ノエミリオ諸島編 序章
のどかな風景とは何処にでも存在する。見て感じる者の心の持ち様は種々多様だが、緑豊かな柔らかな日差しが降り注ぐ田園の景色に誰もが一時の安らぎを覚えるだろう。南西自治国家の領土内は晩秋を迎えつつある。草木は個体毎に鮮やかで暖かな色を葉に映えさせ、動物たちは来るべき冬に備えて食料と寝床の確保と用意に勤しんでいた。
人間とて例外ではない。ドルク夫人は庭に繰り出して先の春から手塩を掛けて育て上げた家庭菜園の収穫の為、腰を折っていた。二十四年前にこの家に嫁ぎ、亡き義理の母からおよそ百平方メートルある庭を受け継いだのは三年前である。受け継いだという表現は少々聞こえが良過ぎるかもしれない。何故なら義理の母は臨終の際に庭について何も語っていない。生前は手出しをしなかったが、近隣の家庭にお裾分けすれば喜ばれ、時には幾ばくかの金額に換わるのを何度も目の当たりにしてきた。他界した後に荒れ果てるのは忍びないと思い、見よう見まねで土いじりを始めた。結果はどうあれ、生産性のある事柄に没頭出来るのは喜ばしい事だと思っている。生活の糧となる肝心の稼ぎなら軍人として真面目に勤め上げている同い年の主人が持ち帰ってくる。南西自治国家の首都であるムアリアタで如何なる部隊に所属し、どの様な職務に当たっているか知らず、また階級も飛びぬけて上がった事は無いが、一週間に一回は必ず戻ってくる。明後日がそれに当たる日であった。
根菜を植えている一角に見慣れない鳥がいた。正式な名前は判らないが、鷺の一種だろうとドルク夫人は思った。白銀色の羽根が美しい、細長く形の整った褐色の嘴を持つ鷺はドルク夫人の気配に既に気付いていたものの、微動だにせず、その絶妙な曲線を描く躯体を静かに陽に晒している。これまでの経験でこの時期に鷺を見掛けるのは初めてであった。渡り鳥の習性や特徴について学んだ覚えは無いが、目の前で佇む鷺は群れから逸れてしまったのであろうと判断するのは容易である。ドルク夫人は手にしていた鋼鉄製のスコップを均した土に刺し、物珍しさで白銀の鷺に一歩近付いた。鳥の表情を読むのは極めて難しい。だが確固として開かれた目は強い意志を見る者に与える。晩秋の淡い陽を全身で受けようとしているのか、あるいはそれ以上近寄るなと警告をしているのか、白銀の鷺は体を伸ばし、羽根を広げた。勇ましさと美しさを融合させた気品ある姿にドルク夫人は思わず口を開いた。
「あなたの邪魔はしないわ。お好きな様にしなさい。」
思い描いた心情を吐露してしまう。魅入った時の行動とは不思議であり極めて簡素な行動をするものである。羽根を閉じた鷺は嘴の先端を羽根の中に隠し、鋭い眼光を備えた目をやがて静かに閉じた。実のところ、彼らは人間の言葉を理解しているのかもしれない。あくまでも理解していないふりを演じているだけであり、言葉というものを通して個々の意思を伝えなければならない生物の有様を静観しているのでは、とドルク夫人は思った。
翌日は朝から冷たい霧雨が降り注いだ。ドルク夫人は長年共にしてきた紫檀製の飾り気のない椅子に体を預け、裁縫道具を膝に乗せて窓から外を眺めていた。薄暗い世界に白銀の鷺の姿は見当たらなかった。既に旅立った後である。恐らく雲行きが怪しくなる事を知っていて先に羽根を休めていたに過ぎないのだろうと思い、また興味本位で珍客を眺めていた自分を思い返して口元をほころばせていた。暖炉の薪が弾ける音と共に玄関を叩く音が混ざった。この雨の中、わざわざ近所の夫人仲間がお茶をしに尋ねてきたのだろうか。裁縫道具を食卓に置き、束ねている髪に手櫛を素早く数回入れてから腰を上げた。
「はいはい、どちらさま?」
返事は無い。湿気の多い空気とは対照的にとても乾いた音を玄関の扉は不定期に奏でている。手で叩いている音ではない。何か硬い金属で穿つ音に思えた。
「…どなた?」
訝しげに感じたドルク夫人は扉に近寄っていた足を止めた。不安という感情が胸の鼓動を高らかにし始めている。
「…誰なの?」
やはり返事は無い。慌てて居間に戻り、暖炉の上に掲げてあるドルク家代々の家宝である剣に手を掛けた。五代前のドルク氏が領主から頂いた御下賜品であると主人より聞いていた。刀身が四十センチほどの短い剣の柄を女の細い両手で握る。もしもの時はこの剣を振るえば必ず道は開けると家訓は語るものの、無数の象嵌が柄や鍔にちりばめられた剣は握り難く、また必要以上に重い。適度な重量は心強さを感じるが、重過ぎるのは不安を脳裏によぎらせる。芸術的工芸品としてこの剣は一級かもしれないが、戦闘に於いては宝石が嵌り、見事な彫金が施されていれば勝てるという保障などどこにも無い。むしろ扱い難いだけである。
ドルク夫人は半年前に町内会主催の護身術の講習を受けていた。教わった内容を搾り出すように思い出す。外にいるのは盗賊の類であろうか。だが扉を叩くのは独りの様である。盗賊は複数で一気に畳み掛けるのが定石と聞いている。盗賊で無ければ、と次に思い浮かべた言葉はただ一つ、邪剣霊である。首都であるムアリアタにて軍隊の剣技指南役を預かっている老兵から剣の扱い方と邪剣霊についての講義も受けていた。邪剣霊の特徴として、髪の長い女性の姿をしており、意思の疎通は不可能と教わった。また邪剣霊に魅入られ食された者も言語を失い、新たな血を求めて剣体となった邪剣霊を振りかざすという。
音を立てずに摺り足で扉に近寄るドルク夫人を待ち構えていたかの如く壁と扉の隙間から剣が飛び出した。咄嗟の反応で体を仰け反らせて凶刃の餌食にならずに済んだが、とてつもない恐怖にドルク夫人は床に座り込んで腰を抜かしてしまった。生物の脂で鈍く輝く切先はそのまま下に移動し、閂を切断しようとしている。見てはいけないと頭で理解していても見開いた瞳に絶命への筋書きを予測せざるを得ない光景が飛び込んでくる。誰か助けて、と叫びたいものの、声が出ない。頼りになる夫が帰ってくるには到底早く、近所の者が霧雨の中でわざわざ外を歩いているとは思えない。本当に誰でも良い、助けて欲しい。昨日庭で遭遇した白銀の鷺が羽根を広げた姿をドルク夫人は不意に思い浮かべた。あの鷺の様に勇ましく何にも臆せずに自己を貫いて生涯を終えたかった。鉄木で出来た閂は凶刃の攻撃に耐えている。相手は力任せに切断する算段であろう。鈍く生きた心地のしない音が響く中、身動きできないドルク夫人は手にする短剣を前に突き出して目を瞑るしか出来なかった。
鈍い音が消えると共に剣と剣が交差する音が聞こえた。間髪いれずに骨が砕ける不気味な音が立て続けに響き、最後は硬い金属が何かにへし折られたのか、甲高い断末魔をあげた。勝敗は喫したようである。誰かが助けに来てくれた、という淡い希望は項垂れていたドルク夫人の顔を上に向けさせた。戦いとは一瞬の出来事である。一瞬で決めなければ負ける。すなわち手に持つ剣は痛み、命を失う可能性が飛躍的に上昇する。剣を満足に振れなかったドルク夫人でもそれは判る。
「家の中の者よ、邪剣霊は倒した。安心するが良い。」
優しさよりも他を寄せ付けない意思の強さを感じさせる女の声である。若い声色のわりには威厳に満ちた口調では有るが、少なくとも悪意を漂わせていない点は夫人を安堵させた。
「済まないが、扉を開けて中に入れてもらえないか?我は雨が苦手なのでな。」
自らを我と呼ぶ者をドルク夫人は初めて聞いた。何処の地域の言い回しだろうと思いつつ、家宝である剣を杖代わりに腰の抜けた体を前へと動かす。傷付いた閂を外し、恐る恐る開き戸を押す。湿った外気と共に香の淡い匂いが隙間から滑り込んできた。女らしさを前面に押し出す事無く凛とした爽やかな匂いを纏う声の主の姿が目の前に現れた時、茫然としてしまった。曇りやくすみといった表現とは無縁の白銀に輝く髪は腰より下に伸び、何人たりとも触れさせていない様な白い肌、稀代の彫刻家が晩年に彫り上げた傑作という表現が似合う端正な横顔を持つ若い女が狂剣を振るっていたと思われる男の亡骸の前で悠然と立っている。だが若く美しい容姿の中に、緑色の瞳を持つ目許は長い年月を過ごした者しか携える事を許されない様な、悲しみと喜びの全てを網羅した趣が鮮明に見て取れた。ドルク夫人には我が子ながらまんざらでもない美貌を持つ自慢の娘がいるが、到底敵わない美しさを初めて知ってしまった。白銀の髪が雨に打たれて輝いている。その煌びやかな輝きは昨日見た白銀の鷺が人間に化けて助けてくれたのだと信じざるを得なかった。
「かたじけないな。」
短く謝意を発した若い女は横髪を耳に掛け、程良い大きさの耳からぶら下がるピアスを二本の指でなじっている。丁寧に且つ親しみを持った指使いは鎌首をもたげた漆黒の蛇を象ったピアスを労っている様にドルク夫人には映った。
「いえ、こちらこそ危ないところを助けて頂いて御礼のしようが有りません。」
「そなたを守った功労者は我ではない。感謝の対象が異なるぞ?」
若い女のか細い指が閂を示した。鉄木で作られた閂には数度も穿たれた痕跡が刻まれている。示した指で傷付いた表面を撫でると続けて口を開いた。
「我たちはこやつを追っていたに過ぎない。まさか邪剣霊が雨天の中を動き回るとは想定外であった。余程血に飢えていたのであろうな。」
「失礼ですが、あなたが邪剣霊を倒したのですか?それとも…後ろにいらっしゃる御方でしょうか?」
武器を持たない若い女の細い腕を一瞥した後に、彼女の後ろに立つ、黒いコートを身に纏う黒髪の男にドルク夫人は視線を移した。両手をポケットに入れて佇む男は何も言わず、数歩前に進むと女の肩に左手を置いた。女の緑色の瞳が置かれた左手に向き、頷くと共に元の位置に戻った。まるで意思の疎通を図っている様な光景である。
「御夫人、そなたは命を失わずに済んだ。結果が伴ったのならどちらが倒そうとも良いではないか。」
平然と語る若い女の言葉はドルク夫人に頭を下げさせた。
「失礼しました。わたしはメル・ドルクと申します。危ないところを助けていただいたお礼代わりにもなりませんが、今日は我が家でお体を休まれませんか?主人は留守でわたし自身は暇を弄んでおりますし、部屋なら娘が使っていたものが空いております。」
「娘さんはどうされたのだ?」
「一昨年、北部王立国家の誠実な若者の許に嫁ぎました。ちょうどあなた様と同じ、女として華やかな年頃です。」
「ほう。我と同い年というのか?」
「…お気に触るような事を口に出したでしょうか?」
「いや、今のは我の発言に些か棘があった。気にしないで欲しい。」
意味深な含み笑いを小さく行った後、自らを我と表現する女はイルサーシャと名乗り、後ろに立つ男はユスト・バレンタインと紹介された。男は軽く会釈をしたが、何も喋らない。先程から肩に置いたままの手の人差し指が動いている。何かを即す様な動作はドルク夫人の注意を惹いた。
「では、明日の昼下がりまでこの雨は止む見込みは無いのでご厚情に甘えさせてもらおう。だがその前に一つやるべき事があってな…。」
言葉の途中でイルサーシャは腰を折り、二つに折れた剣を拾い上げた。白銀の毛先が濡れた地面で模様を描く。折れた刀身を素手で握り締めても血は流れなかった。不思議な光景を見入るドルク夫人に気付いた緑色の瞳も不思議そうに動いた。
「何か変なのか?」
「その…刃を直に掴んで怪我はしないのですか?」
「我は剣霊だ。この様な事、造作無い。」
ドルク夫人はこれまでの生涯の中で、初めて剣霊を見た。幼い頃、今は亡き祖母の膝の上で頭を撫でられながら聞いた事がある。世の中には良い剣霊と悪い剣霊がいる。悪い剣霊は強欲や支配欲といった人間の悪しき醜い心が作り上げ、良い剣霊は慈愛や憐情といった人間の優しさを具現化したものらしい。良い剣霊の姿が美しい限り、世界の平和が続く。そして剣霊には決して触れてはならない。至高の誇りを抱いた剣霊は人間の手で汚されるのを嫌い、自らを守る為に全てを切り裂く刃となって接すると祖母は愛する孫に語った。祖母の言葉が正しいのなら、どうやら世界はまだ平和という秩序を保っているのであろう。
「まさか後ろにいるユストさんは…。」
発する言葉を遮る様にユストの視線がドルク夫人を射抜いた。眉間に力が籠っている訳ではない。幾多の戦歴を有し、生死の狭間を渡り歩いたであろう者が携える視線は涼しい。僅かであるがドルク夫人はある言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、背中が薄ら寒く感じた。
「左様、ユストはそなたたち人間の言うところの剣霊使いだ。」
人間が所有する剣を選ぶのではなく、剣が携える人間を選ぶという、常識から逸脱した関係。その生涯に剣霊が全てを捧げる事を誓った相手と言われる剣霊使いの姿はドルク夫人の概念を覆した。屈強で有り余る力をもって大木をもなぎ倒す様な、力が正義と言わんばかりの男が剣霊に選ばれるわけではない様である。先程から何も語らない男、ユスト・バレンタインはイルサーシャの肩に左手を置いたまま、空いている右手をドルク夫人に向けた差し出した。
「住み慣れた我が家とはいえ、床に腰を降ろしたままでは体が冷えるだろうとユストが言っておる。」
ユストの右手は革の手袋を嵌めたままである。女性に手を差し伸べる時は素手で行うのが礼儀だが、この際は不平を漏らさずに彼の厚情に甘んじようとドルク夫人は思った。しかし家宝である短剣を握る指が動かない。恐怖から開放された脱力感と剣霊を目の前にした緊張感が指という末端の感覚を奪っていた。
「ドルク夫人、無理に指に力を入れる必要は無い。そのまま腕を前に出されよ。ユストが手首を握って起こしてくれるそうだ。」
指の自由が利かないドルク夫人を見下ろしていたイルサーシャが口を開いた。やや呆れた口調の剣霊の肩に触れているユストの人差し指が再び動いた。
「指はすぐに元の様に動く。ユストも初めて剣を手にした時も同じだったそうだ。」
揺さぶられた心を落着かせようとする親身な言葉は剣霊による思いやりではない。剣霊使いが剣霊を介して語り掛けてきたものであるとドルク夫人は理解した。ユスト・バレンタインという人物はぶっきらぼうや高く止まった人間ではないと思われる。涼しげな視線の中に優しさが備わっている。恐らく何かしらの理由で彼は喋れないのであろう。指が硬直したままの手をゆっくりと上げる。剣霊使いであるユストの手がドルク家の家庭を支えている夫人の腕を掴んだ。掴まれた瞬間、ドルク夫人は何かを言おうとしたが、それよりも早くユストが静かに首を横に振った。短剣が指から離れ、金属が床を打つ虚ろな音が短く響く。イルサーシャは何も言わずにドルク夫人を眺めている。ユストの左手は彼女の肩から離れていた。
開け放たれたままの扉は雨の侵入を許している。床にその身を落着かせた短剣は柄を飾る宝石の表面に小さな水滴を付着させ始めた。冷たい雨は剣霊の言う通りに未だに止みそうに無かった。