9話
安藤崇埜とは施設時代からの親友だった。赤ん坊の時からいた眞幌と三歳の時に預けられた崇埜はいわば幼なじみ。同い年で、兄弟同然だった。
眞幌は幼いときから大人しく手の掛からない子供だったと、のちに園長も言っていた。ただ大人しいながら芯はしっかりしていて、頑固な一面がある。頑な……と言っていいかも知れない。それが我が儘にならないのは、もちろん育った境遇で自分を表に出して主張することがなかったからだ。
大人しい眞幌に対して、崇埜は『寡黙』と言う言葉がぴったりの少年だった。自立心があり、先頭に立って何でもよくこなす。器用だし大人たちからの信用もあった。小さな子供たちの面倒もよく見た。
言葉数が少なくとも、眞幌のようにただ内向的におとなしいのではなく、することはするという行動派だった。わりと年齢よりも大人びていて、同い年ながら眞幌にとっては兄のようでもあった。誰にも懐かない眞幌が崇埜にだけは心を開いていたのは、崇埜がずっと眞幌の側に寄り添い、守ってきたからだった。
子供だからわがままを言わないとはいえ、淋しいときもある、悲しいときだってある。けれどそんなときだって大人はひとりの子供にだけ手を掛けるわけにはいかない。眞幌がそんなときはいつでも崇埜が手を握って側にいてくれた。人と上手くつきあえない眞幌も、この崇埜にだけはなんでも許せた。
母親のことだけは明かさなかったが、他のことで隠し事をしたことはない。頭のいい二人は援助もあり高校へも進学した。眞幌自身は大学へ行きたいと言えば費用は出してもらえたかも知れないが、崇埜には無理なので進学を諦め二人で自活する道を選んだ。
最初は小さな工場に勤めて二人とも働いていた。夜、寝に帰る部屋は六畳一間で、本当ならひとり暮らしでも狭いところだろう。だが、施設でも六畳くらいの部屋で三人、四人と暮らしていた二人には別段不自由はなかった。荷物も少しの着替え程度だったし、むしろ二人きりで静かに暮らせる環境など贅沢だと思ったくらいだ。
だがいまでは思う。そう思っていたのは自分だけだったのではないかと。あの部屋で崇埜は何を思い眞幌と暮らしていたのか。崇埜が死んだのは一年ほど前だった。真幌は崇埜が死んでしばらくはなにも手に着かず、就職して真面目に働いていた会社も行くことが出来なくなって辞めた。
崇埜が死んだ後、あの部屋で眞幌は自分も死人になったような生活をしていた。崇埜を失ったショックは大きく、喪失感に人間としての最低限の機能さえほとんど働かなくなった。よく死ななかったと思う。あとを追うこともせず、食べることもままならなかったあの生活で死んでもおかしくはなかったのに。
そんな自分をいまでも眞幌は自嘲的に思う。案外しぶとい人間だったのだと。自分で自分をそう思い返すのだ。高埜を傷つけても、彼が死んでも、なお自分はのうのうと生きている。そしてそのことでまた疵は広がる。塞がらず、いまでも少しずつ広がっている気がする。眞幌はいまでも自分が許せないから。
崇埜が唐突に眞幌のことが好きなのだと訴えたのは、崇埜が死ぬ一ヶ月ほど前だった。いつもと変わらぬ夜で、いつもと同じように言葉少なな時間を過ごしていた。言葉など交わさなくとも、子供の頃から二人の気持ちは通じていた。なにも言わなくとも相手のことがわかっていた。
そう思っていたのは、自分だけの勘違いなのだと眞幌が事実を突きつけられた夜だった。あのときの衝撃は崇埜が死んだ時のショックにも匹敵する。種類は違っても。
「お前のことが好きだ、親友じゃなく……そうじゃなくて……」
そう告げた崇埜はいったいいつから眞幌のことをそんな風に見ていたのだろう。恐くて眞幌は聞けなかった。全然気づかなかったその思い。
突然、口づけられて押し倒されたときには、無意識に思い切り抵抗していた。もしも、以前にそんな気配があり覚悟があったら、そのときの反応は違っていたと思う。受け入れられたかはわからない。でも少なくともそんな拒絶の仕方はしなかっただろう。
告白とその行動は同時にやってきた。だがあまりに唐突すぎて、しかも頭が真っ白の状態で押し倒されたときには本能が拒絶していたのだ。なにも考えていなかった気がする。嫌いだとか、嫌だとか、そんな気持ちさえまとまっていなかったのだ。無意識の行為だった。
だがそんな眞幌に崇埜は当然ながら傷ついた。後になって思えば、崇埜だってどれだけの決心で眞幌にそう告げたかわからない。いつから眞幌を思い、狭い部屋で暮らす生活にどれだけ苦しい思いを重ねていたのか。
時間が経ってあのころを振り返るたびに、眞幌の後悔は止まらなくなる。拒絶した眞幌から離れて崇埜が部屋を飛び出した夜から、崇埜は部屋に帰らなくなった。たまに着替えを取りに来た様子があった。いったいどこで生活していたのか、すれ違いの生活の中で眞幌の留守にたまに帰るらしい崇埜に眞幌は手紙を残した。
とにかくもう一度話したい、と。崇埜が戻らなかったおかげで考える時間が充分にあった。最初驚いた気持ちは、けれどけして否定ではない。いままで考えていなかっただけで、崇埜にそこまで好かれて眞幌が嫌悪を抱くはずがない。
自分の半身も同然。好きか嫌いかと聞かれれば、好きに決まっている。彼を失うことなど想像もしたくなかった。ただあまりに唐突だったので、本当に驚いてしまったのだ。これからゆっくりと二人の関係をやり直したいと眞幌は思った。
とにかくあの夜のことは崇埜に謝りたい。手紙などではなく、会って話したかった。
とにかく一度自分のいる時間に帰って欲しいと書いた手紙がなくなっていることに気づき、眞幌は崇埜が同意してくれたのだと思った。
けれどその晩、崇埜の帰りを待ち続けた眞幌に届いたのは崇埜の死の知らせだった。崇埜の工場の倉庫がある埠頭から海に転落して崇埜は死亡した。飲酒のあとで泥酔して転落したと処理された。目撃者が居なかったために、事故か自殺かわからなかったが最終的には事故と判断された。遺書もなにもなかったからだった。
だが、眞幌にはわかってしまった。遺書などなくてもわかる。自分と崇埜だけが知る秘密。
『自殺だ……』眞幌は確信していた。自分を責める言葉は無限に溢れたが、その言葉はけっきょく眞幌を殺してはくれなかった。三ヶ月ほど死人同然の暮らしをしていた眞幌はある時、崇埜の残したギターを手に取った。
貧しい崇埜が持っていたそれは、たまたま寄付されたもので、他に弾く人間が居なかったので園を離れるときに園長が餞別に崇埜にくれた物だった。昔から崇埜はギターを弾くのが上手く、その傍らで歌うのが眞幌の役目だった。
言葉は少なかった二人が、休みの日はたまに小さな声と音で歌をうたっていたことなど、やはり誰も知らない。眞幌は崇埜のギターが上手いと思っていたのだが、崇埜の方はそうではなかったらしく、
「おまえ、歌手になれよ。すごくいい感じだから」
そんなことを言っていた。いつしかそれは崇埜の口癖になり、勧められて眞幌は創作までするようになった。崇埜はそれを弾き、二人で小さな声で歌う。他の誰にも聞かせたことはない。眞幌が歌うと崇埜がとても嬉しそうな顔をするから、眞幌はそんな崇埜を見たくて歌っていた。
なにも手につかなかった眞幌が最初にしたことは、崇埜の形見のギターを持って街角へ出ることだった。誰ひとり知る人の居ない都会の片隅。たったひとりの肉親にも近かった崇埜を失った眞幌には、もう誰もいなかった。
今度こそ、『天涯孤独』そんな言葉が浮かんだ。反面、恐い物なしになっていた。いまの自分は抜け殻でなにもない。欲も希望もなければ、恥もない。ただ崇埜に聞かせたかった。崇埜が好きだと言ってくれた歌を精一杯聞かせたかった。天国の崇埜に。
『俺、お前の歌が一番好き』
いつもそう言ってくれた崇埜のために、いまの眞幌が出来る精一杯のこと。懺悔なのかも知れない。贖罪なのかも知れない。自己満足。どんな言葉になってもいい、いまの眞幌にはそれしかできなかった。他にすることがなかったのだ。
そんな暮らしが半年以上も続いた頃。高柳瑛が目の前に現れたのだった。そして眞幌の人生は一変する。
「崇埜……なんだかおかしなことになっちゃったな。俺はいまここにこうしていることが不思議でしょうがないよ」
いまは居ない崇埜に向かって呟いた。崇埜のことは誰にも言っていない。世間的には事故死になっている崇埜が、あのときどんな状態だったのか。眞幌の他に知る者はなかった。いまは崇埜と暮らしたあの古いアパートを出て、こんな夢みたいな場所で暮らしている。
そしてこの部屋を毎日のように訪ねてくる男は日本中誰でも知っている、大物ロックシンガーだった。そう言えば前に崇埜が瑛の歌をうたっていた気がする。余りよく知らなかった眞幌に、瑛の歌を教えてくれたのは崇埜だった。そんなことを思い出して、眞幌はそっと微笑んだ。
「世の中、どんなことが起きるのかわからないね。 崇埜、君のために歌っていた歌はこれから瑛が歌うことになりそうだよ。崇埜……瑛の歌、好きだったよね」
自分はこれからどこに行くのか。心をよぎった不安は、もしかしたら何かの予感だったのかも知れない。
それから数日間。瑛は本当に姿を現さなかった。その間に電話が三回。いずれも短かったが、眞幌を心配する言葉と忙しいことへの不満を告げて切れた。いままで知っていた瑛の中で一番苛ついているようで、また疲れているようで眞幌もそれなりに心配した。マネージャーの梶からも一回連絡があった。
「眞幌さん、変わったことはありませんか?」
「大丈夫です、梶さんまで僕の心配しなくて大丈夫ですよ。子供じゃないんですから。瑛の仕事で忙しいのに」
「いえ、その瑛君が心配しどうしで……電話する時間もなかなかないので、私に代わりにしてくれって言うんですよ」
「また、そんな我が儘……聞かなくていいです」
眞幌が言い切ると、
「いえね、社長からも眞幌さんのことは気に掛けてくれって言われてますし、このくらいはなんでもないです」
「そうですか……すみません」
眞幌のカバーはA・Eカンパニーと桜井がしていたが、日々細かいところまで社長の桜井がチェックするわけにいかない。そうかといってタレント活動をしているわけではない眞幌にマネージャーを付けるのも、大げさだったし、人付き合いの苦手な眞幌も嫌だった。それで桜井は瑛のマネージャーである梶に、眞幌の様子も見るように指示を出していた。
「なにかあったら遠慮なく僕に連絡下さいね。あ、瑛君も携帯の留守電に入れてくれって言ってました。 眞幌さんからはちっとも連絡くれないって、瑛くん拗ねてましたよ」
梶は電話の向こうで笑っていた。
「す、すみません。 そんなこと……用もないのに電話しませんって言っておいて下さい」
「わかりました」
梶は笑ったまま電話を切った。眞幌はしばし携帯を握ったまま呆然とした。
「恥ずかしい奴」
恋人同士でもないのに、なんで用もないのに電話しなければいけないのか。
「あいつ、なんか勘違いしてないか?」
眞幌は改めてそう思った。瑛が熱心に自分の所へ通ってきた頃から不思議だった。いったい瑛は何を思って自分の所へ来るのか。
(まさか……ね)
眞幌の脳裏に崇埜の影がよぎる。そうそう似たようなことがあっては堪らない。
「友達……なのかなぁ」
その響きに眞幌は照れた。崇埜以外に友達と呼べる人間はいなかった。くすぐったいような気持ちになって、またひとつ眞幌は溜息をついた。




