忍んでいる。だがこれは捨て身の一撃に他ならない。また切先同士が交差して競り合いとなった場合、二匹の絡み合う蛇の装飾のみで鍔が無いユストの方が断然不利である。それでもユストは構えを崩さなかった。一撃必殺という彼の信条がそうしているのか。柄頭に添えた右手の指先が這い寄る恐怖の様に左手に触れる。ミゼレレが両肩を覆うショールの先端を握り締める。車内の前方寄りに集まっている複数の視線が見守る中、剣を構える二人は動こうとしなかった。固唾を呑む時間はとても緩やかに流れ、心身に憔悴をもたらそうとする。やがてユストの威圧感と敵の殺意が交わり、互いの四肢に届いた瞬間、ミゼレレはショールを投げた。彼女の髪より濃い緑色の生地はまるで劇場の緞帳の様に優雅な畝を為し、戦いを見守る者の視界を奪う。その奥で生死を賭した一撃が迸った。敵は非の打ち所の無い凄まじい刺突撃でユストの体を貫こうとする。だが、ユストは同じ攻撃はせずに姿勢を低くし、切先で渾身の一撃を受け流しつつ、柄頭で相手の鳩尾を下から上へと強打した。絡み合う二匹の蛇の鋭い尾が食込み、二匹のうちの片方が敵の体内に潜り込んだ。蝕むという表現では物足りないほどの激痛に敵は否応無しに前のめりになる。呼吸が止まる程の強打と内から生じる激痛は全身の力を奪い、剣を握る右の指を開かせる。剣体から霊体へと戻った邪剣霊がユストの首を狙った手刀をすかさず繰り出す。しかしユストも柄頭による強打と同時に愛剣を離していた。
「そなたの錆びた体で我の契約者を切れると思ったのか。」
鋭利な刃物を思わせる様な涼しげな台詞が乗客たちの耳に届くと共に舞台の緞帳がゆらゆらと力無く床に落ちきった。彼らの目の前では邪剣霊に支配されていた男は倒れ、低い姿勢のままのユストの横に腰より下まで髪が伸びた女が二人立っている。邪剣霊の手刀を掌で受け止めていたイルサーシャの眉間に力が入った。
「さらばだ。」
短い言葉と同時に今度はイルサーシャの手刀が邪剣霊の額から腹部へと走る。強固な金属が脆い金属を征する乾いた音が車内に響き、邪剣霊の霊体は跡形も無く霧の様に消えていった。剣は断末魔など上げない。敢えて当て嵌めるのならば、砕け散る際の乾いた音が剣としての未練を聞く者に訴えかけているとユストは思っていた。
狭い共用通路での戦いは終わった。ユストの要望通りにミゼレレがショールを投げ、それが幕となって彼の剣技を乗客たちに晒さずに済んだ。一方の乗客たちは僅かな時間の有様を理解出来ず、ユストとその脇に立つイルサーシャを茫然と眺めている。彼らが少なからず判っていたのは身の安全が確保された事であろうか。
「…そう舐める様に我を見るでない。」
照れ隠しの言葉を発した後、イルサーシャは邪剣霊に支配された男の亡骸の腹部に佇むピアスを拾い上げると左耳に触れながら後方車両の展望台へと向かった。
「相変わらずですね、イルサーシャは。」
腰を折り、邪剣霊の砕け散った剣体の破片を摘みながらミゼレレはユストの顔を見上げる。永劫を知る者のみが具えられる奥深い瞳。嫌味の無い自然な優しさを醸し出すそれを直視出来ないユストは自分の剣技を守ってくれたショールを拾い上げ、数回叩いた後に所有者の肩に掛けた。
「有難う。」
柔らかに目を細めるミゼレレに対し、ユストは軽く頷いただけであった。神剣霊は人間の心の内を読み解く。秘め事や疾しい考えを幾つも抱えている訳ではないが、彼女を前にするとどうも調子が狂う。
時が止まっていたかの様な緊迫は既に薄れていた。その証拠として、揺れる馬車と車輪の軋む音が耳に届き始めていた。