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語らずの剣霊使い  作者: 常葉 錆雲
第二章 ノエミリオ諸島編
15/74

剣霊の苦悩

 暗がりの中で天井からぶら下がる燭台に火を灯す。使い込まれた鉄製の燭台に添えられた三本の蝋燭はあと三日ほどで燃え尽きるであろうが、そこまで長居をする必要は無い。ユストが手にした備え付けのマッチ箱には北部で使用される文字が記されていた。王の在位二十年を讃えている。恐らくこの部屋を利用していたというドルク夫人の娘の所有物であろう。異国情緒に溢れたとは言い切れず、またいつ入手したのかは想像の範囲でしかないが、愛する者から贈られた品と思われる。ユストの認識が正しければ北部王立国家の王は今年で在位二十二年となる。何気ない品から遠く離れた未知の土地に暮らす愛する者を思い浮かべるという、甘い夢の時間の演出にこのマッチ箱は一役買っていたに違いない。

 通された部屋は白を基調とした、質素であり女性らしさを感じさせない空間だった。閉ざされたカーテンに埃は付着しておらず、ドルク夫人が日々清掃している様子がうかがえる。よくよく見れば、小さな花柄をあしらった壁紙に日焼けしていない箇所がある。もともとその場にあった家具類は恐らく新たな生活の場となる嫁入り先に運び込まれたのであろう。残されていたのは鋼鉄製の細い脚を持つベッドと表面が磨耗した木製のスツール一脚である。

 コートと靴を床に脱ぎ捨てたユストはそのままベッドにうつ伏せに身を投げた。誰も見ていないとはいえ、珍しい行動を取るものだな、と冷ややかであり多少の関心の色を持つ視線をイルサーシャは投げたが、それには理由があった。ユストは風邪を煩わせていた。イルサーシャは三日前の食事の際、ユストの血に変な味が混ざっている点に気付いた。雑な味がすると指摘をしたが、疲れが溜まっているのだろう、我慢しろとユストは相手にしなかった。確かにここ数日の間は邪剣霊を追って野宿を強いられたものの、ユストの肉体的疲労による血の味の変化は幾度となく知っている。剣霊にとって契約者の血は自身の霊体を維持する為に必要不可欠であると共に契約者の健康状態を調べる手段でもある。雑という表現がいけなかったのだろうか。違う言葉を用いれていれば強情なユストも少しは耳を傾けたかもしれないとイルサーシャは後悔していた。

「ユスト、横になるのは構わないが、その前にすべき事があるのではないか?」

 声を発した方へ大儀そうに顔を向けるユストにイルサーシャは両手に持つ、ドルク夫人から借りた乾いた布を見せた。濡れたの体を拭けという示唆である。剣霊は雨に弱い。厳密に言えば雨に弱いのではなく、濡れたままにしておくのが一番よろしくない。全てを切り裂く刃は水分を留めておくと錆が生じ、やがては何も切れなくなり、最後は触れただけで瓦解するほど脆くなる。よく切れる剣ほど錆びる進行度合いが早いものである。ユストは姿勢を変えずに利き手にしている左手をイルサーシャに向けて伸ばした。布を掴もうとして伸ばしたのではない。意思の疎通を図ろうとしてであるのは判っている。怪訝な表情を隠しきれない女のきめの細かい手が男の頼れる手に重なった。温かいを通り越して熱い。発熱している証拠である。

(自分で拭いてくれ。それが終わり次第、ドルク夫人の話し相手を頼む。愚生は体の調子がどうも芳しくない。)

(…自らで全てを拭けというのか?)

(そうだ。この程度の雨であればたいして濡れていない筈だ。)

 イルサーシャは重ねていた手を宙に浮かし、そのままユストの手を叩いた。

「切れなくなってもの責任ではないからな。」

 敢えて音に出した言葉は心の言葉とは違う。はユストに拭いてもらいたいのだ、と何故言えないのだろうか。人間にとって風邪を患うという事はそこまで苦しい事なのか。の気持ちを汲む事が出来ないくらい苦しい事なのか。やるせない気持ちを抱えたままのイルサーシャはあらぬ方向へ視線を向けながら黙々と背中合わせのボタンに両手を回した。ソノイの樹液とヤマユリの葉脈を混ぜ合わせたものを塗布した生地には撥水効果がある。彼女が身に纏う白地に黒の幾何学模様が走るドレスにもその処置が施されていた。手探りでボタンを外そうとする指に水滴が絡みつく。ボタンを縫い付けている糸が雨水を吸って固くなっていた。とても気持ち悪い。切れ長の目尻が細くなり、緑色の瞳に一切の迷いを絶つと言わんばかりの力が込められた。下から上へと一本の指が鋭利な刃となって五つのボタンを留める糸を全て切断する。皮肉な事にボタン達は乾いた音を立てて板貼りの床に転がった。右の肩からずらし、続けて左の肩も同じ様にずらしてイルサーシャは体に纏わりつくドレスを脱いだ。汚れを知らない女の白い肌は僅かに濡れ、その瑞々しい姿をより艶やかに引き立てていた。拭くというよりは吸い込ませる様に乾いた布を肌に当てる。ユストは重たい目蓋を開き、イルサーシャが手に持つ布の色が濃くなっているのを確認すると再び目を閉じた。白銀の髪に数回手櫛を入れた後、裸体のままのイルサーシャはスツールに腰を降ろし、役目を終えた布をユストの横たわるベッドを目掛けて投げた。

「ユスト、そなたもシャツを脱げ。」

 何を言い出すのかという表情のユストが咳をする。誰にも聞こえない咳は苦しそうにもがく姿としてしか見れない。すらりと伸びた足を組みながらイルサーシャは再び口を開いた。

「そなたの言う通りに今からドルク夫人の許に足を運ぶが、さすがに裸体では驚かれるだろう?まぁもっとも、剣霊が服を身に纏うのは人間社会に順応しているだけなのだがな。」

 平然と語るイルサーシャの真意を理解したユストは気だるく感じる上半身を起こすと愛用のシャツを脱ぎ始めた。今の空模様に似た灰色の生地で仕立て、黒蝶貝の内側を加工したボタンが鈍く輝く。愛用といっても数ある中の一つではない。住居を構えず、常に剣霊協会からの指示に従って動く剣霊使いは身軽でなければならない。つまり彼にとって唯一の一枚である。

 ユストからシャツを受け取ったイルサーシャは何も言わずに袖を通した。それなりに大きい。ユストは剣を振る男にしては体の線が細い方ではあるが、やはり肩幅が女のそれとはだいぶ異なる。百年香の匂いがしない点は気になるものの、裾が大腿部を覆っていたので及第点といったところだろうか。

「あれこれ考えずに目を閉じているが良い。たまには雲一つ無い空の様に心を虚ろにしてみるものだ。」

 イルサーシャの緑色の瞳は窓の外に映る世界を一瞥した後、燭台に向けられた。揺らめく炎に人差し指を近づけ、その根元を薙ぎ払う。薄闇の中を蝋の燃えかす独特の匂いが漂い始める。その匂いが収まると同時に扉の閉まる音が小さく響いた。


 ドルク夫人は食卓で静かに佇んでいた。感情や心境はその者の姿を大きくも小さくも映させる。イルサーシャにはドルク夫人が後者に見えた。つい先程、邪剣霊に襲われ掛けたのだから彼女の手が小刻みに震えているのも仕方のない事である。両肩を抱き締めて落着かせてあげたいが、剣霊は契約者以外の生物には触れられない。剣霊が出来るのは人間の萎縮した心を平常に戻す、その場に於いて最適な言葉を掛けるだけである。

「ドルク夫人、何も心配する事は無い。今は外の亡骸はそのままにして、気持ちを静めるが良い。明日にでも憲兵もしくは最寄の自警団へ報告すれば事は足りる。」

 暖炉の火が煌々と輝く中、男物のシャツ一枚で、しかも前を留めずに悠然と語る姿は些か滑稽である。だが、彼女は気丈夫な人間の女ではなく唯一無二の剣霊であると思えば、その様な考えは直ぐに打ち消されてしまい、語る内容も色褪せる事は無かった。

「有難うございます。ですが、夜になると亡骸の匂いを嗅ぎつけた魔物が襲ってくるのでは…?」

 イルサーシャの言葉に応えるかの如く、ドルク夫人は俯き加減の顔を上にした。

「その心配は無用であろう。この雨の中を好き好んで動き回るのは蛙と奇襲を決め込んだ軍隊ぐらいのものだ。幸いな事に両者ともドルク夫人に用事は無い筈だとは思うが?」

「そうですね…。」

「そもそも血の抜けきった肉を喰らう魔物などいないのだがな。味気無くて不味いであろう?」

 返事は無い。凍った様なドルク夫人の表情は剣霊の肌よりも白くなっていた。それを目の当たりにしたイルサーシャは自らの発言を詫びた。ドルク夫人は剣を握る人間ではない。ましてや剣霊と共に生きる人間でもない。流血の話は慣れない者には耐え難い苦痛である。ユストがこの場にいたら苦い顔をしていたに違いない。沈み掛けた空気を元に戻そうとイルサーシャは口角を上にするという慣れない表情を作った。

「明日、独りでは心許無いのであればも同行しようと思うのだが如何だろうか?」

「本当ですか?自警団の方になんて説明したら良いのか判りかねていましたから…。」

「その役もが引き受けよう。」

 重ねての御礼を言おうとしたドルク夫人はある事に気付いた。目の前の頼もしい剣霊は椅子に座らずに立ったままである。律儀な性格の持ち主なのだろうか。

「どうぞ、遠慮せずにお掛けになってください。お声掛けが遅くなり申し訳ございません。」

 やや慌て気味のドルク夫人の言葉を耳にしたイルサーシャは背もたれに手を掛け、目を細めながら滑らかな表面を撫でていた。

「立派で重厚感溢れる椅子だ。これはそれなりの年月を経ている紫檀であろう?」

 剣霊という存在にも家具に対する造詣があるのかとドルク夫人は内心で驚いていた。

「えぇ。百年ほど前に作られた椅子と主人から聞いております。食卓用としてはごてごてしいのですが、座り心地が良いので食事が美味しくいただけます。お気に召しましたか?」

は勿論の事、ユストも気に入るだろうと思っていたのだ。ただ、その…。」

 どうやらイルサーシャが端麗な目を細めていたのは感慨深い世界に足を踏み入れていたのではなく、躊躇の狭間に身を置いていたからであった。その証拠として背もたれに触れる指が規則性の無い孤を描いていたのをドルク夫人は気付いたであろうか。

は自らより重い物を動かせないのだ。ドルク夫人、そなたとて同じであろう?手間を掛けるが、この椅子を手前に引いて貰えないだろうか?」

 外では風が吹き荒れている。早く椅子を動かしてやれと野次を飛ばす聴衆の様に窓を震わせている。ドルク夫人は腰を上げ、イルサーシャの要望通りに椅子を引いた。

「失礼ですが、イルサーシャさんの体重は…?」

「あの暖炉の上に掲げている剣より刀身が長い分だけ重い程度だ。にはあの様な華美な装飾がない分、もしかしたら同じ重さかもしれないな。」

 ドルク夫人は細い指が示す方向に視線を向けた後、立派で重厚感溢れると賛辞を送った椅子の座面に落着いた細い指の持ち主に移した。剣霊の髪の長さは剣体時の刀身のそれと合致するという。長さはもとより、色艶や伸び方も刀身の特徴を表現していると聞いた覚えがある。前を合わせていない男物のシャツと豊かな白銀の髪の隙間からしみや黒子とは縁の無い首筋や胸元が覗かせていた。趣の無い肌と言えばそれまでだが、剣体に汚れや傷が無い証なのであろう。

「わたしには戦いのなんたるかは判りかねますが、そこまで軽いとなると、不利ではないのですか?」

「もっともな意見だ。だが、がこの椅子より軽いとはいえ、突き飛ばそうとしても無駄だ。の肌に触れるのは研ぎ澄まされた刃に触れるのと同じ。抗えずに切り裂かれるだけだからな。それを回避出来るのは契約者であるユストのみだ。」

 他人事の様に語るイルサーシャは横髪を耳に掛けた。姿を現した黒い蛇を象ったピアスにドルク夫人は眼を留めた。先程見たものとは形が違う。自らの尾に噛み付く姿は自らを戒めているのか、あるいは狂猛の顕れなのだろうか。これまでに見た事の無いモチーフの精巧な工芸品はまるで生きている様に凄惨な眼差しをドルク夫人に向けていた。

「どうしてユストさんだけがイルサーシャさんに触れるのです?」

 ちょっとした好奇心が素朴な疑問を生み出す。

「剣の柄を握れるのは一人だけであろう?二人同時に柄を掴んでも剣としての役割は果たせん。ユストにはの柄を掴む資格を与えたのだ。」

「つまり、剣霊であるイルサーシャさんはユストさんの所有する剣なのですね?」

は所有物ではない。お互いに納得の上での契約だ。」

 やや語気を強めたイルサーシャの緑色の瞳は男と女の関係を物語っていた。男の方はどう思っているかはともかく、女にとって男の所有物になったと思われるのは甚だ憤りを感じるのと同じなのであろう。生涯に一度会うか会わないかの剣霊とは普通の人間の女として扱えば良いのだとドルク夫人は判り始めていた。

「ところでユストさんは?」

「無礼は承知の上だが、体調を崩して横になっている。発熱が少々という具合だ。」

「それは大変、お薬はございますか?」

「裂傷に効用がある薬は携帯しているが、解熱用は…には判らん。」

 薬に対する知識が乏しい様子では無く、発熱という概念が剣霊には未知の領域なのである。

「ドルク夫人、人間にとって発熱というのは苦しいものなのか?」

「個人差は有ると思いますが、とりわけ男性は熱に弱い様ですね。うちの人も熱が出ると、この世の終わりと言わんばかりに苦しみますから。」

「病というのは目に見えないだけに厄介なものだな。」

「えぇ、気の持ち様で多少は改善出来るものですが…。おそらくお疲れになったのでしょう。」

 ドルク夫人は食器棚の方へ足を運び、引き出しから小さな油紙に包んだ薬を取り出した。

「寿命を全うした龍の角を蒸留酒に五年間漬け込んで乾燥させた物の粉末です。後でユストさんに飲ませて上げてください。二十四時間深い眠りに就いたままになりますが、解熱には良く利く薬です。目が覚めた時には平熱に戻っているでしょう。」

「良いのか?龍の角を使うとは貴重な薬であろう?」

「引き出しの中で眠らせていても意味がありません。どうぞ遠慮なくお使い下さい。」

 食卓の上に置かれた薬を見つめていたイルサーシャとドルク夫人の視線が交わる。なんと奥深い緑色の瞳なのだろう、二十歳そこそこの娘が携える事が許される瞳ではない。故に彼女が人間ではなく剣霊であるとドルク夫人は思い知らされた。暖炉の薪が音を立てて崩れた。火かき棒の脇に置かれた新たな薪を投げ込む。

「あの、前を留めないで寒くありませんか?」

 ドルク夫人の指摘を受けて改めて何かに気付いた様子のイルサーシャは身に着けているシャツの襟を摘み、弄び始めた。

「剣霊に暑い寒いという概念は無い。ただ、は気が短いのが欠点だとは判っているものの、どうもボタン掛けというものにいらつきを感じてしまう。その逆も同じだ。の服のボタンを全て飛ばしてしまった上にユストのシャツまで同じ事をする訳にはいかないのだ。」

 イルサーシャが見た目の年相応の女の雰囲気を醸し出している。それは人智を超越した剣霊とはかけ離れており、また意外と身近な存在に思えた。

「よろしければわたしがお直し致しますよ?」

 危機から救ってもらった恩人の為という気持ちよりも、心の内を包み隠さず吐露する乙女の為に手を差し伸べたい衝動に駆られたドルク夫人は優しい笑みを送った。

「左様か?それならユストの手を煩わせずに、しかも小言を言われずに済むな。」

 イルサーシャの表情が幾分柔らかくなった様にドルク夫人は思った。剣がボタン掛けや裁縫をする、いや、出来る訳が無いと思えば、イルサーシャの小躍りぶりも納得が出来る。ドルク夫人はイルサーシャを無邪気であった頃の我が子と重ね合わせて見ていた。一昨年遠くへ嫁いだ娘から手紙が来たのは半年前である。懐妊したと記されてはいたが、それ以来どうしたものか、と心の隅で心配し始めていた頃合である。言葉の端々に彼女の言うところの契約者の名前が出てくる。彼女にとって余程大事な人物なのだろう。そして惜しみなく大事な異性の名を口にする姿は一昔前の自らを思い出してしまう。若き日との邂逅という表現は大袈裟ではあるが、ドルク夫人は体の内面で温かい気持ちを感じていた。

 その後、ボタンの取れたドレスを膝に乗せたドルク夫人はイルサーシャとユストの旅路に於ける話を聞きながら時の流れを過ごした。二人は数ヶ月前にトウラドオク城址に近いダゴウ市街地を経て、最西端の港町であるデルロア市街地へ向かっていると聞いた。デルロア市街地では三ヶ月に一回、大きな市が開催され、南西自治国家はもとより国外からも多くの来客で賑わうと教えた。実のところ、ドルク夫人自身もこの多くの客の中の一人である。市街地に赴くという気分転換と共に活気に溢れた世界に触れるのは明日への気概を満たしてくれる。中年期を迎える者の数少ない楽しみの一つである。

「ところでドルク夫人は裁縫を誰から習ったのだ?」

 両肘を抱え込む様に腕を組むイルサーシャの眼差しは好奇心に満ちていた。それに気付いたドルク夫人は一度はイルサーシャの問い掛けに答えるべく手を止めたが、それも僅かな間であった。

「母からです。」

「なるほど。母上もその親から習ったのであろうか?」

「恐らくそうと思われます。げんにわたしも娘に針と糸の扱い方を教えましたから。」

 イルサーシャのドレスは滑らかで肌触りが良い。素材は絹であろうか。五百余年を経たという剣霊の肌を包む生地はこれまでに見た事が無い織り方をしており、短気な持ち主の慰み物となったボタンは琥珀で出来ていた。深みのある茶色の中に細かい白い渦が無数に走っている。所有者は気付いていないと思われるが、高価な代物である。生地を動かす度に爽やかな香の匂いが辺りを包み込んだ。

「素晴らしいな、親から子へ受け継がれるというのは。」

「とても些細な事でしょうが、ドルク家は勿論、こうしてわたしの生家の血を守っているつもりです。」

も剣霊となる前は親から何か教わったのだろうか?」

「えぇ、きっと何かを教わっている筈ですよ。親が子に教え伝えるのは我が子が幸せになってもらいたい一心での行動ですから。」

「血を守り、我が子の幸せを願う、か…。」

 人間であった頃の記憶が無い剣霊の瞳がドルク夫人の動く手から食卓に置かれた白磁のティーカップとポットに移った。

「良い香りの茶だ。」

「我が家の庭で育てたものです。何かあった時はいつもこれを飲んで心を鎮めております。是非ともご賞味して頂きたいのですが、剣霊にはお茶を飲むという習慣は無いのですよね?」

「確かに無い。口に含むどころか湯気に当たる訳にはいかないが、香りを楽しむ事は出来る。一杯頂けないか?」

 気遣いではない。本心による所望である。ドルク夫人は来客用のカップに自慢の逸品を注ぎ、香りを嗜む剣霊の前に置いた。

「どうぞおくつろぎ下さい。」

 そうさせて貰うと短く頷いたイルサーシャは両耳のピアスを外し、食卓の上に転がした。鎌首をもたげた黒蛇と自らの尾に噛み付く黒蛇の表面が生きているかの様に妖しく光る。柔らかで心地良い在るべき所から使い込まれて硬くなった木肌の上に移されて不服そうな表情である。妖しい光に見とれたドルク夫人に対し、何かと騒がしいのでな、と黒蛇たちに意思がある様な台詞をうそぶいたイルサーシャは端正な顔を上に向けた。燭台に照らされた天井が視界に映る。規則正しく貼られた板貼りの天井は淡く輝いていた。

「ユストさんの事をお考えですね?」

「…何故なにゆえ判ったのだ?は無意識の内に何か口走ったのか?」

「いえ、何も言われておりませんよ。ただ、顔に書いてありました。」

 図星と言わんばかりのイルサーシャは視線を天井から食卓に移した。まだボタン付けは一つしか終わっていない。残る四つのボタンは食卓の上で転がったままである。食卓の中央を飾る細かなレース編みの花瓶敷きもドルク夫人のお手製であろう。これもドルク夫人の生家の血を守るという行為の一端の証なのかとイルサーシャは思った。

「剣霊と契約を結んだ者は絶大な力を手に入れる。誰もが羨む力を持つ者は畏敬と畏怖の対象となるが、その死に際は羨望の眼差しを送っていた者はおろか、愛する子孫たちではなく、剣霊という一振りの剣に見守られながら息を引き取る。ユストにも親から受け継いだ何かがあり、彼もまたそれを我が子に伝えなければならないところを、が断ち切ってしまった。街を歩けば楽しそうに遊ぶ子供たちに必ず出会う。無邪気な笑顔を眺めるユストの視線は温かい。同時にそれを目の当たりにしたは彼に子供がいてもおかしくないのだと自責の念に苛まれるのだ。」

 心の内を呟く剣霊の姿は言葉の内容に比例して悲しげにしか見えなかった。組んだ腕に力が入り、小さく映る。ドルク夫人は手にする針を食卓の角に刺した。

「契約とはどの様な内容なのでしょうか?差し支えなければ教えていただけますか?」

「今ある世を守るというの誇りにユストは賛同した。それが契約だが…。」

「ユストさんはイルサーシャさんの信条を守るよりも、あなたそのものを守るという事で応じたのだとわたしは思いますよ?」

を守る…か?」

 切れ長な目尻がドルク夫人の言葉に反応した。ドルク夫人の笑みはとても柔らかい。母親を経験した女性にしか出来ない微笑みにイルサーシャの乾いた心は耳を澄ました。

「ユストさんも大人でしょうから、己の判断に間違いは無いと信じていることでしょう。それに男の守るという思いは女があっての事です。ですからイルサーシャさん、あなたがしっかりしないと彼の思いは水の泡になってしまいますよ?」

「なるほど。早速明日にでもユストに思いの真意を尋ねる事としよう。」

「駄目です、それは。」

「どうしてだ?」

「気持ちには言葉では無く、同じく気持ちで受け止めなければ。男の心はいびつで繊細なものです。いびつな部分が当たっても破けない様に優しく包み込むのが女の役目ですよ。」

「そうか…。」

 あやふやでまどろっこしいものだとイルサーシャは言い掛けたが、言葉に出さなかった。いや、出せなかったという表現が正しい。記憶が無くても男と女の感情は理解出来るのではないか。それをあやふやだのまどろっこしいと第三者的な見解しか持てない自らは記憶の喪失どころか、そもそも人間ではなかったのでは、と疑問を生じさせた。ユストのシャツの上から胸に手を当てる。人間の心臓は緊張や興奮で音が早くなる。だが剣霊に心臓は無い。判りきった結果と自らの行動に冷笑を送った後、イルサーシャは目を閉じてボタンを付け終わるのを静かに待つ事にした。今は自己問答に費やす時間ではない。邪剣霊に襲われかけたドルク夫人に穏かな日常を取り戻させる時間である。

 吹く風は静かになった。だが雨は止まない。剣霊にとって雨は大敵である。しかし窓や大地を穿つ儚げな雨の音は目を閉じたまま佇む剣霊にとって、心の内のざわつきを緩和する作用を教えてくれた。


 翌々日の朝、ドルク夫人は思わぬ所で一通の手紙を受け取った。場所は邪剣霊から身を守ってくれた剣霊と剣霊使いが利用していた部屋である。渡した薬の効果を確かめようと扉を叩いたが、中から返事が無かった。早過ぎる、という訳でもない。居間の置時計が八時を知らせる鐘を既に鳴らしていた。熱に悩まされた剣霊使いの方はともかく、剣霊には眠るという概念が無いと剣霊本人から教えて貰った。この二日間で耳に慣れた、若いが威厳に満ちた女の声が聞ける筈であった。だが再度扉の表面を叩いても結果は同じである。中で何かが動いている気配すら感じられない。多少のためらいはあるものの、木製の取手を回して扉を開けた。柔らかな日差しが開け放たれた窓から飛び込んでいる。スツールの上では丁寧に二つ折りにされた紙切れを金色に輝く硬貨が一枚、重石の様に置かれていた。ここ西部で流通している硬貨ではない。始めて見る金色の硬貨の表面は多くの人間の手に触れていない事を物語っている。何故なら手の脂による曇り具合が皆無である。ユスト・バレンタインの生まれ育った地の硬貨であろうか。四ヶ国の国章が刻まれた不思議な硬貨の表と裏を一通り眺めた後、ドルク夫人は紙切れを手にした。ドルク夫人へ、と始めに筆を滑らせた文字は中央行政府で使われているものである。南西自治国家で生まれ、そこで育ったドルク夫人にとって所々に見慣れない文字はあるが、文章として理解する点に於いては頭を悩ます必要は無かった。

『ドルク夫人へ 

 風邪を煩わせた愚生の為に貴重な薬を分けていただき、また静養する場所と時間を提供していただき感謝します。良い環境の中で静かに休めた事もあり、愚生の体調は快方へと向かい、気力も充分に養われました。ただそれ以上に謝意を述べなければならないのは愚生の剣霊の件と考えております。人間という種を如何に理解しようと試み、感じたもの得たものを受け入れようとする彼女にとってドルク夫人との出会い、そして過ごした時間は剣霊の果てしなく長い生涯に於いて忘却の彼方へと押しやられる事は無いでしょう。剣霊とは人間の想いが作り出し、人間とは似て非なる、異世界の住人であると愚生は考え、それは世間の見解としても周知の通りです。人間であった頃の記憶を失った彼女はドルク夫人と共にした会話や行動に喜びを見出せたと語っておりました。ドルク家で蓄えてある全ての薪を腕一本で、しかも短時間で割ったと嬉々と語る彼女の様子に愚生は驚きを隠せませんでした。邪剣霊を狩る生死を賭した、と言えば響きは良いですが、ある意味、単調で終着点の見えない日々に明け暮れる彼女にとって薪割りは新鮮に感じられたのでしょう。

 ドルク夫人の許を去るにあたり、共通貨幣を一枚置いておきます。遠慮せずにお受け取り下さい。宿泊代、薬代、そして剣霊とその使い手を泊めたという事に対し、黙秘を願う手付け金と考えて頂ければ幸いです。ドルク夫人の生涯に安息と幸多き事を願っております。』

 流れるような文字は手紙をしたためる頻度の多さを表している。だが、手紙を締めくくる記述者の名は記されていなかった。急いでいた為に忘れた訳ではなく、痕跡として残るのを嫌った故であろう。手触りの良い紙の中央には剣を銜えた鳩の図柄が透かしとして施されている。この図柄が何を意味するものなのかドルク夫人には理解できず、また理解しようとも思いつかなかった。白銀の髪を持つ剣霊の姿を思い浮かべる瞳は自然と窓の外へ向けられた。晩秋の空に雲は無く、淡い水色の世界が広がっている。確証の無い願望に首を横に振ったドルク夫人は開け放たれたままの窓を閉めた。

 以後、ドルク家の庭に白銀の鷺が舞い降りる事は二度と無かった。


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