刹那の剣霊ハガン
この大陸に分布する四ヶ国の特徴を述べるのなら、政治形態を比較するよりも各々が重点を置く産業や事業に着目した方が解り易い。資源豊かな広大な土地を有する北部王政国家は第一次産業が他に比べて群を抜いている。伝統を重んじる東部帝政国家はその気質から家内制から工場制といった手工業の発展が顕著であり、他の追従を許さない。総人口数が四ヶ国の中で一番多い南西自治国家はあまり溢れる労働力を公共事業に注ぎ、社会的基盤の整備が最も目覚しい。中でも市街地間を結ぶ街道の建設及び大型馬車による定期便の運行は他の国民からしてみれば羨まれて当然と言えよう。他の三ヶ国に囲まれる様に位置する中央行政府には広大な土地は言うまでも無く、目覚しい工業発展も無い。だがこの国が他に誇れるのは経済力である。いち早く市場開放制に着手した中央行政府は国外資本導入や外貨獲得はもとより、諸国の情勢も網羅するにまで至っていた。
これら四ヶ国の特徴は軍事力に反映する事も可能である。北部王政国家の底知らずの物資及び天然の要害に攻め入る軍隊は戦意を挫かれ、東部帝政国家の最新兵器の前に前線の兵は恐れを成し、南西自治国家所属の軍隊の機動力に敵軍の指示指令は翻弄され、中央行政府の情報操作及び経済力にものを言わせた傭兵部隊に他国は手痛い仕打ちを受けると言ったところだろうか。遠い過去に於いてトウラドオク政権時代は単一国家であり、権力の集中は圧制を招き、不安と悲愴を常に背負いながらその時代の臣民は生活を余儀なくされた。そして現在は勢力の拮抗という表現を用いるのが妥当ではあるが、言い換えればささやかな平和を維持しているとも捉えられる。
では、ささやかな平和が恒久にならないだろうか。その願いが叶うとすれば二つの地名が誰もの脳裏に浮かぶ筈である。一つは四ヶ国に属さず、剣霊の都と呼ばれ、北部王政国家と東部帝政国家の国境付近に位置するコノリギス市街地、そしてもう一つはノエミリオ諸島である。ノエミリオ諸島へ赴くには南西自治国家の最西端であるデルロア市街地から海を渡ることおよそ半日という旅程である。大小さまざまな島を一帯に散りばめた様なこの海域は有史以来、禁忌の地として知られていた。物好きな探検家や熱意ある歴史学者たちはこの地を訪れてはあまりの謎の多さに舌を巻くという。堆く塔が幾つも立ち並び、見た事も無い文字で記された書籍や鉄よりも硬い金属で覆われた空間があると噂された。それらの真偽は未だ不明であるが、確実に判っているのはノエミリオの本島に住む住人たちは比較的温和な人種という点であろうか。
「ねぇ、今からハガンに会いに行こうよ?」
ノエミリオ諸島で暮らす少年少女三人は町の中央広場で遊ぶ事に飽き始めていた。各自が昼食を終えてから一時間ほど経過している。晩秋の陽光は何処となく淋しさを匂わせていた。
「そうだね。いつもの場所へ行こう。」
反対する者はいなかった。彼らにとってハガンは良き教師であり良き友である。いつもの場所とは町外れの小高い丘を指し、彼らの思惑が外れていなければ、町全体を眼下に置き、近隣の島を一望出来る絶好の地にハガンは腰を降ろしている筈である。
今から十八年前にノエミリオ諸島に一人の剣霊使いが流れ着いた。六十歳に手が届こうとしていたテヴァ・ザイロンは顔を強張らせたまま全身に傷を負い、横に立つ涼しげな目許の剣霊は契約者の傷付いた体を気遣っていた。初めて見る剣霊使いに住民は幾分の恐怖と多少の興味が入り混じった感情を覚え、初めて見る剣霊を目の当たりにした瞬間、その華麗な姿に住民たちは口を開けたまま茫然と立ち尽くしたと言われている。彼女が身に纏う薄い桃色の服は本土でも見かける事の無い独特の形をしており、幾重にも重ねた様な襟元と長く垂れ下がる袖は彼女の女としてのしなやかさと華々しさを表現していた。無造作に結い上げた艶のある長い黒髪は日の光を浴びると深い緑色を放ち、鈍く黄金色に輝く髪飾りとの対比が気高さを示してい様に見る者に思わせる。異国の情緒を漂わせた剣霊はその名をハガン、自らは八百年を経た刹那の剣霊であると語った。刹那とはほんの僅かな時間を意味する。一秒よりも遥かに短い一瞬に於いて、全てを切り裂く能力は他の剣霊と比較にならないほど一際優れているという。そして他の剣霊に引けを取らないその美しくも凛とした容姿は十八年前と何ら変わっていなかった。
「そういえば、母さんがザイロンの爺さんに食事を持って行けって言っていたな。」
「うちの母さんもお土産を渡す様に言っていたよ。」
「あたしはハガンに渡したいものがあるんだ。おうちに取りに行かなきゃ。」
各自は家に戻り、夕食の支度に勤しむ母親にハガンに会いに行くと伝え、予め決めていた集合場所へと足早に向かった。母親たちは小言を漏らさずに子供を送り出す。実は彼らの母親たちも若い頃はハガンの話を聞きに町外れの丘へ足を運んでいたものである。
ノエミリオ市街地の裏門から徒歩で十分少々で町外れの丘に到着できる。名も無き草がそよ風に身を委ねている中、ハガンはいつもの様に倒木の上に腰を降ろしていた。両足を綺麗に揃え、両手の指を真っ直ぐにして脚の付け根に添えて座る姿は彼女の生来の行儀の良さを表していた。
「皆さん、よくここまで来ましたね。」
やや高いが華やかさのある声は成人を迎えて間もない乙女らしい若々しさを感じさせ、聞く者の耳に心地良いものであり、額にうっすらと汗を浮かべていた小さな来訪者たちを労うには充分な効果があった。
「ハガン、爺さんの夕食を持ってきたよ。」
程良く陽に焼けた肌を持つ少年は母親から渡された包みを前に差し出した。
「ハガン、これお菓子。お父さんのデルロアへ行った時のお土産だよ。」
亜麻色の髪を左右に束ねた少女が両手に持つ土産品の包装紙には中央行政府の国章が描かれていた。物珍しい輸入品は土産品として趣向の凝った逸品である。
「有難う。我は勿論の事、テヴァも嬉しく思うことでしょう。」
涼しげな目許を僅かに細めたハガンは二つの贈り物を自らが腰を降ろしている脇に置く様にそれぞれの贈り主に頼んだ。
「あたし、これを作ってきたの。ハガンに似合うかなって思って。」
滑らかな栗色の髪が肩までようやく伸びたという感じが否めない、三人の中で一番年下の少女は後ろに隠していたものを物静かに佇む剣霊に見せた。鮮やかな青紫の花を編んだブレスレットである。
「馬鹿だな、ソフィは。剣霊は花や草を触れないんだよ。」
それぐらいも知らないのか、と呆れ顔の少年が毒付くもソフィには彼女なりの持論があった。
「摘んだお花は死んじゃうんだよ。生きていないなら剣霊だって触れる筈だよ?」
二人のやり取りを見守っていたハガンの左腕がゆっくりと動いた。汚れを知らない、きめの細かな手首を露にし、ソフィの前に差し出した。
「我自らでは身に着けられません。お願いしますわ、ソフィ。」
「ハガン、本当?」
「えぇ。ただ、間違っても我に触れてはなりません。これだけは我の意思ではどうにも出来ない事ですから。少し緩めに着けて下さいな。」
差し出された手首の上に編み込まれた花々を置き、その下でソフィの小さな手が器用に動く。摘まれて死んでしまったとソフィは表現したが、青紫の花は仄かな甘い香りを周囲にもたらしていた。
「着け終わったよ。」
満足げなソフィの掛け声と共にハガンはその腕を上にした。太陽の淡い光に照らされた透き通る肌と年端のいかない少女が作り上げたブレスレットを眺める仕草は、彼女が剣霊となる以前の麗らかな過去を思い出している様に見える。
「とても似合うよ、ハガン。」
頬を赤らめて賛辞を贈る少年にハガンは微笑をもって応えた。
「有難う。ですが、この様な姿を見たらテヴァは鼻で笑うでしょうね。」
「でもハガン、ザイロンの爺さんが笑った顔、誰も見た事が無いって有名だよ?」
「剣霊使いはたくさんの敵と戦って笑い方を忘れてしまったんだって父さんが教えてくれたけど、本当なの、ハガン?」
「ハガンもたくさんの悪い人たちをやっつけたんでしょ?怖くなかった?」
ハガンハガンと少年少女の矢継ぎ早の純粋な問い掛けは華麗な剣霊の口元を綻ばせた。
「剣霊に怖いものはありませんよ。それにテヴァは皆さんのご好意に常に感謝し、喜んでおりますよ。」
「喜んでいても笑わないのはどうして?やはり笑い方を忘れてしまったの?」
「笑わないのではなく、笑えないのです。」
脚の付け根に添えていた両手の上下を入れ替えたハガンは視線を斜めに落とすと言葉を続けた。
「テヴァが笑えないのは我による剣霊障に他なりません。」
「…ケンレイショーって何?」
「剣霊と契約を結んだ者は人間では推し量れない力を得る代わりに身体や生理的現象の一部に制限を受けます。我の剣霊障は、笑うという行為がそれに当て嵌まるのです。」
「それって治らないの?」
「えぇ、我との契約が切れるまで。テヴァの命の炎が灯らなくなった時、或いは我の刀身が剣としての使命をまっとう出来なくなった時に契約は終わりますが、実は契約とは関係無しに笑える日もありますよ。」
「へぇ。次に笑える日はいつなの?」
「それは秘密です。」
「じゃあ泣く事は出来るんだね、良かった。」
ソフィが発した意外な言葉は呆気に取られたハガンの形の整った麗しい唇を半開きにさせた。いつの時でも大人は幼子の発想には驚かせられ、その直後に無限の愛しさを感じずにはいられないものである。それは戦いに身を置いていた刹那の剣霊ハガンにとってノエミリオ諸島に辿り着いて初めて知った至上の幸福でもあった。
「そうですね。確かに泣く事は出来ますが、テヴァが泣いたところを我は契約して以来一度も見た事がありません。最後に泣いたのは何時なのか今夜にでも聞きだして、後日皆さんにこっそりお教えしますね。」
緩やかな潮騒の様にハガンの嫌味の無い笑顔は心地良さを与えてくれる。外見の美しさだけではなく、内なるものも清廉とした柔らかさを備えている。それは生来の生まれ育った環境が良かったのか、あるいは剣霊として数多の苦難を乗り越えた末に習得したものなのか、少年少女たちに疑問を抱かせるにはまだ若すぎた。ただ、ハガンと共に過ごす時間は新たな発見の連続であり、生涯の良き思い出になるという点は色褪せる事が無いと判ってた。
「ねぇハガン、小さな雉が飛んでいるよ。」
少年が指差す方向に視線を移した後にハガンは再び口元に笑みをたたえた。
「雉ではありませんわ。あれは鳩です。」
森に行けば必ず見かける雉と羽の色が極似している為、少年はそう思ったのであろう。
「へぇ。初めて見た。鳩って弱い鳥なんでしょ?よく鷲や鷹にやられなかったね?」
「この鳩は我とテヴァの為に手紙を運んできたのです。不屈の意志で飛んできてお疲れでしょうね。人差し指を出してあげてくださいな。」
ハガンの指示通りに少年は人差し指を自らの目線の高さに置いた。空を羽ばたく鳩は木の枝の見立ててハガンの頭上から緩やかに舞い降りてくる。鳩の小さな爪が少年の柔らかい肌に食込む。針で刺された様な痛みに少年は思わず声を出しそうになったが、ハガンの目の前だけに耐えた。三人の中で年長者であるという意地が半分、ハガンに良いところを見せようという思惑が半分である。
「この鳩、首から何かぶら下げているね?」
「嘴の付け根から頭の根元までゆっくりと三回撫でてあげれば騒がれずに外せますわ。」
心優しい少女の指に撫でられた鳩は瞼を半分閉じ始め、微動だにしなくなった。その隙に首に掛けられたソノイの樹液を固めて作られた透明な筒を外す。筒の中には折り畳まれた紙が入っている。何が書かれているのだろうかと興味津々の少年少女は筒の上下を二本の指の腹で押さえて覗き込もうとした。一瞬、目の前の空気が歪んだ様な錯覚に囚われる。筒に向けられていた視線全てが物静かに佇む剣霊に向けられた。
「ハガン、今何かした?」
ハガンが動いていた様子は感じ取れなかった。晩秋の陽光に晒された黄金色の簪が妖しく輝いている。
「それは秘密です。」
にこやかに答える麗しい声と共に少年の指は力の均衡を失い、ソノイの樹液で作られた筒の上部が横にずれた。切断面は熱を持たず、均等な滑らかさを保っていた。少年少女たちにとってハガンならではの隠し芸で話は済むが、剣を携える者がこれを目の当たりにしたら背筋が凍る思いをするであろう。筒状の物体を真横に斬る場合、外周から空洞部に差し掛かり、再び反対側の外周に到達する際に歪みが生じるものである。その物体の硬度にもよるが、ソノイの樹液で出来た筒では破裂してしまう。巧く斬れたとしても横一文字ではなく段付きという、いびつな形となるのが目に見えている。つまりハガンの一撃は目にも留まらぬ速さで斬り込まれた物体が変形を生じさせる前に、且つ正確に斬り通す事が可能であった。
筒から取り出した紙は四隅を綺麗に合わせて折られており、肌触りの良さが質の高さと内容の重要さを物語っている事を少年少女たちは感じ取っていた。紙全体を使って青いインクで記された文字がまだ読めない彼らはハガンの前に広げて見せた。中央に透かしとして施された剣を銜えた鳩の紋章がうっすらと浮かび上がる。
「ねぇ、何が書いてあるの?教えてよ、ハガン?」
ハガンの美しい淡い褐色の瞳に幾分の表情が見て取れた。教えて良いのか、伝えて構わないのか、彼女自身の中で精査する時間はほんの僅かであった。
「一両日の間にこのノエミリオに二組の剣霊とその契約者が訪ねて来るそうです。」
「二組も?ハガンが知っている人たちなの?」
少女の問い掛けには歓喜と不安が入り交ざっていた。
「一組は天恵の剣霊と呼ばれる、最上位の剣霊です。彼女とは五十年前に一度対面しました。」
「偉い剣霊さんなんだね。怖くなければ良いけど…。」
「彼女はその名の如く全てを憐れみ、あらゆる生物の母親の様に優しさと愛に満ち溢れた剣霊ですよ。」
「お母さんなんだ。じゃあ、怒らせたら凄く怖いよ、きっと。」
ソフィの何気ない一言はハガンに再び表情を作らせた。
「我も彼女が怒ったところを見た事はありません。皆さん良い子でいないと大変な事になるかもしれませんね?」
「そうなったらハガンの後ろに隠れるよ。ハガンより強い剣霊はいないんだから。」
「最高位の剣霊に我が敵うとは思いません。もしもの時は我も一緒に謝りましょう。」
「もう一組もハガンは知っているの?」
指に留まる鳩を少年は撫で続けていた。遥か遠くから海を渡った剣霊協会の従者は疲れきったのか、深い眠りに就いた様である。体を膨らませて目を閉じていた。
「もう一組は…我の知らない剣霊です。」
「ハガンとどっちが綺麗かな?」
「ハガンより綺麗な剣霊はいないんだってば。」
憶測と主張が織り成す会話はハガンの淡い褐色の瞳を柔らかにする。
「綺麗かどうかは見る者次第ですよ。青が好きな者がいれば、緑が好ましいと主張する者がいて、赤をこよなく愛する者もいる。それが個性という、人間にとって一番大事であり尊重する部分です。」
「それでもハガンの方が綺麗だと思うよ?ノエミリオの男全員がハガンを一目見てお嫁さんにしたいって思ったぐらいなんだって。剣霊と判る前は…。」
「剣霊と判ってもこうして皆に親しくしていただいて我は幸せですよ。」
ハガンの涼しげな目許に怪訝な趣が現れると少し遅れて少年は指差して叫んだ。
「ハガン、蛇だ!」
体長二メートルを超す蛇は黒みを帯びた斑模様をしており、見る者の足を止めるか一歩後ろに動かすには充分な迫力があった。剣霊が腰を降ろしている倒木に蛇の逞しい肉体が這い始める。少年少女は互いに体を寄せ合って恐怖に慄いた。ハガンは整った前髪を軽く梳いただけで動こうとはしなかった。
「大丈夫。我と皆さんの話が賑やかだから様子を見に来ただけの様ですね。」
ハガンが身に纏う薄桃色の衣服に触れるか触れないかの位置を蛇は悠然と通り、再び草むらの中へと消えていったかの様に少年少女には映った。人間以外の動物は常に物事を正しく判断し、また正直者である。ハガンの言うところの様子を見に来た蛇は彼女の持つ、剣霊が漂わせる研ぎ澄まされた空気を読み取り、到底敵わない相手として下手に威嚇する事無くその場を後にしたのか、あるいは倒木に身を預けた刀剣としてしか捉えていなかったのか。どちらにせよ、黒い斑模様の蛇が命を絶つか、少年少女の誰かが血を流すかという事態になる訳が無いとハガンには判りきっていた。だが、彼女の目許から怪訝の色は褪せていなかった。今は晩秋である。日を重ねる毎に気温は下がり、吹く風が頬を切り刻まんと勢いを増す中、冬眠を余儀なくされる蛇がわざわざ動き回るのは不可解としか言い様が無い。
「蛇が動く、か…。」
潤いのある唇から言葉を漏らしたハガンは淡い褐色の瞳をノエミリオの群島に向けた。折り重なる波が岩肌に打ち付けられ、鮮やかな飛沫を上げている。その姿は人智の介入を拒む大自然の咆哮の様である。群島の中央に建立された神殿と思しき建造物が霧を纏って化粧を施している。これから起り得る出会いと戦いにハガンは一抹の不安を感じずにはいられなかった。それは剣霊となって八百年以来、忘れていた感情でもあった。
天地の境界が消えた世界。いつの時代の誰の言葉なのかは不明だが、ノエミリオ諸島の夜景をこれほど巧みに表現した賛辞は他に無い。無数の星々の瞬きに晒された海原は広大な夜空と同じ色合いとなる。闇の黒にあらず、悲しみの青にあらず。静寂の藍色が広がる光景はその場にいる者を心穏やかな境地へと誘う。十八年前にこの地に腰を降ろしたテヴァ・ザイロンも密かにこの境地に憧れを求めていたのかもしれない。彼の剣霊であるハガンが少年少女たちと一時を共にした小高い丘から百メートルも離れていない場所に木造の小屋がある。質素ではあるが小奇麗にまとまっており、木肌も艶を保っている。庭と思しき敷地内の石組みされた池に小屋の主は身を浸からせていた。ノエミリオ諸島は地熱が高く、湧き水の殆どが人肌以上の温度を有している。湯治には最適な環境である。今年で七十八を数えるテヴァ・ザイロンは老いを感じさせない引き締まった表情の中、豊かな白髪と白髭を湛え、陽に焼けた筋肉質の肌の表面を年季を感じさせる大きな手で撫でていた。
「傷が痛みますか?」
麗らかな声を発したのは石組みの端に腰を降ろしたハガンであるのは言うまでも無い。薄い桃色の袷は身に着けずに純白の薄絹一枚のみである。後れ毛が数本ある趣深い襟足と相まって、惜しみもなく表現されている腰の曲線が彼女の魅力を引き出していた。
「痛むのではない。疼くというやつだ。」
老人特有の、やや枯れ気味ではあるがテヴァ・ザイロンの芯のある声は長年連れ添った剣霊の目許に僅かな表情を与えた。
「疼くとは何かを予感しているのですね?」
「そうだ。剣を携える者としての、な。」
ハガンの細い指はテヴァ・ザイロンの肩にある古傷に触れていた。刀剣による裂傷を縫った痕をなぞる様に緩やかに動いている。
「それは頼もしい事。ですが、今回は我たちの出る幕は無さそうです。」
「ほう。それはどういう事だ?」
テヴァ・ザイロンの肌から離れた細い指は程良い膨らみを持つ自身の胸元に潜り込む。滑らかな薄絹と柔らかな胸の間に挟まれた一枚の紙切れを取り出した。
「テヴァ、あなたが昼寝をしている間に我の許に協会から使いが来ましたので…先に拝見させてもらいました。」
「そうか。まぁ、使いの鳩も余程疲れていたのであろう。なんせ海を渡らなければならないのだからいた仕方あるまい。」
受け取った紙切れに目を通したテヴァ・ザイロンは、顎鬚を軽く撫で、鼻から深い溜息を漏らした。
「ハガンよ、確かにお前の言葉通りであろう。」
「とはいえ、我には腑に落ちないところが。協会は何故二組もこのノエミリオに送ったのでしょう?我が見る限り神殿に動きはありませんが、仮に神殿に異変が起きたとしてもミゼレレの力では事を治めきれないとでも?」
「そなた、ミゼレレ殿の力を知っておるのか?」
「いえ…。神剣霊の力は我がいくら足掻いても及ばぬ域としか。」
「なるほど。ミゼレレ殿は戦う為の剣霊ではない。あの方がわざわざここに足をお運びになるのは年老いた剣霊使いに対する慰問であろう。」
「慰問、のみの為にですか…?」
「それと遺言だ。」
「まぁ、縁起でもない。」
老人が遺言という言葉を口にしてもハガンの目許は返事とは裏腹に涼しさを保っていた。剣霊は常に己の契約者の健康状態を把握している。表面には無数の傷跡があるが、彼女の契約者であるテヴァ・ザイロンの命はまだ煌々と燃え続け、少なく見積もってもあと五年は命の灯火が消える事は無いとハガンは確信している。
「長年生きると、勘が働くものでな。しかも歳を重ねる毎にこの勘というのは的を外さなくなる。」
「それは人間だからでしょう?剣霊は勘では動きません。数ある経験で判断はしますが、裏付けの無い予測に身を委ねるのは危険ではありませんか。」
「ハガン、そなたは昔から変わっていないな。」
「剣霊は変わりません。変わったのは人間、いやテヴァの方です。」
一定周期で表情を変える月、無数の煌きを放つ星々、肌や髪を撫でる風。これらは八百年という永劫を知るハガンにとって普遍である。自然はその姿やあり方を変えない。その自然に属する生物たちも同様であるが、ただ一種類の生物だけはそれに属そうとしない。言わずもがな人間という種である。
「そう、人間は歳を重ねる毎に外見も内面も少しずつ変わるのだ。その様な人間が作り出す潮流も緩やかに穏やかに形を変える。さて、もう一組の剣霊とその使い手はいかなるものか…。」
「七十二番目の剣霊使い、とありましたね?」
「ほう。七十二の番号を持つ者は確か世間ではザ・サイレントと呼ばれている気鋭だ。実力もさることながら、通り名が先行してしまったようだな。」
「サイレント…何も語らない剣霊使い、ですか。」
「違うな、それは。語らないのではない、語れないのだと儂はみるが。」
「つまり剣霊障を逆手に利用しているとでも?」
「そうだ。その男は音を発しない。声は勿論、呼吸音すら誰にも悟られない。対峙する者にとって厄介な事この上ないだろう。」
人間の動作の内、呼吸は三つの要素をもたらす。剣を携える者にとってそれは緊張と解放そして弛緩であり、呼吸を極めれば手に持つ刀剣の能力を最大限に発揮させる事が可能である。息を吸い込めば筋肉に力が入り、息を止めて目標に向けて溜めた力を解き放ち、息を吐いて切先の軌跡に心を通わし次の動きに備える。別に剣でなくても良い。息を吸いながら棒を振る場合と息を止めて同じ動作をするのと、どちらが楽に行えて且つ威力があるか試してみればテヴァ・ザイロンの言葉に納得できるであろう。
「そら恐ろしい男ですね、七十二番は。ですが通常番号を持つ者は邪剣霊討伐が主な任務でしょう?特殊番号を与えられたテヴァの実力の前では色褪せると我は思いますけど。」
テヴァ・ザイロンはハガンの言葉に何も答えない。ただ鼻から深い溜息を再び出すと共に手に持つ協会からの指示書を自らが浸かる湯の中に投げた。白い紙切れは水を含んで灰色になり、青いインクは滲んで文字から模様へと変化した。
「それよりも我はその様な能力を与えた剣霊の方が気になります。」
「そなた、剣霊障の由来を知っているか?」
「剣霊となる前、人間であった時の最大の苦しみを契約者に反映させる。」
「その者の剣霊は喉を斬られたのか、あるいは言葉を失う様な苦難に打ちひしがれたのか、というところだろうな。」
「可哀相に。でも我にとって人間であった時の苦しみは今では大事な思い出ですよ。」
「ハガン、そなたにとってであろう。剣霊という皆が皆、そうとは思えぬ。」
「あら、他の剣霊に気を掛けるとはお優しい事。」
ハガンの女らしい一言はテヴァ・ザイロンを鼻で笑わせた。だが、彼の眼光はもとより、硬い表情は崩せなかった。会話の時間は終わりと言わんばかりにテヴァ・ザイロンは石組みに両手をついて立ち上がった。彼は六十年以上剣を握っている男である。無駄を省いた筋肉質の体は俊敏さと破壊力を両立させ、体中至る場所にある傷跡が歴戦の凄まじさを物語っている。無論、その傍らを共にするハガンの実力によるところもあるが、生死の境界を渡り歩き今に至らしめる強運の持ち主である事には違いない。
「ところでハガンよ、新月まであと幾日だ?」
滴る水滴が地面の色を変えている。それが判るくらい空が美しい世界を織り成している夜である。
「明日ですよ。ほら、月があんなに痩せ細ってしまいました。」
「そうか。新月の日にそなたに食事を、と思っていたのだが、別に今でも良かろう。都合の良いことに何も着けていないからな。」
テヴァ・ザイロンは石組みに腰を降ろし、ハガンを手招きすると両脚を大きく開いた。大腿部の内側に刀剣による傷はさすがに無い。だがその代わりに赤黒く腫上がった部分が露になった。刹那の剣霊ハガンの食痕である。
「では遠慮なく。かれこれ十日ぶりです。」
絶妙な曲線を描いている腰に力が込められ、可憐な剣霊は立ち上がる。純白の衣は星明りの夜空に晒され、内に秘められた彼女の肌をうっすらと透けさせている。五十年以上の付き合いである契約者の内股の前で腰を折った剣霊は袖で食痕の周りの水滴を取り除く。少しでも水気を避けるのは剣霊の定石である。
「腕飾りなどしおって、何か色気づく事でもあったのか?」
食事を始める為にテヴァ・ザイロンの太腿にハガンは両手をついた。その際に今まで袖で隠れていた細い手首と青紫の花で作られたブレスレットにテヴァ・ザイロンは視線を向けた。
「ソフィが我の為に作ってくれました。摘まれた花は既に死んでいるから我にも身に着けられると。発想力が豊かな頭の切れる子ですわ。」
「ソフィか。今年で幾つになる?」
「我の認識が正しければ五歳です。あと十年もすれば外見内面共に誰もが好ましく思う乙女になるでしょう。」
青紫の花の名は判らない。快い甘い香りを漂わせている。五歳になる少女が八百年を知る剣霊に似合うと想いを寄せた香りは彼女の剣霊に対する憧憬が込められていたに違いないとテヴァ・ザイロンは読み取っていた。
「そうか…。」
自らの食痕に唇が付くか付かないかの瀬戸際でハガンの淡い褐色の瞳はテヴァ・ザイロンの表情をうかがっていた。鼻の下を伸びる髭を二本の指で撫でている。何か考え事をしている時の手癖であるのは彼を契約者と認めて間もない頃から知っている。この場合、尊大な計画というよりは何か自分に言い聞かせているのであろうとハガンは見ていた。涼しげな目許が微笑の趣を表した後、十日ぶりの食事にありつける唇が赤黒く腫上がった部分に吸い付いた。
「いつもよりも多めに摂っていないか、ハガンよ?」
テヴァ・ザイロンの問い掛けにハガンは首を振って答えた。剣霊は食事の際は眼を閉じ、終わるまで、言うなればその剣霊が良しとするまで決して食痕から口を離さない。
「そなた、まさか七十二番の剣霊と刃を交えるつもりではなかろうな?」
ハガンは未だに食痕から口を離さない。首を縦にも横にも振らず、契約者の太腿に添わせている両手に力が込められた。
「一切ならん。協会に属する剣霊使い同士の手合わせは厳禁であるのはそなたとて知っておるだろう?」
怒号には程遠いが、老人特有の低い擦れ声には相手に選択権を与えない威圧が込められている。閉じていたハガンの淡い褐色の瞳が再び夜空の輝きを映り込ませた。食事を終えて満足と言わんばかりに唇を僅かに開いたままの彼女はテヴァ・ザイロンの内股に横顔をもたげさせた。
「それは秘密です。…と言いたいのですが、正直なところ、我が刃を伏せたところで相手がどう出るかはわかりかねますから。体力負けでは話になりませんわ。」
「用意周到なのは良いが、七十二番の剣霊とて協会の規定ぐらい判っているであろう。わざわざ勝つか負けるかの紙一重の世界に身を晒す愚か者でもあるまいに。」
「まぁ、そうでしょうけど。」
先程まで唇を押し付けていた食痕を撫でながらハガンは上の空で答えていたが、自らの腕の向こうに見える物が視界に入った瞬間、女の微笑が端正な顔に浮かび上がった。
「とはいえ、協会の規定は剣霊と契約を結んだ者を縛るもので、剣霊には適応されません。それよりもテヴァ、今日のあなたの血が僅かに熱い理由が判りました。」
全てを切り刻む剣霊の手は契約者にとっては柔らかな女の手である。テヴァ・ザイロンの両脚の間に後者の右手が伸びた。
「協会の規定を破ってはならないのは我ではなくテヴァ、あなたの方ですよ?」
「どういう意味だ?」
男の弱点を握り締められたテヴァ・ザイロンは表情はおろか、声色すら変化を生じさせていない。
「強い者と対峙したいという気持ちが興奮を生んだようですね?ここは本来なら女の柔肌に触れてそうなる部位ですが。いけない人間ですこと。」
女の五本の指はそれぞれが意志を持った生物の様に硬直した獲物に僅かな隙間すら作らず関節の全てが密着している。それは流れる血の音を全身で楽しみ、徐々に上がる体温を余すところ無く味わっている様子に見える。
「ハガンの好きにするが良い。こうなるのは何年ぶりだ?」
「十年以上忘れていた感覚といえば間違いはありませんわ。」
膝の上に置かれていたテヴァ・ザイロンの手がハガンの首に伸びた。剣を持つ事しか知らない指二本が汚れの知らない項を逆撫でし、そのまま鈍く輝く髪飾りの先端に辿り着いた。
「そなたの場合、感覚だけではなかろう?」
「えぇ。血潮では補いきれないものを頂戴します。テヴァの邪な考えは我が鎮めましょう。」
女は右手をそのまま動かさず、左手で純白の薄絹の帯を解き始める。静寂の中を薄絹が擦れる音だけが響く。鳥は鳴かず、潮騒も静まっていた。女の表情をたたえた剣霊の一部始終を鑑賞しようと固唾を呑んでいる様である。剣霊は息をしない。剣が息をする必要はない。だが十年来忘れていた歓喜と高揚に身を任せたハガンの唇は艶やかな吐息を漏らす様に僅かに開いたままであった。やがて女の顔が天を仰いだ。男の肩を掴む手が痙攣し、我を忘れる。少女の想いが込められた青紫の花を編んで作ったブレスレットが音も無く切断され、濡れた石畳の上に静かに落ちた。
仄かな甘い香りが天地の境界が消えた世界に溶けて消えた。