【おまけ】女子会
書いている最中、本編内容とわたしの文章スタイルに添わなくなったのでボツにした原稿でしたが、リメイクして陽の目を見せる事にしました。トウラドオク城址編第12話、濡れ場の後の設定です。お目汚し程度でお読み頂けたら幸いです。
日の出の前は気温が急激に下がる。温度に左右されない剣霊の肌でもそれは判る。これから顔を出す太陽が勢い良く空に舞い上がる為に空気を吸い込んでいる、だから気温が下がるのだ、と目を閉じたままのイルサーシャは毛布代わりにしているユストのコートの中で思った。日のある時間も良いが、真夜中の一時も捨て難い。全てが寝静まる中で自分たちだけが活動を許された気分になれる。静かな空間は二人の為に用意された舞台であり、誰の目を気にする事無く、また誰かに注文をつけられる事無く、好きな様に振舞える。今はお互いの足を交互に重ねて横になっているが、星々が鮮やかに瞬く頃はその順番が少し違っていた。順番が違っていた時間、すなわち剣霊である事を忘れていた瞬間を思い描いたイルサーシャは口元をほころばせると、頬をユストの胸板に押し付けた。落ち着き払ったユストの心臓が奏でる鼓動は彼女のほころばせた口元をそのまま持続させる効力がある。剣霊使いが休息を摂る際には必ず剣霊にその身を守らせる。剣霊使い一人一人についてその方法は定かではないが、ユストの場合は剣を抱いて寝る。剣体であろうと霊体であろうと変わりは無い。イルサーシャの腰と肩に置かれたユストの手は普段よりも重かった。戦いを終えて蓄積された疲労がそうしているのか、戦いに備える必要が無いと決め込んで熟睡による筋肉の弛緩がそうしているのか。どちらにせよ、イルサーシャにとって心安らぐ重さであった。
日が昇り始めた。薄汚れた窓から明かりが差し込んでくる。穏やかな顔をして寝ていたユストは目尻に僅かに皺を走らせると日差しから逃れようと顔を横にした。その動作は彼女の食痕を露にさせる。赤黒く腫上がった首筋にイルサーシャは人差し指を這わせた。以前、食痕について尋ねた際に痛くも痒くもないと、本人はさらりと受け応えをしていたが、見た目からして痛々しいと毎回思わざるを得ない。それが自らが作り出した痕であり、生涯消えない痕だと思うと申し訳ないという言葉が浮かんでくる。剣霊が人間に求めるものとは、この様に色で表現したとなれば見るに耐えられないものかもしれない。
柔らかに細めていた目に剣霊としての眼光が戻る。敵意は感じられないが、危険な何かが近付いている。食痕に触れていた指を頬に移し、軽く叩いたがユストの目は開かなかった。擦れる布の音が徐々に大きくなる。イルサーシャは起き上がろうとしたが、ユストの手が重石となって自由が奪われている。危険な何かは律儀にも素朴な木製の扉を二回叩き、その後は遠慮無く足を踏み入れた。
「夜は終わったはずだけど、お邪魔だったかしら?」
緩やかな孤を描く黄金の髪が朝日を受けて煌く。その姿は気高さと共に今いる空間の中で支配権を握り締めている様な雰囲気を醸し出している。勝利の剣霊ブリスタンは部屋を見渡した後にベッドで横になる剣霊とその契約者を見つけるなり、格好の獲物を捉えたと言わんばかりに首を傾げた。
「何をしているの、あなた?」
「…寝ているユストを守っているのだ。」
「我にはただ単に動けないだけに見えるけど?」
「その様な訳無かろう?我は眠りに就いた契約者を守るという、剣霊としての責務をまっとうしているだけだ。」
「責務ねぇ…?夜の責務もなかなかだったみたいで。百年香の炊き過ぎが真実を物語っているわよ?」
顔の前で払いのける動作をするブリスタンの口元が不敵な笑みを形成する。一方のイルサーシャは事実を言い当てられて歯を喰いしばるしか出来なかった。
「そもそもそなた、早朝からここに何しに来たのだ?」
「そこでぐったりしている剣霊使いさんとお喋りをしに来たのよ。どんな声か興味があるの。」
感情を持つ生物の内側を蹂躙する剣霊の可憐な指がユストの顔を射抜いている。イルサーシャは苦々しい顔と共に空いている両手で寝ているユストの鼻から上を覆った。
「なにも早朝でなくても良いのではないのか?ル・ゾルゾアはどうしたのだ?」
「彼なら城下まで足を伸ばしてトウラドオク城の絵を描きに行ったわよ。でも、我の目の前にいる身動きできない間抜けな剣霊の方が絵の題材にはぴったりよね?」
「間抜けではない、再度言うが我はユストを守っているだけだ。それに声を聞く為に疲れて寝ているユストを無理に起こす必要は無かろう。出直すが良い。」
「そうね。我が見る限り、精を取り尽くされた様子が見て取れるわ。蛇姫様だけに、ぬめぬめと全身に絡み付いて強かに離さなかったのでしょうね、可哀相に。」
「いや、我は激情に駆られたユストの言われるがままに…」
「言われるがまま?あなたの声、良く聞こえたわよ?」
「…空耳というやつではないのか?我は常に如何なる時であろうと、しとやかさを心情にしてだな…。」
「だったら強欲な蛇姫様が何を言っていたかをこの場で再現してあげようかしら?」
「や、止めろ、恥ずかしいにも程がある…。我とてユストを受け止めようと無我夢中なのだ…。」
「無我夢中…?便利な言葉ね。」
動揺が隠し切れないイルサーシャは上半身を起こそうとしたが、やはりユストの手により思うようにならなかった。ブリスタンの見下ろす視線は頬を胸板に着けたままの間抜けな剣霊を逃げ場の失った猫の様に映らせる。自らの誇りを誇示する剣霊が敵意をむき出しにした姿は相手を威嚇する場合と自らを奮い立たせる場合の二つがある。この場合は明らかに後者の方であり、それを知ったブリスタンはさらに首を深く傾げた。
「まぁ、あなたのたいして膨らんでいない胸を見せられても反応に困るだけだから、動けないのも好都合だったかもしれないわね。」
「うるさい、これまでユストが我の霊体に不平を漏らした事は無い。」
「そんな事を口にしたらあなたが傷付くでしょ?不安定な状態で戦いに挑んで支障が出たら困るのはユスト・バレンタイン本人よ?」
果たしてブリスタンの言う事は正しいのか。頬から伝わる鼓動はいつもの様に落着いている。ユストは他に注文をつける程、厚かましい人間では無い筈だというのは五年の歳月を共にしてきた経験が良く知っている。
「ブリスタンよ。我の契約者たるユスト・バレンタインはその様な卑猥な願望を抱く様な男ではない。故に我は彼を契約者と認めたのだ。」
「そう?じゃあ、後でこっそり本人に聞いて見るわ。五年も連れ添っているなら、多少の注文も出てくるものよ?」
「五年とはそのようなものか?」
「久々に会話が出来るユスト・バレンタインもここだけの話って喜んで語ってくれる筈よ?」
どちらが嬉々として語っているものやらとイルサーシャは鼻を鳴らした。
「その間、我は黙って二人の会話の肴になっていろと言うのか?」
「そうねぇ…本人を目の前にして本音は言えないでしょうから…ルが書く文字でも眺めてきたら?」
「…それは面白味にかなり欠ける内容ではないか。」
「あら、ルは結構綺麗な文字を書くのよ?それに剣霊障から開放された契約者の本来の姿を見守るのも剣霊の務め。今回は組み合わせがほんの少し入れ替わるだけの話よ。」
「ならばユストではなく城下にいるシェス・ロウに会ってくれば良いではないか。」
「シェス・ロウには何度か会っているの。前回会った時は目を丸くしてミゼレレの後ろに隠れたわ。お子様にとって我の容姿はいささか刺激的なのかもしれないわね。」
「いや、ただ単にそなたの口舌で自尊心を切り刻まれるのを恐れているだけでは…。」
「これでもお子様には優しいのよ、我は。でもあなたの方がシェス・ロウとは仲良くなれそうね。」
「どうしてそう思うのだ?」
「だって、二人してお子様ですもの。」
首を傾げたまま満面の笑みを送るブリスタンに侮辱を受けたイルサーシャは怒りを露骨に表現するのを耐えた。怒れば彼女の思うつぼである。
「何とでも言うが良い、我はユストの眠っている顔をこうして眺めていればそれで満足だ。」
「眠っている顔?」
「そうだ、ユストは新月の日だけ眉間に皺を寄せずに安らかに眠る。それを眺めるのが我のちょっとした楽しみでな。」
「でももう起きているわよ、彼。我が入って来た時に気配に気付いたみたいね。」
「呼吸も寝ている時と変わらず、腕の筋肉も弛緩したままだ。適当な事を言うでない。」
「適当かどうかは結果次第ね。鈍感な蛇姫様でも判る簡単な方法は無いものかしら?」
腕を組んだブリスタンの指先が動いている。どの様な悪知恵を模索しているのかとイルサーシャは身構えた。部屋を適当に歩き始めたブリスタンの一挙一動に緑色の瞳は追従する。部屋に差し込む光も淡いものから力強くなり、聞こえる鳥の声の種類も多くなっていた。
「そうね、折角三組の剣霊と契約者が同じ場所にいるんですもの、朝食を共にするのはどうかしら?」
「我は構わない。ユストも反対はしないと思うが。」
「良かったわ。ところでユスト・バレンタインの嫌いな食べ物って何?」
「あぁ、それを言うならアワユキガエルだ。我と共にし始めた頃に昼食用にと捕まえたのだが、火の通りが甘かったらしく、夜中に酷い嘔吐と下痢に苦しんでな。あれ以来、カエル料理を見ると身の毛がよだつらしい。」
アワユキガエルはその名の如く、茶色の背中に幾つかの白い斑点を持つツチガエルの亜種であり、どの地域でも生息している。いつの頃から食用となったのかは定かではないが、栄養価に富み、独特の軟らかな食感が旅する者たちの間で広がり、今では手軽な食材と認識されている。ブリスタンは足を動かすのを止め、再び満面の笑みを零した。
「面白いほど馬鹿正直なのね、あなた。」
「…我は何か都合の悪い事を口走ったのか?」
「えぇ、とっても。蛇姫様に認められた男がカエル嫌いというのもこの上なく滑稽な話ね。」
腰と肩に置かれた手に力が入り、突然の出来事にイルサーシャは身悶えをした。苦手としている生物の名が出てきた程度で体が反応するものか、夢でも見ているのだろうと呑気な剣霊は思い込んでいた。一方のブリスタンは動かしていた人差し指の先を汚れを知らない顎先に添えて得意気に語った。
「あとで朝食用にアワユキガエルを五匹ほど捕まえる様にルに伝えるわ。冬眠前のこの時期ならそこら辺を適当にほじくり返せば簡単に捕まえられるはずよ。大人は二匹、お子様は一匹で充分でしょうね。」
「だから、ユストはアワユキガエルを食さないのだ。それでは苦行ではないか。」
「困ったわね、蛇姫様の鈍感さを押し通してあげてカエル料理を目の当たりにするか、あるいは我の言う通りにして苦々しい思い出から回避するか、ユスト・バレンタインは選択の岐路に立たされてしまったわ。」
「そなたの言う通りにするとは、ユストの血を求めるのではなかろうな?その様な事、我が断じて許さん。」
「そこまで仰々しくは無くてよ?降参しますって手を挙げれば良いだけの話。」
「ふん、寝ている者が手を挙げる訳無かろう…?」
呆れ顔のイルサーシャが言葉を発し終えると共に肩が軽くなった。ありえない事だと思う感情は切れ長の端正な目許を僅かに大きくさせる。本当に起きているのかと太陽の光から逃げ出している横顔の頬を再び数度叩いた。腰に置かれていた手が頭に移り、胸に押さえ付けられた。
「ブリスタン、愚生の剣霊で遊ぶのはここまでにしてくれ。」
「何を言い出すかと思ったら、ユスト、我はあの淫靡な女のおもちゃになった覚えはないぞ。」
語気を荒げるイルサーシャの口をユストは挙げていた手で覆った。もがく自らの剣霊をなだめようと頭を押さえる手で白銀の髪を撫で始めた。
「淫靡でも艶美でも結構。ユスト・バレンタイン、あなたの剣霊は本当に面白いわね?」
「単なる世間知らずなだけさ。その分、純粋でね。心が洗われる。」
「素敵な関係なのね、あなたたち。」
是非を答えずに、目を閉じたまま口角を持ち上げて鼻で笑うユストをブリスタンは暫くの間眺めていた。そして傾げていた首を元の位置に戻し二人に背中を向けた。太陽の恵みを受けて輝く黄金の髪がしなやかに揺れる。
「目を開けないで喋るのは寝言とでも言いたいのかしら?この場において自らの剣霊の肩を持つ心意気には、ちょっと妬けちゃうわね。後でゆっくりお喋りしましょう。」
ユストは何も答えなかった。そして勝利の剣霊は僅かながらにも満足を覚えて立ち去った。明け方独特の清々しさに満ち溢れた空気の中、白銀の髪を撫でる手は止めていない。それはあたかも掛けるべき言葉を探し出している様に落ち着きがあり丁寧に動いていた。
「すまなかったな。寝たふりをしていたのは、まぁ、出来心というやつだ。」
口を塞いでいた手が離れる。今の言葉に対する賛辞を贈るか、あるいは苦情を投げるか好きな方を選べと言わんばかりの雰囲気に置かれたイルサーシャは激昂から冷めつつある自らが恥ずかしさに身を置かれているのを隠そうと、乱れた横髪を耳に掛けた。
「ユスト。そなた、我の言葉を聞いていたのだな?」
「んん、そうなるね。」
「何故黙っていたのだ?」
「剣霊同士の会話というものに凄く興味があってね。」
「で、我とブリスタンの会話を盗み聞きして得た物はあったのか?」
「仲良くなれそうだな、二人は。」
「まさか。まぁ、我とてそなたが起きていたのには気付いていたが、あの淫靡な女に賛同するのが癪なので気付いていないふりをしていたのだ。つまりだ、どうもあの女の言う事成す事に我は反発したくなる。」
「反発したくなるほど仲が良いと言うだろう?」
「それは人間同士の話であろう?剣霊たる我はその枠に当て嵌まらないが?」
「そうか?たいして変わらないと思うけどね。ところで本当に愚生が目を覚ましていた事に気付いていたのか?」
答えは返ってこない。返すべき体の良い口実をいろいろと探しているのは判っている。顔を背けたままのユストは両腕を伸ばして上半身を起こしていた自らの剣霊に向けて瞳だけ動かした。視線が交差した瞬間、剣霊という表情と女の感情を混ぜ合わせていたイルサーシャはいつもの様に横髪を耳に掛ける仕草を今回は逆に行った。宙を舞う白銀の長髪はユストの視線を覆った。再びユストの胸板に頬を預けたイルサーシャは呟いた。
「…馬鹿者。」
日の出の時間は終わった。気温の低下が収まり、聞こえる鼓動の様に温かな時間を吟味しようと白銀の髪を持つ剣霊は再び目を閉じた。