前篇
朧に揺れる満ちた月。ひゅるひゅると物寂しげな鳴き声が、冴え冴えとした夜に溶けていく。夜更けにさえずるその鳥を、篠笛鳥という。
昔日の人々は、死者の嘆きを運んでくると、恐れ、忌避したと伝えられる。
高い天井の梁から室内の仕切りとして下げられているのは、馬鹿らしいほど仰々しく唐草の装飾が施された上質な一枚布だった。
「よー、今日もなんか面白い話きかせてよ」
既に大半の人間が寝静まった夜半である。しかし、そんなことなどまるでお構い無しに足音を響かせ、声の主である男は仕切りの布を跳ね上げた。
これでもかと室内に配置された蝋燭の明かり。照らしだされた豪奢な調度品のその中央、小さな絨毯の上に、ぽつんと一人の娘が座していた。
まったく無駄に良い声だわ、ぼそりと呟き、娘――ヨウは、手元を見つめたまま顔を顰めた。
「なんですか面白い話って。抽象的すぎます。わたしが面白いと思っていれば、あなたに対する愚痴を一晩かかって聞いてくださるってわけですか」
つっけんどんに冷たく吐き捨てる。相当不遜で無礼な態度だが、咎められる事はないとわかっていた。案の定、男は気にする風もない。「あなたじゃなく、そろそろ名前で呼んでよ」と冗談めかして言い、ヨウの近くにどかっと座り込んだ。
「んー、愚痴ってのもヨウが話すなら面白そうだけどさ。昨日の続き、地下にいる大蛇とか天にいる羽の生えた人間とかさ、そういうのが聞きたい」
大蛇に羽? 全体なにを言ってるんだこいつはと、目の端に映っているにこにこと子供のように笑う男をいぶかったところで、ヨウはふと思い至った。
昨夜も同じようにやってきた男に、昔読んだ物語のねたも尽き、自棄になった勢いに任せ、適当なことを言ったような――。
刺し掛けの花刺繍を続けつつ話の内容を思い出そうと一応の努力はした。が、元々が苦し紛れのその場しのぎ、たいして考えもせずに作り上げた奇天烈な話だったのだから、粗筋すら覚束ない。ましてや続きなんてものを求められても、できるわけがない。何食わぬ風を装いつつ頭をひねってみたが、整合性のある話が都合よく浮かぶはずもなかった。
これは駄目だと、ヨウは早々に見切りをつけることにした。手元から目を上げると、すうと居ずまいを正す。
金の髪、碧の瞳、やや浅黒い肌。自分とはまるで違う男の風貌を直視するたびに、異国にいるのだと嫌でも知らされる。彼女の黒い髪や目、白い肌は、この地においては珍しいものだった。
「一度はっきりとお聞きしたかったんですが、あなたは毎晩毎晩、何しにここへ通ってきてるんですか」
毎晩毎晩――そう、それも決まって夜更け、篠笛鳥がひゅるひゅると鳴き始める時刻に男はやってくる。
陽のあるうちは政務をこなし、それが違うことなく成果を挙げているのだと、どこからともなく噂は流れてきた。ここでの態度が嘘のように厳格に、時には寛容さをもって広大な領土をおさめているのだと。そんな男が、どうしたことか千日通いよろしく、あきもせずよくぞ自分のもとに通ってくるものだと、ヨウは問うたのだ。
「えー、何って、話しを聞きに?」
「聞きに? じゃ、ありません。一応わたしにも立場ってものがあるんですが」
あからさまに不機嫌な態度をとれば、男が困惑したように首を傾げる。これが建国王の再来とまで言われている傑物なのだろうかと、ヨウの疑問は膨れるばかりだ。すくなくとも今の男だけをみれば、とてもそうとは思えなかった。
「立場?」
「ええ、そーですとも。立場です」
半ば投げやりに、床を手でぱんっと叩き、きっと眼差しを鋭くする。
「毎朝毎朝、あなたの側近たちの、恐ろしく失望した溜息を聞かされるわたしの立場です」
「んん? どーゆうこと?」
「寵姫を持たない、婚姻はのらりくらりと煙に巻く、つまりあなたには今現在跡継ぎとなるような子供がいない。そうですよね?」
「だって俺、そんなに早死にする予定ないし」
「そういうことじゃありません。いえいえ、そこはこの際どうでもいいです。問題はそこじゃなく、そんなあなたがある日突然、わたしを後宮にいれ、囲っているってことです。それはつまりどういうこだと?」
「どういうこと?」
「ああ、もうッ。つまりですね、わたしはしっかりあなたの側近たちから世継ぎを期待されてるわけですよ、わかります?」
感情に任せ、ヨウが掌をバンバンと床にたたきつける。
「えー……ヨウは俺の子供、欲しいの?」
まったくもって論外、心底意外だと言外に言われた気がして、ヨウはがっくりとうなだれた。
夜な夜な二人きり、にも関わらず男女間のそれらしい睦言ひとつない時点でそんな可能性はすっぱり捨てきっていたが、こうもはっきり突きつけられると、自分の女としての資質に問題があるのではないかと思ってしまう。
「いやそうじゃありませんよ、そうじゃ。寧ろ逆です。埒外の期待はごめんです。だから、その気がないのならわたしを帰してくれませんか?」
「いやだよ、帰したげない」
間髪いれずの即答に、ヨウは驚きで目を見開いた。
後宮に入ってから既に二度、月が満ちた。その間に彼女がしたことと言えば、昔読んだ物語を多少の脚色を交え語った事のみだ。そこまで固執される魅力あることをしているとは到底思えない。だが、存外知識欲の強いこの男は、異国のものが匂わせる異文化の香りを楽しんでいるふしもあった。
気まぐれで、その癖、妙にしつこい。先王とは随分違う性質を持つと聞いてはいたが、ここまで妙な男であったとは、彼女にとって計算外というほかなかった。
「はー……わたしは生きた異国の書物かっての」
知らず飛び出たヨウのぼやきに、顎に手を当てた男は、やや真剣みを帯びた様子ではっきりと頷いた。
「うん、言いえて妙ってとこ。話も面白いけど、ヨウ自身も本当に面白い」
「そうですか、それはどうもアリガトウございます」
どうにも一人空回りしている感が否めない。何を言っても、嫌味すらも通じている気がしないのはなぜだろう。
諦めたヨウが溜息をつくと、男は早速とばかり、今日の話を要求してきた。期待に満ちた顔を向けられ、毒気を抜かれそうになる。
慌てて気を引き締めなければいけなかったヨウは、今日こそはもう限界だと悟った。
袂からそっと出した木片を香炉にくべる。いつも話しを始める前には、様々な香をたいていた。雰囲気を出すためだと、男には言い含めてある。
「――そうですね、では、お話を致しましょう。今日は、広大な領土を治めるぼんくらな王様の見合いの席に余興として呼ばれ、何故か後宮に入ることになってしまった踊り子の生い立ちなどをお聞かせいたしましょうか」
「へえそれは楽しみ――だけど、俺、そんなにぼんくらじゃあないと思うんだけどなあ」
楽しそうに男が笑う。ヨウは一度目を閉じると、軽く息を吸った。
「今はもうなくなってしまった国。時に飲み込まれてしまった国」
さらさらと流れるように謡う。
しんと静まり返った寄る辺無き長い長い夜の中、不可思議な声音が響く。
「千年続くとまでまことしやかに囁かれたその国の神秘は、一晩で塵と消え去りました。それはたった一人の男が発端。凶暴で残忍、人を人とも思わぬ恐ろしい男が王位についたことから悲劇ははじまったのです」
ひゅるひゅるひゅる――入り口とは丁度反対側に作られている露台の遥か向こう、月明かりに輪郭を照らされた緑深い森の中から、合いの手のように細く高くさえずりが響く。
「凶王、ラグナ」
笑んだままの男が、忌まわしい名をはっきりと発した。
ビクリ、ヨウの肩が跳ねる。ごくりと喉を鳴らし、ヨウは震える唇で再び語りだした。
「そう、親殺し、兄弟殺しのラグナ。背徳者、略奪者、征服者、ラグナ」
「その通り名に相応しく、自国の者も他国の者も、殺しに殺して広大な領土を手にした」
いつもいつも、ひたすらに無邪気だった男の、初めてきく抑揚のない声。
「そう、同盟関係にあった国すらも、その魔手から逃れる事はできませんでした」
「攻め入られた国の王族は徹底的に狩られ、男ならば首がとび、女ならば配下に下げ渡されるか売られるか」
掛け合っているように、二人は交互に話しを進める。
「そして居城は完膚なきまでに打ち壊され、国名すらも消え去り――民は故国を追われ、国替えを余儀なくされる。滅ぼされた地に住まうのは、凶王の国人たち……」
ヨウが黙り込んだ。蝋燭の炎に飛び込んだ小さな羽虫が焼かれ、ヨウの頬に掛かる影が揺らめく。
続きはどうしたと言われ、ヨウは冷ややかに男を見据えた。
「腹の探り合いは、よしましょう」
「なんのことかな」
「よく言いますね。漸く確信しました。あなた、やはりわたしの素性を承知の上で、ここに入れたんですね」
「どうしたの、ヨウ。今日は機嫌が悪い?」
ここに入れられてからこっちわたしの機嫌が良い日がありましたか、と皮肉に言い、細心の注意を払って隠していた短刀を、ヨウは座した敷物の下から素早く取り出した。
後宮で過ごした日々は、決して無為だったわけではない。少なくとも、最初のうちはヨウと男の遣り取りを見張っていた兵が手を抜きだすには十分な長さだった。現に、今もどこで暇を潰しているのか姿がみえない。
「危うく騙されそうでした。あなたのぼんくらっぷりに」
握り締めた短剣、その先端が震えないように力を込める。力を込めれば込める程、手の中から刃が零れ落ちそうだ。切っ先が、下を向きそうになる。
凶王ラグナ。大国とはいえなかったギグの国力と領土を拡大させたラグナは、父兄弟を暗殺して国を奪ったと噂されるほどに残忍で凶暴な男だった。彼は何の前触れも無く隣接する国々へ攻め込み、更にその先へと支配を拡大――国は、巨大化した。
その時責め滅ぼされた幾つかの国のうちの一つを治めていた王が、ヨウの父だった。
突出して優れていたわけではない。けれど、伝統を継ぎ、穏やかに治世をまっとうするという信念を持った父王のもと、ヨウは幼年時代を過ごした。優しく、暖かく。愛され、守られ、年の近い姉や妹とささやかな喧嘩を繰り返し、同じだけ仲直りをして。
だが、終わりは突如として訪れた。攻め込んできたギグの軍隊に父王が殺され、ヨウを含めた姉妹たちは王の気まぐれでちりじりに奴隷として売り払われた。世界の終わりとはこんなにも呆気ないのか、と汗と垢と血に塗れた同国人たちと人買いの馬車に押し込まれたとき、ヨウは思った。
「あそこで、人買いの馬車の中、あの中で、わたしは――」
絞り出す声が、震えた。あの時、馬車の中で聞かされた幾つもの罵倒が鮮やかによみがえる。